ある会堂での、『イエスの行動』について。

 題:ある会堂での、『イエスの行動』について。
...(真を求めて 皆様と幸せになりたい)
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 キリスト教の聖書の(「マルコによる福音書」1・21〜28)
に、
 イエスが、ユダヤ教の会堂で、人々の前で話をする場面が書
かれている。
 この会堂の中の聴衆に、『心を病んだ方』がいた。
 この人が、イエスに叫んだ、『ナザレのイエス、構(かま)
わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか? 正体は分かってい
る。神の聖者だ』・・と。
 これは、可哀想な事に、心を病んでしまった方の叫びだ。
 それを聞いたイエスは、怒って答えた。『黙れ』・・と。
 そして、『この人から出て行け』と怒りの形相(ぎょうそう)
で命じた。
 人を集めて講演をしようという講師が、聴衆の状態の状況判
断もせずに、短絡的にその聴衆の言葉に怒って、『出てけ』と
いう話は聞いた事がない。
 怒られた、その聴衆は、可哀想に「痙攣(けいれん)」が
起きたという。
 イエスに怒られ興奮し、発作が起きたのだろう。
 その聴衆は、会場から出て行ったとの事であるが、イエス
対処の仕方は、まったく間違っている。まずい。
 しかし、キリスト教は、これを美化して、あらゆる美しい言
い方で、キリスト教徒を洗脳する。
 ただ、これだけの事なのであるが、美しく、あらゆる事を言
って洗脳する。
 イエスの行為は、「権威ある者」の行動だという。
 弱い者いじめだけの話ではないか。TPO的にも「まったく、
まずい」。
 そして、「権威ある者の教え」だという。
 そして、その『教えと行為』に、人々は、非常に驚いたと聖
書は書く。
 イエスが、どんな事をしても、権威があるとか、聴衆が驚い
たと言って美化してしまえば、
 キリスト教徒は、その様に『美しく洗脳』される。
 聴衆は、実際は、イエスの教えに驚いたのではなく、心を病
んだ方が居て、その様な事態が起きた事をオドロキ、そして、
心を病んだ方が『可哀想』と思ったのだろうが・・、
 聖書には、その様な事は、一切、書かれていない、省(はぶ)
かれている。何しろ、美しい話に変え、転化している。
 そして、さらに言う、
 人々は、「今までに無い、新しい教えだ」と言ったという。
 何処が「新しい教え」なのか?
 ただ怒こって、心を病むという『弱者』を会場から追い出した
だけではないか。あまりにも、自分勝手な言い回しだ。
 「ただ、イエスが短気に怒っただけの内容なのに」・・権威
があるとは?
 確かに、この様に人を集めた講演で、講師が怒って聴衆を罵
倒し、怒鳴りつける事は無いこと。その点は、珍しいと言うべ
き事で、新しいと言うべきことではない。
 何しろ話は、どうひっくり返しても『低次元』『低レベル』。
 本当は、逆に、恥ずかしくて隠さなければならない事件。
 ここまで言い方を変えて、美化して、聖書の読者に錯覚を起
こさせるとは・・呆(あき)れる、疑問?「聖書」の名が恥じ
る。
 「聴衆の方たちの、『心を病んだ方』への思い遣りが、一つ
も書かれていないところが、逆に心を痛む。
 心を病んだ方を、終始一貫『悪漢』にしている。
 可哀想に、その方は大声を上げながら会場を出て行ったとい
う。こんな話を、感受性の強い子供たちには読ませたくない。
 聖書は、心を偏頗(へんぱ)にする。素直な心の子供たちが
育たない。
 そして、聖書は書く『イエスが評判になった』・と。
 これだって、町では、本当は、『怒鳴りつけたのよ、大きな
声で』という人々の言葉なのだろう。そして、「まあ、可哀想」。
「もっと穏やかに言ってあげればいいのにね」という町の言葉
だったのだろう。
 福音書は、『左のものを、強引に、右へ持っていく』という
偏頗な心になってしまう書物。この様な事を聞く、子供たちの
「心が痛む」ことを恐れる。
 その様な洗脳書が、キリスト教の聖書。