キリスト教は、無反省です・・。

 題: キリスト教は、無反省です・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教の聖書に、『福音書』というものがありますが、
福音書は複数あります。
 その複数の福音書の「最初の福音書」を書いた人は、『マル
コ』という名前の人です。
 このマルコが書いた福音書は、正統と言われるキリスト教
『批判的な福音書』を書きました。
 そのため、「マルコによる福音書」は、キリスト教から卑劣
な『いじめ』に遭(あ)いました。
 マルコが、最初に福音書を書いているのに、
 聖書の中で、第二番目に置かれています。
 そして、正統派への「ゴマスリ福音書」の「マタイによる福
音書」が第一番目に置かれています。
 そして、さらに、マタイと同じ姿勢の、弟分の「ルカによる
福音書」が第三番目に置かれ、
 「マルコによる福音書」は、サンドイッチにされて、マルコ
の批判色が分からないように仕組まれ、薄められています。
 最初にキリスト教の聖書を手にした人が、「正統派に批判的
なアンチ正統派」の「マルコによる福音書」を読んで、
 そのアンチ色を強く心に刻まれることを、嫌った・忌んだキ
リスト教の仕組んだ聖書の福音書配列なのです。
 そして、マルコという人は、まったく、正直な人と言えます。
 マルコは、『イエスの復活の話』を認めていません。
 まず、キリスト教正統派は、ここが嫌だったのです。
 しかし、マルコが主張したかったのは、「生前のイエスの言
葉や行動』なのでした。
 正統派は、パウロです。
 パウロは、昨日まで『ガチガチのユダヤ教徒』で、敵対宗教
集団だったキリスト教徒を殺してまでして敵対していました。
 その『パウロ』が、
 当然、ユダヤ教の正典(=キリスト教旧約聖書)にまたガ
チガチに頭が凝り固まっているパウロでしたが、
 その旧約のあちこちに書いてある「生け贄(いけにえ)の血
による贖(あがな)いの思想」と、セットになった「復活」を
(イエスの十字架上の死による生け贄の血の贖い)と(イエス
の復活があったこと)として「宗教企画」をしました。
 それ故、パウロのキリスト 教(パウロキリスト教)」と言
えます。マルコは、このパウロキリスト教に、反対でした。
 マルコは、パウロが「無用なのだ」と文にまで書いて捨てた
「生前のイエスの言葉や行動」にこそ、キリスト教の根幹があ
ると思いました。
 もしマルコが、「イエスの復活に肯定的」であったならば、
 刑死後、復活してガラリヤに戻ったイエスが、
 イエスの弟子達もガラリヤに戻り、
 そこで復活したイエスに出会ったという事が事実であって、
 復活したというイエスも事実であるという事が、
 もしも、マルコの主眼であるならば、
 『絶対、書き落とすわけはなく』、
 その『肝心・かなめさ』を
 『逆に、強調する』わけですが・・。
 この様な行為をしてないマルコ。
 ここに、明らかに、マルコの想いが現われています。
 イエスは、『復活などしていないのだ』・・と。
 今、何と、英国・キリスト教聖職者でさえ、「イエスの復活」
を信じてない人・聖職者たちが過半数を超えています。
 マルコの考えを深く探(さぐ)りますと、
 マルコは、「復活を、来世の問題として論じる事を空(むな)
しい思弁(しべん)」として退けています。
 (「マルコによる福音書12・18〜27)「復活についての問
答」。マルコは、まったく「この様な展開」を拒否しています。
 「関心なし」です(詳細は略)。
 マルコという人は、福音書という文学の形式で初めて「生前
のイエスのイメージ」を書いた人です。
 イエスの弟子たちは、復活という観念を真理と思い込み、福
音と捉え、忠実的に思い捉え、実体的に捉えています。
 この事に対し、マルコは、「生前のイエスをないがしろにす
るのか」と、「生前のイエスを想起せよ」と訴え、
 このイエスの弟子たちこそを、再生しなければならないと想
いました。
 また、福音書には、「イエスの復活」を教えられたマグダラ
のマリアや、イエスの弟・ヤコブの母マリア(イエスの母)ら
の女性たちが、
 「復活」が起きたことに驚き、正気を失って、
 「もう、誰にも何も言うまい」と思ったという事が、事細か
に書かれています。
 女性たちが、イエスの墓へ行った時、
 どこの誰だか、まったく分からない、不明の第三者の人が居
て(この者について何も説明が無い)、
 重大な役をする人物が、突然、登場して、
 重大な立ち回り・演技をする。この者を「仮 に、X氏(エッ
クス氏)」とする。
 何故か?X氏は、『イエスが復活した事を知っている』。
 そして、女性たちに、色々と、誰に頼まれたのか?、一部
始終を見ていたのか、分からないが、女性たちに、詳細に
くどくどと説明する。
 頼んだのはイエスとしか考えられないが・・・。
 安易なストーリー展開だ。何とでも言える。
 そして、不思議なストーリーの設定・書き方の仕方をするも
のだ。
 この様な場面に立ち会ったこの不明の人物・X氏こそ凄い。
 『イエスの復活の場面に、立ち会った人物なのだ』。
 しかし、この後は、うんともすんとも、これ以上の出番の無
い人物・X氏なのだが・・・。
 イエスは、復活する時、X氏に「これから復活する」と、そ
の人物・X氏に教え、
 そして、その人物・X氏に、その後のイエスの予定まで教え、
 イエスは、「これから『ガラリヤ』ヘ行くつもりです』と言
い、
 誰か私を訪ねて来たら、申し訳がございませんが、ここに居
て、『ガラリヤに行った』と伝えて下さいと、X氏に『依頼し
て』お願いして、『ガラリヤへ行った』。
 イエスの墓の入り口に置いた石は、
 この人物・X氏が、イエスの墓の中に入る時に、退(ど)け
たのか?(この人・X氏だけでは退けられない重い石の様なの
だが、だから、また別の第三者・X氏以外の人が居たのか?)、
 復活する予定のイエスは「肉体を持って行きたかった」らし
いが、何しろ、肉体と共に、イエスは、ガラリヤへ行った。
 墓の石を動かさなくても、イエスは外に出られるのか?、肉
体を持って行くから、墓の入口の石は退けなければ出られなか
ったのか?は、まったく不明。
 しかし、大人1人で簡単に動く石ではないようなのだが、イエ
スは、その人物・X氏に頼んで「一緒に、エイこりゃと動かし
たのかもしれない」。
 マリアたちの女性が、石が退けてあるのに驚いたというので、
多分、そう簡単に動かせる石では無かったのであろう。
 つまり、イエスが、その人物にお願いして、頼んで、手伝っ
てもらったのだろう(なぜなら、何の関係もない人物・X氏が
ここにずーと居て、いつ誰が来るか分からない墓に、居続ける
訳がない。また余計な仕事の重い石を動かすわけがない)。
 小生が、ここまで書いているのは『怒って居るからです』。
 このキリスト教聖書に、煽られ、何人の方々が『無念の死』
をしたかです。あまりにも多く、あまりにも悲惨なのです。
 そして、過去のことではなく、現代でも起きているのです。
 この様な、悲惨な事例に対しても、キリスト教は何もせず、
 逆に推進する側に居て、
 そして、キリスト教は、今でも、何も変えていないのです。
 無反省なのです。
 そして、『巧妙なる伝道行為』という「ずるい方法の伝道行
為」ばかりをしています。
(参考)し‐べん【思弁/思辨】 [名](スル)《(ギリシャ)the
ōriaの訳語》経験に頼らず、純粋な論理的思考だけで、物事を
認識しようとすること。「―的な小説」