子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その9)

 題: 子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
      (その9)
 リンカーンは、
 対抗する大統領候補から「論理の一貫性がない」と非難され
るように、奴隷解放について種々の発言をしていた。
 「奴隷解放の父」と言われてはいるが・・
 その面が全く見られない面が多々見られる。
 リンカーンは、優柔不断の面もあるのかとも思える。

 リンカーンの黒人奴隷の解放に関する発言:
 「私は、白人種と黒人種の社会的政治的平等を如何なる形で
も、もたらすことに賛成はしていないし、これまでもそうでは
なかった。
 私は、黒人を有権者にすることも陪審員にすることにも、賛
成していないし、
 彼等が役職者になる資格を与えることとか、白人と結婚する
とかいうことにも賛成しておらず、これまでもそうだった。
 さらには、
 白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
 2つの人種が社会的政治的平等という条件で共に暮らすことを
永久に禁じることになると考えている。
 彼等が、そのような生活をできない限り、
 彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
 他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当てられて
いることに賛成する・・・」。
 これは、
 リンカーンが、アメリカ市民から「奴隷制廃止論者」と非難
があったことに対し、それを打ち消すためにこの発言をしたと
いう。
.
 リンカーンは、
 少なくとも、確実に、すべての人種に対して人道主義的であ
るとは言えない。
 リンカーンのインディアンに対する態度は、異常・極悪であ
った。
 リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底排除の
姿勢を崩さず、彼らの大量虐殺の指揮を取り続けた。
 民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバホや、
ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争は、リンカー
ン政権下で行われた。
 そして、
 リンカーンは、弁護士時代から大統領時代にかけて、
 インディアンの土地取り上げに奔走している。
 ことに、西部方面へのインディアン領土への鉄道拡張に関し
て、インディアンの土地権利の抹消処理を、多数、手がけた。
 リンカーンが「無効(neutralized)」としたインディアン
部族の土地に対する書類は、現在も数多く残されている。
 リンカーンは、
 執念を掛けて、インディアン民族に対して、
 終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮している。
 当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制収容所
だった。
 また、
 リンカーンは、ミネソタのダコタ族との連邦条約を一方的に
破棄して、
 ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、
 彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
 ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての皆殺し政策が行われ、
 女子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。
 リンカーンは、
 この虐殺方針に対しても、責任者として、全く異議を唱えな
かった。
 1863年、この夏、
 リンカーンは、ジェームズ・カールトン准将に、南西部のナ
バホ族インディアンの討伐を命じた。
 ナバホ族は、ダコタ族同様に、抵抗していた。
 カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると睨んでおり、
以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動の際と同様、
司令者であるリンカーンはこれを是認した。
 1864年リンカーンは、
 ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル)離れた東に
あるアパッチ族強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)。
 この強制連行の途上で、数百人の死者が出たが、
 そのほとんどが子供や老人だった。
 「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は強制労働を課され、
 女性は、米軍兵士から強姦され、
 また、乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環境下で
死んだ。
 結局、リンカーンの死後の1868年に、和平条約が調印される
までに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
 など、多数のリンカーンの先住民・インディアンいじめの事
例が多々ある。
 上記の原因の一つに、リンカーンが、インディアンに殺害さ
れた父方の祖父エイブラハム・リンカーンにちなんで命名され
たというところからも推察できる。
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 そしてまた、リンカーンは、
 白人と黒人が平等であるとは思っていなかった。
 リンカーンは、はっきり
 「奴隷制奴隷制廃止論のどちらにも反対する」と発言もし
ている。
 また、
 「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし、
 奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるよりはむしろ増大さ
せるものと信ずる」と、奴隷解放の反対理由を言っている。
 そして、リンカーンの発言:
 「これまで私は、黒人が投票権をもったり、陪審員になった
りすることに賛成したことは一度もない。
 彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにすること
も反対だ。
 皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはない」。
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 更に、リンカーンの発言:
 「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接にも
間接にも干渉する意図はない。
 私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたい
という意思もない」。
 また、リンカーンには、
 俗な言い方をすれば「連邦を救いたいのだ、黒人の奴隷解放
は二の次なのだ。黒人奴隷解放が、どの様な結果になろうが連
邦が救えれば私はそのことをする」がある。
.
 黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に、
 リンカーンを白人至上主義者と呼んだ。この時、広く注目を
集めた。
 批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人を冷笑
するジョークを話し、社会的平等に反対すると主張し、解放奴
隷を別の国に送ることを提案したことに苦情を言っている。
 リンカーンの擁護派は、
 彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
 政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展させた「
道徳的先見家」だったと弁護している。
 (参考)じんどう‐しゅぎ【人道主義人間性を重んじ、
人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指す立場。ヒュー
マニズム・博愛主義と共通する面が多い。