子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その7)

題:子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
       (その7)
[ 関連事項 ]
(11)・アメリカの1850年の逃亡奴隷取締法(逃亡奴隷は
生殺自由・・など)と、1854年カンザスネブラスカ法に
反対する闘いの中から、より大きな奴隷制反対政党として共和党
が誕生してくる(現在の共和党の始まり)。
1857年の黒人奴隷と奴隷所有者のある裁判で、アメリ最高裁
判所の下した判決は「黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の
財産であって合衆国の市民ではない。
 劣等人種であるかれらは、白人と同等の権利をもつことはで
きない。
 だから、黒人である原告には連邦裁判所に提訴する権利は与
えられていない(黒人奴隷が起こした裁判、黒人奴隷の原告は
裁判に負けた。敗訴となった)。
 裁判長はじめその過半数が南部人によって構成されていた。
 1858年、当時49歳のエイブラハム・リンカーン共和党から
初めて上院議員に立候補した頃の事である。
 ここで、黒人の黒人解放戦士『フレデリック・ダグラス』が
記憶にとどめておくべき『偉人』である。
 彼は、リンカーン大統領の黒人に対する意思を変えた人であ
った。
 リンカーンは、初め、奴隷解放への強い意思は持っていなか
った。
 フレデリックの功績によって目覚めたのである。
 真に黒人解放に寄与したフレデリック・ダグラスの名は、リ
ンカーンと共に並びおかれて然るべき偉人なのである。
 長年、黒人の方達の歴史が、埋没され、歪められてきたアメ
リカ白人国家。
 黒人を白人と平等の地位に置くことを頑なに拒絶してきたア
メリカなのである。
 アメリカにはキリスト教から来る黒人蔑視の観念が根強く根底
に存在していた。
 黒人の方達の正しい歴史も、最近になって陽が当たる様にな
った。
 日本の子供たちの伝記「リンカーン」は書き変えるべきです。
.
(12) キリスト教の聖書に書かれ、そして、是認された奴隷制
 また、「黒人を人と見ない」というキリスト教の考え方・教義。
 このキリスト教に影響され、ここ、アメリカにおいて、黒人を
奴隷として差別する種々の法制化という行為に至った。
 「黒人差別制度(もしくは黒人差別主義)」の州法や市条例が
でき、黒人の方たちを縛り付けた。
 アメリカ南部ではこれらの考え方が、特に、全体的風土として
定着し、非合法の黒人へのテロ集団の蛮行のみならず、合法と
いう形をとった圧迫によって黒人の方たちは虐げられ、第二級
市民の地位に落とされ、押し留められた。
 この様な状況の中で、独占的になったアメリカ資本主義(とく
に北部)が、たんに黒人を搾取するだけでなく、労働者階級全体
を搾取する動きで、法制的に、また、暴力的に、収奪体系を作り
出していく。
 黒人蔑視から肌の色の相違を越えて広がっていく。
 そして、地域的にも広がっていく。
 南部の黒人が虐げから離脱して、北部の諸都市へ移住しても
黒人差別が、そこにも存在した。
 黒人差別は、アメリカのどこでも広く行き渡っていた。
 この頃の皮肉を込めた言葉:「アトランタの博覧会には、テネシ
ー州の黒人リンチも南部の特産物として出品されるべきだ」。
 第一次世界大戦前後から以降、特に、黒人の方たちの南部から
の流出は増大し、100万人以上と推定されている。
 彼らを待っていたものは、南部と変わらない差別待遇だった。
 賃金は安く、住居もゲットーと呼ばれる隔離された貧民街に
押し込められた。
 黒人の方たちには、激しい抵抗心と同時に、不安と焦燥(しょ
うそう)の念がみなぎった。
 黒人の方たちは、第一次世界大戦で勇敢に戦った。
 その戦場においてさえ、自国(アメリカ)の差別の苦渋をいや
というほど受けた。
 他方、フランスをはじめ同盟軍である他国の将兵から、初めて
人間としての扱いを受け、ますます人種差別制度に対する反感を
強めて帰って来た。
 1919年に、この様な社会的背景から、シカゴで人種暴動が起き
た。
 黒人が泳ぐことが禁止された白人専用の場所で、黒人青年が
泳いだというのが事の発端だった。
 白人の群衆は黒人青年に対し石の雨を降らせた。
 黒人青年は可哀想に溺れ死んでしまった。
 これが暴動の発端だった。
 13日間の人種戦争と化し、白人15人、黒人23人が殺され、
178人の白人と342人の黒人が傷つき、数百軒の家が焼かれた。
 大半が黒人の家だった。
 この頃、白人たちは、アフリカを侵略し、白人の植民地主義
と人種的抑圧の愚行が続いていた(白人は、アフリカで、黒人の
国アフリカを強奪し、黒人の方たちを隷属状態にする愚かな行い
をしていた)。