(増補版)459E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月〜1888年1月)

題:(増補版)459E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月〜1888年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年1月1日、日本標準時が実施された。
  制定(1886年
  1886年明治19年)に、日本の標準時に関して初め
 て制定された法令が、本初子午線経度計算方及標準時ノ
 件(明治19年勅令第51号)だった、
  1886年明治19年)7月13日に公布された。
1888年1月4日、日本初の新聞通信社・時事通信社が創立
 された(1888年11月4日説あり)
  三井物産創業者の益田孝により「時事通信社」(現在
 の時事通信社とは無関係)が創立された。
  同社は、当時の内務省警保局長・清浦奎吾(のち首相)
 の肝煎りで設立された御用機関であったが、
  激しい内紛に見舞われ、3年足らずで事実上の休業に陥
 った。
1888年1月4日、山陽鉄道会社が設立され・・、
  1888年4月の株主総会で、中上川彦次郎が、社長に選出
 された
  山陽本線は、山陽鉄道会社により神戸側から建設が開
 始され、
  1888年11月1日に、兵庫駅明石駅間が開通し、
  1888年12月23日に、神戸駅〜姫路駅間が開業し、
  1889年9月1日に、神戸駅兵庫駅間が開通し、
  そして、順次延長開業し、
  下関までの全通は・・1901年5月27日であった。
  社長の中上川は、線路勾配を「100分の1以下」にする
 用に指示したことから、東海道本線などの他の主要幹線
 と比較しても、ほとんどが平坦な路線となった。
  この事により、勾配緩和のための大規模な線路移設も
 行わないで済む路線となった。
  1906年鉄道国有法により国が買収し、山陽本線とな
 り、
  1942年7月に、関門トンネルが開通して、終点駅も門司
 となった。
1888年1月8日、東京・日本橋呉服店越後屋が、洋服店
 開業した。
  1886年明治19年)に、洋服部を新設し、
  1888年に、駿河町に洋館建物「三越洋服店」を開店さ
 せた。
  この頃、1883年に完成した鹿鳴館が、華族と在日外
 国人の社交場として洋装の発信地となっていた。
  また、越後屋と競争関係にあった白木屋が、先んじて
 1886年明治19年)に洋装店を開いていた。
  しかし、洋服は、中々、一般庶民まで浸透しなかった。
  三越洋装店は、早期の閉鎖(1895年末)に追い込まれ
 た・・、
1888年1月10日、三田(農具)製作所が、岩崎由次郎ら3人
 に入札払下げられた。
  1874年(明治7年)前身の内務省勧農局工場(内藤新宿
 農事試験場付農機具工場)が東京新宿に誕生し、農機具
 等の製造を開始した。
  1879年(明治12年)芝の三田四国町(現在の東京都港
 区芝五丁目)へ移転、三田製作所と改称した。
  1888年明治21年)東京機械製造株式会社と改称し、
 各種農機具、煙草製造機、輸入印刷機用部品等を製作。
  1906年明治39年)国内メーカーとして初の輪転機
 完成した。
  1911年(明治44年)社名を株式会社東京機械製作所
 改称した。
1888年1月11日、大日本帝国水産会社(帝國水産会社)が設
 立された(1887年12月11日説あり)
  明治のこの頃、日本の漁業資源の産業化は、日本国内
 における重要な課題の一つであり、
  西川貞二郎(明治期の企業家、近江商人カニ缶を初
 めて商品化した)は、政府の要請に応じて、大規模漁業
 の事業化に着手した。
  ただし、莫大な資本を必要とするため海産物問屋等へ
 出資を勧誘すると共に、政府にも出資者募集を依頼した。
  三井家がこれに応じ、1888年明治21年)帝国水産株
 式会社が設立された。
  しかし、直後に、三井家は事業から撤退した。
  そのため、貞二郎が全面的に資金支援を行った。
  当初、社長には政府からの申し出もあり、薩摩出身の
 河野圭一郎が就任したが、会社経営に不慣れであったこ
 とから、三井家撤退後は、北海道庁水産課長の伊藤一隆
 を迎え入れ、貞二郎の盟友である高田義甫を補佐役とし
 た。
  当初は、政府要請もあり千島樺太方面の海獣密漁防止
 のため海獣猟を中心に行っていた。
  しかし、国内の海獣毛皮の需要は乏しく、横浜のイギ
 リス商人を介して、足元を見られた取引に終始した。
  千島・樺太は、古来からの日本の行動地域内で範囲内
 である。
  何故、ロシアが奪おうとするのか・・?
1888年1月26日、国産初の自転車製造会社の帝国自転車製造
 所が創業した。
  東京浅草の向山嘉代三郎が開業した。
  明治21年1月26日付けの郵便報知新聞によると・・、
  帝国自転車製造所で製造販売開始
  従来、内地にて、自転車を製造するものあらざりしが、
 過日の広告に見えしごとく、
  今度、浅草北三筋町なる帝国自転車製造所にて製造を
 始めしに、
  既に、続々、諸方の注文を受ける由。
  また、同製造所にて、両三日前、小松宮より修繕を命
 ぜられたる自転車は、同宮が、先般欧州へ赴かれる節、
 かの地にて買い求められたるものにて、
  総体にニッケルを用い、大小四輪にて、前後二人を乗
 する装置なりと云う。
  明治23年4月1日〜7月31日 第3回内国勧業博覧会に出品 
 向山嘉代三郎
  明治27年4月11日付け東京朝日新聞には・・、
  新形安全自転車製造広告、帝国自転車諸機械製造所 向
 山嘉代三郎・・などとある。
1888年1月27日、大隈重信が、外相就任の条件を撤回して入
 閣を了承した。
  大隈の外交手腕を評価する伊藤博文は、不平等条約
 正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、
  1888年明治21年)2月より、大隈は外務大臣に就任し
 た。
  同年・1888年黒田清隆が組閣すると大隈は留任する
 が、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗
 に遭い、
  1889年(明治22年)10月18日には、国家主義組織玄洋
 社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信
 難事件)を受け、右脚を切断するとともに、辞職した。
  右脚の切断手術は、ベルリン大学医学部で日本人初の
 ドクトルを取得した順天堂医院院長の佐藤進や大隈夫妻
 の主治医であるドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベ
 ルツらによって行われた(「ベルツの日記」)。
.
  (今日の言葉)
.
  題:人種差別の国・・アメリカ・・そして、傲慢な圧力・・
.
1807年1月19日、この日に、アメリ南部連合の軍司令官の
 リー将軍が生まれた。
  アメリカ史上屈指の名将と評価が高い。
  しかし、南北戦争の発端と言われる1861年4月12日に始
 まった戦いの『サムター要塞の戦い』の後、
  アメリ連邦軍を辞職し、故郷のバージニアに帰った。
  そして、南部軍の陸軍総司令官にまでなった人。
  リー将軍の戦いは、常に北部軍より劣勢の軍を指揮し、
 補給も乏しい中・・、
  機知に富んだ敵の意表を突く攻撃などによって、北部
 軍と堂々と戦い、戦果を挙げた。
  アメリカ南部の英雄となっている・・だから・・、
  アメリカ南部では・・、
  「リー将軍の誕生日は祝日だ。リンカーンは敵だ」
  アメリカの南部人はこの様に言う・・
  そしてまた、言う・・、
  「南部には、黒人問題なんてもんは無い、勝手に北部
 の連中が作った作り話さ」・・と、
  これは、ある程度まで真実、その様なことがある・・
  しかし、だれが何と言っても、アメリカ人は・・
  「北部人も、南部人も、黒人の方たちを、自分たちと
 同じ人間だとは考えていない」・・(キリスト教の劣悪
 教義の影響が大きい)
  こういうアメリカが・・厳然と・・存在している。
  アメリカに、「ファースト・シティズン」という言葉
 がある。
  「どこにでも入って行ける人間」という意味の言葉だ・・、
  つまり、キリスト教会でも・・とある・・
  ・・という事は、ある人たちに対しては、「入場御断
 りをするキリスト教会がある」ということ・・である。
  また、悲しい事で・・愚かなことだが・・
  「セカンド・シティズン」や、「サード・シティズン」
 や・・、そして・・、
  「それ以下シティズン」が居ることも意味している。
  キリスト教の有色人種蔑視意識が根強くある。
  キリスト教ヒエラルキーの序列が・・厳然とアメリ
 社会にある・・そして、差別が・・
  そして、このファースト・シティズンは、「最上等の
 白人」をさす事は、『暗黙の了解事項』となっている。
  そして・・、
  2000年代、21世紀に入ったというのに、アメリカは、
 相変わらず黒人の方々たちを人種差別している・・、
  アメリカ合衆国は、アフリカ大陸で生活していた黒人
 の方々を連れて来て、1800年代から家畜同然に使うの奴
 隷状態にして虐(しいた)げて来た。
  自国のプランテーションの安い労働力を得たいと、儲
 けたいと、一番に、受け入れて、また、長く受け入れた
 国・アメリカだった。
  そのアフリカの黒人の方々を、このアメリカに連れて
 行ったのが・・「悪の片棒担ぎのイギリス」だった。
  この『アメリカとイギリスの悪コンビ』が人類最悪の
 行為を行なった。
  そして、この・・あまりにも汚辱にまみれた歴史を払
 拭(ふっしょく)したいと・・
  「この奴隷を解放したアメリカの大統領はリンカーン
 だ」・・と言った・・が・・、
  これも悪の行為の『屋上屋を重ねる不名誉なプロパガ
 ンダ(嘘宣伝)』であった。
  本当に、悪いことを重ねて次々とやる国だ。
  リンカーンは、奴隷解放どころか奴隷を容認する大統
 領だった。
  アメリカ南部が奴隷の悪い行為をしていたという擦(
 なす)り付けも・・「北部人たち」がしている。
  しかし、どうしてどうして・・北部人たちも黒人の方々
 を虐(しいた)げていた。
  アフリカのリベリアという国は、1847年(リンカーン
 が38歳の時)に独立しているが、
  アメリカがこの国を作り、ここへアメリカの黒人の方々
 を棄民しようとして建国した。
  奴隷として使えなくなったら、自由民となったら・・
 棄民という行動に出た。
  リンカーンもこの棄民活動に加担した。
  http://blog.livedoor.jp/kokyo2054/archives/8681199.html
  (リンカーンは、奴隷だった黒人の方々を、そのまま
 アメリカ市民に組み入れようとせず、アフリカへ送還す
 る考えを持った大統領だった)
  アメリカの黒人の方々を、本当に奴隷から解放したの
 は、黒人の方で、アメリカ副大統領候補にもなった・・
  「フレデリック・ダグラス」という方・黒人解放運動
 家だった。
  この様に、アメリカは、「黒人の方の名誉」まで奪う
 行為をしている。
  リンカーンが、奴隷解放者ではないという史実は「た
 くさんある」が、
  その一つは、何と!! 
  リンカーンの大統領就任演説が・・
 「奴隷財産を擁護する論理展開をするという演説」だっ
 た。
  まったく愚かな大統領だったと感じる。
  南北戦争で北部が勝ち、その北部からアメリカ政治が
 始まっているので、
  その時のリンカーンの・・その大統領の「リンカーン
 記念堂」までも建てて、美しく政治の歴史を始めたいの
 でしょうが・・クエスチョンです・・?
  事実と違うプロパガンダ(嘘宣伝)をしている。
  そして、卑劣な事に、今・現代もアメリカは、この黒
 人の方々の差別を続けている。
  アメリカ南部のジャズバンドも、黒人のバンドと、白
 人のバンドは分かれている。
  そして、白人が「黒人のバンドを褒める」にも意味が
 あった。
  ジャズが黒人の方々のもの、天性のもので誉める場合
 と、
  キリスト教宣教師夫人は、明らかに「私は、人種の差
 別はしていません」とあからさまに表現していた。
  この様に、逆をわざわざ言う気づかいを・・言葉で気
 遣わねばならない人種差別国のアメリカなのだった。
  他人の国にはいろいろと口出しし、内政干渉するが・・
 自分の足元を見よ!・・と、強く言いたい・・、
  また、アメリカは、大変優秀である黒人の1人の大学生
 を 卒業させるか? させないか? をひどくもめる国
 なのだ。
  こんな国ってあるのか・・??
  結局、「黒人の卒業生の方々」を、大学が名誉に思っ
 ていない。
  この優秀な黒人の方が、揉めた所は、成績はずば抜け
 ていた成績なので・・問題なのではなく、
  やはり、問題は・・彼が黒人であるという事だった。
  付随的につけられたのが・・在学中に黒人運動をして
 いたという事だった。
  結局、彼は、可哀想に・・卒業を見送られた。
  そして、さらに、彼に押し付けられた差別行為は、北
 部の大学へ転校処置にさせられた。
  彼の運動は、レストランの座り込み行為だった。
  黒人差別をするレストランの前に、みんなと一緒に座
 り込んだだけだった。
  大学は黒人排斥だった。
  黒人運動を応援するこの行為だけの事によって、一人
 の青年の人生が狂ってしまった。
  彼のこれまでの努力も無になってしまった。
  彼の親としても、人間的形成のために、黒人運動に反
 対して、子供(息子)とも対立できない。
  そして、前記した、このキリスト教宣教師夫人は、別
 の所では、別の場所では、年がら年中、南部に対する不
 満と、黒人の方々に対する偏見・差別を言うという状態・・、
  そして、「蔭へ回ると、すぐ私のことを『ヤンキー』
 だ何て言う」「小学校へ行っている末娘が『汚い南部な
 まり』を覚えて来て困る」などなどと言う宣教師夫人レ
 ベルの多くいるアメリカ社会・・、
  立派な大学での教員免状も持っている婦人なのだが?
  アメリカは、人種のるつぼと言われる・・が・・
  その人種のるつぼの陰で、「人種間の偏見のるつぼ」
 と化している。
  だから、アメリカ人が、「人種差別・偏見」を持って
 いないと思うのならば・・そういう風に思い込むのなら
 ば・・それは大いに危険なことである。
  顔には、出ていなくても、人種のるつぼ的な環境の内
 で、至極当然なその心の落ちどころで偏見行為が行われ
 ている・・、
  白人の優越感は、キリスト教が植え付けている・・、
  陰では・・日本人は『名誉白人だ』というレッテルを
 貼られて・・日本人はほっとして喜んでいる・・が・・、
  ほぼ単一民族の中で、その様なことにまったく思いが
 及ばない日本とは、ここが大きく違うところ・・、
  日本人の想像できないところ・・、
  人種偏見の対抗軸に「同族」とか「同族意識」が強く
 アメリカにはある・・、
  黒人の方々は、地方議会であろうと、アメリカでは傍
 聴できない・・、
  だから・・当然と言ってもよいくらい、国政の場も傍
 聴できない・・、
  黒人の方々が、座り込みの『差別撤廃活動』をしてい
 るが、
  涙ぐましいこの活動で、すこしづつ黒人方の入れるカ
 フェテリアなどを開かせることに成功したりしている・・
 が・・、
  また、入れる映画館を作るということもしている・・、
  やり方は、映画館は黒人の方たちに切符を売らない・・、
  だから、切符を売らなかったら、引き下がるが、直ぐ
 に、次が、切符売り場の前に立つ・・、
  これを、延々と繰り返す。
  これで、白人が入れないので、黒人方も、入れざるを
 得なくなるだろう・・として活動している。
  この様なことが、
  アメリカでの、白人の「黒人方への偏見・差別」が、
 200年以上も行われている。
  また、アメリカの圧力で・・、
  日本も英語化されるというが、「いつも、お天気の話
 のレベル」では、国も劣化する。
  また、英語を社内語に採用している会社も、この様な
 道をたどるだろう。
  複雑な理論展開が出来る訳がない。
  また、会社発展の高レベルの微妙な施策が、理路整然
 と、皆に一致して合議、実施されていくわけがない。
  フィリピンの方々が、どれほど苦労したか??
  フィリピンの方々は、アメリカに殺されたり、虐待さ
 れたが、この言葉の上での虐(しいた)げも、酷(ひど)
 い影響を与えた。
  フィリピンでも、アメリカは罪なことをした・・
  そして、日系人の今・・、
  日系アメリカ人は、今・現在、長い歴史の中にあるが、
 彼ら日系人の内で完全にアメリカに同化し、アメリカ人
 になり切っているものでも、
  アメリカ社会で、完全に平等な待遇を受けるところま
 では行ってない。
  その1例を示すと・・、
  初め、アメリカに来て、最初の1年間は、自分が黄色人
 種として差別されているとは、全然、思わなかった。
  しかし、アメリカ人との接触が、濃くなって行くと、
 アルバイトとか、求職の際、電話では何でもなかったが、
 出掛けて顔を見ると必ず断られた。
  白人の友人が付いて来てくれても、結局、どうにもな
 らなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視。
  (参考)フレデリック・ダグラス:1818年〜1895年2月
 20日アメリカ合衆国メリーランド州出身の元奴隷。
  奴隷解放運動家。政治家。新聞社主宰。
  奴隷の家族に生を受け、奴隷としての人生を運命づけ
 られた・・アメリカに根付く考え方で、可哀想に奴隷と
 して生まれてしまった。
  自由の民とはなれなかった。
  奴隷は、文字を習う事も違法とする差別の極の劣悪状
 態のアメリカだった。
  この様な中、彼は勉強に努力し・・そして・・
  逃亡奴隷となり自由を得る。
  23歳の時、マサチューセッツで反奴隷制の演説をした、
 「皮膚の色・性別を問わず、人は皆平等の権利を与えら
 れるべきだ」・・と、そして、新聞も発行した。
  アイルランド・イギリスなどの国外でも奴隷解放の講
 演をする。
  リンカーン大統領などとも奴隷解放の協議をする。
  そして、解放奴隷救済銀行の総裁も務める。
  奴隷解放運動を幅広く展開した・・、
  1872年、大統領選挙では、副大統領候補に指名された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive