(増補版)231D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1841年〜1842年)

題:(増補版)231D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1841年〜1842年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1841年(天保12年)10月、伊藤博文(いとうひろぶみ、明治
 の政治家、初代の内閣総理大臣、公爵)が生まれた。
  (1841年〜1909年)
  周防国(すおうのくに、山口県東南部)の農民の子に
 生まれ、父が長州藩士の養子となって下級の武士の身分
 を得た。
  吉田松陰松下村塾に学び、京都の志士と交わり、
  1862年(21歳)、高杉晋作が上海視察から帰国した頃、
 長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷(そっこ
 んじょうい)」に転換していた。
  晋作は、直ちに行動を起こすべきとし、他藩の藩士
 ちと外国人暗殺を計画するが、藩に漏れ、計画を押し止
 められた。
  晋作は、その後、、長州藩だけの尊王攘夷運動組織を
 立ち上げ、この時・1862年に、品川に建設中のイギリス
 公使館焼き討ちをする。博文は、これに、ともに参加す
 るなど尊王攘夷運動に従った。
  1863年(22歳)、藩の留学生として井上馨とともにイ
 ギリスへ行く(秘かに行ったという説もある)、
  博文がイギリスに行っている間の1863年と、帰国後の
 1864年の2回にわたって、攘夷思想に基づく武力衝突の
 下関戦争(馬関戦争、四国連合艦隊への砲撃)が起きる。
  1864年3月(23歳)、米英仏蘭の四国連合艦隊による
 長州藩攻撃が近いことを知ると、急ぎ帰国した、
  1864年6月(23歳)、横浜に帰着し、すぐ長州藩へ戻り
 博文は、戦争回避に奔走した。
  1864年8月(23歳)、英国公使などと会見などをし、交
 渉をしたが、効なく、この月に、四国連合艦隊の砲撃に
 よる下関事件が勃発した、
  長州藩の砲台は徹底的に破壊された。
  博文は、高杉晋作の通訳として、和平交渉にあたる。
  この時、攘夷派の暗殺計画を知り行方をくらます。
  1865年(24歳)、幕府の長州征伐には、高杉晋作の元
 へ一番に駆け付け、挙兵し、藩の主導権を握った。
  1865年(24歳)、藩の実権を握った桂(木戸孝允)に
 従い尊王攘夷運動をするが、この頃から、おとなしい博
 文となる。
  1868年(27歳)、世は明治となり、外国事務総督・東
 久世通禧(ひがしくぜみちとみ)に見いだされる。
  そして、神戸事件と堺事件の解決に奔走し、これが、
 博文の出世の足掛かりとなった。
  維新後の博文はこの名に改名し、長州閥の有力者とし
 て要職を得る。
  1871年(30歳)、岩倉遣欧使節団の全権副使となり欧
 米諸国を視察。
  帰国後、大久保利通らと共に内治優先を説き、西郷隆
 盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対する。
  1873年10月(33歳)、西郷らが政府を退いた後、参議
 兼工部卿となり、大久保の片腕として国政の中枢に加わ
 った。
  木戸孝允大久保利通に信頼されて外交、財政、民政
 に才腕をふるった。
  1878年(37歳)、大久保利通が暗殺され、その死後、
 後を継いで内務卿となり、
  明治政府の開明派として改革を進めた。
  博文は、漸進的(ゆっくり少しづつ)な国会開設論を
 唱え、早期国会開設の大隈重信と意見対立した(明治14
 年の政変の原因)
  1881年(40歳)、明治14年の政変で政府の実権を握り、
 内閣制度を創設し、
  1882年(41歳)〜1883年、欧州(ドイツ、オーストリ
 ア、イギリス)に渡ってプロセインの憲法を研究し、
  1884年(43歳)、帰国後には宮内卿を兼任し、保守派
 の抵抗を排して宮中改革を推進、爵位制度を設け
  1885年(44歳)、近代的内閣制度を作って、初代の総
 理大臣となり(第一次伊藤内閣)、
  1886年(45歳)、憲法草案起草に着手する。
  1888年(47歳)、枢密院を置いて初代議長となり、大
 日本帝国憲法の草案の審議を司会し、
  1889年2月11日(48歳)、大日本帝国憲法を発布した。
  1890年(49歳)、議会開設後、初代貴族院議長をつと
 めたのち、
  1892年(51歳)、ふたたび内閣を組織し(第二次内閣)、
 陸奥宗光とのコンビで条約改正、日清戦争を遂行した。
  明治天皇の信任が厚く、詔勅によってしばしば政局の
 危機を乗り切ったが、やがて政党樹立の必要をさとり、
  1900年(59歳)、立憲政友会を組織し、創立し、総裁
 となった。
  1905年(64歳)、日露戦争後、韓国統監府の初代統監
 として日韓併合を推進したため、
  1909年10月(69歳)、韓国青年・安重根によってハル
 ピン駅頭で暗殺された。
  内閣を組織すること4度、従一位大勲位公爵となり、明
 治国家のもつ大きな政治家だった。
1841年12月、株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい)
  幕府は、天保の改革の一環として、株仲間解散令を発
 した。
  江戸菱垣廻船積問屋をはじめとし、すべて問屋、仲間、
 組合などと唱える事をいっさい禁止した。
  天保の飢饉以来、物価が騰貴していた。
  天保の改革は、この物価騰貴を押え、引き下げること
 が重要課題の一つだった。
  幕府は、株仲間などの流通独占にあるとみて、この時
 に、令を発した。
  そして、自由な競争原理が働く商取引とした。
  そして、商品流通量も上がり、景気も刺激すると考え
 た。
  しかし、実際は、従来の流通機構が解体した結果、商
 品が江戸・大阪に集中しなくなり、意図した効果をあげ
 ることはできなかった。
1841年、この年から、翌々年にかけて、江戸歌舞伎三座を
 浅草に移転させた。
  中村、市村両座が火災になったのを機に、水野忠邦
 緊縮政策により、翌年から翌々年にかけて、三座は、浅
 草猿若町に移転した。
1841年、勝海舟、去年より牛島弘福寺にゆき座禅を修める。
 (氷川清話)
1841年、渡辺崋山(わたなべかざん、蘭学者、画家、思想
 家)が没した(1793年〜1841年)(48歳)
  三河田原藩士の子として生まれ、
  8歳で出仕、貧困とたたかいながら儒学や絵画を学んだ。
  高野長英らの蘭学者と交わり、西洋事情を研究し、古
 河藩家老の鷹見泉石(たかみせんせき)をはじめ広く交
 際をもって、開明的政策を行なった。
  幕政批判のため、蛮社の獄連座し、国元の田原に蟄
 居を命じられた。
  「鷹見泉石像」国宝、
1841年、田中正造(たなかしょうぞう、第一回衆議院議員
 足尾鉱毒事件の指導者)が生まれた(1841年〜1913年)
  足尾銅山鉱毒問題において、政府と古河財閥を相手に
 し、被害者の農民・国民の側に立って、半生をかけて闘
 った。
  古河の生産第一主義的な経営は、煙害と製錬用薪炭
 の乱伐によって、足尾の山林は、はげ山と化し荒廃した。
  また、その為に、山林の保水力はなくなり、大洪水を
 頻発させた。
  それとともに、大量の廃石排出や、鉱滓(こうさい)
 排出の問題もあった。
  それに含む有毒の重金属排出があり、さらに、酸性の
 排水であった。
  それらを無処理のまま垂れ流した。
  この様に、煙害による山林荒廃だけではなく、水系へ
 も多大な被害・害毒を与えた。
  流域河川は、その毒によって川魚が死滅するという、
 川魚大量死の問題が発生し、
  また、鮭の遡上も激減し、漁獲高激減という壊滅的な
 打撃となった。
  その鉱毒と酸性を帯びた排水を含む水は、それだけで
 はなく、流域の広大な農地と農作物へも鉱毒被害を与え、
 その被害は甚大で、しかも激化して行く一方だった。
  その様な、生産と、経営の感覚だった。
  この大問題に対峙した正造の活動は、日本の公害運動
 の原点となっている。
  1890年(明治23年)、洪水によって、鉱毒がさらに広
 範囲に撒かれ、被害は拡散、
  被害を受けた農家が激増し、反対運動が激化した。
  1891年(明治24年)、正造は、政府を含め、公的機関
 の無策を批判した。
  1896年(明治29年)、大洪水で被害が拡大、反対運動
 の組織の再組織化がなされた。
  1897年(明治30年)、被害農民の数千人が、大挙して
 上京、やっと、大きな社会問題化となった。
  政府は、鉱毒調査会を設置し、古河へ予防処置の命令
 を下した。
  被害農民への課税免除がなされていることになった。
  しかし、この後、正造と被害農民の苦労の闘いとなる。
  1901年(明治34年)12月、正造は代議士を辞し、天皇
 に直訴した。世論は沸騰した。
  政府は、第二次の調査会を設置。
  その後、正造は、栃木県南部の渡良瀬川沿いにあった
 谷中村の遊水地化にも反対した。
  1907年(明治40年)、谷中村を廃村として遊水地化を
 強行した。
  外貨獲得の産業としての存在を、政府は重視した。
  正造の晩年は治水事業に尽力した。
  この問題は現在でも尾を引いている。
  広大な遊水地は現存し、また、、1958年(昭和33年)
 には堆積場が決壊して、鉱毒被害が発生している。
  また、広大なはげ山と、鉱毒をふくんだ33平方キロメ
 ートルの渡良瀬遊水地の今後がある。
1842年(天保13年)4月、パンが全国的に広まって行く。
  伊豆韮山の代官で、軍学者江川太郎左衛門英龍が、
 軍用携帯食糧として、日本人で初めてパン製造を行なっ
 た。
  江川太郎左衛門の師・高島秋帆の従者、作太郎を、伊
 豆韮山の江川宅に呼び寄せ、パン焼き窯を作った。
  作太郎は、長崎のオランダ屋敷に料理方として勤め、
 製パン技術を教えた、そして、記念すべき「兵糧パン」
 第1号を焼き上げた。
  その兵糧パンは、まあまあの評判を得た。
  後に、大規模な製パン所で、大量のパンが作られるよ
 うになった。
  パンは、保存食として、また、携帯食として重宝し、
 韮山塾の門人を通じて、全国に広まった。
1842年5月、幕府が、倹約令が出した。
  また、5月に、長崎奉行も倹約令を出した。
  長崎奉行・柳生伊勢守の質素倹約令
  1)市中の料理屋で宴会することを禁じる。
  2)町芸者を廃止する。
  3)遊女の外、女子が髪結いを雇うことを禁じる。
  4)衣服はもっぱら質素なものを用いること。
  5)婦女の髪飾りにちりめん類を用いることを禁じる。
  6)ひな人形、五月のぼりに大形のものを用いるのを
    禁じる。
  7)銀製の諸具を使用することを禁じる、など
  また、6月に、
  1)冠婚葬祭に見栄をはり過分のことをしないよう戒
    める
  2)市民がなまこ、あわびを食することを重ねて禁止
    する(唐貿易重要な輸出品のため)
  また、7月に至って、
  市中の取締り方の木下勇之助が、丸山の遣手(やりて、
 遊女などを監督するもの)15人が、絹地の帯を用いてい
 ることが発覚し、
  7月13日に、押込みを命じるが、時期が盆の掛銀集めの
 ため出向かねばならず、遊女屋から嘆願書をだされ、
  7月15日に、押込みを許された。
1842年6月、絵草紙などの出版を統制した(〜1852年)
  一般的な「出版統制だった」が、特に、錦絵と合巻絵
 草紙を規制した。
1842年6月、高島秋帆が、砲術教授を許可された。
1842年7月、天保の異国船薪水給与令(いこくせんしんすい
 きゅうよれい)が出された(天保の緩和令)
  幕府が、「異国船打払い令」をやめ、「薪水給与令」
 を発し、薪水食料の給与を許した。
  1840年に開戦されたアヘン戦争の情報、および、同戦
 争の終結の後、イギリスが、日本へ艦隊を派遣するとの
 情報があり、危険性がさらに高まっていた。
  幕府は、対外紛争の回避のため、方針を変更した。
1842年7月、為永春水(ためながしゅんすい、人情本作者)
 が獄死した。
  風紀を乱したとして刑を受け、病没した。
1842年9月、幕府が、百姓が農業以外に従事する事を禁じた。
1842年10月、幕府は、諸大名の物産専売を禁止した。
1842年、この頃、マニュファクチュア(工場制手工業)が
  起こった。
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