(増補版)590E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年11月〜1893年12月)

題:(増補版)590E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年11月〜1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1893年11月28日、ニュージーランド総選挙(史上初の婦人に
 よる投票)
  被選挙権は、この時に遅れること26年後の1919年から。
  そして、日本の婦人参政権の運動は、「大正デモクラ
 シー」の時期の1924年に、市川房枝氏らが婦人参政権
 得期成同盟(1925年に婦選獲得同盟に改称)を結成して
 運動を開始した。
  1925年に、25歳以上の男性に選挙権が与えられる「普
 通選挙法」が成立したが、婦人参政権は第二次大戦後の
 1945年12月の改正選挙法で実現し、満20歳以上の男女に
 よる平等な選挙制度となった。
  翌年・1926年4月の総選挙では婦人議員が39名当選し
 た。
1893年11月29日、衆議院が、星亨の不信任動議を可決した。
 星は辞職を拒否した。
1893年11月、阪鶴鉄道会社が、摂津鉄道を買収した(1897
 年説あり)
  尼崎地域史事典には・・
  摂津鉄道(せっつてつどう):
  1892年、川辺馬車鉄道の輸送力を増強するため馬車を
   蒸気機関車に変えることが計画され・・、
   資本金を10万円から24万円に増資し、摂津鉄道会社
   と改称した。
   この増資の間に大阪資本が進出した。
  1894年、社長の伊達尊親が退任し、大阪の鴻池新十郎
   が社長に就任した。
  1893年12月、路線も伊丹から小戸(おおべ)村(現:
   川西市)までの延長が実・・。蒸気機関車となった
   ため馬車鉄道時代のように官設鉄道の横断が許可さ
   れず、神崎駅の南北に停車場を設けて、乗客は、そ
   の間を徒歩で乗り換えるという事がなされた。
   不便はあったが(貨車は人力で押して横断した)
   尼崎-長洲間10分、長洲-伊丹間12〜13分と所要時間
   は大幅に短縮した。
   また、客貨輸送量も飛躍的に増大した。
  1897年、阪鶴鉄道に買収された。
1893年11月、明治座の開場式。
1893年12月2日、衆議院が、議長の星亨の不信任上奏案の動
 議を可決した(12月1日説あり)
  この第2次伊藤博文内閣の第五議会に於いて、衆議院は、
 議長の星亨への不信任上奏案動議を可決した。
  そして、1893年12月5日に、星の1週間の出席停止とし、
  1893年12月13日には、議員除名を決議した。
  そして、1893年12月29日に、衆議院が、現行条約励行
 決議案を上程し、10日間の停会処分を受け・・、
  1893年12月29日、衆議院が、陸奥宗光外相の条約励行
 決議案反対の演説後、再び、14日間の停会を命じられた。
  政府は、大日本協会(対外硬派)に解散命令をした。
  星亨は、1892年の第2回総選挙に当選して衆議院議長
 なっている・・しかし・・、
  1893年11月に、相馬事件の収賄疑惑によって議長不信
 任案が可決された。
  しかし、議長を不信任となったにも関わらず、議長席
 への着席に固執した。
  そのため、衆議院から除名されてしまった。
  相馬事件は、お家騒動であるが、新興新聞がセンセー
 ショナルに扱って、日本は煽られた。
  (マスコミ報道の是非が問題となった・・マスコミの
 犯罪的な煽りの行動があった)
  この年・1893年、相馬家の関係者が告訴されたり、遺
 体の発掘騒ぎなど陰湿な騒ぎが続いた。
  そして、星は、この年・1893年後藤象二郎とともに
 取引所設置をめぐる疑獄事件に連座して除名された。
  この時、議長解任の決議を数度にわたり無視して登院
 した。
  (参考)現行条約励行運動は、1893年〜1894年にかけ
     て、対外強硬六派によって唱えられた反政府の
     言論運動で・・、
      幕末期に、江戸幕府が諸外国とむすんだ不平
     等条約について、条約正文に明白に規定されて
     いない事項に関してはいっさい外国人の権利を
     認めず、日本国内における外国人の活動や生活
     を制約することを通じて条約改正を行ない、平
     等条約の実現を図ろうというもの。
      この頃、イギリスのロンドンで条約改正交渉
     が大詰めに近づいていたので、外国の世論を刺
     激することを怖れた第2次伊藤内閣は、1893年12
     月末に衆議院解散によって苦境を打破しようと
     した。
      しかし、1894年3月1日の総選挙(第3回衆議院
     議員総選挙)では、自由党も硬六派(立憲改進
     党・国民協会など)もともに過半数を獲得でき
     なかった。
      このことから、政府は、厳しい対応をせまら
     れた。
1893年12月3日、山陽鉄道新川線の兵庫駅新川駅間が営業
 開始した。
  そして、新川駅は、この日、山陽鉄道の新川荷扱所(
 貨物駅)として開業した。
1893年12月5日、松平容保公が亡くなられた・・59歳だった。
  松平容保(まつだいらかたもり、1836年〜1893年)は、
 幕末・維新期の陸奥(むつ)会津藩の藩主。
  天保6年(1836年)12月29日、美濃(みの、岐阜県)高
 須藩の城主・松平義建(よしたけ)の子(6男)として生
 まれた。
  会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となる。
  1852年(16歳)、襲封(しゅうほう、領地を受け継ぐ
   こと)し、陸奥会津藩(福島県)藩主・松平(保科)家
   9代となる。
  1853年(17歳)ペリー来航に際して、井伊直弼ととも
   に国書受理に賛成した・・
   また、本来、京都守衛は、所司代(しょしだい)の
   任務であったが、このペリー来航後、京都守衛は、
   幕府の威権にかかわる重要な問題として浮上した。
   そのため、幕府は、朝廷や諸大名の守衛不備の批判
   を避けるため、彦根藩、津藩を中心とする守衛体制
   をつくった。
  1860年(24歳)桜田門外の変で、井伊直弼が横死する
   と、容保は、幕府と水戸藩との調停にあたった。
   また、幕府の命によって、松平慶永とともに、幕政
   に参与した。
  1862年(26歳)幕府の強い要請により、京都守護職
   任命された。
   京都守護職は、徳川幕府末期の京都守衛を職務とす
   る幕府官職だった。
  1862年閏8月、京都守護職に就任し、京都の治安維持と
   公武合体の実現に努め・・幕末の困難な政局にあた
   った・・尊攘急進派の長州藩を一掃した・・
   そして、京都の幕府勢力を代表して、孝明天皇の信
   を得て、一橋慶喜とともに公武合体を推進した。
  1863年(27歳)9月30日(文久3年8月18日)の八月十八
   日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩藩
   と結んで攘夷親征を計画し、長州藩などの尊攘派
   京都より追放し・・弟の所司代松平定敬と京都の
   治安を確保した。
   そして、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永
   (よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗
   城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とと
   もに、参与として朝政に参画した。
   そして、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図
   ったが、内部対立のために失敗。
  1864年(28歳)8月20日、これを好機として禁門の変
   を起こした長州藩・・この戦いでは、薩摩藩・桑名
   藩とともに、長州側を圧倒し撃退した。
  1864年(28歳)長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総
   裁職につき、また京都守護職に復した。
   その後、徳川慶喜と協力して条約勅許問題などで活
   躍した・・が・・
   西南諸藩との対立は決定的となる。
  1867年(31歳)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(
   ちゅうりく、罪ある者を殺す)の宣旨(せんじ)が出さ
   れ・・
  1867年(31歳)江戸幕府の15代将軍の徳川慶喜の大政
   奉還に反対し、武装する・・も・・
   大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、
  1868年(32歳)・・恭順の意を表したが入れられず・・
   鳥羽・伏見の戦いに敗北し、海路、江戸へ・・そし
   て・・慶喜へ再挙を説いたが入れられず・・、
  1868年(32歳)会津戦争では、30余藩の佐幕派列藩同
   盟の中心となって、東北・北陸に兵を展開し、徹底
   抗戦した・・
   しかし、会津城に籠城し、討幕軍に抗戦した・・
   ・・が・・会津若松城で敗れて降伏・・
  1868年(32歳、明治元年因幡鳥取藩)に幽囚(永
   預・えいあずけ)となる・・のちに和歌山藩へ・・
  1872年(36歳)謹慎を解かれて、のちに正三位に叙さ
   れた。
  1880年(44歳)日光東照宮宮司となられた。
  明治26年(1893年)12月5日、逝去される、59歳。
  言葉:幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々
 に 朽じとぞ思ふ
  会津戦争で戦死した藩士を追慕して詠まれた。
1893年12月12日 摂津鉄道の尼ヶ崎駅(現:尼崎港)〜池田駅
 (現:川西池田)間が開通した。
  既設の尼ヶ崎駅〜伊丹駅間を改築さらに伊丹駅〜池田
 駅間に新線を延長敷設)した。
1893年12月13日、衆議院が、星亨を除名決議した。
1893年12月15日、三菱社が、三菱合資会社に改組された。
  三菱財閥は、日本の三大財閥の1つであるが・・、
  1870年、土佐藩出身の岩崎弥太郎が、土佐藩の事業を
   継承して、海運事業(九十九商会・つくもしょうか
   い)を創立し、
  1872年、三川(みつかわ)商会に改称。
  1873年、三川商会を三菱商会に改称。
  1874年、拠点を東京に移し、社名を三菱蒸気船会社と
   改称。
  1875年、上海定期航路を開く・・これは、我が国で初
   めての外国定期航路。
   政府の保護のもとにあった日本国郵便蒸気船会社の
   人員・施設を吸収して、社名を郵便汽船三菱会社と
   改称。
   上海のボイド商会と出資し、横浜に船舶修理工場の
   三菱製鉄所を開いた(外国資本との提携の始め)
  1876年、三菱商船学校を設立する。
  1879年、東京海上保険会社を設立(華族と共同出資)
  1880年横浜正金銀行を設立する。
   また、三菱為換店を設立(三菱の銀行業、倉庫業
   始め)、
   また、千川水道会社を設立(東京都水道の始め)
  1881年長崎県の高島炭坑を買収し、経営する。
   また、明治生命保険会社を設立する。
  1884年、工部省管轄の長崎造船所を借り受けた。
  1885年、初代社長・岩崎彌太郎が死去(50歳)
   副社長であった岩崎彌之助が第2代社長に就任した。
   そして、第百十九国立銀行を継承する。
   そして、三菱と、共同運輸両社が合併し、日本郵船
   会社を設立した。
  1886年、岩崎彌之助が、三菱社を設立し、海運以外の
   事業を経営する(吉岡銅山、高島炭坑、長崎造船所、
   第百十九国立銀行、千川水道会社・・など)
  1887年、有限責任・東京倉庫会社を設立する(現:三
   菱倉庫)
   そして、借り受けていた官有・長崎造船所の払い下
   げを受けた。
  1888年日本石油を設立。
  1889年、三菱社の管事・川田小一郎が、第3代の日本銀
   行総裁に就任した。
   そして、この年、丸の内と神田の官有地13万5千坪の
   払い下げを受けた。
  1891年、小野義真、岩崎彌之助、井上勝との共同によ
   って岩手県盛岡市郊外に農牧場を開いた(1899年、
   岩崎家の所有となった)
  1893年、商法の実施により三菱社を廃し、三菱合資会
   社を設立した。
   社長の岩崎彌之助は監務(後見職)となり、副社長
   の岩崎久彌が第3代社長に就任した(資本金500万円)
   そして、総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各
   部を設置し、分権体制を敷いて、長崎造船所の拡張
   と神戸、下関造船所の新設、そして、麒麟麦酒の設
   立など、事業がいっそう拡大された。
  三菱は、富国強兵政策の明治政府の保護もあって発展
 した。
  主に、海運業に注力(ちゅうりょく、力を注ぐこと)
 するが、造船業・鉱業・鉄道・貿易など、あらゆる分野
 に進出した。
  第二次世界大戦後、GHQの財閥解体にあう。
.
  (今日の言葉)
.
  題:難民に困るドイツが編み出した・・ダブリン協定・・
    ハンガリーのオルバン首相は独裁者だと、ドイツは言った・・
    難民は、EU内を自由通行するな・・と、決められた・・
    自由通行のEUの・・国境に・・突貫工事で塀が作られた・・
.
紀元前8000年、チグリス・ユーフラテスに囲まれた「肥沃
 な三日月地帯」において・・、
  これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼
 育)と農耕(麦類栽培)を主体とした生活が行われるよ
 うになったとみられる遺構が・・、
 紀元前8000年頃のジャルモの地層から発見された。
     ・
     ・
紀元前3500年頃、メソポタミア文明が作られた。
  チグリス・ユーフラテス川は、水源地帯の雪解けによ
 り定期的に増水するため、運河を整備することで豊かな
 農業収穫が得られた。
  初期の開拓地や文化から始まり、エジプトなどよりも
 早く農業が行われた。
  この文明のメソポタミア諸王朝と、エジプト王国は、
 互いに自らが作り上げた文化に高い誇りを持ち続けて、
 相手の科学思想を取り入れようとしないなど、『交易な
 どなされず』にいた。
  ヘブライ人は、アラム人などとの貿易をしていた。
  キリスト教は、ヘブライ人が、メソポタミアからエジ
 プトへ向かったという話にしたいので・・だから、史実
 に反する話をする。
  これは、ヘブライ人が、エジプトへ向かわないと「モ
 ーゼのエジプト脱出」の話が「作り話になる」からで・・、
  しかし、モーゼのこの話は、史実にはない「作り話」
 で、歴史家も、「モーゼの実在を否定している」。
  キリスト教は、無理筋の嘘話を言うが、これもその一
 つ。
.
紀元前3200年頃、チグリス・ユーフラテス川下流域のウ
 ルクで、紀元前3200年頃、ウルク古拙文字と呼ばれる絵
 文字が生まれた。
  ウバイド期に続く次の時期をウルク期(紀元前3500年
 〜紀元前3100年)と呼び・・、
  この時期は、都市文明の開始期で、都市文明の担い手
 はシュメール人だった。
  ウルク文化期後期には、支配階級や専門職人や商人が
 現れ、ウバイド文化期には認められなかった円筒印章や
 プラノ・コンヴェクス煉瓦が登場した。
  紀元前3200年頃に、ウルクで、ウルク古拙文字と呼ば
 れる絵文字が生まれた。
  ほぼ同時期に、東のエラムでは、原エラム文字や、エ
 ラム線文字が使われ、
  エジプト初期王朝時代では、ヒエログリフとヒエラテ
 ィックが使われていた。
  研究者は、原エラム文字とインダス文字が非常によく
 似ていると指摘している(インドとの交易)
.
紀元前3100年、メソポタミアの楔型(くさびがた)文字は、
  この時より前に出現していた。
.
紀元前3000年頃、ウルク期に続くジェムデト・ナスル期(
 紀元前3100年〜紀元前2900年)になると・・、
  紀元前3000年頃、銅にすずを混ぜる青銅合金の製造法
 が発見され、青銅製の武器が作られた。
  銅の供給地は、バット遺跡。
  スズの供給地は、トロス山脈のケステル。
  武器の発達によって、都市国家間は戦乱時代となり、
 ウルクの市域は最大領域に達し、ジェムデト・ナスル文
 化はペルシャ湾岸まで達した。
  しかし、ジェムデト・ナスル期末期にシュルッパクの
 王ウバル・トゥトゥの治世下で、メソポタミア全域が大
 洪水に見舞われ、ウルクの繁栄が終わり、シュメールの
 中心は上流域のキシュに移った。
  (上流域との関係が強いのである・・エジプトではな
 い・・また、ウルク、ウルは下流域。
.
紀元前2900年、初期王朝時代(紀元前2900年〜紀元前2350
 年)には、ウル、ラガシュのような多くの新興シュメー
 ル都市国家が成立し、王朝が成立した。
  考古学的に、実在が確認されている最古の王は、紀元
 前2800年頃のキシュ第1王朝の王エンメバラゲシで、
  アワン朝古エラム時代(紀元前2700年頃)、3代に渡っ
 てシュメールを支配したと伝えられる。
  紀元前2700年頃、シュメール下流の都市が繁栄し、キ
 シュはさびれた。
.
紀元前2850年、神聖文字(ヒエログリフ)などのエジプト
 の絵文字は、紀元前2850年頃から使われていた。
  このエジプト文字が、元となってアラム文字、フェニ
 キア文字、ヘブライ文字などが作られた。
  これ等の文字によって、中近東の紀元前2000年〜紀元
 前1000年といった極めて古い時代の歴史を知ることが出
 来る。
.
紀元前2600年、この頃と考えられているウルク第1王朝の王
 ギルガメシュは、『ギルガメシュ叙事詩』によってその
 名を知られているが、エンメバラゲシの実在が確認され
 た事から実在が確実視されている。
  シュメールとの交易相手にはen:Majan、ディルムン、
 en:Meluhhaが知られており、この時代には、広大な交易
 網が形成されていた。
  ラガシュの王ウル・ナンシェの碑文に、ディルムンと
 交易していた記録が残っている。
  en:Meluhhaが、インダス文明であるとする説をヘルシ
 ンキ大学のアスコ・パルボラ博士とen:Simo Parpolaら多
 数の学者が支持している。
  楔形文字が、完全な文字体系に整理されたのは、紀元
 前2500年頃である。
  伝説では、ウルク第1王朝の王エンメルカルが文字を使
 ってアラッタに降伏を勧告した(エンメルカルとアラッ
 タの領主。
     ・
     ・
30年頃、この頃、エルサレムの町には予言者が一杯いた。
  吉凶の前兆をめぐって予言者や占師がはびこるという
 エルサレムだった。
  イエスは、儲かるからと、この商売に就いた。
  イエスは、故郷の人から、「予言者とは、いい商売を
 しているな」と言われていた。
.
129年頃、古代ローマの医師・ガレノスが、トルコのペルガ
 モンの裕福な建築家の家庭に生まれた。
  父の支援のもとに、各地で哲学や医学を、アレクサン
 ドリアで学んだ。
  この地は、唯一、医学解剖が許される地だった。
  この地で、彼は、技術を磨き、経験を重ねた。
  27歳(156年頃)の時、故郷へ帰り、ここで剣闘士の
 治療医となった。
  肉を切り裂く流血の競技をする剣闘士の担当医として
 外科医のかけがえのない経験を積んだ。
  30歳(159年頃)を過ぎて、ローマへ行った。
  ローマは、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス
 が即位したばかりだった。
  この地で、ガレノスは解剖の技量を示し、名医として
 の評判を得て、また、名を高めた。
  この評判が皇帝の耳に入り、目にとまった。
  皇帝の侍医となる。
  166年(37歳)、疫病が大流行した。
  この病気がイタリアに到来する頃、ガレノスは、ロー
 マを離れ帰郷した。
  これは口実だった。
  実際は、医学論争での対立から身の危険を感じたのだ
 った。
  ガレノスは、「激昂(げっこう)しやすい人」だった。
  しかし、名医としての名声が、故郷に居る事を許さず、
 ほどなく、皇帝の命で呼び戻され、帝室の侍医となった。
  やがて、北方からのゲルマン人の侵入の脅威が高まっ
 た。
  マルクス帝は遠征をした。
  ガレノスは、随行するようにと言われるが固辞(こじ、
 かたく辞退しつづけること)した。
  180年、マルクス帝が死去する。
  18歳の子のコンモドゥスが帝位についた。
  この帝は、直ちに和平を進め、代償金(損害のつぐな
 いをする・・その金)を支払い北方戦線から撤退した。
  この帝は、簡単にローマ人の威信を挫(くじ)いた。
  そして、この子の帝は、ひいきの側近に政治を任せ、
 怠惰で放埓(ほうらつ、ほしいままに振る舞って酒や女
 に溺れること)な行動を始めた。
  命も再三にわたって狙われるという始末だった・・が、
 結局、側近らの共謀によって殺害された。
  ガレノスは、宮廷の侍医であった、そして、比類なき
 名医であった、それは誰もが認めた・・名声も博した。
  ガレノスに対抗する医学の諸派もあったが、ガレノス
 の晩年頃には、そのほとんどが勢いを失っているほど、
 ガレノスは、地中海世界の医学における唯一の皇帝の様
 な名医だった。
  ガレノスは、また、厖大な著作を残した。
  また、彼は、医学だけに没頭したからこそ、権謀術数
 が渦巻く彼の世界の中(宮廷社会の中)で生きて行けた
 と言える。
  ヒポクラテス以来の誇大医学を集大成し、ルネッサン
 ス期まで西洋医学に絶大な影響を及ぼしたというガレノ
 スだった。
  ガレノスは、200年頃に没した(71歳くらい)
  「現代医学の治療の要(かなめ)は、古代のガレノス
 の時代からさほど変わっていない」と言われているほど
 である。
     ・
     ・
1857年7月、北海道・函館に、五稜郭が起工する。
  フランス式築城術で建設された日本初の稜堡式城郭で、
  天守閣を備えた城郭は持たない。
  当初は、幕末の開港による外国の脅威を念頭に、より
 多くの堀や城累の設置が検討されたが、後に、設計は縮
 小された。
  (参考)稜堡:りょうほ、大砲を主要防御武器として
     設計された城で、多数の大砲が、死角を補い合
     うように造られている。
      16世紀〜18世紀のヨーロッパで行われ、日本
     ではこの五稜郭龍岡城・・
  (参考)龍岡城:たつおかじょう、長野県佐久市田口
     にある日本の城跡で、幕末期に築城され、龍岡
     藩(田野口藩)の藩庁が置かた。
      日本に二つある五芒星形の西洋式城郭の一つ。
      龍岡五稜郭、あるいは、桔梗城とも呼ばれる。
  1854年3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定
   すると、江戸幕府は、松前藩領だった箱館周辺を上
   知して・・、
  (参考)上知:あげち、江戸時代の大名や旗本が、領
     知である知行地(→知行)を官に返すこと。
  (参考)領知:りょうち、土地を領有して支配するこ
     と。
  1854年6月、箱館奉行を再置した。
    箱館奉行所は、前幕領時代(1802年〜1807年)と
   同じ基坂函館山山麓一帯にある坂のひとつで、
   当時は、松前藩箱館奉行詰役所があった)に置か
   れた。
    初代奉行の竹内保徳は、松前藩の建物を増改築し
   て引き続き使用する方針を示したが、
    続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館
   内から至近、かつ、遮るものがなく、加えて外国人
   の遊歩区域内の箱館山に登れば、奉行所を眼下に見
   下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面へ
   の移転が必要だと上申した。
    そして、竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内から
   の艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役
   所四方土塁」を築いて、奉行所を移転する意見書を
   老中・阿部正弘に出した。
    これが、幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定し
   た。
    併せて、矢不来(やぎらい、現在の北斗市矢不来
   (やふらい))・押付・山背泊(やませどまり)・
   弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の
   新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿
   部は、これらを同時に築造するのは困難なので、ま
   ず、弁天岬(弁天台場)と築島(着工されず)に着
   手するよう指示している。
  1855年7月、フランスの軍艦コンスタンティーヌ号が、
   箱館に入港した際・・、
    箱館奉行所で、器械製造と弾薬製造の御用取扱を
   務めていた武田斐三郎が・・、
    同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡
   の絵図面を写し取った。
    武田は、この絵図面をもとに、五稜郭と弁天台場
   の設計を行った。
    そして、五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造
   からなる総工費41万両の予算書が作成された。
    当初は、工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を
   命じられた松前藩戸切地陣屋)・津軽藩津軽
   屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の
   各陣屋が、既に、完成していたことから、
    五稜郭や台場の工事が遅れると、箱館市民や外国
   人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天
   台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。
  1856年11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、
   下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎ら
   を、台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、
  1857年7月、五稜郭の築造を開始した。
    建物については、1856年から、郭外北側に役宅を
   建設、
  1861年奉行所庁舎建設を開始した。
    施工は、土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上
   喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方
   石方請負人・中川伝蔵が請け負った。
    当初は、まず、掘割と土塁工事、
    続いて、建物工事、
    最後に、石垣工事を行う計画だったが、
    この地は、地盤が脆弱で、冬季の凍結・融解によ
   り掘割の壁面が崩落したため、急遽、石垣工事を先
   行させた。
  1864年、竣工。
   1864年6月15日、箱館奉行・小出秀実が、旧奉行所
   ら郭内の箱館御役所に移転、業務を開始。
    引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や
   付帯施設の工事も行われ、
  1866年、全ての工事が完了した。
    箱館奉行・小出秀実が、奉行所五稜郭内に移転
   して業務を開始した。
  そして、後に、箱館戦争(1868年〜1869年)では、榎
 本武揚率いる徳川幕府軍が入城し、城塞であるとともに
 榎本らが設立した「蝦夷共和国」行政府としても機能し
 た。
.
1892年11月、大倉土木組が、日本土木会社から継承され設
 立された(現:大成建設
  1873年10月、大倉喜八郎が、資本金15万円をもって大
   倉組商会を創立し、機械などの直輸入貿易をおこす
   とともに諸建造物の造営などに当たった・・これが
   起源。
  1887年3月、大倉喜八郎は、渋沢栄一氏、藤田伝三郎氏
   と共に、資本金200万円をもって有限責任日本土木会
   社を設立し、大倉組商会の業務の内、土木関係に関
   するものを分離し継承・・日本の土木建築業の初め
   となる。
  1892年11月、有限責任日本土木会社は解散し、その事
   業を大倉喜八郎単独経営の大倉土木組に継承する。
  1911年11月、大倉土木組が、株式会社大倉組に合併さ
   れ株式会社大倉組土木部となる。
  1917年12月、株式会社大倉組より分離し、資本金200万
   円の株式会社大倉土木組となる。
  1920年12月、日本土木株式会社と改称。
  1924年6月、大倉土木株式会社と改称。
  1946年1月、大倉土木株式会社を廃し、大成建設株式会
   社と改称した。
  因みに、大倉財閥は、政商・大倉喜八郎が一代で創設
 した財閥で、幕末・維新の動乱に乗じて銃砲販売で台頭し
 た。
  大倉喜八郎は、明治期に軍需物資用達などの政商活動
 や貿易活動を中心に事業を拡大したが、そこで蓄積した
 資本を基礎に、合名会社大倉組(1893年、設立)を持株会
 社とし、大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の直系3社を事業
 の中核とするコンツェルン機構が第1次世界大戦期に形成
 された。
  また、大倉喜八郎は、財界の有力者として多数の会社
 の設立に関与し、出資していたため、昭和初期には投資
 先会社数が100社以上にのぼり、巨大総合財閥(三井、三
 菱)には及ばないものの、第二級の資本規模を有する財閥
 に発展した。
.
20世紀初め、この頃、排満革命の機運が中国で高まった。
  汪兆銘(おうちょうめい)。
  清朝満州人(満州族)に、漢人(漢族)が支配され
 ている中国だった。
  孫文の率いる革命勢力の中で、汪兆銘は頭角を現して
 いた。
  そして、清朝摂政王の暗殺を試みた。
  しかし、失敗した。
  汪兆銘は、捕まって、死刑宣告を受けた。
  汪兆銘は、蒋介石の4年前に生まれ、日本の法政大学に
 留学し、学んでいた・・その様な人物だった。
  死刑宣告を受けた汪兆銘は、幸い、1911年に、辛亥(
 しんがい)革命が起きたため、釈放された。
  中国の愛国者であり、民族主義の急進派であり、親日
 的だった。
  だが、しかし、今(2018年)、中国共産党政権は、「
 漢奸(かんかん、中国の国を売る輩・同国人)」として、
 売国奴呼ばわりをしている。
  しかし、この汪兆銘は、蒋介石と違って「容共路線」
 を主張していた。
  汪兆銘は、病気治療のため渡仏した。
  その間、蒋介石は、中国の実権を握った。
  汪兆銘は、同調して反共に転じた。
  1927年頃まで、汪兆銘は決死で活動し、自分の命をも
 惜しまない「革命の家の姿」であり、孫文の後継者とし
 ての気概があった。
  しかし、反共路線を取る汪兆銘と、親日的な姿に「漢
 奸」の姿を感じさせてしまっていた。
  蒋介石の蔭にアメリカが居て、中国の反日姿勢が強ま
 り、日中関係が悪化するとともに、汪兆銘の「漢奸のイ
 メージが、膨らんで行った」。
  1930年、蒋介石重慶に政府を移し、アメリカに影響
 され、対日徹底抗戦を主張した。
  汪兆銘は、その方針に異議を唱えた。
  そして、南京に新政府を樹立した。
  そして、戦争で被害を受ける国民が頭にあった汪兆銘
 は、戦争への道ではない日中関係の打開を試み始めた。
  日中の関係を冷静に考える汪兆銘には、中国国民の膨
 大な被害が見えていた。
  何としても汪兆銘は、その視点からも、戦争は避けた
 かった。
  汪兆銘愛国者の視点は、中国の人たちの犠牲を受け
 る姿から発していた。
  しかし、汪兆銘は、反日派から狙撃され、重傷を負っ
 てしまった。
  しかし、汪兆銘は、方針を変えることなく、和平の道
 を探し求めた。
  汪兆銘は、1944年11月10日に病没した。
  61歳だった。
.
1945年8月15日過ぎに、ソ連は、日本領の南樺太(南のサハ
 リン)に攻めて来た。
  日本の交渉団が・・、
  「8月15日の終戦が過ぎていて、戦争は集結しているの
 で、交渉し、話し合いをしよう」と・・、
  交渉団が、ソ連側へ白旗を掲げて行くと、ソ連は、そ
 の日本の交渉団へ向かって機関銃で日本の交渉団を皆殺
 しにした。
.
1946年、日本新聞協会は、「日本全国の新聞社・通信社・
 放送局が倫理の向上を目指して、戦後間もない1946年に
 創立した自主的な組織です」・・と説明されているが、
 果たして、その通りなのか?
  『隠れ蓑』になっているのではないか?
  日本の新聞ほど、偏頗(へんぱ)な新聞はない。
.
2015年8月27日、オーストリアの首都ウィーン近くの高速道
 路の路肩に、一台の冷蔵車(7.5トン)が乗り捨てられて
 いた。
  見回りの係員によると、猛烈な腐敗臭が漂い、ドアの
 隙間から液体が漏れ出ていた。
  ふたを開けると71体の腐乱死体。
  男性が59人、女性が8人、子供が4人。
  国籍は、大半がシリア人であった。
  オーストリアか、ドイツで、庇護申請しようとしてい
 たと思われている。
  死因は、窒息死だった。
.
2015年8月、ハンガリーの中央駅に、シリア難民が、大勢、
 溜まってしまって、どうしようもない状態になってしま
 った。
  この異常な事態に大騒ぎとなった。
  ハンガリーには、特に、多くの難民が押し寄せていて、
 ハンガリーの人口の1000分の5に当たる難民が流入してい
 る。
  目的地は、ドイツ。
  日本だったら60万人に相当する人数となる。
  この地で、難民が滞る理由は条約(ダブリン協定)の
 決定で・・、
  ハンガリーは、その難民の登録をし、保護し、審査し
 なければならないとされている。
  その条約には、最初にEUに踏み入れた国は、その難
 民に対する「その行為をしなければならない」とされて
 いる。
  これでは、「EUの周辺国」に、難民が溜まってしま
 う事になるのは『明らか』で、難民に困るドイツが編み
 出した。
.
2015年8月末、ハンガリーから、ドイツへ向けて、難民の
 方々を乗せた列車は発車した・・これを許可したのがハ
 ンガリーのオルバン首相だった。
  EUは、豊かな国からEU加盟国が広がって行った・・
 増えて行った。
  そして、時が経て・・その豊かなEUの中心の国を目
 指して難民の方々が押し寄せた。
  最初は、美しい理念で出来たEUのその理念に沿って
 その難民の方々は受け入れていたが・・、
  だんだん、その我慢も限界に・・、
  そして、「痩せ我慢の限界」を超えた。
  そこで、「ダブリン協定」という取り決めが、力のあ
 る豊かなEUの中心となっている国の意向が生きて、取
 り決めされた。
  難民が流れ込んで来るEUの豊かな国に都合のよい協
 定=ダブリン協定であった。
  今度は、難民が通過する国だったEUの周辺国に、難
 民の方々が「通過できずに溜まり出した」。
  しかし、豊かな国へ行きたい難民の方々は、法を犯し
 てまでして豊かなEUの中心の国へ向かった・・難民の
 方々の流れは絶えなかった。
  そのEUの中心の豊かな国も「ギブアップして、お手
 上げ状態となった」。
  難民の方々は、さらに、その先へと向かった。
  ドーバー海峡でも、大々的に国境を越えて行った。
  目指すのは・・イギリスだった。
  イギリスは、手続きも簡単で、景気が良く、仕事を得
 るチャンスがよりあった。
  ユーロトンネルを多くの難民の方々が越えた。
  トラックや列車に飛び乗った。
  当然、イギリスとフランスの国境警備隊が、共同で取
 り締まっていた。
  埒(らち)のあかない「追っかけっこ」が続いた。
  ダブリン協定なんて「機能なんかしてなかった」。
  難民の方々が、溜まりに溜まっているハンガリー・・、
  そのEU周辺国のハンガリーも、事実上、無能となっ
 たダブリン協定の状態を見ていた。
  2015年8月末、ハンガリーのオルバン首相は、ダブリン
 協定を無視して、難民の方々が乗ったドイツ行の列車の
 発車を許可し、命じた。
  列車は、発車して行った。
  途中のオーストリアで、列車は止められるという騒ぎ
 が起きた・・が、結局、オーストリアも、列車を発車さ
 せた(ダブリン協定違反)
  列車は、2日かかって、ドイツのバイエルン州の州都
 ミュンヘンに着いた。
  この列車を発車させたEU周辺国のハンガリーが、E
 Uから非難された。
  ドイツ政府も、このハンガリーを汚い言葉で非難した。
  「ハンガリー政府のオルバン首相は独裁者だ」
  「ハンガリー政府は、反民主主義だ」などと・・、
.
2015年、公正であるべき近代社会・・だが・・??
  ましてや、『グローバリズムだ』と美しい理念を掲げ
 て「国境を取っ払ったEU」・・??
  そこには・・行動を起こされる「格差」が存在した。
  EU内の唯一の経済強国のドイツ。
  このドイツの顔色を他のEU諸国は見る様になった・・
 伺(うかが)うようになった。
  EU外の諸国の民は、「EUには国の垣根はない」と
 言われれば、この豊かな国・ドイツへ行きたいとなった。
  本当の難民なのか?どうか?分からぬ人々も居るとい
 う人々が、ドイツを目指した。
  ドイツは、第二次世界大戦で非人道的行為をしていた
 ため、憲法に難民を救済するような条文があった。
  その様な憲法もあるドイツは、流入する人々を受け入
 れた。
  ドイツのある地方は、ドイツの国柄が変わるほど、ド
 イツという国が壊れるほど・・受け入れた。
  そのうち、ドイツは・・心で悲鳴を上げた。
  EUは、ドイツの意向が働くところとなっていた。
  『ダブリン協定』ができた。
  この協定で、「流入する人々は、EU内での登録は1
 回しか出来ない」と決められた。
  また、EUに入った最初の国で、登録申請しなければ
 ならないと決められた。
  また、EU内の「内国の自由通行の権利」は、この流
 入する人々には「認められない」・・とされた。
  これらの取り決めから見える姿は、EUの内国のドイ
 ツで、流入する人々の難民申請は、事実上、出来ないと
 いう状況だった。
  その結果・・EU圏の周辺国に、どんどん難民と称す
 る人々が増加するという状況となった。
  そして、難民申請が認められても、この人たちには、
 「EU内の自由通行権は認められてない」・・故に、E
 U周辺国に流入する人々が、その場で滞(とどこお)り、
 増加し続けるという状況となった。
  当然、EU周辺国は・・悲鳴を上げた。
  2015年、ハンガリーは、国境の150キロに渡って、突貫
 工事で、高さ4メートルの塀を作った。
  EUは、非人道的だと非難をした(後に、この非難は
 無くなった)
  しかし、この塀を何とかして人々は通過し、続々と流
 入し続けた・・そして、ドイツを目指した。
  列車のチケットがあろうが、なかろうが、ドイツを目
 ざして列車に乗り込んだ。
  これが、2015年8月の様子だった。
.
2018年、アメリカでの黒人の方々への差別の現状。
  アメリカで、黒人の方々が差別されている状況を知る
 データーの一つが・・、
  「公職についている黒人の方々の比率」が『1.5%とい
 う低い比率』であること・・、
  アメリカには、12%の黒人の方々が居られるので、そ
 の低い比率差がお分かり戴けるだろう。
  黒人の方々は、現在の10倍の方々が公職に就(つ)い
 ていても良い状況となっている。
  他国には、平等を求めるアメリカは、キリスト教の有
 色人種への蔑視観に洗脳されて、この例の様に、『黒人
 の方々を差別している』。
  この事は、ユネスコの世界記憶遺産にしっかり登録さ
 れねばならない。
  こんな明白な人種差別は、即刻、止めさせる意味から
 でも、ユネスコへの登録行動を起こす運動を始めよう。
.
2018年、北朝鮮が、核の開発に成功し、また、ミサイル開
 発にも成功し・・、
  そして、日本へ向けた「核ミサイル配備も完了し・・
 これに対する守りをどうするか・・??
  ・・という・・大切なこの時に・・日本は、国内の問
 題で明け暮れている・・、
  広島の原爆どころではない「北朝鮮の威力を増した核
 兵器」が、現実のものとなり・・
  日本に差し向けられているというこの大事なこの時に・・
 しっかり日本を守るべきこの時に・・国内の問題を、ひ
 たすら「ああだ、こうだ」と取り上げている。
  この北朝鮮の大危機から目をそらされている・・
  このそらさせる行為が・・行われている。
  日本の「国民の目をそらさせている」日本の特定のマ
 スコミ・・など・・
  また、北朝鮮は「原爆より巨大な水爆をも持っている
 ・・というのに、この様な、緊急事態が発生しているこ
 の時に??」。
  この緊急事態に対処して日本を守ろうと・・そして、
 日本を守るためには、「憲法を改正しなければならない」
 というこの時に・・この憲法を改正させないようにと、
 「この国民の目をそらさせようと、仕組まれたマスコミ
 行動などがなされている」。
  朝日新聞は、「安倍政権を倒すのだ」とキャンペーン
 を行なっている。
  「憲法改正をさせたくないのだ」という気持ちがそこ
 にはある。
  また、慰安婦問題を追及されて、とうとう朝日新聞は、
 「慰安婦問題の嘘を謝(あやま)らざるを得ない状況と
 なって・・やっとこさ、謝ったが・・その恨(うら)み
 が朝日新聞にはある」。
  朝日新聞は、系列のテレビである「テレビ朝日」も使
 って、連日、この国内問題を放送して、国民の目を惑(
 まど)わせている。
  こんな番組を『提供している企業も、企業だ』。
  安倍政権の支持率も低くなっていないのに、「支持率
 が下がった、下がった」と煽(あお)った。
  そして、今は、国民の方々も、それに惑(まど)わせ
 られて、支持率は下がってきた・・が・・この様なやり
 方で、日本の皆様は繰(く)られている・・日本世論を
 繰っている。
.
2018年、何でもアメリカの真似(まね)をする中国。
  アメリカのルーズベルト大統領が、アメリカ国民の方々
 を繰って、嘘をついて、第二次世界大戦を始めさせたが・・、
  戦争が始まった時に、「私は戦争を作った」と言った
 くらいだった・・ルーズベルト・・、
  また、当然、ルーズベルトは、戦争が始まることを知
 っていて、親族に、「明日、日本が攻めて来るよ」と言
 っていた。
  アメリカのルーズベルト大統領は、日本が先に攻めた
 様に見せかけた・・
  ・・が、実際は・・アメリカが先に、中国で、日本を
 攻めていた。
  この様な大嘘をついて、アメリカ国民の方々や世界の
 人々に嘘をついて、「繰っていた」が・・これを、現在、
 真似しているのが中国だ。
  世界へ工作員を行かせて、その国の世論を操作してい
 る。
  日本にも、大勢の工作員を潜り込ませている。
  そして、日本に行かさせて、「日本国籍を取らせて・・」
  そして、日本国籍を取ったその中国工作員は、「日本
 人の様な顔をして、中国に有利な事をやらせている」。
  中国にとって、一番に怖い事を止めさせようとしてい
 る・・
  その中国が一番怖い事は、『日本にアメリカ軍が居る』
 ということ、そして、『日本の防衛力が強くなるという
 こと』・・、
  この事に対して、一生懸命に妨害をしている。
  その一例が・・沖縄だ・・
  連日、沖縄の人が困るほど・・大騒ぎをしている。
  日本が憲法を改正して、「日本の防衛力が強くなるこ
 とを、最大に恐れている」・・
  だから、一生懸命、日本の憲法改正の足を引っ張って
 いる」。
  憲法改正をさせない様にと、一生懸命、動き回ってい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive