(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月〜1894年5月)

題:(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月〜1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年5月16日、北村透谷が自殺(縊死)
  北村透谷(きたむらとうこく、1868年〜1894年)評論
 家、詩人。)
  1868年12月29日、相模国足柄下郡小田原で没落士族の
   家に生まれる。
  1881年(13歳)一家で上京し、東京の数寄屋橋近くの
   泰明小学校に通う、翌年、卒業。
  1883年(15歳)横浜のグランド・ホテルのボーイとな
   り、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)政治
   科に入学。
  1886年(18歳)この頃まで、東京専門学校に籍を置く
   が、左翼と知り合い、自由民権運動に参加する。
   学校は卒業はしていない。
    自由民権運動は閉塞してゆく・・、
    大阪事件の際、同志から活動資金を得るため強盗
   をするという計画を打ち明けられ、その行動を勧誘
   された・・苦悩のうちに参加を拒絶し、絶望してそ
   の運動を離れる。
  1888年(20歳)数寄屋橋教会で洗礼を受ける。
  1888年(20歳)石坂ミナと結婚、キリスト教への入信
   を支えにする。
    通訳として麻布教会へ通う。
  1889年(21歳)『楚囚の詩』を自費出版したが、出版
   直後に、その出版を後悔し、自ら回収し、みずから
   廃棄した。
   第一::曽《か》つて誤つて法を破り
   政治の罪人《つみびと》として捕はれたり、
   余と生死を誓ひし壮士等の
   数多《あまた》あるうちに余は其首領なり、
   中《なか》に、余が最愛の
   まだ蕾《つぼみ》の花なる少女も、
   国の為とて諸共《もろとも》に
   この花婿も花嫁も。
   第二::余が髪は何時《いつ》の間《ま》にか伸び
  ていと長し、
   前額《ひたい》を盖《おお》ひ眼を遮《さえぎ》り
  ていと重し、
   肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
   沈み、萎《しお》れ、縮み、あゝ物憂《ものう》し、
   歳月《さいげつ》を重ねし故にあらず、
   又た疾病《しつぺい》に苦《くるし》む為ならず、
   浦島が帰郷の其れにも
   はて似付《につ》かふもあらず、
   余が口は涸《か》れたり、余が眼は凹《くぼ》し、
   曽《か》つて世を動かす弁論をなせし此口も、
   曽つて万古を通貫したるこの活眼《かつがん》も、
   はや今は口は腐《くさ》れたる空気を呼吸し
   眼は限られたる暗き壁を睥睨《へいげい》し
   且つ我腕は曲り、足は撓《た》ゆめり、
   嗚呼《ああ》楚囚! 世の太陽はいと遠し!
   噫《ああ》此《こ》は何の科《とが》ぞや?
   たゞ国の前途を計《はか》りてなり!
   噫此は何の結果ぞや?
   此世の民に尽したればなり!
   去《さ》れど独り余ならず、
   吾が祖父は骨を戦野に暴《さら》せり、
   吾が父も国の為めに生命《いのち》を捨《すて》たり、
   余が代《よ》には楚囚となりて
   とこしなへに母に離るなり。
  1889年(21歳)日本平和会の結成に参画、機関誌『平
   和』に寄稿。
  1891年(23歳)5月、『蓬莱曲』を自費で出版する。
    劇詩で、キリスト教的世界観からインド仏教的世
   界観への屈折がみられる。
    養真堂刊という形で自費出版した。
    蓬莱山つまり富士山の麓(ふもと)・中腹・絶頂を
   舞台に設定、現世を捨ててここにきた気性鋭い内攻
   的な青年に、大魔王が自分こそこの世の物質的な繁
   栄を支配していると同時にその破滅をも支配してい
   る、と告げ、自分に服従せよというが、青年はそれ
   を拒み富士山頂で死ぬ。
    青年は、作者透谷のおもかげを宿す。
    未完の『蓬莱曲別篇(べつへん)』が付載されてい
   て、そこでは青年の恋人の愛が彼の霊を彼岸(ひがん)
   での救いに導く。
  1892年(24歳)評論「厭世(えんせい、この世・人生
   をはかなむ)詩家と女性」を『女学雑誌』に発表。
   「恋愛は人世の秘鑰(ひやく、秘密のかぎ)なり」
  1893年(25歳)島崎藤村らと創刊した『文学界』誌上
   に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」
   など多くの文芸評論を執筆する・・しかし、ロマン
   チシズムの文学論は透谷自体を追い詰め、病気、貧
   困なども加わる。
  1894年(26歳)次第に精神に変調をきたし、評論『エ
   マーソン』を最後に、芝公園で首吊り自殺をした。
    原罪を意識させ、自分は悪いのだを洗脳させるキ
   リスト教・・この様な希望のない性悪説ではなく、
    一切衆生悉有仏性・・皆が持つ希望の仏性・・の
   未来の希望はあるの考え方を持つように・・
  (参考)大般(だいはつ)涅槃経に、「仏身常住(ぶ
     つしんじようじゆう)」:悟りを開いた仏の身
     体は法として永遠に存在する・・
      「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうし
     つうぶつしよう)」:すべての方々、また、生
     きとし生けるもの、すべてが、生まれながらに
     して、仏となりうる可能性(仏性)を有し、す
     べてを悟り得る存在です・・、

1894年5月26日、山形市大火。
  この大火は、山形市南大火と呼ばれ、蝋燭町(ろうそ
 くまち、現:十日町の嘯月あたり)を火元とし、強風に
 よって火の手は四方に広がり、約10時間燃え続け、十日
 町・八日町・三日町・小姓町など、市外南部を中心に、
 17ヶ所に及んだ。
  焼失したのは本家数だけで1,608軒。
  因みに、 ろうそくの製造を家業とする職人が住んでい
 たことから名付けられ・・、
  当時の絵図には「アカシマチ」となっている。
  この町の最上ろうそくは明るく長持ちすると大変好評
 で、徳川家康が夜宴を開いた際、暗いので最上ろうそく
 に取り換えさせたというエピソードがある。
  領主の最上家の将軍家への土産品にも蝋燭は欠かせな
 いもので、慶長10年(1605年)に、家康を訪問した際に
 は千挺(ちょう、1000本)も献上した。

1894年5月26日、綿糸輸出を促進するために、綿糸輸出関税
 を撤廃した。
  この頃、綿花輸入税・綿糸輸出税の廃止運動が行なわ
 れていた・・これは・・、
  1890年に、日本の綿糸生産量は、原料綿花の輸入量を
 上回るようになったからだった。  
  国内の綿花栽培農家を保護するための綿花輸入税や、
 綿織物生産業者を保護するための綿糸輸出税の存在は、
 力がついて来た日本の紡績業の国際競争における足かせ
 となって来ていた。
  そのため、大日本綿糸紡績同業連合会は、1888年以後、
 両税の廃止を働きかけた・・また・・、
  1891年以後に、商業会議所などを巻き込んで本格的な
 運動を開始した。
  これに対して、大日本農会は、国内農家保護の観点か
 ら反対運動を起こし、帝国議会でも議論が行われた。
  だが、郵便報知新聞・日本・東京経済雑誌などの主要
 なマスコミが両税廃止運動を支持した。
  因みに、綿花輸入関税の撤廃は、1896年。
  開国後の近代化で、日本には、綿糸製造産業が、欧米
 の技術を導入して各地に設立されていた。
  そして、その産業を保護するために、産業が確立され
 るまで、その製品の綿糸が外国に流れて、日本の産業が
 育たないことにならない様に、綿糸輸出関税をかけてい
 た。
  しかし、日本の綿糸生産が、外国からの原料(綿花)
 の輸入量を超えるくらいに育ったため、そして、その育
 った日本の綿糸が輸出しやすくするために、綿糸輸出関
 税を撤廃した。
  また、綿花を国内で生産をしていたとしても、日本の
 経済成長、工業発展もあって、綿花を輸入せざるを得な
 い状況になっており・・、
  また、綿花栽培農家は、他の生産物への転換が容易だ
 ったことによって、綿花栽培農家のための保護関税を撤
 廃し、原料綿花のコスト低減のための綿花輸入関税の撤
 廃を行なった。

1894年5月30日、甲午農民戦争で、東学党軍が、ほぼ朝鮮全
 羅道を制圧した。
  李朝朝鮮政府は、清国に援助を要請した。

1894年5月31日、朝鮮農民軍が、全州占領。朝鮮内乱重大化。
  甲午農民戦争東学党の乱): 乱徒が朝鮮全州を占領。

1894年5月31日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を可決した。
  この年の3月1日の第三回総選挙は、自由党は30近く議
 席を回復し、硬六派は180から40議席も減少していた。
  そして、景気は良く、経済情勢には対立激化の要因は
 なかった。
  しかし、対外硬の面で、激しい対立が続いた。
  野党はなお130の議席を確保した。
  そして、さらに、無所属切り崩し、衆議院を制圧でき
 る可能性出て来た。
  また、マスコミも、国粋派の新聞「日本」や、民友社
 の「国民新聞」にまで反政府側だった。
  そして、また、枢密院や貴族院の一角までが、条約励
 行案支持となっていた。
  対外硬派の狙いは、藩閥政府の打倒にあった。
  しかし、この狙いを越えた行動・・対外硬の行動とし
 て現れて行った。
  また、中国・清側も、日本を弱小国としてみて、強硬
 な態度に相変わらずいた。
  ここに、朝鮮世情の不安定さが加わった。
  始まりは・・6月1日の李朝朝鮮政府が、東学党の農民
 軍に大敗したことにあった・・
  李朝朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時には、事
 前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約を結んで
 いた。
  この事態になるまでに、日本国内にも、マスコミが騒
 ぐ状況が起きた・・
  清の中国軍の朝鮮出兵に対し新聞論調は一夜にして急
 変した。
  国民新聞を先頭に朝鮮出兵を叫び始めた。
  対外硬もたちまち対清硬に変じた。
  1894年6月2日、衆議院の上奏が却下され、解散した。
  そして、1894年6月4日、出兵が開始された。
  そして、1894年6月5日、大本営が設置された。
  そして、この当時の国際的重要国であるイギリスと、
  1894年7月16日、日英日英通商航海条約の新条約が調印
 された。
  これは、イギリスの日本への支持を示すものでもあっ
 た。
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  (今日の言葉)
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  題:中国は色々な民族の地・・
    中国は、種々の民族が入れ代わり立ち代わり領有(りょうゆう、
   領地として持つこと)した・・
    例えば・・唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権を正当化するため」に
   自身が漢民族の末裔であることを主張したかった。
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紀元前1万4000年、今から16,000年前の縄文時代の人骨から
 分かること・・、
  《古人骨と食べ物》 
  米田 穣氏(東京大学大学院新領域創成学研究科准教
 授):
  縄文や弥生の時代の人骨を分析して、当時の日本人が
 何を食べていたかを探る研究が進んでいる・・、
  同位体生態学・・、
  骨を分析すれば、そこから食べていたものを突き止め
 られる・・、
  古人骨に含まれる元素の重い同位体や、軽い同位体
 比率を調べる・・
  およそ1万6000年前に始まる縄文時代の人骨・・
  亜寒帯の北海道、温帯の本州、亜熱帯の沖縄・・
  北海道では、オットセイの様な海生哺乳類、鮭などの
 魚を主なタンパク源とエネルギー源にしていた。
  本州は、氷河期が終わって森で覆われていて、クリな
 どの木の実を主食にしエネルギー源とし、魚をタンパク
 源としていた。
  これに対し、沖縄では、サンゴ礁で採れる小魚や貝類
 が主体で、これをタンパク源としていた。
  紀元前800年頃に始まる弥生時代は、稲作が伝わる。
  「縄文時代の後期に、本州の人口が減少する・・、
  森で何かが起きて、木の実が採りにくくなったのが原
 因と思われている・・、
  そこで、弥生時代には、稲を積極的に導入し、タンパ
 ク源は、従来同様、魚に求めていた・・、
  米と魚に象徴されるスシ文化は・・弥生時代に確立さ
 れたともいえる。
  でも・・、植物のデンプンをエネルギー源に、魚をタ
 ンパク源にする伝統的な日本食文化の起源は・・縄文時
 代に確立していた・・
  私たちの祖先が、アフリカのジャングルで暮らしてい
 た頃は、果実など植物質の食べ物で胃袋を満たしていて、
  サバンナに出てくると、肉食に転換した。
  初めは、猛獣が食べ残した動物の骨を石器で砕き、骨
 髄などを食べていたと考えられる。
  アフリカを出て・・欧州で進化したネアンデルタール
 人の骨を分析した結果、大型の哺乳類を主に食べていた
 事が分かっている。
  これに対し、人類学の分類上、人と直接つながるクロ
 マニヨン人が、魚や小型の動物を食べていたようで、最
 終氷期(8万〜2万年前)の終わり頃、温暖化に向かう
 中で、植物を食事に取り込むようになった。
  火で加熱して糖分に替えたりして、植物のデンプンを
 食べるようになった。
       (参考、日本経済新聞、2010年9月18日)
       ・
       ・
907年、中国の唐が崩壊した。
  これは中国の統一王朝だった。
  これ以来、中国は群雄割拠の分割政権が続く。
  この唐以来の中国統一政権を樹立したのが元(げん)
 だった。
  唐の滅亡後、五代十国となる。
  そして、宋となるが、西夏や遼があり、中国統一王朝
 ではなかった。
  唐は、李淵(りえん)が、隋を滅ぼして建国した。
  李淵は、唐の初代皇帝となり、漢民族だと言われるが、
 漢民族ではない・・、
  学説での実際は・・「鮮卑系の出自であり、本来の姓
 も大野氏である」とある・・、
  鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀〜6世紀にかけて、中
 国北部に存在した遊牧騎馬民族であり、漢民族ではない。
  プロパガンダが働いている・・
  五胡十六国時代南北朝時代に南下して中国に北魏
 どの王朝を建てているが・・、
  この唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権
 を正当化するため」に自身が漢民族の末裔であることを
 主張したかった。
  そして、この唐が滅ぶと・・中国は五代十国時代とな
 る・・これは・・
  黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)
 と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十
 国)とが、興亡する漢民族を含む『色々な民族』の時代
 だった。
  そして、宋の時代になるが、この王朝は、中国全土を
 配下に収めることが出来ず、遼や西夏が存在した。
  そして、宋は、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代最
 後の後周から禅譲を受けて建てた国だった。
  趙匡胤は、河北省古安県の人で、父は後唐の禁軍将校
 だったから「漢民族と名のるだけの人」だった(実際は、
 鮮卑系の人・・遊牧騎馬民族)。
  そして、元(げん)が中国統一王朝を造るが・・、
 モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した王朝であ
 った。
  この様に、漢民族が『中国の地の民族などとはまった
 く言えない』・・その様な歴史が存在しているのである。
  この漢民族の現政権の中華人民共和国が、「漢民族が、
 中国古来からの民族だ」の様に言うのは、完全なプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)で、この論理でチベット、ウィグル、
 内モンゴルの諸民族の地を、漢民族の領土にしようと暗
 躍しているのは、まったくの侵略行為となっている。
  そして、元(げん)民族に中国が駆逐され、制覇され
 た時、その国の広大さは、中国全土を飲み込むどころか、
 西は、ヨーロッパの地にまで達した。
  「漢民族の中国」などというイメージは、何処を見て
 も完全に影も形もなく、消え去っていた。
  だから、元(げん)民族が、中国の土地は我が民族の
 土地だと、現政権の中共の如くに言っても同じ理屈で言
 ってもよい・・だから、内モンゴル漢民族の国土だと
 画策するのは侵略であり、間違い。
  その他の地も、漢民族の屁理屈で奪うのは侵略行為。
  この元(げん)は、東は、朝鮮を、いとも簡単に飲み
 込んだ・・そして・・、
  さらに、その東の日本を駆逐し、太平洋へ出たいと、
 突然の如くに、日本にやって来た。
  13世紀末の事であった。
  しかし、日本を駆逐する事は・・できなかった。
  大軍でもって、二度、日本に襲来を試みたが、目的は
 達せられなかった。
  その二度の日本襲来の軍船を造るために、朝鮮の山の
 木は伐られ、朝鮮の山は、どこも禿山(はげやま)とな
 った。
  三度目の日本襲来を計画したが、朝鮮には、その軍船
 を造るための木は乏しかった。
  そして、時代を経て・・その朝鮮の禿山に緑林したの
 が、日韓併合時の日本だった・・献身的な日本だった。
  この事例もそうだが・・日韓併合時は、日本は、一生
 懸命に朝鮮の国づくりを行なった。
  朝鮮戦争の時、その日本が植林した山に、この様な山
 に復活させた事情をよく知るアメリカ兵が、朝鮮戦争
 戦いの為、この朝鮮の山へ砲弾を撃ち込むのが忍びなか
 ったと言っている。
  日本が、この様に、美しく復活させた植林した山だと
 思っていたと・・、
       ・
       ・
1941年半ば、徹底的に分析された幻の報告書
  第二次世界大戦の戦争の開戦の前に、日米比較が徹底
 的になされ、現状分析がなされた・・幻の報告書
  戦争開戦前に、現状を詳細に分析した報告書が存在し
 た・・
  しかし、現状認識を封印し、戦争は始められた・・
  その結果は悲惨そのものだった・・報告書の通りだっ
 た・・、・
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  戦争が始められる2年3ヶ月も前・・1939年9月、関東軍
 参謀部で満州国の建設主任から急きょ帰国した陸軍中佐
 の秋丸次朗は、「戦争経済研究班」を取り仕切って、そ
 の報告書を作成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され、知られた。
  秋丸は、米英との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に、一橋大学学長に
 なる中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20〜30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖をさせられている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  米英との力の差は。
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の1941年半ば・・、
  1941年12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸
 軍首脳らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を1とすると、英米は合わせて20。
  日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降は
 経済力は下降線をたどり、逆に、米英は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが秋丸機関の結論だった。
  列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し、そして続けた、「その結論は国
 策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関はほどなく解散し、現状認識を封印した戦争
 が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が、秋丸の死後、遺品の中から発見され
 た。
  詳細を極めた報告書であった。
         (参考:日経新聞2011年1月3日)
.
1954年、中国は、ソ連からの原爆技術供与の交渉に成功し
 た。
  毛沢東は、アメリカによる、日本への原子爆弾投下以
 来、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  原爆を使ったアメリカに恐怖した・・
  そして、朝鮮戦争中に、そのアメリカから、核攻撃を
 暗示された。
  その際に、毛沢東は、スターリンに原爆製造技術供与
 を要請した。
  この時、ソ連側は、技術供与に消極的だった。
  しかし、その後の1954年、台湾海峡危機や、ハンガリ
 ー動乱を巡るソ連内部の政治混乱が起き・・これを機会
 に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功した。
  そして、中国は、1960年代初頭に設立した第9学会(
 北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が進め
 た。
  そして、1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプ
 ノール湖にて初の核実験が行なわれた。
  また、1967年6月17日、初の水爆実験が行われた。
  中国は、アジア初の核保有国となった
.
1964年10月16日、中国が、新疆ウイグル自治区のロプノー
 ル湖にて初の核実験を行なった(コードネーム596)
  中国は、1964 年から1996 年まで、東トルキスタン
 ロプノールの核実験場において、延べ46回、総爆発出力
 22メガトン(広島原爆の約1370発分)の核爆発実験を行
 った。
  1964年10月16日の第1回には、20キロトンの地表爆発型
 の実験を始めて行った・・空中爆発である・・
  そして、最大の核爆発は、1976 年11月17日の4メガト
 ンの地表核爆発だった・・これも空中爆発だった・・
  中国の核実験の実態は、長い間、秘密にされ、不明だ
 った。
  日本放射線防護センター代表の高田純氏は、新疆ウイ
 グル自治区で行われた核実験について・・、
  1964年〜1996年に行なわれた中国の核実験によって、
 ここの住民、計19万人の命が奪われたと推定した・・
  また、劣悪な医療環境などの影響もあって・・影響は
 広がり・・約75万人の死者が出たという。
  そして、日本のNHKは、西遊記の製作のために、こ
 のウイグル地域に入った。
  1978年と1979年と、2度も続けて・・、
  このために、女優の夏目雅子さんが、この地へ行った。
  その後、夏目雅子さんに癌ができる。
  1981年の2年後に、甲状腺が腫れ(バセドー病)、この
 手術をした・・、その後に、また、瞼が腫れた・・
  1892年には、腎盂炎になり、そして、子宮内膜症にな
 る・・
  そして、夏目雅子さんは、1985年2月に白血病となる。
  そして、1985年9月に亡くなられた。
  そして、このNHKの番組「シルクロード」を見た日
 本人・27万人がシルクロードへ旅行した。
  その様な時のある日本人青年の体験は・・、
  ローカルバスで南新疆に向けて走っていると、突然、
 「ピカッ」っと光るものを見た。
  その後、バスの中を見渡すと同乗者の皆が「鼻血」を
 流していた・・その光景は、その青年には滑稽にさえ思
 えたという・・しかし、その青年も、自分の鼻に手を当
 てると自分も同じように血を流していたという。
  バスの中は騒然となったという・・
  その後、あの時、被爆したのだと思っているという・・、
  札幌医科大学教授・高田純氏は、中国西域の観光から
 帰国した後に「白血病」「肺がん」「悪性リンパ腫」を
 発症したという方や、その家族から情報が寄せられてい 
 るという・・
.
1964年10月27日、中国が、核弾頭を装備した東風2号Aミサ
 イルが酒泉衛星発射センターより発射され、20キロトン
 の核弾頭が、ロプノールの標的上空569mで空中爆発させ
 た。
.
1967年6月17日、中国が、初の水爆実験を行なった。
  威力2メガトンの熱核爆発で、爆発高度地表130メート
 ルの空中爆発の核実験が行われた。
.
1970年、中国は、この年初頭から1971年にかけて、核兵器
 をチベット高原に輸送し、青海省アムドの北西部先端に
 あるツァイダム盆地に、DF-4ミサイル発射用地を完成さ
 せ、核ミサイルを配備した。
  現在もチベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリ
 ンカ、青海省四川省の境界の四カ所にミサイル発射用
 地が整備されている。
.
1973年6月27日、中国が、航空機からの原爆投下をした。
  航空機からの投下、威力2.5メガトンの熱核爆発の核実
 験を行なった。
  カザフスタンの報告では、爆発高度は1000メートル。
.
1992年、大量の死者が出された中国の原爆
  この年に、ウイグル人のアザト・アキムベク、ユシュ
 ムべク・ムフリーシ氏は、世界核被害者大会で被曝の状
 況を訴えた。
  そして、1998年に、イギリスのチャンネル4で「Death
  on the Silk road(死のシルクロード)」というドキュ
 メンタリーが放送された。
  日本では、あまり東トルキスタンの被曝の状況が知ら
 されることはなかった・・報道が隠されていた・・
.
2002年8月、中国の核による被害調査を、日本人の大学教授
 が行ない・・、
  核防護学者・高田純札幌医科大学教授による2002年8月
 以降の調査では・・、
  中国が、ウイグル地区で実施した核実験によって、同
 自治区ウイグル人を中心に19万人が急死した・・
  そして、急性放射線障害など健康被害者は129万人に
 のぼり・・、
  そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人
 以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上
 に達すると発表した。
  また、被害は、シルクロード周辺を訪れた日本人観光
 客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要で
 あると同教授は指摘した。
  高田教授による調査は、1996年までの中国の46回の同
 地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データ
 や人口密度などを基礎データとした。
  楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では
 高エネルギーのガンマ線ベータ線アルファ線などを
 放射する「核の砂」が大量に発生し、東京都の136倍に相
 当する広範囲に及んだ。
  同教授によれば、中国の核実験は、核防護策がずさん
 で、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広
 島原爆被害の4倍を超える被害者を出した。
  高田教授は「人道的にもこれほどひどい例はない。中
 国政府の情報の隠蔽も加え、国家犯罪にほかならない」
 と批判した。
  このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモ
 ットにされた」と訴えるウイグル人も現れた。
  ウイグル人医師のアニワル氏は、「中国では、被曝者
 が団体を作ることも、抗議デモをすることも許されない。
  また、国家から治療費も出ない。
  中国政府は、『核汚染はない』と公言し、被害状況を
 隠蔽している。
  そのため、海外の援助支援団体も入れない状況となっ
 ている。
  原爆症患者が、30年以上も放置されたまま」・・
  ・・などとして、中国政府の対応を激しく批判した。
  また、核実験場は、最も近い居住エリアから10キロし
 か離れていなかった。
  そのため、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の
 他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっている。
  そして、漢人であっても、ウイグル自治区に30年以上
 滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となって
 いる。
  また、先天性異常のために歩くことも話すこともでき
 ない「障害児ばかりが生まれる地域」もある。
  中国による同地区核実験については、イギリスBBCが、
 1998年8月に、隠し撮りによるドキュメンタリー「死の
 シルクロード」(27分)を報道し、
  この作品は、ローリー・ペック賞を受賞した。
  アニワル医師も、同作品に同行した。
  この様な事は、中国に利する事ばかりしている日本の
 NHKは行わないだろう。
.
2010年、西側諸国が民主化を煽った。
  「アラブの春」と・・美しい世の中が来ると煽った。
  そして、今、「難民受け入れ」を人道的な問題に絡め
 てとやかく言っているが・・それは、「事後処理をして
 いるごとく」で問題だ。
  これを、とやかく言う前に、この様な難民を発生させ
 ている原点・発生点の問題を追求しなければならない。
  難民を発生させているシリア内戦は、大国によってつ
 くられた紛争である。
  2010年より西側は、民主化を煽った。
  「アラブの春」と美しい世の中が来ると煽った。
  既存の政権が、「遅れた態勢で悪い」ように見せた。
  既存の政権を、次々と壊して行った。
  西側は、「民主主義を根付かせるのだ」が最終目標だ
 った・・が、民主主義が根付いた国は無かった。
  エジプトは、結局、軍制になってしまった。
  リビアは、国の体制がシッチャカ、メッチャカのまま
 で混沌の中にある。
  西側諸国が、かえって悪いことをした結果となった。
  西側諸国は、シリアも、アサド政権の独裁体制を倒し
 たかったのだろうが、難民を生む結果となって、泥沼が
 続いている。
  最初、西側は、アサド政権を倒したいとイスラム国と
 称したISを応援し・・武器を渡した。
  次に、クルド族を応援した。
  アメリカとEUは、このクルド族へ武器を渡してIS
 と交戦させた。
  アサド大統領は、最初から、「我々の敵は、テロリス
 トだ」と言っていたが、アメリカやEUは、聞く耳を持
 っていなかった。
  そして、結局、今・現在(2018年)の泥沼の悲惨な結
 果となっている。
  ロシアは、アサド政権を応援し、大国の代理戦争の様
 相になった。
  ロシアは、IS及びアサド反対派への空爆をしている。
  この難民もEUへ行く。
  アメリカは、何千機ものミサイルをアサド反対派の応
 援のために渡した。
  このミサイルによる難民もEUへ行く。
  EUのドイツは、第二次世界大戦の罪滅ぼしだと、難
 民を受け入れている。
  「非生産的なサイクルだけ」が回っている。
  「みんなが不幸になるサイクルだけ」が回っている。
  アメリカ・ロシアの代理戦争で難民にされた人々が、
 EUに流れ込む。
  そのどばっちりをトルコやEU周辺国などが受けてい
 る。
  トルコの難民は、何と、200万人を越えている。
  かつて、ユダヤの方々が世界中をさ迷ったが、このト
 ルコの難民の方々が世界へさ迷わないで済むようにしな
 ければならない。
  そして、元の国へ帰れるようにしなければならない。
  トルコは、トルコのお金でこの難民を救済している。
  アメリカやロシアは、このトルコを支援していない。
  また、トルコは、EUに支援を要請したが、EUは知
 らん顔をしている。
  何度も無視されている。
  難民の方々は、アメリカ・ロシアを目指せ、問題を作
 った国を目ざせ。
  トルコを反民主主義だと批判するのは間違いだ。
.
2015年9月10日、「ディー・ツァイト」紙に、スラヴォイ・
 ジジェクという哲学者の論文が掲載された。
  (参考)「ディー・ツァイト」紙:ドイツ・ハンブル
     クに本拠を置く、週刊発行される全国新聞。
      質の高い新聞としての評価されている。
      発行部数:488,036、推定読者数:200万人以
     上。
      最も広く読まれるドイツの新聞の一つ。
  (参考)スラヴォイ・ジジェクスロベニアの哲学者。
      難解で知られるラカン精神分析学を映画や
     オペラや社会問題に適用してみせ、一躍、現代
     思想界の寵児となった。
  スラヴォイ・ジジェク氏は、この論文の中で・・
  「現在、EUを危機に陥(おとしい)れている難民問
 題は、グローバリズムが原因で、それは新たな奴隷制
 を形成して行くだろう」と結論付けた。
  そして、そのEUの理念は、「美しく『統合』という
 所に立っている」が・・、
  しかし、それは、美しくEU内だけが統合されている
 だけであって・・
  その美しいEUの統合の外側には、「EUが、自由に
 搾取できる広大な地域・世界が広がっている」という状
 況の中に「美しく統合を目指すEU」がある。
  EUの外側世界が搾取される1例を示せば・・
  2001年、国連が、中部アフリカのコンゴにおける資源
 の不法な搾取について調査した。
  コンゴには、豊かな地下資源がある・・
  それは、ダイヤモンド、金、コバルト、コルタンだっ
 た。
  この豊かな資源を巡って、奪い合いの戦争が起きた。
  コンゴ内戦などである。
  (参考)コンゴ内戦には、コンゴ動乱(1960年〜1965
     年)、第一次コンゴ戦争(1996年〜1997年)、
     第二次コンゴ戦争(1998年〜2003年)がある。
      結局、1960年〜2003年、戦争状態が続いた。
      この地には、この他にも、コンゴ共和国内戦
     として(1993年〜1994年)(1997年〜1999年)
     がある。
  その奪い合いの戦争に・・欲深いグローバル資本があ
 った。
  コンゴは、壊されていた。
  もはや、国家と言えるものは無かった。
  資源を搾取する側のEU諸国をはじめとする外国資本
 が、うごめいていた。
  その外国資本が、コンゴの各部族と結び付いて、利権
 を奪いあい・・追い求めていた。 
  EU諸国をはじめ、その外国資本は、コンゴという国
 家を無視し、コンゴの各部族の首領と結び付いて利得を
 追求していた。
  軍隊を作らせ、麻薬中毒にした少年兵にまで戦わせて
 いた。
  巨額の利益が、EU諸国をはじめとする外国資本へ入
 った。
  その利益が、コンゴの人々へ入ることは無かった。
  コンゴの人々は、鉱山で奴隷のごとくの労働をさせら
 れた。
  または、コンゴの人々は、住民の方々は、「難民とな
 って逃げた」・・逃げ惑った。
  西側が奪った、西側に入った資源は、パソコンやスマ
 ホなどのハイテク機器に使われた。
  1514年から1566年の長きにわたって、EUのスペイン
 のキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、南米・中米・
 北米メキシコ、および、その離島で、インディアスの方々
 の1000万人以上を殺しに殺したが・・このEU諸国など
 の1960年代の蛮行は、そのかつての16世紀の極悪蛮行を、
 再び、現代に行ったごとくだった。
.
2015年10月10日、ドイツのベルリンで、TTIP反対デモ
 が行われた。
  代々のアメリカの政権は、その政治は、一握りの者た
 ちに握られ、繰られている。
  本来ならば、大衆の意思が反映されるべき政治の権利
 が、その大衆が持つべきものが・・奪われている。
  大きな資金を寄せた者・・その寄付した者の力が牛耳
 っている。
  金によって有利に・・金を寄せた力が利する政治へと
 繰られている。
  政治を行なうものは、当然、金を必要としているため、
 金を持つ力に繰られてしまうという状態になっている。
  「その意に沿うという政治」が行われる。
  そこにはアメリカの人々・民衆は登場していない。
  これが、ここアメリカだけの問題に終わらない所に大
 きな問題がある・・世界に波及して行くのである。
  民主主義のアメリカ・・アメリカは戦争をしてまで・・
  「民主主義を根付かせるのだ」という大義を立てて戦
 争までするアメリカが・・その民主主義をないがしろに
 しているという状況になっている。
  この様に、民主主義を売り込むアメリカで、民主主義
 が崩壊している。
  この金を持つ力は、世界で莫大に稼いでいる。
  その稼ぐ力の「稼ぐ行為」に抵抗し、逆らう状況を生
 むのが、世界の各国の法律である。
  その1例を言うならば・・農業・・
  農業の遺伝子組み換え作物の数々の事例がその1例・・、
  例えば、EUでは、ほとんどと言ってよいほど「遺伝
 子組み換え作物は禁止」されている。
  しかし、EUの基準は、アメリカ基準より厳しいので、
 アメリカの輸出サイドは困るのである。
  アメリカは、トウモロコシ、大豆、サトウキビなど、
 そのほとんどが、90%が、遺伝子組み換え作物である。
  だから、ここで、アメリカは、このEUの基準を変え
 させようとする。
  色々と・・言いがかりをつけて・・
  EUで遺伝子組み換え作物で儲けたいからである。
  その他、アメリカは、ホルモン剤で成長を速めた牛を
 売りたがっている。
  また、塩素消毒した鶏肉なども、アメリカは、甘い基
 準でOKとなっている。
  このアメリカの甘い規準に、他国に合わさせようとし
 ている。
  今、EUで問題となっているのが、TTIP(環大西
 洋貿易投資パートナーシップ協定)である。
  アメリカの基準の押し付けで、「どこが、パートナー
 だ」と叫びたい状況にある。
  ここで、アメリカ規準が押し付けられている。
  こんなメカニズムで、アメリカの政治を牛耳った「金
 を持った力」が、他国の基準を変えてまでして、輸出し
 て、儲けようとしている。
  民主主義の欠片(かけら)もない。
  一部の特権セクションの言う事を聞くアメリカ政治で、
 圧力を行使するという一部の君主制の如くの政治的圧力
 行動がなされている。
  2015年10月10日に、ベルリンでTTIPの反対デモが
 行われた。
  このデモは空前の規模となった。
  主催者は、25万人と発表した。
  EUの人々の96%が、このTTIPに反対していた。
  人々は、『消費者の安全がないがしろにされている』
 と主張した。
  このアメリカの甘さが、EUの甘さとなり、「消費者
 の安全基準」の劣化・低下が恐れられている。
  そして、この様なアメリカのやり方を、「民主主義の
 崩壊のシステムだ」と糾弾し、主張している。
  民主主義の本家のアメリカが、自分が、「民主主義を
 壊す最右翼に居ること」に気づいていない。
  お粗末の限りである。
  そして、このTTIPにある『ISD条項(投資家対
 国家間の紛争解決条項)』が曲者(くせもの)である。
  つまり、ある企業が、外国で、現地の企業に比べて不
 当に扱われたと感じたとき、その国の政府を、訴える権
 利があるとしている。
  「感じる」という主観的な、曖昧な、怖さもある。
  その様な曖昧な感じから、「調停裁判所」に訴えられ
 たら、そこでの審議は秘密の非公開で行われ・・
  (直接、利害関係のある人々・大衆が知らない所で審
 議される)。
  そして、その決定が最終決定で、上告もできない。
  そして、この決定(判決)には拘束力があり、従わさ
 れるという状況となる。
  その国にある、各国の法律は無視され、その「各国の
 法律よりも強い決定だ」とされている。
  アメリカという「裁判マニア」の国の御都合に沿って
 いるようになっている。
  『暗黒の決定に従う』、それも、何やら分からぬ仲裁
 裁判所という私的な組織の決定に従わされるという・・
 民主主義のひとかけらもない。
  アメリカ政権に、大金を献金するだろう「ある民間営
 利企業の利益」のために、締結国の法律が無効にされる
 という落とし穴を持っている。
  各国には、今まで、修正したり、改正したりして来た
 洗練された法律がある・・その様な法律を、種々、持っ
 ている。
  その総ての法律が「ないがしろにされ」、その法律よ
 り強い決定だというやり方に、何ら民主主義のやり方で
 ないものが、大手を振って歩き出そうとしている。
  人々の税金などの資金が、その様なやり方で奪われ、
 吸い取られ、吸収されそうになっている。
.
2015年11月12日、難民を受け入れていたスウェーデンが、
 入国検査をするという決定をした。
  これは、事実上の『難民の受け入れ拒否』を意味した。
  これをさかのぼること5年の2010年、「アラブの春」と
 呼ばれる民主化運動が、アメリカやヨーロッパ諸国の西
 側諸国に煽(あお)られて、2010年より始まっていて、
 そして、既存の政権が次々と倒された。
  その結果、よりよい政権が生まれたかと言えば、まっ
 たく違っていた。
  庶民の方々は、その混乱の中に投げ出された。
  西側諸国の横暴で「不幸の中に落とされた」という結
 果となった。
  西側諸国は、民主主義を根付かせるのだとした。
  その結果は、成功したかと言えば、成功した例は「ま
 ったく、無かった」。
  ただ、荒れすさぶ国々ができただけだった。
  そして、その荒れすさぶアフリカ諸国から、地中海を
 渡って、難民の方々が、ヨーロッパへ渡るという事態が
 起きた。
  2015年11月11日、EUとアフリカ諸国の首脳が、総勢
 60人が、マルタ島に集まって、サミットが開かれた。
  議題は、アフリカ情勢を安定させて、難民発生を抑え
 る事だった。
  しかし、EUがすることが出来たことは、アフリカ諸
 国への経済援助しかなかった。
  EUの難民を救済するという理念は悲鳴を上げていた。
  そして、この翌日・2015年11月12日、難民を受け入れ
 ていたスウェーデンが、難民の入国検査をするという決
 定をした。
  これは、事実上、難民の受け入れ停止を意味した・・
 難民受け入れ拒否を意味した。
  スウェーデンは、方向転換した。
.
2015年11月、EU・・「難民問題でゆれて」見えたもの・・
  EU・・「統合だ」「グローバリズムだ」・・と美し
 い理念で始まったEU・・、
  そのEUに、「難民」の話が起きて、ある意味EUの
 実態が見えた、
  難民問題は、ある意味、「リトマス試験紙」だった。
  EUの中から「キリスト教徒なら受け入れる」という
 声が出た・・
  「家族を呼び寄せるのは駄目だ」の声・・
  「EU国境線でしっかり入国審査をする」・・
  「地方自治体の首長の難民拒否の意思表示・・我が町
 で増えてもらいたくない」
  「EU議会内でのドイツ批判・・ドイツの行為はスタ
 ンドプレーだ」
  「ドイツに付き合っていられない」
  「ドイツが難民を呼び込んでいる・・迷惑だ」
  「ドイツが、今さら、連帯なんて言わないでくれ」
  「ドイツは、二つの顔を使い分けている」
  「喜んで難民を受け入れるEU内の国は皆無だ・・難
 民の押し付け合いの戦いの状態」
  「EU国境の防衛だ」との政治家や民の声がする。
  ドイツ国民も、二つに分かれて、シッチャカ、メッチ
 ャカになった。
  難民の受け入れに積極的なメルケル首相の支持率も急
 落した。
  ここまでで・・見えて来た事は・・
  「難民は迷惑」
  「難民はEUに入れない」
  「EU国境で審査する仕組みを作る」
  「世界を感動させた『ワンダフルEU』は、急速に過
 去の話になった」
  「美しい理想で始まったEUは、難民処理で可視化さ
 れ、当初の目標であった統合は、そっちのけで各国が、
 それぞれ自国の利益を死守しようとする姿が・・はっき
 り見えた」
  「人道主義や善意は、背に腹は代えられないになった」。
  難民の方々が、逆に、可哀想な状態に置かされるとい
 うEUの形となった。
  EUなんて営利団体・・結局、自分たちがその特典を
 維持し、あるいは強化する目的の団体と化した・・
.
2015年11月21日、ベルギーは、最大のテロ警戒態勢を引い
 た。
  民主主義。
  アメリカやヨーロッパが、民主主義の教えを垂れよう
 と、その国に関わる(余計なおせっかいを始める)。
  民主主義は良い主義なのだから、我々の行動は正しい
 のだの論理でやる。
  この関わりから事が広がって、その国の利益を収奪す
 る様になる。
  特に、アフリカ・・、
  様々な西側資本が、最後には、アフリカの搾取に余念
 がなくなる。
  巧妙なる収奪行為を行う。
  結局、やっていることは、最後に悪となる。
  草刈り場は、アラブからアフリカへ移った。
  新しい草を刈り取りたいと、年がら年中、こんなこと
 をしている。
  アメリカ・ヨーロッパの街がきれいなのも、この様な
 収奪の結果なのだ。
  そして、難民が生まれる。
  哲学者のスラボイ・ジジェク氏は言う・・、
  「難民が出ないようにしたいのならば、やるべきこと
 は簡単だ。
  それは、それらの国々で儲けている西側資本が手を引
 けばよい」・・と・・、
  そして、さらに、「資源の利益が(西側諸国が収奪し
 ないで)現地に還元される様になればさらに良い」と。
  アラブやアフリカの国家の崩壊は、その諸国が悪いの
 ではなく、欲の深い西側諸国が利益を収奪している結果、
 起きていることなのだ。
  この様な国ばかりになっている。
  強国が、弱い者いじめをしているのだ。
  この荒れた国々からテロリストも発生し、悲惨な事件
 も起きるのだ。
  その様な一つが、2015年11月21日、ベルギー政府は、
 ブリュッセル首都圏に、深刻なテロが発生する可能性が
 あるとして、警戒を最高レベルに引き上げた。
  地下鉄は止まり、店は閉まり、町はシーンと静まり返
 った。
  その街を重装備をした警察官と兵士がパトロールする。
  ベルギーは、コンゴからうまい汁を吸った。
  かつての宗主国だった。
  その様に好きにして来た国々から難民が生まれている。
  難民が出ないようにしたいなら、今までやってきた欲
 深い行為を止め、それらの国々で儲けている西側資本(
 グローバリズムを良い事に儲けまくっているグローバル
 企業)が手を引けばよいだけの話。
  そして、資源の利益は、横取りしないで、現地へ還元
 されるようにしなければならない。
  アラブの国家は、そして、アフリカの国家の崩壊は、
 現地だけの問題ではない。
  西側資本が、利益を収奪することが問題なのだ。
  西側強国が、経済的植民地にしている結果なのだ。
  ヨーロッパ列強が、利益を得つづけたアラブ諸国から、
 また、西側資本が、様々な収奪・搾取を余念なくやって
 きたアフリカから、今、難民がなだれ込んでいる。
  この様な状況となった責任は、なだれ込まれているヨ
 ーロッパ列強諸国にある。
.
2016年2月15日、「アラブの春(2011年)」から5年が経ち、
 アラブ世界の状況はかつてないほど悪いが・・と、一方
 の陰の仕掛人のイギリスのエコノミスト誌が、この日に
 言った・・
  「アラブの春」は、ほとんどの当事国にハッピーエン
 ドをもたらさず、リビアとイエメンは内部崩壊、エジプ
 トとバーレーンは以前より強硬な独裁制となり、シリア
 は奈落の底に・・、
  また、他のアラブ諸国も状況は悪く・・イラクは事実
 上、クルドシーア派、IS支配地域に分裂した。
  アルジェリアスーダンは、略奪的な軍事政権に支配
 され、パレスチナは孤立と弱体化を深めている。
  富裕な湾岸諸国でさえ、石油価格の急落や増える若年
 層の高い失業率等、体制が揺さぶられるような深刻な事
 態に直面している・・と・・報じた・・
  「民主主義は良い制度だ」と西側諸国が仕掛けた・・
 だからと言って「よくない方法で根付かせよう」とした・・
 ここが悪かった・・ここから難民が発生した。
  ドイツは、第二次世界大戦で卑劣な事をした、だから
 と、罪滅ぼし的に難民受け入れの基本法を持った。
  しかし、その法は、何ら、「悲惨な難民発生を未然に
 防ぐこと」に寄与していない。
  この点に関して、「無力な対応なのだ」。
  例えば、シリアの内戦は、イラクリビアと同じく、
 「作られた戦争」で、これに対し、まったく関係ない、
 無力の存在。
  西側諸国は、「民主主義を根付かせるのだ」と、2010
 年から、「アラブの春だ」と煽った。
  そして、次々と既存の政権を壊した。
  しかし、前記した様に、不安定な争いの社会ができた
 だけだった。
  この2015年から2017年と、世界を心配させている難民
 問題も、「シリアのアサド政権を倒すのだ」と西側諸国
 が煽った。
  そして、ISへ武器援助をして戦争を作った。
  そして、卑劣な事に、クルド族へ武器を渡して、IS
 に対峙させた。
  アメリカやEUは、戦争づくりをしている。
  そして、収拾の付かない事態となっている。
  ただ、戦争とまったく関係ない人々が殺され、亡くな
 っている・・そして、難民の方々ができた。
  ロシアの大国も参戦して来て、アメリカとロシアの代
 理戦争の状況となった。
  この逆をされたらどう思うのか?
  この主義が良いのだと、勝手な主義の政権を良いと押
 し付けられたら、アメリカやEUはどう思うのか?
  トルコには、200万人の難民の方々が居る。
  こんなにまで大勢の難民数にならなければならないく
 らい問題はこじれている。
  そして、このトルコの難民は、EUには来てもらいた
 くない。
  EUに行きたい難民の方々が、トルコに留まっている。
  トルコは、その難民にかかる費用を援助してくれ、増
 額してくれと、何度もEUに言っているが、EUは、ま
 ったくの知らん顔となっている。
  逆に、苦しんでいるこのトルコを、ドイツは、「反民
 主主義だ」などと非難した。
  ドイツも厳しい状況に置かれているんだろうが・・
  2019年のドイツの生活保護を受ける人の数は、100万人
 増えると推計されている。
  難民の方の一人当たりかかる費用は、医療費を含めて、
 1ヶ月およそ1000ユーロ。
  1ユーロが約130円だから、130円×1000×12ヶ月×1000
 万円は、1.7兆円が・・今までとは別に増える。
  お荷物のギリシャも面倒を見なければならないし・・?
  結局、ドイツの方々に、先々のドイツの崩壊が見えて
 来た・・、その心配が浮上して来た・・、
  ドイツ国内の難民の方々の宿舎に火がつけられる事件
 が起きるようになった。
  こんな事件が、相次ぐようになった。
  難民を受け入れる態度を表明する自治体の町長に、脅
 迫状が送られて来ることなども起きた。
  キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おとし)め
 る放送はするが、この様な放送はまったくしない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive