(増補版)449E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月〜1887年5月)

題:(増補版)449E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月〜1887年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年5月9日、東京慈恵医院が開院した(4月説あり)。
  皇后陛下を総裁に迎え、「慈恵」の名を賜り、有志共
 立東京病院を、東京慈恵医院に改称した。
  1881年明治14年)5月1日に、東京慈恵会医科大学は、
 高木兼寛によって創立された成医会講習所に始まる。
  高木は、1875年(明治8年)から5年間、海軍生徒とし
 て英国セント・トーマス病院医学校(現: ロンドン大学
 群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)に学び、この
 様に権威のある医学校を日本につくりたいと思った。
  高木は、帰国後、廃止された慶應義塾医学所に関わっ
 ていた松山棟庵とともに、1881年明治14年)1月、成医
 会なる研究団体を設立し、
  次いで、同・1881年5月に、この成医会講習所を設立し
 た。
  その後、高木は、戸塚文海とともに、1882年(明治15
 年)、有志共立東京病院なる慈善病院を発足させた。
  この病院の設立趣意には・・
  「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施す
 ことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救う
 こと」とした。
  同病院の資金は、有志の拠金によるものであり、有志
 共立という名はそのためであった。
  病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また、大日
 本帝国海軍軍医団の強い支援があった。
  有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに、医
 学教育の場としても重要な役割を果たし、
 成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担った。
  1887年(明治20年)、同病院は、皇后陛下を総裁に迎え、
 その名も東京慈恵医院と改め、
  経費は、皇室資金によることになった。
1887年5月11日、大阪織布会社が設立された。
  イギリス帰りの山辺丈夫を工務支配人とし、蒸気機関
 による1万500錘、労働者300人弱という当時最大の規模
 で開業し、
  電灯を設備しての昼夜二交替制のフル操業で好成績を
 あげた。
  1880年代後半の紡績ブームを呼び起こした。
  1890年、大阪織布を買収して、紡績兼営織布会社とな
 った。
  1897年、豊田佐吉が、木製の力織機を完成した。
  この後、これを鉄製に改良、日本の綿織物業の発展に
 大きく寄与した。
  (大坂紡績会社の説明文を参考にした)
1887年5月12日、『女学雑誌』が、仮装舞踏会における凌辱
 事件を痛論し、発禁となった。
  (4月20日伊藤博文首相が、首相官邸仮装舞踏会
 開催、西欧化迎合への非難が高まった)
1887年5月14日、取引所条例が公布された。
  これにより米商会所条例と株式取引所条例は、営業が
 満期になった時点で廃止となる。
  1878年明治11年)5月4日、株式取引所条例が制定さ
 れ、東京・大阪・横浜の三地に取引所が設立された。
  1887年(明治20年)更に、取引所条例を公布し、
  1893年明治26年)これを廃して、新たに取引所法を
 制定し、各地に48ヶ所の取引所が設立された。
  取引所は、その組織の上から会員組織、及び、株式会
 社組織の二つとし、
  その取引の目的物によって、有価証券取引所、及び、
 物産取引所の二つに分け、
  前者を、普通株式取引所と称し、
  後者の中で、米穀のみの取引所を米穀取引所、
  その他の物産の取引所を商品取引所と称した。
1887年5月18日、私設鉄道条例(しせつてつどうじょうれい)
 が公布された。
  政府は、1887年に、私設鉄道条例を制定して、認可の
 手続、会社設立の条件などを規定し、
  1892年に、国鉄と私鉄とに分かれて進められてきた鉄
 道建設を軍事上、行政上の観点から、全国的な規模で統
 一するため鉄道敷設法を制定した。
  以後、国鉄として建設すべき路線、私鉄の買収などを
 規定した
1887年5月20日博愛社から日本赤十字に改称した。
  佐野常民が起こした日本博愛社が、日本赤十字社と改
 称した。
  シーボルトの長男、次男を、ポンペが支援し、万国赤
 十字社に加入した。
  9月29日、ドイツで開催された万国赤十字社大会に、森
 鴎外が日本の代表として出席した。
  ポンペと会談し、日本での赤十字社設立を喜ぶ。
1887年5月21日、最初の学位令(がくいれい)が公布された。
  学位令公布(明治20年5月21日勅令第13号)
  最初の学位は、大博士、博士の2種類だった。
  法は、5カ条からなっていた。
  (1)学位を、博士及び大博士の2等とする。
  (2)博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、
    文学博士、理学博士の5種とする。
  (3)博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣に
    おいて授与する。
     大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授け
    る。
     これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議
    会の議を経てこれを授ける。
  (4)大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議
    に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議
    を経てこれを授ける。
  (5)本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
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   (今日の言葉)
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  題:降伏のチャンスを与えよ・・アメリカは本当にそうしたのか?
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1945年5月3日、アメリカ大統領のトルーマンは、原爆使用
 に関する内務委員会を作った。
  ロシアが、コサック兵を使って、東へ東へとシベリア
 を手に入れて行き・・、
  そして、太平洋にぶつかると、南下政策を取り、
  満州を手に入れ、そして、中国を手に入れ、また、朝
 鮮半島を手に入れた。
  (因みに、この頃、一番広く、中国領土を奪っていた
 のはイギリスだった、
  そして、その次が、ドイツだった。日本ではない)
  ロシア。その様な果てしない「領土の獲得の欲」の中に
 あった国と、朝鮮半島で、日本とぶつかった。
  朝鮮半島ソ連が入って来て、日本とぶつかった。
  この朝鮮半島のぶつかり合いで始まったのが、日露戦
 争だった。
  そして、その結果、日本は、この日露戦争に勝利し、
 ロシアの権益だった満州を移譲された。
  満州は、日本が侵略して得たのではない。移譲されたのである。
  そして、大東亜戦争第二次世界大戦)の時、アメリ
 カ大統領のルーズベルトは、この「元ロシア領の満州
 を餌にした。
  この満州の旧ロシア権益の復活を餌(エサ)に(それ
 に、旅順と大連という、ロシアが欲しくてたまらない不
 凍港の「おまけ」まで付けて)
  ソ連の対日戦への参戦を、ルーズベルトは、そそのか
 し、煽(あお)った。
  (アメリカよ! 満州は。君の領土ではないだろう!)
  しかし、ハリマン(アメリカの駐ソ連大使)が、「ソ
 連の共産化と、その他の地域が共産化される」という事
 に気付いたところから・・問題は発生した。
  アメリカは悩んだ。
  ルーズベルトは、キリスト教に強く洗脳され、キリス
 ト教のシャロームキリスト教以外の異教徒の居ない、
 まったくのまっさら地に平和が来る・・という完全破壊
 の地から平和が来るという非人道的考え方・教義)から、
  日本へ無条件降伏をさせるとルーズベルトはしていた。
  (有色人種の日本人というキリスト教の有色人種蔑視
 もルーズベルトにはあった)。
  しかし、この無条件による日本の降伏で、「戦争終結
 が遅くなる」ことが予測された。
  (ルーズベルトの「国の形も維持されない」という無
 条件降伏は、チャーチルも可能か?といぶかったほどの
 異常な要求だった)
  その戦争状態が長期化すると、果たして、ソ連の参戦
 は正しかったのか?・・となる。
  ソ連の東アジアでの対日参戦を切っ掛けとした戦争が、
 長くなることになれば、
  それは、共産化される地域が広く、大きくなることを
 意味していて・・アメリカはそれを恐れた。
  (ルーズベルトの、「ソ連参戦のそそのかし」は逆目・
 反対の目に出ていた・・浅はかなルーズベルトだった)
  アメリカが、日本への降伏を、「無条件」から「条件
 あり」に変わったのは・・この様な所があったからだっ
 た。
  日本が大切にしている国家の状態・『くにがら』を保
 つ要求を容れた(いれた、認め受け入れる)方向へと変
 化した。
  アメリカ首脳にあったジレンマが解消される方向へと
 動いた。
  天皇制擁護論へとなった。
  日本とアメリカとの戦争が長引いたのは、この点があ
 った。
  もっと早く、アメリカは、この条件を容れるべきだっ
 た。
  最初、「日本に無条件降伏を要求する」と、ルーズベ
 ルトが、チャーチルへ口にした時、
  「その様なことがあり得るのか?」と、チャーチル
 言った様に、
  あまりにも法外(ほうがい、普通に考えられる程度を
 はるかに超えていること)な要求に、チャーチルも驚い
 たという・・その「無条件降伏」ではなくなった。
  日本としても、日本のしっかりした「くにがら」が見
 えない形での戦争終結は・・納得できるわけはなかった。
  この様な方向へ早く動いて、戦争を終結していれば、
 戦争の最末期で亡くなった、特に、多くなった人々の死
 は免れたのだった。
  アメリカは、早く、この卑劣な条件なし・無条件降伏
 を変えるべきだった、返上すべきだった。
  しかし、この様なアメリカの方向性が出ても、アメリ
 カは、原子爆弾を投下した。
  卑劣な限りだった。
  ルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は・・、
 1943年8月と1944年8月の2回、カナダのケベックで会談を
 している。
  第二次ケベック会談の前日の1944年9月19日にも、ルー
 ズベルトとチャーチルは、アメリカのニューヨーク州
 ルーズベルトの家で密談している。
  ルーズベルトが推進した原爆製造計画は、この頃、3年
 におよぶ研究で、実用化に目途がついていた。
  そして、この二人は、覚書に合意した。
  それは・・、
  「十分な考慮の後、日本に使用し、降伏するまで投下
 すると警告する。
  原子力研究は、日本降伏後も継続する。
  そして、原子爆弾に関する情報は極秘であり、ソ連
 は伝えない」
  ・・だった。
  この様な経過の中で、ルーズベルトの突然の死で、大
 統領を、トルーマンが引き継いだ。
  日本への原爆を投下するのか? 
  投下すると決断してよいのか?
  ・・が存在していた。
  トルーマンは、1945年5月3日に、原爆使用に関する内
 務委員会を作った。
  1945年7月ごろ、委員会議長の陸軍長官・スティムソン
 は、日記に次のように書いた・・、
  「原爆開発が、戦後に、どのような意味を持つのか。
  さらに、人類最初の原爆投下によって生じる責任問題
 についても、我々は、理解しておかなくてはならない。
  (中略)
  果たして、日本に、原爆は投下されるべきなのか、
  もしそうならばどのような条件で」・・と。
  1945年6月に・・最初の、委員会の勧告が、出されてい
 たが・・、
  その内容は・・、
  「日本に警告を与えず、
   その破壊力を示す事が出来る効果的な目標を選んで
  投下すべきだ」・・と勧告していた・・が・・、
  1945年7月2日に・・、
  内務委員会議長のスティムソンは・・、
  その勧告を無視するかのように・・、
  トルーマンに、次のような提案を行なった・・、
  「日本上陸作戦は、激しい抵抗を伴う事は明らかです。
   問題はこうした力による方法でしか日本を無条件降
  伏に導く手段はないのか・・という事です。
   私は(原爆投下の破壊力について)事前に警告し、
  降伏のチャンスを与えるべきだと・・考えます」・・
  と。
   そして、「日本は(アメリカの)新聞が報じる様に
  狂信者ばかりの国ではありません。
   それどころか、非常に知的な人々が居る事をこの一
  世紀の歴史が示しています。(中略)
   もし、われわれが、現在の天皇家の存在を立憲君主
  制として認めるなら、日本が降伏に応じる可能性は、
  非常に高いと思うのです」・・と。
  ・・しかし・・(続く・・)、
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  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:国家の厚み
.
  「国家の基本を踏み外せば、子孫がどんな不利益をこ
 うむるか?」・・、
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  この、長期的な大局的な視点が大切である。
  アメリカは、この視点が欠けている・・欠けていた。
  目先の自国の利益ばかりを追い、不正義も色々とした。
  その様な国だった。
  泣き苦しんだ「民、そして、国」があまた居た。
  アメリカは、利益を優先していた。
  日本は、1872年(明治5年)の新橋〜横浜間の鉄道敷設
 資金として、外国から借りた資金をはじめ、国家建設の
 ために種々必要だったあらゆる資金のすべてを、
  「まだまだ弱小だった、小国の日本」が・・、
  それに「弱肉強食の列強諸国の中にあって・・その厳
 しい時代」に・・その借りた資金のすべてを、
  せっせせっせと努力し・・、
  勤勉に努めて・・、
  借りた資金のすべてを・・完済した。
  この歴史も、国際社会の記憶となって・・、
  また、日本の勲章となって・・輝いている。
  「信義(しんぎ、真心をもって約束を守り、相手に対
 するつとめを果たすこと)」・・
  これこそ財産だ・・と、
  日本は、遠い昔から・・その様に考え・・育んで来た・・、
  その日本のこの常識が・・、
  大きな国際的な信頼を得るという・・
  この「真の財産」を・・、
  日本は・・いっぱい持っている。
  それは、その根底には、歴史の長い国の、国家の生き
 方をわきまえた、考える視点があり、
  その基底の考え方から来ている・・その「国家の厚み」
 がその様にさせたのだった。
.
  そして、また、次の(今日の言葉)
.
  題:日本の国家信条は・・『誠』を尽くす。
.
  日本の国家信条(しんじょう、固く信じている事柄)
 の一つは、「国際社会において『誠』を尽くす」だ。
  これに対し、アメリカの歴史を見て来ると、「利の追
 求」。
  それも、正々堂々と利を得るのではなく、まったく、
 ずる賢く、利を得ることのいかに多いかに驚く。
  イソップ物語の「狐の如く」である。
  日本が誇るべきは、日本は、「信義」を重んじた。
  日本は、一旦結んだ国際関係の約束、条約などは守り
 抜いた。
  決して、、イソップ物語のキツネの如くのマネはしな
 かった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive