(増補版)448E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月〜1887年5月)

題:(増補版)448E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月〜1887年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年4月1日、「内務省地理局長崎測候所」が、長崎県
 移管され、「長崎県立長崎測候所」と改称した。
  この年の1月1日に、東京気象台が中央気象台と改称さ
 れていたが・・、
  1877年(明治10年)1月、内務卿・大久保利通の建議に
 よって、当時、電信線の開通している長崎・兵庫・仙台・
 青森・新潟の5カ所に、内務省直轄の気象測量場を設立す
 ることが決定し、
  1878年明治11年)7月1日、国費をもって、彼杵郡
 長崎村十善寺郷361番地[1](海抜57.6m)に、長崎測候所
 が設置された。
  長崎測候所は、日本初の地方測候所として開設された。
  また、「測候所」という名称が用いられたのも、長崎
 測候所が初めてだった。
  そして、毎日、3回の気象観測を行い、内務省地理局測
 量課へ報告がなされた。
  そして、この時、1887年(明治20年)4月1日、長崎測
 候所が、国から長崎県へ移管された。
1887年4月 東京紡績会社が設立された。
  東京紡績は、この時・1887年(明治20年)4月に設立さ
 れ、
  東京深川(当時は東京市深川区東大工町小名木川沿岸)
 に本社工場があったが、
  1908年(明治41年)に、創立20周年を記念して、新たに
 東京荒川の南千住地方(じかた)橋場(現・荒川区南千住8
 丁目)に、橋場工場(敷地16万m2)を建設した。
  橋場工場は、1928年(昭和3年)4月に、東京工場と改
 称し、
  第2次世界大戦時には、東京航空機製作所として軍需に
 転換した・・しかし・・
  戦後に復元したが・・、
  1962年(昭和37年)11月に、閉鎖されるまで、綿紡工場
 として存続した。
  閉鎖後は、経営の多角化を目指して設立されたニチボ
 ー不動産(株)(現・(株)ユニチカエステート)によって、
 跡地に自動車教習所、ゴルフセンターの新規事業が展開
 され、
  その後は、東京都の都市計画により、1971年(昭和46
 年)〜1976年(昭和51年)の間に順次、都に売却し、
  現在は、マンション群と汐入公園になっている。
  日本の紡績業は、日米の繊維摩擦で悲惨な状況となっ
 ている。
  日本は、アメリカに強硬に繊維産業が潰された。
  繊維の輸出規制と、沖縄返還を絡めた交渉は、「糸(繊
 維)と縄(沖縄返還)の取引」とも言われた。
  佐藤栄作首相は、1969年の首脳会談で、沖縄返還の約
 束を取り付けるとともに、ニクソン大統領に輸出を規制
 すると伝えた。
  だが、両国の溝は大きく、いったん交渉は決裂した。
  1971年の沖縄返還協定調印後、日本が規制と引き換え
 に繊維業界に補償することを決め、
  1972年1月、合意に至った。
  当然、日本に返還すべき沖縄が材料に使われ、日本の
 毛・化合繊製品の対米輸出規制をめぐる厳しい交渉は、
 1969年〜1971年に行なわれたのがピークだった。
  それ以前の綿製品の対米輸出規制をめぐる交渉が、長
 引いても数ヵ月以内に事務レベルで決着していたのに比
 べ、
  この時の毛・化合繊製品をめぐる交渉は、政治問題化し
 て2年半も紛糾し、
  第2次大戦後の日米関係における最悪の危機的状態をも
 たらしたと言いわれた。
  特に、この問題は、1968年のアメリカ共和党の大統領
 候補ニクソンの選挙公約に端を発し、
  1969年春、ニクソン新政権下に出された日本に対する
 厳しい自主規制要求に始まった。
  上記の東京紡績会社も、1962年(昭和37年)11月に、閉
 鎖している。
  そして、日本の紡績業界は、紆余曲折にのたうち回る
 ことになる。
1887年4月、浅野総一郎が、浅野回漕部を設立した。後の東
 洋汽船。
  東洋汽船のルーツは、浅野総一郎が、1886年(明治19
 年)に設立した浅野廻漕店(浅野廻漕部)で、
  浅野廻漕店は、浅野が、渋沢栄一や渋沢喜作らととも
 にロシアから汽船「ベロナ」を購入し、
  「日の出丸」と命名し、石炭を輸送することを生業と
 していた。
  やがて、持ち船を増やし、日本郵船に対抗する意味合
 いをもって、他の小規模船会社とともに、海運同盟会を
 結成した。
  日清戦争直前の、1893年明治26年)頃には、帆船な
 ども含めると、8万総トンもの船腹を有する規模にまで発
 展し、
  日清戦争では、何隻かの持ち船を日本軍御用船として
 提供した。
  折りしも、日清戦争終結後の1896年(明治29年)に、
 航海奨励法と造船奨励法が施行され、
  日本船が、海外航路に就航する際や、新造船建造の際
 に、一定の補助金を出すという、この二つの法律の施行
 を契機として、
  日本の船会社は、相前後して海外へと打って出る事と
 なった。
  この様に荒波を乗り越えて来たこの会社も、戦後の財
 閥解体に会い、
  安田財閥系に属し、筆頭株主安田銀行だったこの東
 洋汽船もその波に飲まれた。
  そして、1960年日本油槽船へ吸収合併されて姿を消し
 た。
1887年4月14日、塵芥取締規則が制定され、ゴミ回収事業が
 始まった。
  東京市史稿、市街篇によると・・、
  1887年4月14日に、厠芥溜下水取締規則が創定されて
 いる(官報第1134号明治20年4月14日、官報第1126号明治
 20年7月30日、東京府警視庁公報明治22年、第4版警視庁
 令類纂明治27年3月刊)
  そして、別史料の記述に・・、
  1887年に、警視庁の警察令で「塵芥取締規則」が制定
 され、
  東京市内では、各戸にごみ容器が備えられ、指定搬出
 業者がごみを収集(有料)するようになった・・とある。
1887年5月5日、京都織物会社が設立された。
  京都織物会社(1887年設立)は、ヨーロッパの最新技
 術による日本最大の近代織物工場だった。
  浜岡光哲や田中源太郎など、京都の財界人だけでなく、
 渋沢栄一や益田孝、大倉喜八郎など、当時の日本を代表
 する実業家が発起人に名を連ね、
  経営にも参画していた。
  いわば、中央の財界と京都府とが一体となって創設し
 たモデル工場だった。
  超一流の経営陣、ヨーロッパ帰りの技術スタッフ、最
 先端の設備をもって創業した京都織物会社は、
  明治から大正期にかけて、名実ともに織物・染色業の
 トップメーカーになって行った。
  従業員も、全国各地から選りすぐられ、
  技術者は、蔵前高等工業(現・東京工業大)、
  事務担当は、京都第一商業など商業学校出の成績優秀
 者で占められていた。
  とても尋常小学校出の坂部三次が、簡単に入社できる
 会社ではなかった。
  何軒もの商家を渡り歩いた三次の身元引受人となり、
 温かい眼をそそいだのは郷里の先輩・田中源太郎だった。
  田中は、幕末の亀岡藩にあって、最も年若な家老だっ
 た。
  維新後は、実業界に進んで成功をおさめていた。
  山陰本線の母体となる京都鉄道を設立するなど、三次
 が京都市に出てきたころは、京都経済界のリーダー的存
 在だった。
  坂部本家も田中家もともに、亀岡藩家老の家柄だった。
  そうした縁もあって、三次の兄は、田中の援助を受け
 て、府立京都商業学校に通っていた。
  三次が入社したころの経営陣を見ると、取締役会長の
 渋沢栄一を頂点にして取締役は4人という構成だが、
  そのなかに田中が名を連ねている。
  坂部三次は、郷里の名士・田中源太郎に眼をかけられ、
 「事務見習」として、新しくスタートをきった(後略)
  (日本クロス工業社史を参考にした)
1887年5月6日、叙位条例を公布した(5月4日説あり)
  1887年(明治20年)5月4日には、「叙位条例」(明治
 20年勅令第10号)が制定されて位階制度の再編が行われ
 た。
  これによって、位階は、正一位から従八位までの16階
 とされた。
  そして、叙位対象者に関しては「凡ソ位ハ華族勅奏任
 官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ功績アル者ニ叙ス」
 とされた(叙位条例1条)。
  従四位以上は、勅授(宮内大臣から伝達)、
  正五位以下は奏授(宮内大臣天皇陛下に奏して叙位)
 とされた。
  また、位は従四位以上は華族に準じた礼遇を享けた。
1887年5月9日、板垣退助大隈重信勝海舟後藤象二郎
 を伯爵に、他13人を子爵に叙した。
  板垣のみ、一旦辞意を表明した後、授爵した。
  (氷川清話)勝海舟、特旨をもって華族に列せられる、
 勲功により伯爵を授けられる。
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  (今日の言葉)
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  題:真実に、人間的に・・悩むアメリカがあった・・
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1945年5月、この時、悩むアメリカがあった・・
  相手を見るとき、「相手を・・差あるもの」と見る。
  アメリカは、その差あるものを切り捨て排除した。
  アメリカの論理で・・、
  アメリカは、その論理を正しいと、当然、自分の思考
 によって、自分の判断基準によって、その結論に至った。
  その結果ゆえに正しいとし、その正しさを実現する事
 を正義とし、その正義実現のために排除行動を起こし、
 その一連の行為を・・「正義を成した」とした。
  そして、野蛮なこの行為のすべてを、崇高なる行為だ
 と自画自賛した。
  そして、駆逐した相手をプロパガンダ(嘘宣伝)まで
 して、地に落とした。
  その一連の自分の行動が、まったく、公正さに欠け、
 独りよがりになっている事の反省はなかった。
  そして、その行動には、武力も辞さないという一時代
 前の蛮行が行われた思考論理をもって、その行動さえも
 正しいと、正義だとした。
  そのような思考の下に起こされた戦争の結果は、悲惨
 そのものだった。
  「極限の悲惨さ」と言わざるを得ない残酷なやり方を
 アメリカはした。
  アメリカは、アメリカなりにそれに満足し、納得する
 浅はかさの状況にあった。
  自らの行動の行き過ぎに、少しの反省もなかった。
  まったく悲しい事である。
  そこに亡くなった命の大きさに気が付かないアメリ
 だった。
  自国の子供たちへも正義だったと洗脳した・・今でも、
 洗脳し続けている。
  そこには、後ろめたさが有るから、その様な行動をせ
 ざるを得ないという事は、明々白々、誰の目にも明らか
 であった。
  愚かな事である。
  そんな言い訳を、子供たちにしなければならない行動
 だったのだ、戦争だったのだ・・という事である。
  まだ、思考形態の未熟な子供たちに「原爆投下が正し
 いという屁理屈」を、反駁のしようのない、いたいけな
 子供たちに「刷り込んだ」、そして、「刷り込んでいる」。
  この様な結果に至った初めには、「相手を差あるもの」
 と見て、
  その差を「自らの、自分の」思考で評価し、良否判断
 をするという、自分勝手な思考、そして、行動パターン
 があった。
  そして、キリスト教の「異端排除の正義だという考え
 方・教義・思想」「異教徒は殺せのキリスト教の教義」
 に洗脳され、マインド・コントロールされた思考パター
 ンと、行動パターンであった。
  「正しくないのでは?」と反省する心、「見直しする
 心」は、毛頭、無かった。
  その思考の中に、日本人が当然のように持つ「共生」
 の考え方はなかった。
  差があるものと見ず・・差別せず・・世界の国々を、
 富める国も貧しい国も各々(おのおの)その国の特性を
 生かし、それぞれの役割があるのだ・・という見方は出
 来なかった。
  日本の国際的な援助行政は、まったくこの「共生の考
 え方」で行われている。
  富める国も貧しい国も各々その国の特性を生かし、そ
 れぞれの役割を果たす事によって「共生」するのである。
  そして、そこには、差あると見て、その差を「自分の
 都合の良いものを良し」とし、都合の悪いものを「異端」
 として抹殺し、排除するは、当然、悪としている。
  キリスト教の差別教義「異教徒は殺せ」は、当然、悪
 なのである。
  ・・しかし・・
  隠されたアメリカがあった・・
  新たに明らかになった事々の中に、史料の中に、一部
 ではあるが・・反省し、悩む、アメリカがあった。
  まったく、愚かなるアメリカである・・、
  ハリマン(アメリカの駐ソ連大使)は書き、そして、
 伝えた・・、
  「ソ連の日本への参戦は、果たしてそれほど必要な事
 なのだろうか?
  そもそも、我々の対日戦争の目的は何なのか?
  日本の完全破壊か?
  それとも、日本を残すべきなのか?」・・と、自問自
 答していた(「チャーチルスターリンへの特使」)
  わずかに残されていたアメリカの『常識』だった。
  しかし、愚かなるアメリカは、ハリマンのこの問い掛
 けに、
  アメリカ指導部は、終戦となるまで答えが見いだせな
 いまま、悩みの中で、原爆は投下され、ソ連は参戦した。
  愚かな戦争を作ったアメリカの史実の中に、この様な
 内容の史実があった。
  1945年5月、グルーが、「新たな戦う相手・ソ連が現れ
 た」と、慄(おのの)いていたのは、このハリマンの心
 の吐露を知り、反映した事々だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive