(増補版)426E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月〜1886年6月)

題:(増補版)426E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月〜1886年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1886年5月30日、秋田市の大火(約3400戸焼失)(4月30日
 説あり)
  1886. 4.30 秋田町大火(俵屋火事3,474戸焼失、死傷
 204)
  鱗勝院山門:『明治19年1886年)4月30日、
 俵屋火事で当寺もことごとく焼失しました。
  この門は、その後佐竹家より拝領した久保田城の裏門
 で、二ノ丸から本丸に至る裏御門坂にあったものです』
1886年5月31日、日清修好条規の改正交渉が開始された。
1886年5月、田中館愛橘(たなかだてあいきつ、帝国大学
 授)が、ヘボン式ローマ字に反対し、日本式ローマ字を
 提唱した。
  日本式ローマ字は、音韻学の立場から理にかなったも
 のであることが判明・・とある。
1886年6月3日、静岡事件(6月11日説あり、また、6月12日
 説あり)
  自由党員の箱根離宮竣工式襲撃の陰謀が発覚した。
1886年6月5日、万国赤十字条約に加盟した。
  博愛社は、1883年(明治14年)5月に、ベルリンで開催
 された衛生、及び、救難法の博覧会に際し、
  政府から派遣された内務省御用掛の柴田承桂に、欧州
 に於ける赤十字事業と、ジュネーヴ条約加入手続きの調
 査を依頼し、
  当時ベルリンに住んでいた兄のアレキサンダー・シー
 ボルトにも協力を依頼した。
  そして、日本が加入手続きを開始すると、井上馨外務
 卿はアレキサンダーシーボルトの協力を求め、
  モワニエへの働きかけに尽力した。
  このシーボルト兄弟は、博愛社の社員であり、博愛社
 規則の草案作りにも協力している。
  一方、西郷隆盛とは親戚関係にあり、1870年(明治3年)
 から1873年明治6年)にかけて、ジュネーブに留学し、
 西南戦争時には政府軍の指揮官、その後陸軍卿となって
 いた大山巌は、
  3度フランスに渡り、各国兵制を研究する傍ら、同行し
 た橋本綱常・陸軍軍医監と共に、ジュネーヴ条約への加
 入手続きを調査した。
  この橋本綱常は、1883年(明治16年)、陸軍卿・大山巌
 の随行員として、欧州で万国赤十字条約加盟のために奔
 走した第一人者だった。
  橋本は、熊本藩横井小楠らと交流があり、不平等条
 約に抗議し、安政の大獄で没した福井藩士・橋本佐内の
 実弟である。
  1884年明治17年)9月に、ジュネーヴで開催された第
 3回赤十字国際会議には、日本のオブザーバー参加が認め
 られ、
  会議への招待状は、大山巌博愛社社員のアレキサン
 ダー・シーボルトに宛てられていたが、
  大山の代理として橋本綱常が出席した。
  その後、陸軍大臣となった大山巌と、1885年(明治18
 年)に、軍医総監、陸軍省医務局長に就任した橋本綱常は、
  1886年明治19年)6月、日本のジュネーヴ条約加入を
 実現させた。
  そして、博愛社社員だったアレキサンダーシーボル
 トの協力を得て、条約の注釈書である『赤十字条約解釈』
 を作成した。
  そして、それを全将兵に配布して普及に努めた。
  ジュネーブ条約という国際条約への加盟は、単に、陸
 軍の衛生部隊だけの問題ではなく、
  日本の軍隊、引いては、日本が欧州列強から対等に扱
 われることを意味した。
  日本国として恥ずかしい真似はできなかった。
  軍備や衛生設備の充実だけでなく、国際的な人道的任
 務の理解も、
  軍人だけでなく、国民にも浸透させなければならなか
 った。
  ちなみに、1887年(明治20年)4月23日付の陸軍訓令と
 して出された、『赤十字条約解釈』の冒頭に掲げられた
 大山陸軍相の訓示は・・、
  『赤十字条約ノ儀ハ軍人軍属ニ在テ最緊要ノモノニ付、
 解釈ヲ容易ナラシムル為メ注釈ヲ加ヘ別冊頒布候条、遍
 ク熟読格守ス可シ』であった。
  (日本赤十字社熊本県支部ホームページを参考にし
 た)
1886年6月9日、 長崎県喜々津村の大火。1000戸焼失。
1886年6月10日、伊藤博文宮内相が、帝室典則等皇族関係
 法律案を提出した。
1886年6月12日、甲府・雨宮製糸工場がストライキをした。
  (6月14日〜16日説あり)
  山梨県甲府の雨宮製糸工場(あめみやせいし)で、過
 酷な労働に反発した女子工員がストライキをする。
  1886年6月 14〜16日に、甲府の雨宮製糸で発生した日
 本最初の工場労働者の争議で、
  甲府は、開港以来、早くから、急速に製糸業が発達し
 た地域で、労働力不足に加えて、工女の多くが近郊の農
 村からの通勤工であったため、
  好条件を求めて工場を移動する者も少なくなく、業者
 の女子工員争奪が激しかった。
  このことから、製糸業者は連合し、
  同年・1886年、同業組合を結成し、
  女子工員取締り、引抜き防止協定(工女の移動禁止)、
 労働時間の延長、賃金切り下げなどの規約を決定し、実
 施していた。
  これに対し、雨宮製糸の工女100余名が就業を拒否した。
  そして、近くの寺に立てこもった。
  製糸業者側の歩み寄り・譲歩で解決した。
1886年6月12日、自由党員が、箱根離宮落成式襲撃計画を立
 てていたことが発覚し、逮捕された(静岡事件)。
1886年6月14日、内務省が、街路・乗合馬車・営業人力車・
 宿屋各取締規則標準を定めた。
  諸車取締規則と標準化・・、 
  明治期には、ほとんどの輸送手段の行動範囲は、地域
 的にとどまっていたので、各府県の取締規則の内容もま
 ちまちであった。
  そこで、内務省は、陸運関係取締規則制定の参考とし
 て、1886年明治19年)6月、「街路・人力車・乗合馬車
 宿屋取締規則標準」(訓令第7号)を定めた。
  同省は、この標準を示すに当たり・・、
  「人民の貧富、または、開明の程度、市街地と田舎に
 よって寛厳の差があってしかるべき」として、
  必ずしも全国画一の規則制定は求めてはいなかった。
  各府県は、この標準に沿って、取締規則の制定をすす
 めた。
  東京府の場合は、「人力車営業取締規則」(明治22年
 4月26日警察令第19号、53カ条)、「乗合馬車営業取締
 規則」(同22年10月8日警察令第30号、60カ条)などを
 制定しているが・・、
  その経緯について・・、
  「是ヨリ先キ、内務省訓示スルニ人力車取締ノ標準ヲ
 以テシ、漸次、之ニ拠テ取締ノ方法ヲ設定セシム。
  是レ此規則ヲ定ムル所以ナリ」・・と、
  『警視庁史稿 巻之一』に記述している(乗合馬車
 場合も同様)。
  荷車のうち、荷馬車は、馬車取締規則の適用を受けて
 いたが、
  その後、保有台数の増加によって独立した取締規則が
 必要となってきたので、警視庁では、1891年(明治24年
 1月21日、「荷車取締規則」(警察令第1号、25カ条)を
 制定した。
1886年6月15日、第六回条約改正会議
  この会議で、イギリス・ドイツ両公使が、日本案を実
 行不可能だとして、両国合同の条約改正案を提出した。
  内容は、通商条約案・裁判管轄条約案などだった。
  日本側もこれを良しとし、会議を、この英独案をたた
 き台として進めた。
  その骨子は、領事裁判権を撤廃し、関税率を5パーセン
 トから11パーセントに引き上げることを了承する代わり
 に、
  (1)条約実施後2年以内に、日本は、内地を開放し、
    外国人に居住権・営業権を与え、
     2年以後は、内地居住外国人は、日本裁判所の管
    轄に属すること。
  (2)条約実施2年以内に、日本は、「泰西ノ主義ニ従
    ヒ」、すなわち、西洋を範にとった刑法・民法
    商法等法典の整備を行い、
     施行16ヶ月前に、その英文を諸外国政府に通知
    すること。
  (3)外国籍の判事・検事を任用すること。
  (4)外国人が、原告もしくは被告となった事件につい
   ては、直接控訴院(第二審)に提訴することができ
   る。
    その際、控訴院、および、大審院の判事は、過半
   数を外国人とし、公用語として英語を認めること。
 ・・を、日本側が受け容れるというものであった。
  法典の整備や、裁判制度の確立については、
  国内における合意形成や、法律を運用する法曹の育成
 などに一定の時間を要することから、
  当面は、日本がその方向に向かっていることを、諸外
 国に納得させて、
  改正への合意を引き出すよりほかになかった。
  この間、日本の方向性を納得させる説得材料として機
 能したのが鹿鳴館外交・欧化政策だった。
  井上の結論は・・、
  「条約改正には、兵力によるか、西欧諸国に、日本の
 開化を実感させて、治外法権を撤廃してもよいという感
 情を抱かせるかのどちらかしかないが、
  兵力による方法が不可能である以上、欧化政策を進め
 るよりほかに道がない」・・というものであった。
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  (今日の言葉)
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  題:1943年のこと・・、
    アメリカのルーズベルトは・・、
   中国(蒋介石)とソ連を繰るが・・その読みは浅かった。
    結局、中国は共産化し・・ソ連は離反して、冷戦へ・・、
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1943年2月2日、スターリングラード攻防戦(1942年6月28日
〜1943年2月2日)で、この日、ドイツ軍が大敗北した。
  この日・2月2日、トラクター工場を中心に抵抗を続け
 ていたカール・シュトレッカー将軍の第11軍団が投降し、
 ドイツ第6軍の抗戦は終わった。
  ソ連赤軍は、勝利宣言を行い、ここにスターリングラ
 ード攻防戦は終結した。
  モスクワでは、クレムリンから祝砲が轟いた。
  しかし、ドイツでは、ラジオが「彼らは死んだ。ドイ
 ツが生きていくために」と、第6軍の将兵が全員戦死した
 と報じ、ベートーヴェン交響曲第5番『運命』を放送し
 た。
  ゲッベルスは、3日間の服喪を発表した。
  こうした欺瞞に満ちたドイツのプロパガンダを、ソ連
 は、逆用した。
  膨大な数の捕虜がいて、生きていることを海外放送で
 発信した。
  また、モスクワ駐在の外国人記者の前に、パウルス(
 ドイツ第6軍司令官)と、将軍たちを引き出して撮影させ、
 さらには、捕虜に、家族宛ての書簡を書かせた。
  また、ドイツ軍陣地に散布した。
  当然、ドイツ司令部は、それらの回収と、焼却に奔走
 した。
  また、ドイツで帰りを待っている家族へ、ドイツ将兵
 たちが、現時点で生存していることを知らせようと、投
 函した将兵も少なくなかった。
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  そして、次の話・・、
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1943年11月22日、カイロ会談が開かれた。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、ソ連が、スターリ
 ングラードでドイツ軍を破る大勝利をすると(1943年2月
 2日)、
  欧州戦線は、目途(めど、物事の見通し、目指すとこ
 ろ)がついたと見た。
  残るは、太平洋方面における、対日戦線だと見た。
  その為にも、ソ連の対日戦への参戦をより強く促すた
 め、
  ルーズベルトは、ソ連蒋介石・中国を引き合わせる
 必要性を痛感した。
  ソ連をより積極的にする必要があった。
  しかし、ソ連スターリンは、蒋介石と公式に会う事
 を拒否し、また、蒋介石も渋っていた。
  米・英は共同して、この状態を打開すべく、1943年11
 月22日、カイロで米・英・中の会談を持った(カイロ会
 談)
  さらに、同様に、その6日後の11月28日に、米・英・ソ
 の『テヘラン会談』が持たれた。
  これが、米・英・中・ソの四か国会談が成立する前段
 の話で・・、
  そして、カイロ会談の、米・英・中の会談の2日目の
 11月23日に、ルーズベルト蒋介石は・・、
  キザのピラミッドが見えるカイロのメナ・ホテルで、
 膝(ひざ)を突き合わせて話し合った。
  通訳は、蒋介石夫人の宋美齢(そうびれい)だった。
  他に誰も居なかった。
  そして、遼東半島の大連と旅順を、アメリカと中国の
 共同管理にする事にした。
  そして、ルーズベルトは、中国(蒋介石)の国民政府
 軍が、さらに強くなる支援を言った・・、
  90個師団を作り、アメリカが軍事訓練をすると言った。
  蒋介石は、中国・共産党を政府に招くと言い、そして、
 戦いが終わった後は、民主化をすると言った。
  ルーズベルトは、アメリカが後ろ盾(うしろだて)と
 なって「強い中国」となる「戦後の中国の形」を言った
 (米・英・中・ソの形へ持って行きたかった)。
  しかし、蒋介石の頭には、国民党と共産党が、その様
 に、順調に、簡単に、収(おさ)まるとは思っていなか
 った。
  国民党と共産党による内戦が、確実視された。
  また、一方、蒋介石は、大国のソ連や英国の内政干渉
 が始まる事を恐れていた。
  今・現在、アメリカが、国連を絡めて、盛んに日本に
 内政干渉をしているが・・、例えば、「皇室はこうしろ」
 とかと・・、
  蒋介石は、この様な内政干渉を恐れていた。
  フランスは、この時点では、お呼びのかからない埒外
 (らちがい)に置かれていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive