(増補版)425E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月〜1886年5月)

題:(増補版)425E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月〜1886年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1886年5月6日、農商務省が、漁業組合準則を公布した。
  農商務省令7号によって、漁業組合が、この漁業組合準
 則によって漁場の調整、漁場占有利用関係の規制を目的
 に作られた。
  漁業は、内水面、沿岸から海外漁場までを操業範囲と
 しているが、自由勝手に操業しているのではなく、
  漁業法を基本にした規則・規約等によって、一定の秩序
 と規制のもとに操業している。
  漁業法を基礎としたこの秩序と規制の体系を漁業制度
 というが・・、
  日本の漁業制度は、この漁協組合準則や、1901年の旧
 漁業法を経て成立して来た。
  そして、1910年の明治漁業法によって確立された。
1886年5月10日、教科書検定条例が制定された。
  教科書検定条例が公布し、教科書検定が始まった。
  国定教科書制度が成立する。
  小学校の教科書は、1886年(明治十九年)の小学校令
 の施行とともに検定制度が実施され、
  その後は、文部省の検定を経た教科書の中から選定し
 て使用することとなった。
  小学校の教科書については、すでに十年代(1877年以
 降)から統制が強化され、制度化が進められており、
  1883年(十六年)からは認可制度となっていた。
  すなわち、文部省に伺い出て認可を受け なければ使用
 できないこととなっていた。
  また、文部省では、早くから検定制度の実施を意図し
 て検討していた模様・・、
  このような状況を背景として、1886年(十九年)の森
 文相による学制改革に際して、検定制度が実現された。
  検定制度の実施については、1886年4月(十九年四月)
 に公布された小学校令中に・・、
  「小学校ノ教科書ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ル
 ヘシ」(第一三条)・・と規定しており、
  1886年5月(同年五月)「教科用図書検定条例」が定め
 られた。
  1887年5月(二十年五月)には、これを改正して「教科
 用図書検定規則」が定められ、
  その後は、これに基づいて、検定制度が運営された。
  教科書の検定制度は、小学校のみでなく、師範学校
 中学校等の教科書についても実施されたが、
  小学校教科書については、特に、詳細な規定が設けら
 れ厳格に行なわれた。
  教科書の採択方法については、1887年3月(二十年三月)
 「公私立小学校教科用図書採定方法」を定め、
  地方長官が審査委員を任命して採択を決定することと
 した。
  審査委員の構成は、その後しばしば変更されているが、
 地方の教育関係の首脳に位置する人々が参与した。
  しかし、府県一律採択のこの制度が審査委員と教科書
 会社との間に贈収賄事件を引き起こし、いわゆる教科書
 疑獄事件が発生して、検定制度そのものを崩壊させる原
 因となった。
  検定教科書の内容は、小学校令、および、これに基づく
 学科課程に関する法令によって統一され、
 時期を画して展開している。
  すなわち、第一期は、1886年(十九年)の小学校令、
 および、「小学校ノ学科及其程度」以後、
  第二期は、1890年(二十三年)の小学校令、および、
 小学校教則大綱以後、
  第三期は、1900年(三十三年)の改定小学校令、およ
 び、小学校令施行規則以後の時期で、
  また、1890年(二十三年)の教育勅語は、修身教科書
 をはじめ教科書の内容に大きな影響を与えた。
  検定教科書を形態の上から見ると、学年段階に応じて
 編集された教科書が一般化して、
  すなわち、検定制度は、古い型の教科書を一掃して近
 代教科書を普及させ る役割を果たした。
  検定教科書の形態、および、内容に著しい影響を及ぼ
 したものは、1891年12月(二十四年十二月)の「小学校
 修身教科用図書検定標準」でだった。
  これは、修身書をほかの教科書よりも厳格な基準によ
 って検定する趣旨のもとに定められたが、
  その内容は、教科書一般に共通する点が多く、他の教
 科書の編集の上にも大きな影響を与えた。
  つまり、児童用と教師用を区分して編集すること、学
 年段階に応じて程度を高めることなどはすべての教科書
 に通ずるものだった。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1886年5月19日、 川崎正蔵に貸下げられた兵庫造船所を、
 川崎造船所と改名した。
1886年5月19日、東京・京橋の風月堂が、新聞にアイスクリ
 ームの売り出し広告を出した。
  日本人が、初めてアイスクリームを食べたのは、江戸
 時代末期で・・、
  1860年日米修好通商条約の批准書交換のため、徳川
 幕府が派遣した使節団一行が、
  訪問先のアメリカで、アイスクリームを食べたのが最
 初だったという・・、
  一行は、ホワイトハウスでの歓迎会でアイスクリーム
 の味に、大変感銘を受けたと・・、
  1869年(明治2年)、渡米経験のあった町田房蔵が、横
 浜の馬車道通りにアイスクリームの店「氷水屋」を開店、
  日本国内での最初のアイスクリーム製造販売となる。
  このアイスクリームは「あいすくりん」という商品名
 で販売され、
  原料は、牛乳、砂糖、卵黄と、基本的なものだったが、
 値段が当時の通貨で2分(現在の約8000円)と高額だった。
  そのため、外国人や一部の富裕層にしか売れなかった。
  一般に定着せず・・、
  その後、銀座に「開新堂」「風月堂」「函館館」など
 がアイスクリームの販売を開始した・・、
  次いで「資生堂」が、アイスクリームとアイスソーダ
 を発売、
  また、鹿鳴館で、晩餐会にアイスクリームが欠かせな
 いデザートとなり、文明開化のシンボル的な存在となる。
 (アイスクリームワールドを参考にした)
1886年5月20日、東京・浅草公園、開園祝賀会が行われた。
  我が国初の遊園地は、植物園を前身として、1886 年に
 開園した浅草花屋敷だと言われる。
  利用者は、主に上流階級であったが、徐々に、庶民向
 けの動物や見世物の展示、遊戯機器の設置を行うように
 なった。
  また、我が国初の近代動物園は、内国勧業博覧会を機
 に開園した大日本帝国農商務省博物館付属動物園(現:
 上野動物園)であった。
  続いて、京都、大阪、名古屋において、京都市動物園
 天王寺動物園鶴舞公園附属動物園(後に移転し東山動
 物園となる)が、それぞれ開園した。
  これら公立の動物園は、近代都市における社会教育施
 設として建設されたが、
  外国産動物の展示により大きく人気を集めたことによ
 り、次第に遊園地の一種として見なされるようになった。
  明治の末期以降には、遊園地や動物園の盛況ぶりに着
 目した電鉄資本が、
  沿線の顧客開拓の一環として、競い合うように子供や
 家族をターゲットにした遊園地や動物園が一体化した大
 衆娯楽的な行楽施設を各地に開設していった。
  (経済産業省資料を参考にした)
1886年5月21日、各地の中牛馬会社を合同し、東京下谷
 共同中牛馬会社を設立した。
  日本陸運業の近代化の一翼を担うこととなる中牛馬会
 社の存在は、歴史学的な実証研究が手薄だった。
  国内の市場経済化とともに急速に発展・拡大した陸上
 運輸業全体の展開プロセスは、日本における交通運輸業
 の近代化の第一歩として無視することの出来ない重要な
 意味を持つ。
  明治前期に、あれほど活動的であった陸運企業が、牛
 馬背運送から鉄道運送へという交通技術上の転換によっ
 て衰退したわけではなかった事実に気づかされる。
  牛馬、馬車、鉄道は、いずれも陸運会社の輸送手段と
 して複合的に用いられたのである。
  地域間の貨物運送を行う業務にたずさわったのは、「
 内国通運会社」や「中牛馬会社」といった陸運企業経営
 体であった。
  特に、中牛馬会社は、日本の産業革命期の主役であっ
 た諏訪製糸業の勃興に際し、
  横浜への輸出生糸の運送を請負う陸運企業として重要
 な役割を果たした一例がある。
  (東北大学・王慧子氏の論文を、抜書き構成し参考に
 した)
1886年5月28日、尋常師範卒業生服務規則が公布された。
  (明治十九年五月二十八日文部省令第十一号)
  勅令第十三号師範学校令第八条ニ基キ尋常師範学校
 業生服務規則ヲ定ムルコト左ノ如シ
  尋常師範学校卒業生服務規則
  第一条:尋常師範学校卒業生ノ服務年限ハ卒業証書受
    得ノ日ヨリ十箇年トシ其間教職ニ従事スルノ義務
    ヲ有スルモノトス
  第二条:尋常師範学校卒業生ハ卒業証書受得ノ日ヨリ
    五箇年間其府知事県令指定ノ学校ニ奉職スルノ義
    務ヲ有スルモノトス
     但郡区長ノ薦挙ニ係ル生徒ハ卒業証書受得ノ日
    ヨリ五箇年間其郡区長指定ノ小学校ニ奉職スルノ
    義務ヲ有スルモノトス
  第三条:第一条第二条ノ義務ヲ尽ス能ハサルノ事故ア
    ルモノハ其理由ヲ具シテ府知事県令ノ指揮ヲ請フ
    ヘシ
  第四条:第一条第二条ノ義務ヲ終ヘタルモノハ其経歴
    書ヲ具シテ其府県庁ニ届出ヘシ
  第五条:謂ハレナク第一条第二条ノ義務ヲ尽ササルモ
    ノ或ハ服務年限内ニ於テ品行不正ニシテ其職務ヲ
    免シタルモノアルトキハ其都度府知事県令之ヲ文
    部大臣ニ具申スヘシ
  第六条:府知事県令ハ服務規則ニ関スル細則ヲ定ムル
    コトヲ得
.
  (今日の言葉)
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  題:今度は、ソ連スターリンが、手のひらを返した・・
   そして、米ソの雌雄を決する対決が始まる・・冷戦がはじまる・・
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1946年3月、鉄のカーテン
  イギリスの元首相のチャーチルが演説で・・、
  「鉄のカーテン」・・と、米ソ冷戦の緊張状態を表す
 言葉として言った。
  第二次世界大戦終結して、まだ、わずか『7か月』し
 か経ていなかった。
  鉄のカーテン(てつのカーテン)は・・、
  冷戦時代のヨーロッパにおいて、東西両陣営の緊張状
 態を表すために用いられた比喩のことで・・、
  イギリスのウィンストン・チャーチルが・・、
  第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統
 領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、
  ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で行っ
 た演説の中でこう述べた。
  因みに、アメリカの大統領は・・、
  政治信条や、政策や、深い思想哲学に裏付けられて、
 選ばれて来るのではない・・と、知識人たちに言われて
 いる。
  マスコミによって、容易に動かされる大衆が、その好
 み、「好きだとか、嫌いだとか」によって選んでいるの
 だ・・と、言われている。
  また、第一次大戦までは・・、
  ヨーロッパの国々は・・アメリカのこの様な政治シス
 テムを、ほとんど信頼していなかった・・という。
  そして、アメリカという国を、むしろ厄介者だと考え
 ているくらいであった・・という。
  ヨーロッパの国々から見れば・・、
  アメリカという国は・・、
  ヨーロッパの国から、イギリスから・・しょせんは独
 立した新興国に過ぎない・・と・・感じていた・・と。
  第二次世界大戦に至る時ぐらいまでの百数十年間は、
  世界の二流国ぐらいに・・考えられていた。
  それが、第二次世界大戦を勝利に導き・・、
  世界を動かすようになったのだった。
  そして、その戦いののち、戦後に、「鉄のカーテン
 とたとえられる時が来るのだが、
  第二次世界大戦の・・戦争中までは、互いに話し合う
 スターリンアメリカ大統領のルーズベルトだったが、
  そして、日本の領土を餌に・・ソ連スターリンへ、
 『日本への参戦を誘う』というアメリカの大統領のルー
 ズベルトだったが、
  この関係が・・、スターリンが戦後に、勝者となって
 の後に、国内の独裁体制を築き・・推し進め・・そして、
 かためたいと・・考えた所から、手のひらが返された。
  ソ連の、ソビエト圏の閉鎖が進んで行く・・、
  ここでチャーチルの「鉄のカーテンが下りて来た」の
 言葉が飛び出した。
  ソ連スターリンは、勝者側の一方へ・・ソ連に対峙
 するその一方へ・・戦いを挑んで来たのである。
  その時に、冷戦が始まった。
  アメリカにとっては予想のしていなかったことで・・、
  その対応・応戦には、一時は戸惑った。
  そして、その後、この冷戦は、とめどなく、戦いは続
 けられて行く。
  科学の力を駆使し、持てる経済力のすべてを投入し、
 ぎりぎりの戦いが展開されて行く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive