(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月〜1881年12月)

題:(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月〜1881年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年10月21日、陸軍・大山巌と、海軍・川村純義を参議
 兼任に任命した。
  (参考)大山巌(おおやまいわお)1842年〜1916年、
  薩摩(鹿児島)藩士の生まれ、西郷隆盛の従弟。
  陸軍軍人、元帥・陸軍大将、公爵、元老、
  1862年(20歳)に、大坂に出て倒幕運動に参加。
  薩英戦争でイギリス艦の大砲の威力を認識し、戦後、
 江戸の江川塾で砲術を学ぶ。
  1868年(26歳)の戊辰戦争では、薩摩藩兵の砲隊長。
  維新後の1869年(27歳)に、欧州に派遣され、砲術を
 研究する。
  そして、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ
 入城をする。
  1871年(29歳)再び渡欧、
  パリ・スイスに住んでフランス語・砲術を学ぶ。
  1877年(35歳)の西南戦争では、旅団司令官として西
 郷軍とたたかう。
  1880年(38歳)、陸軍卿となって、以後は陸軍内部の
 薩摩閥の首領の地位を占め、長州の山県有朋とともに陸
 軍を2分した。
  陸相参謀総長を務め、日本陸軍の創設にあたった。
  1884年(42歳)には、陸軍の俊秀をひきいて渡欧し、
 各国の兵制を視察し、帰国後、陸軍大臣として軍制改革
 を行った。
  1894年(52歳)日清戦争では第二軍司令官、
  1904年(62歳)日露戦争では満州軍総司令官をつとめ
 た。陸軍大将、元帥、
  因みに、イギリス軍楽隊長のJ・W・フェントンが国歌
 の必要を説いたとき、
  大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を
 歌詞として選定したという。
  (参考)川村純義(かわむらすみよし)1836〜1904、
  薩摩(鹿児島)藩士の家に生れる。
  軍人、参議兼海軍卿、海軍大将、伯爵、枢密顧問官、
 日本海軍の創設者の一人。
  戊辰(ぼしん)戦争で活躍。
  1877年(41歳)西南の役征討に軍艦を行動させて参軍
 し、活躍。
  1878年(42歳)参議兼海軍卿勝海舟の後任の海軍卿
 となる。
  薩摩勢力を海軍部内にのばした。以後、海軍充実に尽
 力した。
  上記の大山巌普仏戦争の観戦について・・、
  1870年8月15日、大山巌(28歳)らは、普仏戦争観戦を
 命ぜられ、8月28日、横浜から米飛脚船クレド・ハフリッ
 ク号で出発した。
  太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨーク
 経由で大西洋を渡り、
  10月23日に、ロンドン到着、
  閏10月23日に、ベルリン着、
  11月11日(西暦1871年1月1日)以後、普仏戦争を観戦
 した。
  フランス政府が、プロシヤに降伏後、大山はパリに入
 り、3月19日に、マルセーユから日本への帰途についた。
  5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着した。
  すでに、1870年12月の勅使・岩倉具視らが鹿児島を訪
 問したとき、
  藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆
 盛は、岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、
  明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とするこ
 とを主張していた。
  翌年・1871年2月13日に、政府は、薩長土3藩の兵を徴
 して御親兵の編成を命令した。
  そして、4月25日に、大山巌は、その御親兵を統括する
 兵部省の役職兵部権大丞に任命された。
1881年10月28日、日本語速記術の発明
  田鎖綱紀(たくさりこうき)が、日本語の速記術を発
 明し、講習会を開いた。
  大学南校(政府所轄の洋学校)で鉱山学を学ぶかたわ
 ら、グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を発
 明した。
1881年10月29日、自由党の結党式
  東京にて、板垣退助を総裁とする急進主義の自由党
 結成された。
  我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張るこ
 とになる。
1881年11月11日、最初の私鉄・日本鉄道会社が設立された。
  日本最初の民間資本による鉄道会社である日本鉄道が
 設立された。
  代表は岩倉具視。 上野〜熊谷間開通(1883年)
  運行期間:1883年〜1906年
  今のJR東日本の路線の多くを建設し、運営した。
  横浜の実業家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、
 1872年5月、東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄
 道の建設を政府に建言し、却下されるも、高島は、政府
 要人の岩倉具視を説き、
  鍋島直大蜂須賀茂韶をして、明治天皇陛下および当
 時の政府に、
  『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森、
 あるいは、東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走
 らせることを補す』ことを建言させた。
  こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめ
 とする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の
 創立が決定し、
  同年・1881年11月11日、設立特許条約書が下付され、
 初代社長に吉井友実を選出し、会社が設立された。
1881年11月、 日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』が刊行さ
 れた。
  君が代・蝶々・蛍(蛍の光)などを収めた『小学唱歌
 集(しょうがくしょうかしゅう)』初編を刊行した。
  文部省音楽取調掛が編集した日本最初の音楽教科書。
  明治14年に初編、〜明治17年1881年1884年)刊。
  初編に「蝶々」「蛍の光」、
  第二偏に「霞か雲か」、
  第三編に「仰げば尊し」「庭の千草」などを収録。
1881年12月7日、紅綬・緑綬・藍綬の褒章が定められた。
  太政官布告第63号の褒章条例1881年)で定められ、
  初めは、紅綬褒章緑綬褒章藍綬褒章の3種で、
  紅綬褒章:自分の危険を顧みず人命救助をした人に、
  緑綬褒章:孝子(孝行な子)・節婦(節操堅固な婦人)・
 徳行卓絶なる人や、実業に精励して一般人の模範たるべ
 き人に、
  藍綬褒章:教育、衛生事業、学校・病院建設、道路・橋
 梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖、
 実業の発達などに貢献した人に与えることとした。
  1918年に、公益のために私財を寄付した人に授与する
 紺綬褒章が加わり、
  1955年、政令により、条例の一部が改正され、業務に
 精励し衆民の模範である人を緑綬褒章から切り離して黄
 綬褒章の対象に、
  また、従来は藍綬褒章に含まれていた学術・芸術・発
 明などの顕著な功績に対し新たに紫綬褒章の各褒章がで
 き、6種となった。
  勲章が、国家に功績ある者に与えられるのに対して、
 社会や公共のため尽くした人々に与えられる栄典だった。
1881年アメリカの野心を訴えるハワイ王国の国王
  原因に・・そこには・・巧妙に「ハワイ」を手に入れ
 ようとするアメリカ合衆国があった。
  ハワイには「ちゃんとした政府があって」「チャント
 統合する国があって」「チャント統合する王が居て」「
 ちゃんとその王国・政府に従う人々が幸せに生活してい
 る」というのに・・、
  そこが弱者の国だと思うと・・自分のものにしたくな
 ったアメリカ合衆国だった。
  当然、そこに、何らの正義は無かった・・まったく、
 無かった。
  この年に、ハワイ王国のカラカウア王一行が来日した。
  予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏(
 つくろ)うアメリ随行員の目をくらまして赤坂離宮
 訪ね、明治天皇陛下(当時29歳)との極秘会談に及んだ。
  カラカウア王のこの行動は、外国の『国家元首』の最
 初の明治天皇陛下への訪問となった。
  王は、その場で、次のように訴えた。
  意訳概要:
  「我が国は、主権を持つ独立国家である。
  その我が国に対し、アメリカ合衆国が太平洋上の拠点
 にしようという野心を抱いている。
  今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重
 する気持ちが微塵も無い。
  アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を
 深めている。
  この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列
 強諸国に対峙することが急務です。
  日本の進歩には実に驚くべきものであり、
  アジア連合を起こすとすれば、その盟主には日本以外
 には無い。
  また、天皇陛下こそが相応しい。
  日本は、今、列強諸国に治外法権不平等条約の改正)
 を認めさせようとして苦労していると伺います。
  日本なら連合実現が、より容易にできるはずです。
  どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主とな
 っていただきたい。
  そうなれば私は、陛下を支え、大いに力をお貸しさせ
 て戴きたいです。
  私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカ
 イウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。
  日本とハワイの絆の為、是非もらって戴きたい。
  私は、貴国の良い返事を待ち続けます」
  (「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。
  そして、この後・・、
  「明治天皇陛下とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」
 は、直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。
  井上馨は、伊藤博文を後継し、明治政府の重要な地位
 に居る人だった。
  ハワイ王国の国王による国王間直訴は・・その後・・、
  1882年(明治15年)3月22日になって、ハワイ国王・カ
 ラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府
 の回答がカラカウア王へ届けられた。
  「政府に、そこまでの余力はない」との内容だった。
  また、カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても
 最終的にはウヤムヤとなって行き・・幻となった。
  井上馨は・・、
  「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見
 解を示し、
  伏見宮邦家親王の第17王子の山階宮定麿親王(当時15
 歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校
 学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が、
 画策された。
  ・・が、しかし、懸念材料はアメリカだった。
  アメリカとの関係の悪化を懸念する意向が前面に出て、
 幻となって行った。
  かくて、「カラカウア王の望み(秘策)」は潰(つい)
 えてしまった。
  カイウラニ王女は・・その後・・、
  1889年に、カラカウア王の指示で、イギリスへ留学し
 た。
  そして、その留学中に、カラカウア王は死去されてし
 まった。
  カイウラニ王女は、叔母のリリウオカラニから王位継
 承権第1位に指名され、
  美貌の彼女は、ヨーロッパ社交界の教養を身につけ、
 英仏社交界の華になった・・が・・、
  アメリカの思惑(アメリカ帝国主義によるハワイの地
 の取得)がうごめくハワイの政変が続くハワイの事情か
 ら・・帰国が出来ず・・帰国が延び続けるという状況と
 なった。
  日本とハワイの連邦化を夢見ていたハワイ王国は・・
 消滅し・・そして、ハワイはアメリカ化し・・今、アメ
 リカ合衆国の州となっている。
1881年2月24日、イリ条約
  ロシアと中国(清国)との間で、1871年に起きた国境
 紛争事件(イリ事件)の条約が結ばれた。
  ロシアのイリ地方占拠を、清朝は左宗棠の働きで1875
 年から1877年にかけて排除した。
  しかし、1879年に、ロシアとのイリ返還を交渉した清
 朝の全権大使・満州貴族・嵩厚保がいったん領土を大幅
 に譲歩した条約を締結した。
  そのため、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀
 沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、
  ようやく1881年に、イリ条約を成立させ、イリ地方は
 清に返還された。
  しかし、清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆
 全土を市場としてロシアに経済的に開放することを認め
 た。
1881年3月12日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺され
 た(3月13日説あり)
  1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世は、パ
 リで襲撃されたが、この時は難を逃れた。
  その後も、皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、
  1880年2月には、アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂
 爆破事件が起きて、多数の死傷者が出た。
  これをきっかけに、最高指揮委員会が設置され、下ヴ
 ォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・
 ロリス=メリコフが委員長に任命された。
  政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴
 動の抑止になると考えたロリス=メリコフは、行政改革
 と財政改革を皇帝に進言し、
  これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メ
 リコフが内務大臣となった。
  社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた
 悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、
  立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、
 一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市
 自治会の代表などを参加させようとした。
  1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュ
 ラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグ
 ナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾(キバリチチ
 式手投げ爆弾)により、サンクトペテルブルク市内で暗
 殺された。
1881年5月、フランスが、チュニジア保護国化した。
  1830年のフランスによるアルジェリア占領以後、
 フランスとイタリアによる植民地化の対象となった。
  ベクは、1867年立憲君主制憲法を制定し、トルコの力
 をかりて独立維持をはかった。
  1869年、チュニジア財政破綻してイギリス・フラン
 ス・イタリアの管理下に置かれ、
  1873年〜1877年の改革派官僚のハイルッディーンによ
 る改革が行われたが、宮廷内の保守派の反対で成果を上
 げることが出来なかった。
  普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジア
 に進出したのでフランスは危機感を強めた。
  1878年ベルリン会議では、イタリアとフランスが、
 チュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、
  フランスは、チュニジアに於けるフランスの権利を認
 めさせ、
  最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジ
 アにおけるフランスの優先権が確認された。
  フランスは、1881年に、軍隊を派遣し、首都チュニス
 を占領して、保護領とした。
1881年7月2日、アメリカ合衆国大統領の暗殺事件が起きた
  第20代大統領のガーフィルド大統領が暗殺された。
  ワシントンのボルティモアポトマック駅で大統領は
 銃撃され、9月19日に死亡した。
  暗殺犯のチャールズ・J・ギトーは、色々な職業に手を
 出して失敗していた。
  神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キ
 リストの再臨を信じる共同社会)だった。
  大統領は、就任から4か月の短期間だった。
1881年7月14日、ビリーザ・キッドが、満21歳で、射殺され、
 この日に死んだ。
  彼は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー(犯罪など
 によって法の保護を受けられなくなった人)で、強盗な
 どを行なっていた(1859年〜1881年
  罪名:殺人と脱獄。
  職業:牧場手伝、ギャンブラー、牛泥棒アウトロー
  ニューヨークで生まれたらしい、西部のニューメキシ
 コ州で育った。
  偽名が多く、父親は良く分からない。
  12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトロー
 なったとされる。
  死ぬまでに21人を殺害したとするが、この人数の中に
 はインディアンの方々の人数は含まれてないとされる(
 有色人種への無視・軽視・蔑視)。
  アリゾナ、テキサス、メキシコ国境あたりをさすらっ
 たという。
  用心棒もした。この時、リンカーン郡戦争と呼ばれる
 騒動となった。この時、4人を射殺。
  1880年12月、友人でもあった保安官に、仲間と共に
 逮捕される。
  しかし、1881年4月18日に刑務所を脱走した。
  この事が、ニューヨーク・タイムズに報じられ有名に
 なる。
  1881年7月14日に、ニューメキシコ州フォートサムナー
 で、ギャレットに射殺された。
  鏡で銃を抜く敵を見て、振り返らずに撃ち殺したなど、
 嘘もあるだろうが・・彼の銃の腕前を示す話は多い。
  この様なアメリカ西部の様相の中で、西部は開拓され
 て行った。
  誠実に農地開拓をしている農夫の土地を、欲しがる牧
 場主が、プロの殺し屋を雇い、この正直な農夫を殺そう
 とする。
  その時、殺し屋は次の手を使う、
  町の酒場に農夫を呼び出し、この農夫に対して、あら
 んかぎりの嫌(いや)らしい事を言う。
  農夫は、愛する妻や子供も居るので我慢してその話を
 聞いているが、続けて、殺し屋は人格攻撃も含めて、い
 やらしい攻撃を続け、
  この続く人格攻撃などの中で、農夫は、やむを得ず腰
 のけん銃に手を掛ける。
  その途端、プロの殺し屋の銃が、いち早く火を噴く。
  可哀想に、この善良な農夫は殺される。
  キリスト教は、この様なこの行為を、この殺し屋の行
 為を悪くないとしている。
  だから、アメリカの西部では、この様に殺される人が
 多かった。
  キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅しても良い」と、神の義による殺人を是としてい
 る。
  この様な論理・教義で、隣国の富を奪いに行く。
  当然、戦争の頻発地となる。
  長い歴史、キリスト教の回りには多くの戦争の歴史が
 記録されている。
  キリスト教聖書に記されている「相手に警告を与えれ
 ば何をやっても良い」という教え・・、
  また、キリスト教の聖書記載の手順を踏めば、攻撃を
 加えて良いという教え・・
  「相手の町を包囲して、ぐるぐる回れば、何をやって
 も良い」とかと・・この様な記載が、色々多い。
  キリスト教には蛮行の実行につながる教義が多い。
  「目には目を」という教義は有名だが、「同罪報復を
 認める」教義である。
1881年9月、エジプトでアラービー=パシャの乱が起きた(〜
 1882年)
  アフマド=ウラービー=パシャ・・エジプトの反イギ
 リス民族闘争の指導者は、
  1881年に、イギリス・フランスの支配に反発し、立憲
 政治実現を要求して革命を試みたが、イギリス軍によっ
 て鎮圧されてしまった。
  世界中で、武力によって、やりたいことをやっている
 イギリス、そして、ヨーロッパ列強のキリスト教国。
  パシャは尊称で、
  エジプト人の農民の子として生まれ
  軍人となり、
  ワターニューン(愛国者たちの意味、ワタン党ともい
 う)という秘密結社を組織して、
  ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、
  パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言わ
 れた。
  19世紀中頃のエジプトが、イギリスとフランスの経済
 的支配を受けて、
  政治干渉も受けるという二国管理体制下におかれ、
  これに強く反発した(誰だって反発したくなるだろう
 よ)、
  エジプトの方々のエリート層や、高等教育を受けた
 方々は、ヨーロッパ人が、エジプト社会を牛耳ることに
 よって、
  自らの出世の道が閉ざされることも不安視した。
  また、農民は、課せられた重税に対して不平を募って
 いた。
  また、差別も存在した。
  エジプトは識字率も向上し、1870年代から188年代には、
 出版も盛んになり、新聞も発行されるようになった。
  人々は、社会の情勢・変化を知り、行動を起こした。
  1881年に、クーデターを起こして、エジプト王を退位
 させ、実権を握り、立憲政治の実現などの改革を進めよ
 うとした。
  しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、
 陸上からも攻撃し、革命を強烈な軍事力で抑えつけた。
  その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。
  ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流され
 た。
  彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスロー
 ガンは、
  その後のエジプト民族運動に受け継がれ、
  ウラービー運動といわれるようになった。
  → アラブ民族主義運動へ
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive