(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月〜1881年3月)

題:(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月〜1881年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1881年、出来事:
明治天皇陛下が、東北・北海道を御訪問。
松方正義が、大蔵卿(現在の大蔵大臣)に就任した。
 松方正義の緊縮財政政策で不況に陥る。
1881年、データ:
・租税総額に占める地方税の割合:36.2%
1881年、流行:
・唄 書生節:「書生、書生と軽蔑するな〜大臣参議はみな
 書生〜」
・「蛍の光(ほたるのひかり)」:日本の唱歌
  原曲はスコットランド民謡、
  作詞は、稲垣千頴(いながき ちかい、国学者、教育
 者、歌人、教科書編集者)
・ステッキ・懐中時計が流行した。
・洋式自転車が、輸入されたのは、明治14年か15年の頃、
  反骨のジャーナリストにして一代の奇人である宮武外
 骨は、
  東京で、外国人がこれを乗り回しているのを見て、無
 性にほしくなり、明治17年に購入した。
  東京、横浜、大阪を駆け巡ったが、売り物は1台もなく、
 神戸の居留地で、ようやく中古を見つけ、
  談判の末、192円で買い取った。
  小学校教員の初任給が、5円の時代の192円で、
  大得意で郷里・高松に帰り、乗り回していたら、たち
 まち評判となった。
  日本一のバカ者と笑われた・・、
  『しかるに近年は大流行にて、山間にもベルの音を聞
 く、うたた灌漑にたえず』と、明治36年に記している。
1881年、マスコミ:
・新聞創刊:東洋自由新聞(1881年3月18日、創刊)
  西園寺公望が、フランスから帰国して社長となり、パ
 リで知り合った中江兆民主筆として創刊した。
  自由民権派の日刊新聞(自由民権運動の中心的言論機
 関たらんとして発刊した)。
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数:62件
1881年、本・理論書:
・「東洋學藝雑誌(とうようがくげいざっし)」 創刊
   1881年10月に、東洋学芸社から創刊された自然科学
 を含む月刊誌。
  日本で最初の学術総合雑誌
  杉浦重剛千頭(ちかみ)清臣が井上哲次郎や磯野徳
 三郎らの協力のもとに、その範をイギリスの科学雑誌
 Nature》にとり、啓蒙を旨として編集された。
・ 「社会平権論」(著:スペンサー/訳:松島剛)
  スペンサーは、明治前半期の日本に大きな影響を与え、
 『社会静学』が松島剛(まつしまこう)(1854―1940)訳
 『社会平権論』(1881〜1883)の名訳によって紹介され、
 「民権の教科書」として愛読された。
・ 「時事小言(じじしょうげん)」(著:福澤諭吉)
  《時事小言》、および、その前後の一連の著作では、
 立憲制とイギリス流の議院内閣制・政党内閣制によって
 〈官民調和〉を実現するという原理が明確に示されてい
 た。
1881年、衣:
・地方の町村に靴を履く者が出る。
1881年、食:
・牛乳配達が始まる。
・東京に粉ミルク・バターの製造が始まり、その売捌店は
 市内13軒をかぞえた。
・第2回内国勧業博覧会に、11道府県より缶詰の出品あり、
 殆どが魚介を材料とした。
  また、2府3県から琺瑯(ほうろう)品が出品された。
  これは鍋等の飲食器であった。
東京湾の金沢に、カキの移植がなされた。
・芝日影町で、日本人のラムネ製造が始まった。
1881年、住:
・東京下町に、1月と2月に重ねて大火があり、火災の後、
 内地釘が間にあわぬため、西洋釘を輸入して、にわかに
 洋釘使用が普及した。
1881年、その他:
・官吏と新聞記者の交際がふえ、好ましくない風潮だ(朝
 野新聞)
・東京職工学校が創立された。
 「東京工業大学」は、1929年設立され、東京都目黒区に
 本部を置く、日本の国立大学だが・・、
  その創立は、母体である東京職工学校が創設された1881
 年とされている。
・小学校で、体操と唱歌を正科とした。
  1881年5月の「小学校教則綱領」あたりから次第に小学
 校の教科として取り入れられたのが、「唱歌」と「体操」
・竹器の輸出が盛ん・・、
  竹材は、1878年から、見本的な輸出が行われていた。
  輸出先は、ドイツ・イギリス・アメリカ。
  注文待ちの形ではなく、どの様な需要があるかを考え
 て、積極的に売り込んだ。
  そして、輸出を本格化させて行った。
  1881年に、森村商事が、米国でモリムラ・ブラザーズ
 を立ち上げた。
  1880年代半ば〜1890年代半ばにかけて、アメリカに輸
 出された竹材のうち、
  特に、盛んに取引されたのは、箒(ほうき)柄竹だっ
 た。
  当時のアメリカの需要は、年間4,000万本といわれた中
 で、日本からの輸出は1,000万本を占めた(アメリカ市
 場における、日本商品のシェア25パーセント)。
  いくら集荷しても供給が追い付かないという状況だっ
 た。
  しかし、残念なことに、この箒のアメリカ市場の最後
 は、日本の業者間の安値競争と、その多い需要に応える
 ため、粗悪品を輸出したため、信用を失い、まったく注
 文が来ないという状況となった。
・船会社が運賃協定をはかる。
  1880年頃の関西を起点とした航路に就航していた船は、
 110余隻、70余名の船主に達していた。
  この頃は、三菱と共同運輸の双方が、横浜を中心に激
 しい競争を繰り広げていた。
  日本の船会社は、満身創痍の状態で、この様な事では
 外国汽船会社に漁父の利を与えかねないと、政府首脳や
 両社の社長が話し合いを重ねた。
  1885年に漸く、両社が合併して、日本郵船会社を設立
 した。
 この日本郵船会社は、日本の海運業界のガリバー的存在
 で、三菱会社から汽船29隻、帆船1隻を、
  そして、共同運輸から汽船29隻、帆船10隻の合計69隻
 を保有していた。
  この日本郵船会社は、半官半民に近く、正副社長や理
 事は、保証期間中、政府が特命することになっていた。
  また、航路の開設についても、政府の命令に従ってい
 た。
  そして、この日本郵船会社が、圧倒的な大きさを誇る
 一方で、
  瀬戸内を中心とした船主は、互いに競争したり、協調
 したりを繰り返していた。
・二人乗自転車について、東京の新聞が、珍しげに記事を
 かかげた。
  現在の自転車の原形である『安全型自転車』が出来上
 がったのは1885年(明治18年)で、
  この時期に、日本への輸入も始まっている。
  国産化も早く進み、宮田製銃所(現:宮田工業)が、
 国産第1号を製作したのは、1890年(明治23年)。
・大阪鉄工所・小野田セメント・日本鉄道・大日本農会
 ど設立された。
  後に、日立造船となる大阪鉄工所が、1881年に、イギ
 リス人のE・ハンターによって創立した。
  また、この年に、小野田セメントの前身の会社が、毛
 利藩士族・笠井順八によって、「セメント製造会社」と
 して山口県小野田に創立された。
  日本での最初の民間セメント会社で、1891年に、「小
 野田セメント製造会社」に改称した。
  また、日本初の私鉄である「日本鉄道」が、この年に、
 設立された。
  日本鉄道は、今・現在のJR東日本の路線の多くを建設・
 運営していた会社。
  また、公益社団法人大日本農会が、この年の4月5日
 に設立され、我が国で最も古い団体となっている。
パスツールが、狂犬病ワクチンを完成させた。
  1879年、パスツールが57歳の時、ニワトリコレラ菌
 研究から、「弱毒性の病原体で免疫ができる」ことを発
 見した。
  1880年の58歳に至り、狂犬病の研究を始めた。
  そして、1881年2月、炭そ病のワクチンを開発した。
  そして、1885年7月6日、狂犬病にかまれたメイステ
 少年が来て、
  パスツールは、初めて人間に狂犬病のワクチンを注射
 した。
  メイステルは回復し、
  世界中から狂犬病の患者が押し寄せる状況となった。
  そして、1886年に、狂犬病治療、および、研究のため、
 パスツール研究所を設立した。
  1888年パスツール研究所は完成した。
ピカソが生まれた(1881年〜1973年)
  スペインの画家のパブロ・ピカソが、スペインのマラ
 ガに生まれた(1881年10月25日)。
1881年1月4日、警察庁再設置(1月14日説あり)
  内務省の一部局となっていた東京警視本署が、警視庁
 として再び設置された。  
  設置(1874年)  内務省移管(1877年)
  東京に警視庁を設け憲兵を置く。
1881年1月15日、初代の警視総監として陸軍少将・樺山資紀
 が任命された。
  警察関係の整備が盛んに行なわれた。
1881年1月17日、明治法律学校(めいじほうりつがっこう、
 現在の明治大学)が、東京麹町有楽町に開校した。
  自由民権運動と強い関わりを持つ。
  私立の法律学校(校長:岸本辰雄
1881年1月26日、東京大火(明治最大)
  神田より深川に延焼し、1万5200戸を焼失。
  神田区松枝町から出火した火は、折から北西の強風に
 あおられて瞬く間に東神田一帯を焼きつくし、
  日本橋馬喰町、横山町へと延焼し、神田川沿いの元柳
 町、吉川町から両国橋を越えて本所、深川に及んだ。
  この火災による被害は、神田、日本橋、本所、深川の
 4区52ヶ町におよび、全焼1万673戸、焼損面積12万7697
 坪(42万1400平方メートル)、
  被災者数3万6542人に達し、明治期最大の大火となった。
  この大火は、火元の町名をとって神田松枝町の大火と
 一般に呼ばれた。
1881年1月、記念祭・記念碑・記念盃などの語が流行する。
  それまでは「記念」を「かたみ」と読んでいたが、下
 記の様に「きねん」と呼びだしたという。
  『読売新聞』は1878年9月に大津の三井寺に「西南戦死
 人の記念碑(きねんひ)」が完成したという記事を、翌
 月には「学習院の紀念式(きねんしき)」が行われたと
 いう記事を掲載している。
  1879年に創刊された『朝日新聞』では、同年2月に大阪
 鎮台の有志が中之島に「紀念碑(きねんひ)」「明治記
 念標(きねんひょう)」の建設を計画中という記事が確
 認できる。
1881年2月2日、出版・雑誌統制
  新聞紙・雑誌などを内務省警保局へ納付方令達、検閲
 の強化。
  内務省警保局への新聞・雑誌等納入を命ず。
1881年2月11日、東京神田大火(7700戸焼失)
  東京・神田小柳町から出火。
  松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月11日に、
 神田区で大火が発生し、また、さかのぼって、その約1ヶ
 月前の、1880年明治13年)12月30日にも、神田区で大
 火が発生している。
1881年2月21日、東京・四谷の大火
  東京・四谷箪笥町より出火して、1500戸焼失。
  午後8時ごろ、箪笥町22番地から出火、四谷から麹町に
 かけて延焼し、11時40分鎮火。
  10か町1496戸、6万7305平方m余(2万360坪余)を焼失。
1881年2月28日、ウラジオストク〜長崎の航路が、日本郵船
 の前身・郵便汽船三菱会社により開設された。
  汽船1隻で3週に1回、両港を出港。
  朝鮮の釜山や元山に寄港。冬季は元山止り。
  長崎で横浜上海線、長崎天津線に連絡。
  1889年に、神戸まで延長し、
  また、1907年(明治40年)4月に、敦賀起点の直行便が
 大阪商船により開設し、長崎線が大きく後退した。
1881年2月、綿糖糸茶共進会の開催(山梨・静岡・愛知・三
 重県の連合)
1881年3月1日、第2回・内国勧業博覧会
  期間:3月1日〜6月30日、会場:東京・上野公園
  コンドル設計の博物館新館(旧本館)が竣工し、美術
 館として使用された。
1881年3月11日、憲兵本部を東京に創設し、憲兵中佐・三間
 正弘を部長に任命した。
  フランスの国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範
 として、憲兵条例により設置された。
  憲兵制度は、竹橋事件の影響や、自由民権運動の牽制、
 警視庁の薩摩閥勢力の減殺などのために創設されたとも
 いわれる。
  憲兵は、軍組織内において警察活動を行い、特定の任
 務を果す特別部隊。
  通常、各国とも、軍隊内部の犯罪捜査、脱走兵の逮捕、
 軍刑務所の管理と警備、軍交通の整理、防諜、軍事施設
 の警備などの任務が与えられている。
  通常は、一般警察権の及ばない軍隊内や、軍隊に関係
 ある行政警察司法警察の業務を併せ行う。
  (参考)行政警察:広義では、犯罪の捜査および被疑
 者の逮捕の作用である司法警察に対して、公共の安全と
 秩序を維持するために、一般統治権に基づいて、人の自
 然の自由を制限する作用を行政警察という (行政法学上
 の警察) 。
  司法警察:警察権の発動に基づく諸活動のうち、犯罪
 事件の捜査、被疑者の逮捕、身柄拘束のための対人的強
 制処分令状の執行などのほか、裁判所、検察官の命ずる
 法定事務も合せて総称する。行政警察に対するもの。
  統治権:(1)国土・国民を治める権利。
 (2)最高の権威、または、国家の主権と同義、または、
 類似の概念であるが、国家、政府、独立、民主主義など
 と関連して政治学国際法において最も論争の多い言葉。
 (3)国民、および、国土を支配する権利。主権とか国権
 とよばれることもあり、また私法上の権利と区別された
 公法上の権利であるという意味で高権とよばれることも
 ある。国民に対する支配権を対人高権、領土に対する支
 配権を領土高権という。
1881年3月18日、東洋自由新聞(とうようじゆうしんぶん)
 が創刊された(2月18日説あり)
  自由民権派の日刊新聞。
1881年3月27日、越後・出雲崎の大火(約540戸焼失、死者
 26名)
1881年3月、参議・大隈重信が、早期国会開設・政党内閣制
 を内容とする意見書を出す。
  独断での即時国会開設の意見書の提出であったため、
 政府部内はもめた。そして、分裂した。
  1881年は、開拓使の「官有物払下げ事件」が明るみに
 出たことに対し、参議の大隈重信は、新聞も用いて、開
 拓使長官の黒田清隆を鋭く批判した。
  また、早期の国会開設を主張した。
  その内容は、イギリス流議院内閣制にもとづく憲法
 制定と、国会の一刻も早い開設を主張する・・大隈の意
 見だった。
  この意見に対し、伊藤博文の考えは、ドイツ流の君主
 大権をのこしたビスマルク憲法を範とすべきとした。
  また、国会開設は時期尚早であり、立憲政体の整備は
 漸進的に進めるべきだとした。
  結果的に、伊藤が、大隈を政府から追放する事件「明
 治十四年の政変」に発展し、大隈は政府を去ることにな
 った。
  これは、大久保利通暗殺後の、政府部内の主導権争い
 でもあったが、
  世論がこの事件に対して激化し、
  また、自由民権運動が、さらに高揚の様相を呈したた
 め、政府は、近い将来の議会制度確立を約束し、運動の
 尖鋭化を抑えようとした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive