(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月〜1880年12月)

題:(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月〜1880年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年12月14日 伊藤博文が、立憲政体に関し建白した。
  概歴を記すと・・、
  1875年に、大久保利通伊藤博文木戸孝允・板垣退
 助らの大阪会議での合意に基づいて、
  続いて、1875年4月14日に、明治天皇陛下が出された立
 憲政体の詔書によって、
  1875年4月25日、左院にかわり設置された元老院が、
  1876年(明治9年)9月、この元老院に対し、「国憲起
 草の詔」が発せられた。これによって、憲法制定の第一
 歩が踏み出された。
  日本は、比較的、明治の早い時期に、憲法制定に関す
 る意思を示していた。
  また、この時期は、1874年(明治7年)1月17日の民撰
 議院設立建白の後で、自由民権運動の機運が盛り上がろ
 うとする時期だった。
  そして、元老院は、1876年のこの時に、国憲取調委員
 を置いて、各国の憲法を調べ、
  1876年10月に、「日本国憲按(にほんこくけんあん)」
 と題する「憲法第一次草案」を奏上した。
  さらに、1878年に第二次草案をつくった。
  しかし、この案は、岩倉具視らの強い反対を受け、我
 が国の国体に十分適合するものではないとして、成案と
 なるに至らなかった。
  さらに再修正され、1880年に「日本国憲按」(第三次
 確定案)として奏上された(成案とならず)。
  1881年明治14年)10月12日には、国会開設の勅諭が
 発せられ、政府として、憲法制定の本格的準備を進めて
 行く。
  憲法制定という、法典の中心をなす近代憲法の制定の
 動きは、上記の様に、1874年の民撰議院設立建白書に触
 発されたが・・、
  しかし、政府は、急速な憲法制定を望まず、漸進主義
 をとっていた。
  1875年に設立された元老院が、この方針の下で憲法
 の作成の立場にあったが・・、
  そして、ベルギー憲法プロイセン憲法に範をとった
 「日本国憲按」が、1876年、そして、1878年にできたが、
  その立憲的傾向は、岩倉具視などのいれるところでは
 なかった。 
  他方、明治10年代(1877年代)に活発化した自由民権
 運動の中から、
  イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな
 憲法私案(私擬憲法)が発表された。
  その憲法私案は、また、政府の採るところではなく、
 自由民権運動自体が、やがて抑圧されていった。
  この様な中で、伊藤博文が浮上してくる。
  1877年(明治10年)には、木戸が没し、
  また、同年の1877年には、西南戦争西郷隆盛が敗死
 し、
  翌・1878年明治11年)5月14日には、大久保も暗殺さ
 れた。
  伊藤博文は、この様な状況の中で、この頃の1878年5月
 15日に、二度目の内務卿を、大久保亡き後に継承し、維
 新の三傑なき後の明治政府の指導者の1人として、政治に
 否応なく、大いに関わって行った。
  1881年明治14年)1月、伊藤博文は、日本の立憲体制
 をどう作るかを、井上馨大隈重信と熱海で会談した。
  しかし、大隈が、急進的な構想を内密に提出して、独
 走するようになると、政界追放を決め、1881年10月に大
 隈下野の目的を果たした。
  そして、政府の重責を担(にな)って行く。
  伊藤は、1882年(明治15年)3月3日に、明治天皇陛下
 から憲法調査のための渡欧を命じられた。
  1882年3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直
 胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東
 巳代治らの随員を伴い、ヨーロッパへ向けて出発した。
  はじめ、ベルリン大学公法学者ルドルフ・フォン・
 グナイストに教示を乞い、
  そして、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐
 条的講義を受けた。
  後に、ウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるロ
 ーレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行
 政について学んだ。
  これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝
 国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつなが
 った。
  その後、伊藤博文は、1885年12月22日に、内閣制度を
 創設し、初代の首相(組閣4回)となった。
  そして、枢密院の設置(1888年に創設)し、大日本帝
 国憲法の制定をして行った(1889年2月11日に公布、1890
 年11月29日に施行)。
  伊藤は、日本の近代国家の枠組みを作って行った。
  不平等条約の条約改正も実現して行った。
1880年12月15日 河野広中、松田正久、沼間守一などが、東
 京において、自由党の盟約を成立させた。
  自由党は、日本最初の全国的な自由主義の政党だった。
  国会開設運動が全国的に高揚した自由民権運動の中の
 この時・1880年に始まった。
  植木枝盛らから、全国に拡大した運動の組織を強化す
 るため、
  国会期成同盟を改組して、自由主義を標榜する政党を
 組織すべしとする意見が提出された。
  そして、国会論・財政論の対立に、開拓使官有物払下
 問題が加わって引き起こされた「明治14年の政変」によ
 り、国会開設の勅諭が発布される1881年10月12日に相前
 後して、この提案は議決され、
  次いで、自由党の盟約・規則の審議が行われ、組織され
 た。
  そして、重要な役割を果たした。
   1881年10月18日に、板垣退助中島信行後藤象二郎
 末広重恭・馬場辰猪らが結成した。
  総理は板垣で、
  中央機関紙の『自由新聞』を発行した。
  しかし、1884年明治17年)には、日本最初の近代政
 党は解散となる。
  急進派の行動を抑えることが出来なかったのが理由。
1880年12月23日、「集會條例」改正
  警視長官・地方長官に、「政治結社解散権」と、「管
 内における1年以内の演説禁止権を与える」ように改正さ
 れた。
1880年12月24日 大阪大火(南区に出火、約3000戸焼失)
  島之内出火:南区笠屋町約3000戸焼失
1880年12月28日、「教育令」改正
  改正教育令、公布(国家統制が強化される)
  河野敏鎌(こうのとがま)文部卿の手で、再度、国家管
 理強化の方向に改正された。
  太政官布告59号をもって改正し (通称、改正教育令) 、
 地方官の権限を強め、また、就学義務などを強化した。
   1886年になって、初代文部大臣・森有礼(もりありの
 り)の制定した「小学校令」の結果、廃止されるに至る。
1880年12月30日 東京・神田・日本橋で大火
  神田区で大火が発生し、神田、日本橋一帯の町家2188
 戸を焼失し、
  焼損面積2万5100坪(8万2830平方メートル)の大火と
 なった。
  さらに、松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月
 11日にも、神田区で大火が発生している。
  この大火によって、神田・日本橋両区の48か町、7751
 戸が全焼し、焼損面積は8万8328坪(29万1482平方メート
 ル)に達した。
  わずか40日ほどの間に3件の大火が発生し、この大火
 だけで79万5712平方メートルを焼失したというのだから
 凄まじい状況だった。何かがあったのか??
1880年4月23日、イギリスに、ウィリアム・グラッドストン
 の第二次内閣ができた。
  1880年の総選挙で、自由党が大勝したため、第二次グ
 ラッドストン内閣を組閣した。
  アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の
 地代を地代法廷で決めるなど、小作農保護を強化した。
  また、選挙区割りについて、野党保守党に妥協するこ
 とで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状
 態を実現した。
  グラッドストンは、小英国主義者であり、帝国主義
 は消極的だったが、
  オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命
 を鎮圧してエジプトを半植民地とした。
  一方、マフディーの反乱が発生したスーダンは、放棄
 を決定し、
  国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣し、
 スーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとし
 たが、
  ゴードンは、撤退しようとせずにいた。
  そして、戦死してしまったため、内閣支持率に大きな
 打撃を受けた。
  1885年に、強行策のアイルランド強圧法を制定しよう
 とした。
  このことにアイルランド国民党は反発した。
  そして、ソールズベリー侯爵が率いる保守党との連携
 に動いた結果、議会で敗北し、総辞職した。
1880年、ハインリッヒ・ヘルツ(ドイツの物理学者)がラ
 ジオを発明した。
  以上のような情報があるが・・? おかしい??
  無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現した
 のは元エジソンの会社の技師だったカナダ生まれの電気
 技術者レジナルド・フェッセンデンという情報もある。
  レジナルドは、1900年に、歪みはひどいものの、最初
 の通信テストに成功した・・とある。
   そして、彼は、引き続き、ヘテロダイン検波方式や、
 電動式の高周波発振器を開発して、ラジオの改良に取り
 組んだ・・とある。
  そして、1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセ
 ッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶を
 ラジオ放送し、
  フェッセンデンは、この日、レコードでヘンデル作曲
 の「ラルゴ」を、そして、自身のバイオリンと歌で
 “O Holy Night”を電波に乗せた・・とある。
  そして、偶然に傍受した無線技術者たちを驚かせたこ
 の放送は、「世界初のクリスマス特別番組」で、フェッ
 センデンは「史上初のラジオアナウンサー&プロデューサ
 ー」と言える・・とある。
  また、この他に、グリエルモ・マルコーニ(イタリア
 の無線研究家)は、激しい無線送信距離競走の中、
  イギリスの資本と国力を背景に実用化を試み、成功さ
 せた・・とある。
  1901年12月12日、イギリス(ワイト島)からカナダニ
 ューファンドランドへ、
  大西洋を3000km横断する無線通信の実験を、25kwの出
 力で成功させた・・とある。
  1909年には、無線通信の発展に貢献したとして、ブラ
 ウンとともにノーベル物理学賞を受賞した・・とある。
  wikipediaは、元エジソンの会社の技師だったレジナル
 ド・フェッセンデンを最初の成功者としている。
  しかし、YAMAHAのホームページには、イタリアのグリ
 エルモ・マルコーニが、
  1896年に、イギリスで無線通信に関する特許を取得し
 たことをもって、発明者だと記している。
1880年頃、19世紀後半、ドイツの富豪ハインリヒ・シュリ
 ーマンが、私財を費やして、幼いころから夢に見ていた
 トロイアや、ミケーネの遺跡を発見した。
  彼は、ドイツの考古学者・実業家とされている。
  幼少期に聞かされたギリシア神話に登場する伝説の都
 市トロイアが実在すると考え、実際にそれを発掘によっ
 て実在していたものと証明した・・とある。
  しかし、これは、彼の功名心から、後から作られた話
 で、
  当時は、すでに、トロイアの遺跡の発掘は行われてい
 た。
  「トロイアの実在説」は、荒唐無稽なものではなかっ
 た・・と。
  この人の嘘は数多い、発掘の調査費を出すために、貿
 易などの事業に奔走しつつ、ホメーロスの「イーリアス
 の研究と語学にいそしんだと・・、
  自作の著書に何度も書き、また、講演でも繰り返した
 が、
  実際には、発掘調査に必要な費用が用意できたので事
 業をたたんだのではなく、
  事業をたたんでから、遺跡発掘を思いついた・・など。
19世紀末頃、アメリカ合衆国が、フィリピンを植民地にす
 る。
  フィリピンが、19世紀末の米西戦争の結果、アメリ
 の植民地となった。
  19世紀末の「フィリピン独立の父とされるホセ・リサ
 ール」・・、
  リサールは、1896年12月30日に銃殺された。
  1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国は、エ
 ミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援し
 た。
  しかし、実際は、後に判明するように、アメリカが、
 スペインからフィリピンを奪って、自国の植民地にする
 ことが目的だった。
19世紀になって、産業革命、各国はこれに追随した。
  産業革命は、一国内現象ではなく、原料獲得と廉価な
 工場製品の輸出で成立する世界システムであり、
  先進国の工業化は、後進地域の伝統産業や社会を破壊
 した。
  先進国の、後進国への破壊と搾取となった。
  イギリスによる、インドの綿産業の壊滅行為は、最大
 の不幸だった。
19世紀末以後の中国では、革命思想が高まり、多くの組織
 が出来上がっていた。
  1911年に、武昌で起こった反乱(第一革命)に各地で
 呼応し、辛亥革命が始まった。
  1912年1月、帰国した孫文が、南京で臨時大総統となり、
 中華民国の成立を宣言したが、
  清朝北洋軍閥袁世凱が、その地位を奪い、清朝皇帝
 を退位させた。
1880年代、ヨーロッパは、18世紀末ごろから、アフリカの
 内陸部に対する興味を深めた。
  19世紀半ばには、ディヴィッド・リビングストンや、
 ヘンリー・スタンリーらの探検家が現れた。
  キリスト教の布教を目的としていた。
  1880年代から、第一次世界大戦前の1912年までにかけ、
 ヨーロッパの帝国主義の列強によって激しく争われたア
 フリカ地域の争奪と植民地化行為、修羅の奪い合いの行
 為だった。。
  イギリス、スペイン、ポルトガル、イタリア、フラン
 ス、ドイツ、ベルギーが、この悪の分割行為国だった。
1880年アメリカ・インディアンは、そのすべての部族が、
 アメリカ軍に統制された。
  この先住民の方々は、奴隷状態に陥らされ、WASP
 都合の良い様に処せられた。
  そして、居留地に移動させられ、
  また、卑劣な事に、再移動を繰り返された。
  これは、完全に、本来の持ち主からの略奪行為であっ
 た。
  そして、卑劣な事に、この移住の地は、まったく肥沃
 ではなく、その様な地を選んで移動させた。
  また、鉱物資源もなく、最小の土地を与えた。
  当然、インディアンの方々は、食糧自給が出来る訳が
 なく、土地を略奪した白人・アメリカ人(WASP)は、
  食料をアメリカ・インディアンの方々へ与えたが、救
 助などと呼ぶべきものではなかった。
  救助すべき状況に陥らせて「救助」と称した。
  しかし、白人・アメリカ人は、あくまで「救助」と称
 した。
  可哀想なことに、インディアンの方々は、やむなく、
 その食料に頼るしかなく、
  また、白人・アメリカ人の役人のなすがままの状況に
 なって行った、陥って行った。
  戦いの戦士は、今は居ない状況だった。
  アメリカ・インディアンの方々の生活状況は、全く不
 安定の中に置かれた。
  白人アメリカ人たちが、自分たちが利得したいという
 事によって、アメリカ・インディアンの方々が自給でき
 ていた領土を奪い、その利を横取りし、救援と称して、
 インディアンの方々へ全く不安定な生活に陥らせて、食
 料を与えた。
  まったく、ひどい話ではないか・・、
  インディアンの方々に、居留地と言う名の牢獄から、
 拘束された生活から、悲鳴と苦悩が生まれた。
  インディアンの方々は、祈るしかなかった。
  「もうすぐ春が来れば偉大な精霊が訪れ、狩猟の獲物
 たちが走り回る大地を取り戻してくれるだろう。
  そして、死んだ同胞たちもふたたびこの世によみがえ
 るだろう」・・と。
  インディアンの殺戮史が展開するアメリカ合衆国だっ
 た。
  人間性のかけらもない土地だった。
  豊かな土地は白人のもの。
  広大な領土を奪い、わずかな不毛の土地を与えること
 をしでかしていた。
  世界記憶遺産(ユネスコ記憶遺産)に登録せよ・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive