(増補版)341E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月〜1877年1月)

題:(増補版)341E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月〜1877年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1877年、食:
北海道開拓使が、缶詰製造の伝習を始める(1877.10.10)
  開拓使石狩缶詰所・・、
  開拓使は、北海道の産業を振興させるために、色々な
 事業を行なった。
  「札幌麦酒醸造所」(後のサッポロビール)、「真駒
 内牧牛場」など、北海道各地で官営事業を興した。
  この「開拓使石狩缶詰所」も、その一つ。
  缶詰工場は、この他にもエトロフ島や厚岸など5か所に
 設置した。
  そして、アメリカ製の製缶機や製造機械を導入して、
 本格的に事業を開始したのが、1877年10月10日だった。
  事業を進めたのは、アメリカ人指導者2人、伝習生11人、
 など総勢19人だった。
  そして、アメリカやフランスの万国博覧会に出品をし、
 好評を博した。
  作った缶詰は、鮭缶、スモーク・サーモン缶、カキ缶、
 シカ缶、牛缶だった。
・ブドウ酒の苗木を導入した。そして後に、山梨県のブド
 ウ酒醸造場が設けられた。
  1873年明治6年)に、大久保利通は、日本におけるワ
 イン造りを奨励した。
  その理由は、大久保は、明治維新後まもなく、フラン
 ス視察で、夕食時にあたり前のようにワインを楽しむ「
 先進国の豊かな文化」を体験したからだった(1871年
 岩倉使節団で体験)。
  大久保は、帰国後すぐ、国策の近代化を図る「殖産興
 業政策」の一環としてワイン造りを奨励した。
  1877年(明治10年)になって、大久保の命を受けた前
 田正名(農商務省の官僚)が、
  留学先のフランスの、国際的な農学者で苗木商のシャ
 ルル・バルデから、ブドウの苗木を大量に購入して、帰
 国した。
  そして、それを、東京・三田に「三田育種場」を開設
 し、苗木を増やし、
  そして、全国に配布した。
  「メルシャン株式会社」のルーツとなる日本初の民間
 ワイン会社「大日本山梨葡萄酒会社」が、山梨県勝沼
 地に誕生した。
  山梨県令・藤村紫朗により地元有志が募られ、「大日
 本山梨葡萄酒会社」が設立された。
  これが、日本初の民間ワイン会社だった。
ウイスキー会社の集まりの英国蒸留酒協会が発足、
  そして、1888年には、大坂の小西儀助が、ウイスキー
 の製造を始める。
  1877年に、ウイスキー会社が集まって英国蒸留酒協会
 (DCL)が発足した。
  政府と協力しつつ、次々と製造業者を吸収した。
  スコッチの五大ウイスキーメーカー(ホワイト・ラベ
 ル、ジョニー・ウォーカー、ブラック・アンド・ホワイ
 ト、ホワイト・ホース、ジョン・ヘイグ)が、これに参
 加し、当時ウイスキー取引の60%を抑えるまでに大きく
 なった。
  日本では、明治になってアルコールが輸入され、模造
 の清酒(後の合成清酒)や、ウイスキーなどがつくられ
 たが、
  本格的なウイスキーは、1924年(大正13)、寿屋(こと
 ぶきや)山崎工場(現:サントリー山崎蒸留所)において
 初めて製造された。
  また、小西儀助商店を調べると・・、
  1870年、古西屋の屋号で薬種業を始めた。
  1880年頃、洋酒の輸入販売を開始した。
  1888年、大阪洋酒醸造会社を創立し、ウイスキー・ブ
 ランデーなど製造販売をする。
  1925年、株式会社小西儀助商店に改組・・とある。
・札幌のホップ園が設置された。
  1877年に、開拓使が、札幌にホップ園を設置した。
  そして、翌・1878年に、東京芝に桜田ビールが創立さ
 れた。
  1878年に、東京の洋酒販売商・金沢三右衛門が、発酵
 社を設立し(芝・桜田本郷町)、
  そして、発酵社は、明治10年代後半に、日本最大の製
 造高を誇った。
  「桜田ビール」を醸造し、日本のビール産業草創期を
 牽引したビールを発売した。
・横浜で、氷水が流行り出される。
  「横浜新誌」(1877年)に・・、
  「氷水を估る(うる)者は彩燈を照らし、麦湯(むぎ
 ゆ)を售る(うる)者は燈影暗らく」と記されている。
  また、1890年、渋沢栄一浅野総一郎など、財界のそ
 うそうたるメンバーが、株主として名を連ねて青山製氷
 所が設立された。
・初めて人造氷が作られた。
  雪国の加賀藩は、将軍への「献上氷」を始めた。
  そしてまた、加賀藩は、氷と同時に、日本海で獲れる
 真鯛も運んで献上した。
  この様な文献が残されている。
  また、この様な雪国の加賀藩は、氷で物を保存する事
 を知っていた。
  加賀から江戸まで、献上氷だけでなく、氷で保存した
 真鯛も運んだのだった。
  そして、駒込にある加賀藩の前田藩邸から江戸城まで、
 この氷の荷を運ぶ際には、はね落ちる冷水のしぶきを一
 滴でも受けようと、沿道には、人が群がったという。
  この様に、明治時代の初期までは、冬の間に氷室(ひ
 むろ)で保存していた天然氷が利用されていた。
  しかし、1877年(明治10年)に、初めて人造氷が作ら
 れ、次第に人造氷の生産が増えて行った。
  (注):氷室(ひむろ):天然氷を夏までたくわえて
    おくために設けたむろ。
     地中や山かげに穴をあけ、上を茅 (かや) など
    でおおう。
     昔は宮中用の氷室が山城・大和・丹波・河内 (
    かわち) ・近江 (おうみ) にあった。
  (参考):氷室の節句(ひむろのせっく):江戸時代
    の行事の一。
     暑い盛りの陰暦6月1日に、前年の冬の雪水で作
    った折餅(へぎもち)または氷餅(こおりもち)など
    を祝って食べた。
・この頃、卵を売る目的の養鶏が始まった。
  1861年に、福岡県に生まれた伊藤伝右衛門(代議士)
 は、13歳の時に、家計を助けるために卵売りをしたとい
 う、これは1874年のこと。
  また、岡山県出身のジャーナリストの岸田吟香(岸田
 劉生・洋画家の父)が、1877年頃に、「卵かけごはん」
 を食べたと言っている。
  養鶏の卵ではないだろうが、そもそも、人類が、最初
 に卵を食べたのは、
  人類が、サバンナの地上生活を始めた頃の、約500万年
 前と考えられている。
  地上に卵を産むダチョウの卵を食べたのだろうと・・、
  また、約4万年前の人類が、ダチョウの卵の殻で装飾品
 を作っている。
  この卵の装飾品が、アフリカ東海岸の中央ケニアの岩
 窟で発見されている。
  家禽(かきん)として飼育された、世界での最初は、
 4000年前と言われる。
  エジプトの古文書に、紀元前1500年頃には、すでに鶏
 が、ほぼ毎日のように産卵したという記録がある。
  また、2500年前のローマでも、鶏が、採卵用に品種改
 良されたことが記されている。
  その後、鳴き声や尾の長さを鑑賞するために鶏が飼育
 されている。
  そして、日本には、古事記に、天照大神を呼び戻すた
 めに鶏を鳴かせたという話がある。
  「常世の長鳴鳥」の話。
  紀元前100年頃に、日本へ朝鮮半島からニワトリが伝わ
 ったという。
  奈良時代には、鶏は「時告鳥」として飼い、食べなか
 ったが、
  雉(きじ)は食べたようだ。
  この頃の人は、病気の時に卵が良いという事を知って
 いた。
  但し、日本人が鶏肉として食べる様になったのは江戸
 時代の頃からという。
  また、江戸時代には、卵売りの行商がいたという。
  1785年に出版された有名な料理本の「万宝料理秘密箱
 (まんぽうりょうりひみつばこ)」の「卵之部」に、103
 種類の卵料理が紹介されている。
  1850年には、イギリスで商業用の「採卵養鶏」が始ま
 っている。
  130年前(1875年)頃に、アメリカの小規模養鶏産業が
 盛んになり、近代養鶏に用いられる鶏の品種の多くが、
 主に、卵生産を目的として品種改良され、発展した。
  この頃の鶏肉は、卵生産の副産物だった。
  1955年代(昭和30年代)に、アメリカから新品種の養
 鶏の新技術が、我が国に導入され、
  以後、盛んになったという。
  我が国は、世界屈指の生産国であり、消費国となって
 いる。
・多くの野菜が、タマネギ、ハナハボタンなど移入される。
  1876年に、札幌農学校が開校したが、
  そして、ここに着任したクラーク博士が、欧米農業の
 導入の窓口として、農業試験場のような役割をしていた。
  1877年、ここに、農業分野担当として、ウイリアム
 ベン・ブルックスが着任した。
  クラークの後を引き継いだブルックスは、日本に腰を
 据え、日本の農業発展に大いに寄与した(10年間の在職)。
  その間、多くの野菜や牧草の種子を海外から取り寄せ、
 大いに日本の農業発展に尽くした。
  彼は、栽培法を学生だけでなく、周囲の農家にも熱心
 に指導した。
  栽培作物もどんどん増えた。
  玉ねぎ、ジャガイモ、とうきび、キャベツ、トマト、
 ニンジン、エンダイブコールラビなど・・と。
・長崎ハクサイを栽培した。
  長崎市の橋本氏が栽培したという記録がある(農事試
 験場試験時報昭和12年8月)
・大浦の生鮮食料品を扱う片岡商店が、日本人で初めての
 製パン所を併設した。
1877年、住:
・コンドルが来日した。
  日本政府の招聘により、英国の建築家のジョサイア・
 コンドルが来日した。
  工部大学校造形学科(現=東京大学工学部建築家)の
 初代教授に就任し、
  日本で初めて、本格的な西欧式建築教育を行った。岩
 崎邸竣工(1896年)
・日本初のコンクリート造の小曽根邸が建築された。
  大工の大渡伊勢吉は、港外伊王島灯台の建設に来た英
 人・ブラントからコンクリートの技法を習った。
  応用して、日本初のコンクリート造の小曽根邸が建築
 された。
  この建物は、戦時中に建物の強制疎開となり取り壊さ
 れた。
  また、この大工棟梁・大渡伊勢吉は、初の洋式無筋コ
 ンクリート造の伊王島灯台旧吏員退息所を建てた。
・工作局に器具染物製造所を設けて、欧米風の家具、及び、
 ラック塗、ワニス塗の業を始めた。
1877年、その他:
宮内省で、初めて電話の実演を行った。
  来日したグラハム・ベルが、宮内省で自身が発明した
 電話を実演した。
  グラハム・ベルは、工部省の招きで日本へやってきた。
  この日、並みいるお歴々を前に、ベルは、厳(おごそ)
 かに受話器を取り上げると、別室のメンバーと英語で通
 話してみせた。
  実験成功の直後、東京音楽学校の校長になる伊沢修二
 と留学生仲間で、後に、司法大臣になる金子堅太郎が、
 その電話で会話した。
  これは、日本語だったから、英語に続いて世界2番目に
 通話に使われた言語となった。
  工部省は、「これは便利」と早速同じものを『複製』
 して、各官庁間に設置した。
  ところが、電話を使う習慣がまったくなかったから子
 供の糸電話と同じとからかわれ、電話をかけるよりも出
 かけた方がよほど早いと敬遠された。
  それが、12年後の1889年(明治22年)には、東京〜熱
 海間に公衆電話が開設され、翌年・1890年には、東京〜
 横浜で電話交換業務が始まった。
  ようやく電話の便利さが認知されて、庶民向けのサー
 ビスが始まった。
.
[今日の言葉]
  アメリカの「民営化の圧力」で、民営化したため、日
 本で起きたことは・・?
  官公庁の手を離れたことで・・何が起きているのか・
 ・・?
  アメリカは内政干渉レベルの事を日本に要求して来た。 
  アメリカは、内政干渉の悪行為を、日本にして来た。
  まったく、自分だけの理屈を、アメリカは日本に強い
 て来た。
  その結果は・・?
  アメリカの「民営化せよ」との圧力で、民営化したた
 め、官公庁の行為が後退し、そのため、日本の品質・・
 その品質が低下をきたしている。
  その一つが・・「建築の検査」。
  日本が大きく揺れた問題・・、杭のデーター捏造で、
 大きな問題が起きたが、これも、そのほんの一つの1事例。
  民間へと移った検査が、厳しい官公庁へ検査を依頼す
 る事が、避けられ、ほとんどが民間の検査となっている。
  この事は、実際に起きていることを、体験し、多くを
 見聞きしているので、間違いない事なのである。
  民間委託した検査は『甘い』。
  競争状態においたとアメリカは言うが、検査を甘くし
 て、客を取ろうとする(一見、競争状態の)民間検査機
 関。
  こんな事が、こんな状態が、アメリカの言う「競争の
 実態」なのである。
  損をするのは、被害を受けるのは、「日本国民である」。
  当然である・・
  検査の申請を、甘い検査をする民間機関に持って行く
 のは当然である。
  委託された民間検査機関に、検査依頼する事が当然で、
 多くなっている。
  そこに、甘い検査がある。
  癒着もある。
  良く言えば、その民間の検査機関は、「融通をする」。
  そして、また、良く言えば、「善処する」・・である。
  事なきを得る・・ことを、起こしてくれる民間検査機
 関となっている。
  次も、その人は・・次も、その客は・・その民間検査
 機関へ検査依頼書を持って行くだろう。
  こんなことが・・日本で起きている。
  官公庁での検査の時には起きていなかったことが・・
 起きている。
  アメリカの圧力に屈した検査制度を、元に戻すべきで
 ある。
  アメリカの圧力に屈したすべてを・・元に戻すべきで
 ある。
  アメリカは、日本を自分の理屈で・・内政干渉までの
 口出しはしないこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive