(増補版)405E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月〜1885年1月)

題:(増補版)405E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月〜1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年、食:
・三田育種場『再植馬鈴薯の記』を刊行した。
  11代将軍・家斉(いえなり、在位:1787年〜1837年)
 の頃、
  蝦夷地の探索中の最上徳内が、ロシア人からジャガイ
 モをもらう。
  家斉の治世、最後の頃、大飢饉(1833年1839年、天
 保の大飢饉)となる。
  蘭学者高野長英は、1832年、飢饉対策として作られ
 た研究会に入り、中心的役割を果たした。
  救荒作物として、蕎麦と馬鈴薯(じゃがいも)の栽培
 を奨励した「勧農二物考」という書物は、この成果だっ
 た。
  1871年明治4年)、北海道で、今度はアメリカから
 もたらされたジャガイモの試作が始まった。
  1885年(明治18年)には、ジャガイモの作付けに拍車
 がかかり、全国に普及した。
  そして、この年、東京の三田育種場が『再植馬鈴薯
 記』のパンフレットを作って配布した。
  これには、栽培の仕方はもちろん、調理法まで記述し
 てあった。
・大阪の屠牛数12,676頭に達し、同年の日本全屠牛中数の
 約80%を占めた。
・グラバーの息子の倉場富三郎が、長崎に製氷会社を設立
 した。
  1859年、横浜開港以来、幕末横浜の外人居留地に、米
 国ボストンの天然氷が、アフリカの喜望峰を大迂回して
 半年がかりで、1万5千海里の海原を渡って、日本に輸入
 された。
  主として、外人の医療用等に使われた。
  当時、横浜に到着したボストン氷は、ビール箱の大き
 さで黄金3両(30万円)した。
  日本には、中川喜兵衛という天然氷事業を興した人物
 がいた。
  中川喜兵衛は、1817年(文化14年)、愛知県三河に生ま
 れた。
  中川喜兵衛は、京都に学び、40歳で、江戸で英公使館
 のコックとなった。
  医師ヘボンから、氷が、医療用・食品保存にきわめて
 有益であると教わり、
  天然氷の事業化に執念を燃やした。
  まず、横浜で、牛乳販売所を開業して資金を蓄積した。
  そして、1861年文久元年)、氷事業を始めた。
  1861年の最初の試みは、富士山麓鰍沢に、165㎡の製氷
 池を造り、100㌧2千個の氷塊を得て、採氷し搬出した。
  木箱に、オガ屑をつめ、氷を包んで馬の背で運び、静
 岡・江尻港より、日本の帆船2隻で、横浜へ輸送した。
  しかし、 途中難航し、横浜に到着した時は、僅か8㌧
 となり、1715両(約5億円)の損失となった。
  2度目の試みは、2年後の1863年、信州の諏訪湖で、湖
 水氷の採氷、輸送を試みたが、再び、失敗した。
  3度目の試みは、1864年(元治元年)「日光赤城」の名
 で、56里を馬で運び、高瀬川を下り、横浜に運んだが、
 製造、輸送費を回収できずに失敗した。
  4度目の試みは、翌年・1865年(慶応元年)陸中釜石で
 300㌧採取し、帆船で横浜へ送ったが、約1割の30㌧しか
 残らず、採算とれず、失敗した。
  5度目の試みは、翌年・1866年(慶応2年)青森県で採
 氷したが、運搬船が外国船しかなく、その費用捻出不能
 で空しく氷を溶解してしまった。
  6度目の試みは、今までの失敗が、すべて輸送の不備に
 よることを反省し、ヘボンの強い激励によって、他の業
 務をなげ打って、 用意周到に計画を練り、米国技師を
 招聘し、函館の榎本武揚の援助を得て、
  北海道開拓使(今の北海道開発長官)黒田清隆より、五
 稜郭における7年間の採氷専取権を得て、全財産を投入し、
  1867年(慶応3年)北海道函館にわたり、6回目の挑戦を
 したが、
  暖冬のため薄い氷しかできず、250㌧の氷を横浜に回送
 して大損失、 窮乏のどん底に陥入った。
  そして、第7回の挑戦を試みた。
  1869年(明治2年)ついに、純良な500㌧の氷の採氷に成
 功した。
  氷の厚さ40センチ(1尺3寸)、これを外国船を仕立てて
 京浜地区に輸送し販売した。
  大成功だった。
  五稜郭の外濠は水質が良く、運搬の便も良かったこと
 が幸いした。
  ボストン氷と競争状態になったが、わずか1年で、外国
 氷を駆逐した。
  翌年・1870年(明治3年)600㌧、1882年(明治15年
 3,400㌧を採氷するまでになった。
  当時の氷は、1㎏約7銭、米1㎏3.5銭、
  氷は、米の約2倍の価格だった。
  その後、台湾、清国、韓国、シンガポール、南洋、イ
 ンドまで輸出した。
  中川は、米国から氷採取機械を輸入し、完全な氷製品
 を出荷し、内国博らん会の大賞を受賞した。
  また、宮内庁ご用達に採用され、五稜郭氷の名声を高
 めた。
  この中川の成功を聞き、全国的に採氷池が続出し、天
 然氷事業の普及・発展がもたらされた。
  日本の機械製氷は・・、
  有名な話として・・、1870年(明治3年)夏、福沢諭吉
 は熱病でかなり苦しんだ。
  たまたま、福井藩主・松平春獄公が、外国製の小型製
 氷機を所有していた。
  それが、遊休していることを、慶応義塾の塾生が知り、
 これを借りて少量の氷を造り、
  諭吉の解熱に使ったのが日本の機械製氷の始まりであ
 った。
  1879年(明治12年)オランダ人のストネーブリングが、
 横浜に、最初の機械式製氷工場(日産能力3㌧)を設立し
 た。
  1887年(明治16年)日本人による日本最初の製氷会社
 が、東京京橋新富町に建設された。
  東京製氷会社(日産能力6㌧)だった。
  以後、天然氷と機械氷の激しい競争が始まった。
  1889年(明治22年)当時の氷価は、12貫匁(45㎏当り)
 五稜郭天然氷80銭、日光天然氷70銭、神奈川天然氷65銭、
 機械氷60銭・・だった。
  この年・1889年(明治22年五稜郭の貸与規則の変更
 により、天然氷の採取も中止となり、
  中川氏は、機械製氷時代への移行を看破し、
  自ら、東京機械製氷会社を設立計画し、
  1898年(明治31年)東京業平橋に、事業を開始したが、
  中川氏本人は、前年の1897年(明治30年)1月4日、東
 京越前堀の自宅で、80才で他界された。
・経営破綻したビール会社スプリング・バレー・ブルワリ
 ーをグラバーらが買取る。
  スプリングバレー・ブルワリーは、キリンビールが展
 開するオリジナルのクラフトビールを提供する店舗だが
 ・・、
  1870年(明治3年)ウィリアム・コープランドが、横浜・
 山手に日本初のビール醸造所として設立した。
  だが、その後、スプリングバレー・ブルワリーは破産
 する。
  1885年(明治18年)に、「ジャパン・ブルワリー・カンパ
 ニー」へと経営が移った。
  1888年明治21年)に、「キリンビール」というブラン
 ド名のビールを発売した。
  そのジャパン・ブルワリーから経営を引き継いで、
  1907年(明治40年)2月23日に、現在の麒麟麦酒が創業
 した。
  スプリングバレーブルワリーは、キリンビールの起源。
 そして、コープランドは、その生みの親。
  スプリングバレーブルワリーのあった場所は、横浜・山
 手の外人墓地や、港の見える丘公園の近くで、
  当時、山手居留地123番地と呼ばれていたところ。
  ここに、ビール工場が建設された理由は、美味しい天
 然水が湧き出る場所だった。
  小高い丘の上にある港の見える丘公園付近から海側は
 急な斜面になっているが、
  ビール工場があった所は、ちょうど谷間(バレー)に
 なっていて、湧水(スプリング)が湧き出していた。
  そして、スプリングバレー・ブルワリーと名付けた。
1885年、住:
・摺附木(マッチのすりつけぎ)に黄燐使用を禁止した。
  黄麟は、湿った空気中では自然に燃えだし、猛毒。
  摂氏55度(55℃)で発火し、五酸化二リンの白煙をあ
 げながら激しく燃える。
  1830年に、フランスのソーリアが黄燐マッチを発明し
 た。
  これは、頭薬をどんなものにこすりつけても発火する
 ため普及したが、その分、自然発火が起こりやすく、
  また、黄燐がもつ毒性が問題となって、
  製造者の健康被害も、社会問題化した。
  そのため、19世紀後半に、黄燐マッチは禁止されてゆ
 き、
  1906年、スイスのベルンで、黄燐の使用禁止に関する
 国際会議が開かれて、黄燐使用禁止の条約が採択された。
  欧米各国は批准した。
  しかし、マッチが有力輸出商品だった日本は、加盟し
 なかった。
  結局、1921年(大正10年)になって、ようやく、日本
 は、黄燐マッチの製造が禁止した。
  その後、赤燐を頭薬に使用し、マッチ箱側面にヤスリ
 状の摩擦面をつけた赤燐マッチが登場した。
  19世紀半ばに、側面に赤燐を使用し、発火部の頭薬に
 塩素酸カリウムを用い、頭薬を側薬(横薬とも)にこす
 りつけないと発火しない安全マッチが登場した。
東京瓦斯株式会社が設立された。
  沿革・・、
  1872年(明治5年)横浜で、日本初のガス事業が始まる。
     高島嘉右衛門により、馬車道通りに街灯として
    ガス燈が灯ったことに始まる。
  1874年(明治7年)東京府芝区浜崎町(現港区海岸、現
    本社所在地、当時金杉橋)で、ガス製造工場が稼
    働し、銀座通りにガス灯が点灯。
  1876年(明治9年東京府瓦斯局が開設された。
  1885年(明治18年)10月、当時の東京府から、東京府
    瓦斯局の払い下げを受け、渋沢栄一浅野総一郎
    らによって、東京瓦斯会社として創立された。
横浜市初めて鉄管使用の上水道を設ける。
  横浜は、今の、特区的な地域だった。
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道として存在し
 た。
  神奈川県知事は、英国人技師H.S.パーマー氏を顧問と
 して、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に完成した。
  1887年(明治20年)10月17日に、給水が開始した。
  戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口は、
 日増しに増加し、市街は急激に発展した。
  当時、住民は、水を求めて井戸を掘ったが、
  横浜は、海を埋め立てて拡張してきたので、良質な水
 に恵まれず、ほとんどの井戸水は、塩分を含み、飲み水
 には適さなかった。
  1890年(明治23年)の水道条例制定に伴い、水道事業
 は、市町村が経営することとなり、
  同年・1890年4月から、横浜市に移管され、市営として
 運営されるようになった。
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  (今日の言葉)
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  題:国を売る・・金の力で、だんだんと牛耳られて行く・・
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19世紀、ヨーロッパで、金の力を使って、国を乗っ取るこ
 とが行われた。
  それが、20世紀になると世界中で行われ出した。
  かつては、アメリカが、ヨーロッパ資本によって、乗
 っ取られていた。
  それが、今では、アメリカが、盛んにやっている。
  そして、今、中国が、その手をやり出している。
  最近、アメリカのシカゴの新聞社の資本が中国になり
 (乗っ取られて)、中国に都合の良い記事が書かれ出し
 ている。
  日本の朝日新聞は、日本を売る、国を売る様な事をし
 ているが、
  嘘の記事まで書いてやったが、
  それも、何年も経って、やっと作り話だったと白状す
 る、認めるという卑怯な、卑劣な始末となったが、
  この様に、謝罪をしたって、海外版では、今でも、そ
 の謝罪はなんのその、日本を売るような記事を、今だに
 出しているという状態。
  何か?その様にする理由があるのか?
  金の力が働いているのか・・?
  中国は、金の力で、あちこちに手を伸ばしているが、
 沖縄が、この洗礼を受けている。
  この金の力に負けた輩が増えている。
  今、アメリカは、やられていた時代もあったが、やっ
 ている方になっている。
  やられている時は、ヨーロッパ資本に、企業が、どん
 どん買い取られて、アメリカ議員まで、連邦議会の議員
 たちまで買収された。
  色々な手段で、色々、金の力の影響を与え、その国の
 経済や、政治を牛耳って行く状況が現れている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive