(増補版)293E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年9月〜1870年1月)

題:(増補版)293E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年9月〜1870年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年9月14日(8月9日)デンマークに注文の電信敷設用の
 諸機械が、横浜に到着した。
1869年9月17日(8月12日)民部、大蔵の二省合併される。
1869年9月18日(8月13日)医学校(東京大学医学部の前身)
 において最初の人体解剖行われる。
1869年9月19日、平民に姓(氏)の呼称を許可する(苗字使
 用の許可)
1869年9月20日(8月15日)蝦夷地を北海道と改称した。
  蝦夷地を北海道と改称し、11か国86郡を置いた。
  当初、開拓使は、直轄地以外の経営を水戸・佐賀など
 の諸藩や、東京府、兵部(ひょうぶ)省などに割り当てる
 分領開拓の方式を採用したが、
  全道の統一的開拓が困難なため、1871年8月までに、す
 べて開拓使の直轄となった。
  なお、樺太(からふと)と改称された北蝦夷地には、ロ
 シアとの関係が緊迫化したため、1870年2月、開拓使の管
 轄から外れて樺太開拓使が置かれ、
  開拓次官・黒田清隆(きよたか)が、その専務となった
 が、翌年の1871年8月に、北海道開拓使に併合された。
  開拓次官の黒田は、就任直後に、道内および樺太を巡
 視した。
1869年9月25日(8月20日明治新政府が、東京市内の地所
 約916万6770坪を民間に払下げを行う。
  一坪の売価が、1銭5厘〜2銭5厘(現在の価格に換算す
 ると150円〜250円相当)
  新政府は、旧幕府側の大小名屋敷や旗本屋敷等の一切
 の土地を、政府へ返還せしめたため、広大な空地が生じ
 た。
  そこで、桑や茶を植えたり、あるいは畑にした方が好
 いだろうということで、民間に払下げを許す事になった。
  政府は、いつまでも空地のままで放って置けないので、
 日比谷を練兵場にしてみたり、
  その他の地所は、富豪に勧めて、
  ほとんど、半ば強請的に千坪二千坪と区切って買取ら
 せ、着々と処分を進めた。
  明治初年には、地所を買っても、そのまま畑にもしな
 いで、板塀で囲ったまま、草茫々たる空地があちらにも
 こちらにも沢山見られた。
  今の東京駅前辺りは、三菱ヶ原と呼ばれ、停車場が建
 てられる直前まで、草原のままで放任され、
  その草深い中に他殺死体が発見されたという、今から
 考えると嘘のような事もあった。
  明治維新以来の東京は、茫漠たる原野と化し、日暮か
 ら通る者も無い、往古の武蔵野に還ったような情態であ
 った。
  明治23年陸軍省でも、東京の空地を持余して、渋沢、
 大倉、岩崎、三井等の富豪を招き、懇談的に払下げの相
 談に及んだところ、誰一人引受手が無く、
  結局、岩崎家が貧乏くじを引いたつもりで、10万坪を
 坪5円当りで(50万円)背負い込む事になった。
  荒地のままで放っておいたが、明治27年に漸く二重橋
 前通りの正面中通りに、唯一軒、初めて赤煉瓦の西洋館
 が建てられた。
1869年9月30日(8月25日)菊花御紋章の制定められる。
  十六八重表菊が、日本の天皇陛下、および、皇室を表
 す御紋章で、俗に菊の御紋とも呼ばれる。
  太政官布告をもって、この年に制定された。
1869年9月、農民一揆、各地で頻発(新潟、仙台、南部、高
 山、福江、松江、長崎、飯田、高崎、郡上、甲府、延岡
 など)。世情不安(氷川清話)
1869年、軍楽隊の初め(薩摩藩)。
  最初の近代軍楽隊は、1869年(明治2年)薩摩藩が、イギ
 リス海軍軍楽隊長・フェントン(生没年不詳)の指導を受
 けて編成した薩摩藩軍楽隊である。
  1871年に、陸・海両軍に軍楽隊が誕生した。
  この時に発足した兵学寮教導隊軍楽隊が、後の陸軍戸
 山学校軍楽隊で、演奏活動のほか、軍楽教育機関も併せ
 もった。
1869年10月、イギリス人フェントンが、薩摩藩の依頼で軍
 楽隊の皇礼式曲として「君が代」を作曲した。
  1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩
 楽隊)の隊員に対し、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の
 軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンが、国歌、
 あるいは、儀礼音楽を設けるべきと進言し、
  それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩
 藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌日本陸軍元帥)
 が受け、
  大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が
 採用された。
1869年10月8日(9月4日)兵部大輔・大村益次郎、京都で襲
 撃される。
  翌4日夕刻、大村は、京都三条木屋町上ルの旅館で、長
 州藩大隊指令の静間彦太郎、および、大村の鳩居堂時代
 の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、
  元長州藩士の団伸二郎、同じく、神代直人ら8人の刺客
 に襲われた。
  静間と安達は死亡。
  大村は重傷を負ったが、1869年12月7日(旧暦11月5日)
 に死亡した。
1869年10月18日(9月14日)オーストリアと通商航海条約
 調印
1869年10月22日(9月18日)東京築地に、海軍操練所を開所
 (海軍兵学校の前身)
  海軍操練所の流れは・・、
  江戸時代末期の幕府の海軍教育機関を元治1年 (1864年)
 5月神戸に開設 → 翌年・1865年廃止 → 明治初年の
 海軍軍人養成所。海軍兵学校の前身 → 明治2年 (
 1869年) 9月、東京築地に兵部省が設置した。
1869年10月23日、東京〜横浜間に国内初の電信線が着工(
 6月19日説あり)
  12月25日、公衆和文電報の取り扱いが始まる。
  日本の電信による通信の初め:
  1854年のペリーの2度目の来日の際に、米国大統領ミラ
 ード・フィルモアから、江戸幕府へ1/4サイズの蒸気機関
 車と共に贈られた「エンボッシング・モールス電信機」
 によるものであった。
  エンボッシング・モールス電信機は、受信側で信号が
 紙テープへ記録されるもので、この電信機のセットで約
 1マイル(1.6km)の電線を用いて送信された。
  この時の電文は、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)で
 あった。
  その後、幕末の混乱の中で、電信の普及は無かったが、
 明治維新後の1869年(明治2年)に、英国の通信技師を招
 き、横浜燈台役所と横浜裁判所の間に、電信回線が敷設
 され、ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文
 字を指す方式)による通信が始まった。
  同年中には、東京〜横浜間で電信による電報の取り扱
 いが始まった。
  明治政府は、電信網の重要さを認識しており、整備に
 力を入れた。
  東京・横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で、電信網は、全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  因みに、ブレゲ指字電信機は、時計のような形をした
 電信機で、送信したい文字に針を合わせると、受信側で
 も同じ文字を指してメッセージを送信するという仕組み。
  モールス信号は、文字と信号を覚える必要があったが、
 ブレゲ指字電信機は、その必要がなく、誰でも扱うこと
 ができた。
  しかし、ブレゲ指字電信機には、1秒間に5〜6文字程度
 しか送れない、通信線の敷設に多額な費用がかかるなど
 の欠点があった。
  そのため、多くの文字を送ることができ、通信線の敷
 設費用が安いモールス信号へと置き換わっていった。
1869年10月(明治2)、ばんどり騒動
  越中国新川郡で,加賀藩の厳しい封建支配に反抗して
 起こった農民一揆
  同年は、大凶作であったが、加賀藩は、貢租の徴収を
 強行した。
  新川郡の農民たちは、10月,塚越村忠次郎を発頭人
 し、貢租徴収の公正、農村役人(徴税機関)である十村(
 とむら)・同手代・惣代肝煎の公選、貢租減免、物価引下
 げなどを要求して蜂起した。
  ときに晩秋で、数万の農民たちはばんどり(蓑)をまと
 って集結したので,この呼称がある。
  農民騒擾(のうみんそうじょう)・・、
  王政復古により成立した明治維新政府の旧体制下と変
 わらぬ政策に対し、
  「御一新」の幻想を破られた農民は、各地で反対一揆
 を展開した。
  とくに1869年(明治2)には、大きな高揚がみられ、政
 府に動揺を与えた。
  このあと、71年7月の廃藩置県以後の学制(72年8月)、
  徴兵令(同年11月)、地租改正(73年7月)を中心とし
 た一連の諸政策に対して、農民一揆はふたたび高揚を示
 すことになる。
  とくに73年は、学制・徴兵令への反対を中心とする一
 揆の激発により、一つのピークを形成した。
  この高揚は、地租改正事業の進展のなかで、地租改正
 反対一揆へ受け継がれていった。
  他方政府は、先進資本主義諸国の圧力に促されて資本
 主義的生産様式を採用すべく、
  殖産興業政策のもとに鉄道・電信・電話の敷設、鉱山
 の官収などを進めた。
  これらの諸事業に対しても、それに反対する電信・鉱
 山騒擾が激烈な形態で爆発した。
1869年11月4日、明治期のベストセラー筆者・福沢諭吉は、
 コピーライト(著作権、複製権、版権、Copyright)を
 「版権」と訳すなど著作権にも詳しかった。
  自費で出した『西洋事情』『世界国尽』『学問のすす
 め』などの海賊版まで出たため、たまりかねて大阪府
 事に取締要望書を出した。
1869年11月5日(10月2日)政府が、海軍はイギリス式、陸
 軍はフランス式と定めた。
1869年11月10日(10月7日)庶民の西洋型船舶の所有が許
 された。
1869年11月23日、勝海舟、兵部大丞仰せ付けられる。
  即日辞退の旨述ぶ。未だ命を得ず(氷川清話)
1869年11月25日(10月22日)西周兵部省に出仕(以後、
 陸軍軍制の整備・軍人勅諭の制定などに参画)
1869年11月26日(10月23日)無提灯の夜行を禁止
  ガス灯が、日本に点火したのは明治5年だった。
  場所は、横浜の外人居住区、これが最初だと言われて
 いる。
  次に、明治7年、東京の芝の金杉橋から京橋までの表
 通りに85基が点火した。
  ガス灯は、文明開化の象徴として、大歓迎された。
  やがて、浅草まで伸びた。
  しかし、ガスの供給ができなかった
  浅草では、ガス灯と同じ形の街灯を立て、中に石油ラ
 ンプを点火して、ガス灯と呼んだ様だ。
  明治11年になると、銀座に点火された。
  アーク灯が、わずか数年で白熱灯に代わったのに比べ
 て、ガス灯の方は、大正の大震災まで灯し続けられた。
  ガス灯の燃える明かりが、アーク灯より日本人の情緒
 に合っていたものと考えられる。
  紫舟は・・
  蒸暑く 閉じたる部屋の 瓦斯の灯に 
            検温器見る 夏の夕暮れ
  ・・とうたっている。
  ガス灯が、室内に使われたのは、明治16年鹿鳴館が、
 最初のようである。
  一般の家庭に使われたのは、東京ガス会社が設立され
 て、配管工事が行われるようになった明治20年以後のこ
 と。
  しかし、この方は、ランプほどの普及はなくて、やが
 て電灯に取って代わられた。
1869年12月、稲葉騒動(いなばそうどう)
  稲葉騒動とは、明治2年(1869年)12月に、西尾張地域
 一帯(稲沢・尾西・一宮・津島の133村)で起こった大規
 模な農民一揆
  発端が、美濃路の稲葉宿であったことから、稲葉騒動
 と呼ばれた。
1869年(明治2年)12月1日、大楽源太郎(だいらくげんた
 ろう)率いる奇兵隊が乱を起こした。
  大楽源太郎は、1869年(明治2)、政府の国民徴兵制に
 反対し、
  兵部大輔(ひょうぶたいふ)大村益次郎(ますじろう)の
 暗殺事件に関係ありとして、幽閉されたが、脱走した。
  ついで、藩の脱隊騒動を指導したとして探索を受け、
 翌年九州日田県の農民一揆(いっき)を指導し逃走中、久
 留米(くるめ)で暗殺された(1832年1871年
  別史料には、1869年(明治2)の諸隊脱隊騒動に参加して
 敗走し、九州で再起を図ったが,潜伏先の久留米藩によ
 って暗殺された・・とある。
1869年12月6日(11月4日)海軍操練所を海軍兵学寮、
 大阪兵学寮を陸軍兵学寮と改称
1869年12月6日(11月4日)大阪造幣寮(後の造幣局)が火
 事になった。
  この造幣寮の権判事・斎藤弥九郎は、この時、72歳の
 老齢であったが、
  さすがに、幕末に鳴らした剣道の指南役だけあって、
 六男の六郎之助を従えて、真先に駆けつけ、
  狼狽して騒いでいる使用人に、「倉庫の重要書類を出
 したか?」と尋ねた。
  使用人が、「アッ、うっかりしておりました」という
 のを聞くと、
  手桶の水をザブリと頭から被って、阿修羅のように、
 火炎の中に飛び込んで行った。
  六郎之助も、父に負けじと、同じ様に水を被ってその
 後に続いた。
  斎藤父子の命懸けの働きで、重要書類だけは、無事に
 取出せたが、そのため、二人は、大火傷を負って病院に
 担ぎ込まれた。
  造幣頭の井上馨が、病院に見舞いに来て、源九郎の手
 を固く握って、「あんたは、明治の大川友右衛門じゃ」
 と言って、感激の言葉を述べた。
  ちなみに、大川友右衛門は、講談『細川血達磨』で猛
 火中に飛込み、お家の重宝を割腹した腹中に収めて全う
 したという美談の主。
  斎藤弥九郎は、幕末の剣豪で、神道無念流の達人、千
 葉周作(北辰一刀流)や、桃井春蔵鏡新明智流)とと
 もに三傑と称された程の人物だった。
  江戸の飯田町に、練兵館という道場を開いて、盛んに
 少壮志士の腕を磨いた。
  長男の新太郎(二代目弥九郎)、木戸孝允を始め、楠
 本正隆、渡邊昇ら、後の、明治新政府の大官達多数が、
 この道場から輩出した。
  かっては、彰義隊一党が、彼を迎えて党首にしようと
 した。
  しかし、彼は、順逆の大義を説いて、断然これを刎ね
 つけた。
  明治政府となって、道場も賑わなくなったが、間もな
 く、大阪造幣寮の権判事に用いられた。
  なお、火傷の方は平癒したが、高齢のため東京に帰り、
 1871年明治4年)、火事から約2年後、病気により没す。
1869年12月7日、勝海舟、帰省願の上、静岡に帰る(氷川清
 話
1869年12月7日(11月5日)大村益次郎、逝く
  大村益次郎が没した(1824年〜1869年)(46歳)
  1869年10月8日(9月4日)に襲撃され、手術を受けるも、
 旧暦11月1日に至り、敗血症による高熱を発し、容態が悪
 化した。
  この年(1869年)兵部大輔となり、兵権の中央政府
 の統一をはかったが、その急進的な兵制改革は、守旧士
 族の反感を招き、神代直人らに京都で襲われて重傷を負
 い、大阪病院で死んだ。
  事実上の日本陸軍創始者と言われる。
  賊、大村益次郎を殺す(氷川清話)
1869年12月12日(11月10日)政府、鉄道布設のことを決議
 する。
1869年12月12日、勝海舟、徳川へ退身書を差出す。これは
 逸民でありたいことを乞う為である。(氷川清話)
  逸民:いつみん、俗世間を逃れて、隠れ住む民。
1869年12月21日(11月19日)金銀銅の自由貿易を禁ず。
1869年、東京・大阪などに、通商会社・為替会社が開業し
 た(株式会社、発券銀行の起こり)
  明治政府の殖産興業政策推進を目的に通商司(勧商、
 産業政策担当の政府機関)の監督下に、通商会社ととも
 に設立された、日本最初の株式会社。
  その任務として、幣制整備、民間融資とあわせて、商
 業、貿易を担う通商会社に信用を与えることが期待され
 た。
  政府は、三井、小野、島田などの富商に勧めて、東京、
 横浜、京都、大阪、神戸、大津、新潟、敦賀(つるが)の
 8か所に為替会社を設立させた。
  運用資金は、これら富商の出資した身元金(資本金)
 のほか、その一部を金準備として発行した紙幣、政府の
 貸下げ金(太政官札(だじょうかんさつ))であった。
  業務は、紙幣発行、貸出のほか、預金、為替、両替な
 どをも行ったが、政府の保護にもかかわらず営業は振る
 わず、1871年の通商司の廃止とともに衰え、翌・1872年
 の国立銀行条例の制定にあたり、第二国立銀行に転形し
 た横浜為替会社を除いてすべて解散した。
1869年、パンの製造
  日本人の手によってパンが作られたのは、1840年に中
 国で起こったアヘン戦争がきっかけだった。
  徳川幕府は、日本にも外国軍が攻めてくることを恐れ、
 兵糧としてパンを作らせた。
  米飯では炊くときの煙が敵方にとって格好の標的にな
 りかねないのが理由だった。
  また、固いパンは、保存性と携帯性の面ですぐれてい
 ると考えたからだった。
  この時、パン作りの指揮をとったのは、江川太郎左衛
 門だった。
  1854年に、横浜、神戸など港町を中心に、パン作りが
 広がった。
  また、1869年に、現存するパン屋でもっとも古い「木
 村屋総本店」が銀座に開業した。
  6年後(1875年)には、日本独特の「あんパン」が発売
 され、人気商品になった。
1869年、人力車が発明された。
  和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が、発明者とし
 て明治政府から認定されている。
  3名は、東京で見た馬車から着想を得て、1868年に、人
 力車を完成させた。
1869年、脱隊騒動(だったいそうどう))
  1869年(明治2)から翌年にかけて、長州藩の諸隊脱隊
 兵が藩の常備軍編成に対する不満から反乱を起こした事
 件。武力により鎮圧された。
1869年、アメリカ大陸横断鉄道がなった。
1869年、メンデレーフ(ロシア)が元素の周期律を発見し
 た。
1869年、イスタンブール大学設置された。
1869年、この頃、アニリン染料が発明された。
1869年11月17日、スエズ運河が出来た(開通した)。
  建設開始は、1859年4月25日だった。
  建設に、約10年半を要した。
  フランスは、エジプトと協力して完成させた。
  1875年からイギリスが支配権を手に入れた。
  11月17日の午前8時、エジプトのスエズ地峡の地中海
 と、紅海(スエズ湾)を結ぶ海面と、水平な人工のスエ
 ズ運河が開通した。
  これによって、アフリカ大陸を回りこまずにヨーロッ
 パとアジアを海運で連結することができるようになった。
  運河は、北端のポートサイドと、南端のスエズ市タウ
 フィーク港を結んだ。
  全長は193.3キロメートル、深さは8メートル。
  開通式では、フランス皇后・ユージェニーが乗る皇室
 所有のエーグル号が先頭を切った。
  その後に続くイギリス船などの総勢48隻が、ポートサ
 イドから運河を渡った。
  オーストリア皇帝など、ヨーロッパ中から1000人以上
 の賓客が出席した。
1869年、フランシス・ゴルトン(イギリス)が、「遺伝的
 天才」という本を著した。
  この本の中で、彼は、「人間の才能がほぼ遺伝によっ
 て受け継がれるものである」と主張し、そして、更に、
 「人間も人為選択を適用すればよりよい社会ができる」
 と論じた。
  このゴルトンの論理はイギリスに受け入れられ、アメ
 リカにも伝わり、アメリカはイギリスより大きな影響を
 受け、「断種法」を成立させ、劣等な遺伝子を持つとア
 メリカの判断した方々が断種された。
  この考え方・論理の思想は、キリスト教の有色人種蔑
 視など人種差別の考え方・教義に洗脳されたところから
 由来している。
  また、ナチスがこれと同じ考え方をして、劣等因子を
 持つ方々を殺戮し、軽蔑すべき卑劣な大虐殺であるユダ
 ヤの方々への行為に及んだ。
  この思想の発端のゴルトンは、キリスト教聖職者のダ
 ーウィンの従兄弟である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive