(増補版)284E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年7月〜1868年8月)

題:(増補版)284E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年7月〜1868年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年7月4日(5月15日)上野にたてこもった彰義隊が、
新政府軍の攻撃で敗退した。
  戦火で、1,200戸が焼失(上野戦争)。
1868年7月4日(5月15日)新紙幣の太政官札(金札)が発行
 された。
  明治政府によって、慶応4年5月から明治2年5月まで、
 太政官札(だじょうかんさつ、不換の政府紙幣)5種(
 10両・5両・1両・1朱・1分)が発行された。
1868年7月5日(5月16日)中外新聞が、別段中外新聞を発行
 した。
  彰義隊攻撃の戦況を報道した。
  これは、新聞号外の初めとなっている。
  幕臣の柳河春三(やながわしゅんさん)は、1863年3月
 (慶応4年2月)に、この新聞を創刊した。
  そして、これが、日本最初の邦字新聞となった(日本
 人による本格的な新聞)。
  この頃としては珍しく全国に普及した。
  創刊後わずか1ヶ月で、部数が1500となった。
  外国新聞を翻訳して、外国事情を紹介しながら、国内
 の事を報じた。
  1868年7月27日(旧暦6月8日)45号で発禁になったが、
 1869年(明治2年)に再刊された。
1868年7月6日(5月17日)パリ万国博の将軍の名代が帰国し
 た。
  パリ万国博に将軍の名代として赴いた人たちが、4月に
 入ると、8日ブローニュの森、11日ヴェルサイユ、12日サ
 ンクルーの大演習・・と立て続けに外出した。
  ヴェルサイユでは、ルイ王朝の残影に、幕府の衰運を
 見る思いだっただろう。
  4月26日、栗木鋤雲(くりもとじょうん、幕臣、思想家、
 ジャーナリスト)は、渋沢栄一(しぶさわえいいち、幕
 臣、実業家など、後述参照)らに見送られてパリのリヨ
 ン駅を立ち、帰国の途に・・、
  翌日、マルセイユを発って航海へ、
  往路と同じ上海経由で、旧暦5月17日横浜着(フランス
 郵船ファーズ号の入港は、その前日・西暦7月5日だった)。
  2日前に、彰義隊は壊滅していた。
  そして、幕府・フランスの提携の盟友・小栗上野介
 こうずけのすけ)は官軍に斬殺されていた。
  また、江戸城が明け渡されたのは、すでに2ヶ月前の事
 だった。
  渋沢栄一の事を以下に記す・・、
  渋沢氏は、幕臣であり、実業家であり、また、第一国
 立銀行や東京証券取引所など
  日本を形成する背骨を設立し、
  また、多種多様な企業の設立・経営に関わっており、
  日本の資本主義の父という人・・大偉人である。
  また、理化学研究所の創設者でもあり、教育者でもあ
 る。
  渋沢氏は・・1840年3月16日に、武蔵国榛沢郡血洗島村
 (現:埼玉県深谷市血洗島)に、農家の長男として生ま
 れた。
  北辰一刀流の千葉道場にも入門している。
  一橋慶喜にも仕えた。
  この幕臣時代、パリ万博へ行って、見て、そして、ヨ
 ーロッパ各地も見て・・大いにこれからの・・人生の糧
 を得た。
  またこの時、開成所奉行支配調役にも任命され、勤め
 た。
  帰国後、時代は変わっていた・・幕府は無くなってい
 た。
  渋沢氏は、慶喜のいる静岡へ向かった、そして、慶喜
 から、「これからお前の道を行くように」との言葉を与
 えられる。
  大隈重信の勧め・推薦から・・大蔵省に入省する。
  そして、明治維新は、明治政府に仕えることになった。
  ここで、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
  日本赤十字社社の設立にも携わる。
  明治6年退官し、第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭
 取に就任、以後、実業界に身を置く。
  そして、七十七国立銀行など多くの地方銀行の設立を
 指導し、
  また、東京ガス東京海上火災保険王子製紙、田園
 都市(現:東京急行電鉄)、秩父セメント、帝国ホテル、
 秩父鉄道京阪電気鉄道東京証券取引所、キリンビー
 ル、サッポロビール東洋紡績、大日本製糖、明治製糖
 などなどなど・・、
  多種多様の企業の設立に関わった。
  その数は・・500以上・・、
  そして、アメリカの卑劣な排日行動に心を痛め、日本
 を知ってもらうために通信社を立案した。
  これが、現在の時事通信社共同通信社の起源となっ
 ている。
  渋沢栄一の偉い所は、考え方の基本に・・
  「私利を追わず、公益を図る」・・があった。
  この考え方を・・生涯に渡って貫き通した偉人だった。
  渋沢栄一の薫陶を受けた後継者も・・この考え方を持
 って身を処した・・自己を戒めた。
  渋沢栄一の良かったことは、当時の日本が、氏の公共
 への奉仕の姿を・・高く評価していた事だった。
  対印貿易の重要性をも認識もされていて、
  大島重信らと共に日印協会の設立にも携わった・・会
 長も務められた。
  また、一橋大学日本経済大学二松学舎大学、学校
 法人国士館などの前身の学校の設立にも携わった。
  また、勝海舟伊藤博文らと共に、女子の教育の改善
 に尽くされた。
  その為の女子教育奨励会を設立した、そして、日本女
 子大学校、日本女学館などの設立にも携われた。
  当然、1926年と1927年に、ノーベル平和賞の候補にも
 なった。
  1890年に、貴族院議員に勅選(天皇陛下が自ら選ばれ
 ること)され、帝国議会貴族院本会議に出席したが、政
 治活動には深入りしなかった。
  大蔵大臣の入閣を求められたりしたが、辞退している。
  道徳教育には力を入れられた。
  幼少期に学んだ「論語」を大切にした。
  経済が発展して、利益が得れたならば、独占するので
 はなく、国全体を豊かにする。
  そのために、富は、全体で共有するもの、社会へ還元
 すべきもの・・と説いておられた。
  欺瞞の中の、不道徳な商行為を、強く戒められた。
  まだまだ、多くの書かねばらないことが多い、大偉人
 で、
  日本は、この様な大偉人を擁(よう)している。
  この事を、誇りに思わなければならない。
1868年7月7日(5月18日)戦火はおさまったが、「勝安房
 大砲打込み近所大久保一翁へも同様の沙汰あり」。
  勝海舟日記には記述がないが、発砲があったとすれば
 官軍の嫌がらせか。
  被害はなかったということだろう(幕臣の日記)
1868年7月7日(5月18日)福地源一郎が、江湖新聞に載せた
 「強弱論」で、新政府軍に逮捕され、同紙は発行禁止と
 なる(薩長討幕軍を非難し逮捕された)。
  福地源一郎は、幕府外国方通訳として渡欧して後に、
 この新聞を発刊している。
1868年7月8日(5月19日)仮に江戸に鎮台を置く(寺社、勘
 定、町の三奉行を廃し、南北市政、社寺、民法の三裁判
 所を置いた)
1868年7月8日(5月19日)越後・長岡城陥る(北越戦争)。
1868年7月10日(5月21日)鍋島藩兵多数が、奥羽へ向けて
 行き、当宿(千住)にて昼休みをとった(幕臣の日記)
  鍋島藩は、肥前佐賀郡にあり、佐賀藩ともいう。
  佐賀藩は、アームストロング砲を自力で造ったという
 近代工業化された藩だった。
  また、新政府軍として北陸道の先鋒に任命されている。
  また、江戸において上野戦争なども戦い、新政府への
 貢献度は高かった。
  その結果、明治政府には、多数の人物が登用された。
  人物としては、大隈重信江藤新平副島種臣、大木
 喬任、佐野常民田中久重など、
1868年7月13日(5月24日)徳川家達を、駿府70万石に封ず。
  (5月26日説あり)
  徳川氏が、江戸から駿府70万石に移されることが決ま
 った。
  「晴。駿河国府中城の仰せられて7拾万石駿河国」と
 徳川家への処遇。(幕臣の日記)
1868年7月16日(5月27日)広瀬武夫(ひろせたけお)が誕
 生した。
  1904年の日露戦争の初期に、旅順港閉塞作戦を行うこ
 とになり,自沈船『福井丸』の指揮官として砲火をおか
 して目的位置に達した。
1868年7月18日(5月29日)官軍大挙して、白河城を総攻撃
 した。
1868年7月19日(5月30日)新撰組の幹部、沖田総司が死す。
1868年7月20日(6月1日)6月になると江戸も表向きは平穏
 を取り戻す。
  日記の元幕臣の筆者も無禄となったよるべなさをその
 ばせる記述をしている。
1868年7月21日(6月2日)江戸城内で戦没者慰霊祭が行われ
 た(現在の招魂祭)
18687年7月31日(6月12日)奥羽連合軍が、白河城の再攻撃
 した。
1868年8月5日(6月17日)横浜裁判所を改めて神奈川府と称
 し、東久世通禧を初代知事に任命した。
1868年8月7日(6月19日)江戸の地名改称の議が起る。
  政府は、この日・8月7日に、参与・木戸孝允と大木に
 江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせた。
  2人は、有栖川宮・三条・大久保・江藤らと協議の上、
 同年8月22日(7月7日)に、京都へ戻り、奠都が可能であ
 ることを報告した。
  遷都すべき必要性・・、
  京都は、すこぶるやりにくいやっかいな土地柄であっ
 た。
  ここ東京に、新天地を求める理由があった。
  だが、遷都は、そんなに容易には実現しない。
  公卿では久我(こが)建通が、諸侯では松平慶永と山
 内容堂が強く反対した。
  久我は、薩摩の陰謀であると言い、慶永と容堂は、い
 ま急ぐべき事では無いというものであった。
  急ぐべきかどうかは別として、久我も容堂も慶永も、
 大久保の改革の意図を理解しえなかった事は事実である。
  朝議は、大阪遷都を否決した。
  しかし、代わりに大阪親政行幸が実現する。
  大阪行幸は、明治1年3月21日に京都を出発し、閏4月8
 日に還幸(かんこう、天皇陛下が出先から帰ること)し
 た。
  この時の、大阪行幸は、約1ヶ月半滞在して、閏4月8日
 に還幸して、この間、太政官代(臨時の太政官)も大阪
 に移していたので、たんなる天皇陛下行幸・旅行の類
 ではなかった。
1868年8月14日(6月26日)木戸孝允が、大木喬任と共に、
 三条実美に会し、車駕東幸並びに諸要件を議決する。
1868年8月15日(6月27日)大久保利通木戸孝允、大村益
 次郎、江藤新平宅に会し、近く京都より江戸城へ鳳輦を
 迎え奉ると祝杯を挙げる。
  ここで、勝海舟の感慨(かんがい、心に深く感じて、
 しみじみとした気持ちになること)深げに言った言葉・・、
  冷静に日本を作ったのは勝と大久保と言える。
  誕生したばかりの日本を、大久保は一人、渾身(こん
 しん、からだ全体)の力を込めて作ったと言ってよい。
  勝は、晩年、次のように言った、「忠義という士とい
 うものがあって、国を潰すのだ。己のような。大不忠、
 大不義の者がなければならぬ」・・と。
  また、参考として・・、
  国を作った長州藩の軍事費は・・、
  幕府との対決に使った長州藩の軍事費(撫育金と呼ん
 だ)明治1年の残高は100万両を越えた。
  関ケ原の役の頃はどん底であった・・が、
1868年8月17日(6月29日)昌平黌を復興し、昌平学校と改
 称した。
1868年8月(6月末)6月下旬には、三条実美岩倉具視、木
 戸孝允、大久保利通ら政府要人の間で、江戸を東京とし、
 天皇陛下が東京に行幸する事が合意事項となった。
1868年8月(6月)、貨幣司・・、
  貨幣司が設置され、太政官札が発行された。
  慶応4年(1868年)、明治政府は、旧幕府の時代の金座、
 銀座を接収し、
  6月より貨幣司を設けて、貨幣の鋳造を引き継いだ。
  この貨幣司は、翌年の明治2年(1869年)に廃止されて、
 2月5日に、太政官造幣局が置かれた。
  大阪の天満に設置された造幣局は、その後、すぐに、
 大蔵省所属となり、
  明治3年11月より、貨幣の製造を開始した。
  イギリスより輸入した造幣機を使っての貨幣の製造で
 あった。
  明治4年4月4日に創業式が挙行され、6月27日には、新
 貨条例、及び、造幣規則布告が発布されて、我が国の近
 代的な貨幣制度がスタートした。
1868年8月(7月)慶喜駿府に転住す
  勝海舟、前将軍、水戸より駿府へ引き移りが済んだに
 付いて格別の厚旨を以て金百両を恵与せられる(氷川清
 話)
1868年8月23日、会津戦争、白虎隊が飯盛山へと落ち延びた。
  白虎隊(びゃっこたい)は、会津戦争に際して、会津
 藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成
 された部隊で、
  中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もい
 たほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
  幕末の会津藩が組織した部隊には、他に玄武隊、朱雀
 隊、青龍隊、幼少隊などがあった。
  残念ながら、この少年たちが持っていた武器は、新政
 府軍より劣っていた(ヤーゲル銃、ゲーベル銃の短銃身
 化)。
  会津藩は、若松城鶴ヶ城)を死守すべく、若松に至
 る街道口には主力部隊を展開させて、防備に努めた。
  しかし、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対して、劣勢
 は否めなかった。
  本来は、城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊
 だったが、これを支援する形で、前線へと進軍した。
  若年兵の投入も、焼け石に水なのは誰もが承知のこと
 だったが、合津の方々は、老若男女のすべてが、玉砕を
 覚悟の上で臨む戦局にあった。
  白虎隊は、各防衛拠点へと進んで行き、投入された。
  しかし、会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各
 所で苦戦を強いられた。
  最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくさ
 れた、
  このうち一番隊は、藩主・松平容保公の護衛の任にあ
 たったが、
  二番隊は、戸ノ口原で決定的打撃を受けて潰走した。
  8月23日には、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落
 ち延びた。
  そして、地域の農家の方々に草鞋を貰い受けたりして、
 助けられながらも来た飯盛山だった、
  ここから眺めた戦闘による市中火災の模様。
  そして、落城などを感じ、これまでと結果総勢20名が
 自刃を決行した。
  唯一、喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが
 一命を取り留めた。
  若松城の落城の原因説について、
  飯沼が、生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』に
 よると、
  当時、隊員らは、鶴ヶ城(地元の呼び名)に戻って敵
 と戦うことを望む者と、
  敵陣に斬り込んで、玉砕を望む者の二論があった。
  激論を交わして、いずれにせよ負け戦覚悟で行動した
 ところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった
 隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、
 武士の本分を明らかにするために、飯盛山で自刃を決行
 したという。
  また、途中から別行動となった庄田保鉄らは、その後、
 鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に、白虎士中
 合同隊となって西本丸を守った。
  籠城戦は、1か月続いたが、奮闘むなしく、最終的に
 会津藩は降伏となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive