(増補版)203D2/3:気になった事柄を集めた年表(1811年〜1812年)

題:(増補版)203D2/3:気になった事柄を集めた年表(1811年〜1812年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1811年8月、入墨禁止条例(文身禁止令、彫物御停止令)
  勇みの者の間では素肌に絵などの彫りものをする流行
 が起こり、
  入れ墨は風俗を乱し、無傷の者がわざわざ総身に彫り
 物をするのは、恥ずべきものであり、心得違いであると
 した。
  「身体に疵(きず)をつける事は、恥ずべきことであるの
 に、若い者は これを伊達(だて)だと心得違いしている」
 と、幕府が「無頼の美」として禁止した。
  文身(ぶんしん)、入れ墨、彫り物の意味。
  無頼(ぶらい)、正業に就かず、無法な行いをする。
1811年11月、伊能忠敬が、幕命で、第8次の測量(九州残部
 の測量)に出た。
  翌年の1812年1月に、九州北部(筑前筑後)、種子島
 屋久島、五島列島など。
1811年12月、幕府が、5カ年の倹約令を発布した。
1811年12月、幕府が、諸国河川の自普請を奨励した。
1811年、三橋(さんきょう)会所が、米価引き上げのため江
 戸・大坂で大量の買米を行った。
  幕府の買米政策に加わることで、江戸市場を強化しよ
 うとして、三橋会所や十組仲間からの多額の資金を使っ
 て米市場に手を出し、米価引き上げを図った。
  だが、効果はなかった。
1811年、中国の清が、西洋人の内地の居住と、キリスト教
 の伝道を禁止した。
1812年1月、幕府が、幕領の回米諸経費の一律2割減を命じ
 た。
  これによって、川船運賃・河岸の小揚げ・倉敷料がと
 もに減額された。
  小揚げ(こあげ)、船荷を河岸に運び上げること。
  倉敷料(くらしきりょう)、倉庫に物品を預けたとき
 に支払う保管料。
1812年4月、白河藩主の松平定信が役職から隠退した。
  家督を長男の定永に譲っての隠居だったが、藩政の実
 権は掌握していた。
  桑名が良港であるため、定信の力によって、この年に、
 伊勢桑名藩への領地替えが、定信の要望によって行なわ
 れた。
  しかし、下総佐倉藩との軋轢からの懲罰的転封という
 説もある。
1812年6月、浪人取締令が、関東全域に出た。
1812年8月、高田屋嘉兵衛がロシア船に捕らえられる。
  国後島(くなしりとう)付近で、ゴローニンを日本が
 逮捕したことの報復として捕らえられ、ロシアに連行さ
 れた。
  日本人の高田嘉兵衛は、国後島において、日常の活動
 として商活動などをしていた。
1812年9月、古鉄買取締り令
  幕府が、組合仲間以外からの古鉄買いを禁止し、買入
 れの規則を守るよう命じた。
1812年11月、幕府が、真鍮吹所(真鍮製造所)大阪銅座の
 ほか京都・山城国伏見・江戸の4か所に限って定めて、真
 鍮の販売にあたらせ、以外での諸国真鍮地金・荒鉛の売
 買は禁止した。
1812年12月、若年寄の堀田正敦(ほったまさあつ)の建議で
 編纂が始められ、
  大名・旗本らの系譜の「寛政重修諸家譜(かんせいち
 ょうしゅうしょかふ)」1,530巻が、売成した。
  これは、幕府が、1799年に企画していたもので、
  幕府は、先に「寛永諸家系図伝」を編んでいたが、
  その続集を編纂する計画を改めて、全面的に改編をし
 た。
  多くの学者が動員されて、14年が費やされた。
  徳川諸家については除かれている。
  現存していて、国立公文書館の一部局である内閣文庫
 に所蔵されている。
1812年、ガス供給を目的とする世界最初のガス会社が、ロ
 ンドンに設立された。
  日本では、1872年、横浜が最初(ガス灯)。
1812年6月〜1814年12月、アメリカとイギリスの戦争(米
 英戦争)。
  北米植民地戦争。
  アメリカに対して、イギリスの植民地であるカナダと、
 生き残りをかけた可哀想なインディアン諸部族がイギリ
 ス側についた。
  イギリス側に付けば、自分たちの土地が還って来るも
 のと、イギリスと同盟して戦ったインディアンの方たち
 だった。ペテンであった。
  五大湖の近くで、アメリカ軍に対峙するイギリス軍と
 同盟し、戦った。
  しかし、同盟したイギリス軍は、テイムズの戦いでイ
 ンディアンの方たちを見捨てた。
  同盟を進めたインディアンの族長はこの地で戦死した。
  族長が死んだショーニー族は、安全で平和な暮らしの
 あった地を去った。
  そして、ミシシッピー川の西へと移って行った。
  東部に残った部族も、アメリカ大統領がジャクソン大
 統領になると、移住せざるを得なくなった。
  アメリカ合衆国は、その政策を、卑劣にも「文明化政
 策だ」と言った。
  本来の居住者を他国へ追いやって何が文明化だと・・。
  また、キリスト教徒になったりして、土地の返還を希
 望し、
  かつての幸せな生活を取り戻したかったチェロキー族、
  そして、ヨーロッパ化に努力したクリーク族やチェロ
 キー族も、
  その地に金が発見されるや、アメリカ合衆国は、この
 インディアンの方々を追い出しにかかった。
  このインディアンの方々は、アメリカ合衆国の法律で
 抵抗した。
  白人の法に訴えた。
  合衆国最高裁判所に訴えた。
  卑劣な事に、評決はすぐに出た。
  結論は決まっていますと言うがごとくだった。
  「チェロキー族の国は国内の一国家である。したがっ
 て独立国家ではない。独立国家として認めない」だった。
  アメリカの憲法で「国家」だと認めた話は嘘だった。
  また、その国家は「一国家」で「独立した国家」では
 ないという屁理屈であった。
  ペテンと詭弁(きべん、道理に合わないことを強引に
 正当化しようとする弁論)だった。
  こうして、チェロキー族の方々は、1830年に、「涙の
 旅路」を言われている移動を強制された。
  ミシシッピー川の先のオクラホマへと移った。
  その地には、既に、東部を追われた10以上の部族の方
 々が居た。
  また、この地も、この後、アメリカ合衆国の白人たち
 の都合で取り上げられ、追われることになる。
19世紀、イギリスは、19世紀に、世界領域の4分の1を支配
 し、その人口は全人類の3分の1に及んだ。
  イギリスが、新興国を押さえつける手法も卑劣であっ
 た。
  まず、主敵を一カ国に絞る。
  それ以外の国については、極力味方につけるか、少な
 くとも中立を維持させる。
  その上で主敵をやっつけるのだが、徹底的にはやらな
 い。
  余力をある程度残したところで、敵国の名誉を維持し
 ながら講和をする。
  そして、かつての敵国を、今度は味方に取り込み、次
 に現れる主敵と戦う際に、現在は同盟国となった旧敵国
 を尖兵として用いる。
  イギリスが平和裏に世界の覇権を獲得したというのは
 偽り。
  イギリスは狡猾である。
  自国を戦場にしない。
  ヨーロッパ大陸海上で戦闘を展開する。
  敵をイギリスと利権が競合する最強国に絞り、それ以
 外の諸国とは、利権の競合が生じる場合でも、できるだ
 け友好関係を維持するようにつとめる。
  戦争が起きても、敵国を徹底的にやり込める事は避け
 る。
  敵国の名誉と余力を保全し、戦後は旧敵国をイギリス
 の味方に抱き込もうとする。
..
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