(増補版)183D2/3:気になった事柄を集めた年表(1776年〜1779年)

題:(増補版)183D2/3:気になった事柄を集めた年表(1776年〜1779年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1777年2月、信州高井・水内2郡の幕府領の百姓が強訴する
  中野騒動、(1月22日説あり)。
  この時は、貢納の延期などを要求している(年貢を払
わないようにしてくれと要求しているのとはは違う)
  信州の百姓一揆・騒動は、江戸時代に200件ほどあり、
 全国一の発生件数となっている。
1777年5月、農民の江戸奉公(江戸出稼ぎ))が禁止になる。
  農業従事に専念してもらいたいという幕府の意思があ
 った。
  そして、新田開発を促した。
  幕府は、江戸に大量に流入していた地方出身の農民た
 ちに、資金を与えて、帰農させた。
1777年、アメリカ合衆国と国名を定めた。
  この年に、アメリカは、連合規約を締結し、国名を「
 アメリカ合衆国」とした(批准成立は1781年)。
  それまでは、邦(憲法で州が発足するまでの呼称)の
 各々が、兵の動員や、物資の調達や、将校の昇任などを
 していてバラバラだった。
  イギリス国王が、『7年戦争後のアパラチア山脈以西
 へのイギリス人植民者の入植を禁止した宣言』を出して
 いたため、
  先住民のインディアンの方たちは、このイギリス王の
 言葉・宣言に期待して、この宣言はあきらかに「7年戦争
 の後には、イギリス人の入植はしない」ということで、
  「自分たちの土地は守られている」と解釈し、
  この戦いにおいて、インディアンの方たちは、イギリ
 ス側に味方した、イギリスついて戦った。
  これは策略だった。
  この様な不誠実な策略を、イギリスは、世界のあちこ
 ちでやっていた。嘘つきである。
  そのような不誠実な国、悪巧みの国。
  イギリス軍は、このインディアンの方たちとドイツ傭
 兵なども加えて戦っていた。
  しかし、戦いの長期化で、食糧不足に陥っていた。
  この状況は、アメリカ軍も同様で、1777年から1778年 
 においての厳冬に、アメリカ軍の2000人の兵士が栄養不
 足や疫病で、死んだ。
  この数は、兵の約20%にあたる高率な数字となってい
 る。
  イギリス軍は、だんだん最前線への兵の補充も滞(と
 どこお)って行った。
  前線の兵も減少して行った。
  一方、アメリカは、民兵が近隣から駆けつけるという
 状況だった。
  ニューヨーク邦で、イギリス軍が、降伏したりする様
 になった。
1777年、売春婦が大勢いるイギリスのロンドン
  この年の調査で、ロンドンの売春婦が、7万5000人も
 居た。
  その記録がある。
  また、1840年には、何と、16万人に増加している。
  またさらに、1860年には30万人という人数に増えてい
 る。
  その様な世情のイギリス対し、1778年に、今まで、静
 観していたフランスが、今がイギリスをたたく機会だと、
 アメリカの独立を承認して、アメリカと同盟を結び、参
 戦した。
  海軍力を持つフランス軍と、イギリス軍との海戦も起
 きたりした。
  1779年、フランスの要請で、スペインも対英参戦した。
  このアメリカ独立戦争のフランスの参戦で、戦域が国
 際的に拡大して行った。
  ヨーロッパ、カリブ海、西アフリカ、インドなどへ及
 んだ。
  大西洋の制海権もイギリスだけのものでなくなった。
  しかし、良いことばかりではない。
  アメリカは、民兵の給料が払えないとか、食料も遅配
 するとかで、民兵の不満は高まっていた。
  一部の民兵が、反乱を起こすこともあった。
1778年6月、ロシア船が、日本領の国後島に来て、通商を求
 めた。
  国後島アイヌの長のツキノエの案内で来た。
  ロシアは、勅書を携え、通商を求めていた。
  松前藩は、翌年に、拒否した。
  その他、厚岸、根室、ノッカマップ(根室市東方)に
 も来航した。
1778年、三浦梅園(みうらばいえん、自然哲学者、1772年
 〜1789年)が、長崎へ紀行し、「帰山録(きざんろく)
 草稿」を著した。
  梅園が、56歳の時に、長男や門人など一行12名と共に
 長崎へ出向いた。
  この本には、木製顕微鏡のことが記されている、また、
 ピアノと言われている「阿蘭陀琴」の記載もある。
  梅園は、1741年に、処刑された男性の遺骨を観察して
 根来東叔(ねごろとうしゅく)によって作成された「人
 身連骨真形図(じんしんれんこつしんけいず)」に、歴
 史的重要性を初めて認識した人だった。
  この「人身連骨真形図」の著者に会い、この本の模写
 図と解説文を写し取り、
  後に「造物余譚(ぞうぶつよだん)」としてまとめ、
 後世に伝えようとした。
  この梅園の行動がなければこの功績は世に出なかった。
  大分、時代が経て、1904年に、梅園の全集が刊行され
 たが、医学士の研究者が、連骨図に着目するまでに約半
 世紀の時が流れていた。
  日本学士院編の「明治前日本医学史」のために、日本
 の解剖学史を研究した小川鼎三は、「造物余譚」を元に
 「人身連骨真形図」を取り上げ、山脇東洋の人体解剖に
 先行する「験屍」に見られる「科学的態度」を讃えてい
 る。
1778年、本居宣長が、「古事記伝こじきでん、ふること
 ふみのつたえ)」の上巻を書いた。
  本居宣長の「古事記」全編にわたる全44巻の注釈書。
  医学の修行のために上洛していた宣長は、1756年の27
 歳の時に、店頭で『古事記』の巻を購入した。
  この頃、宣長は『日本書紀』を読んでおり、賀茂真淵
 の論考に出会って日本の古道を学び始めていた。
  宣長が、本格的に『古事記』研究へ進もうと決意した
 のは、1763年(宝暦13年)である。
  直接には指導は受けていなかったが、秘かに師と考え、
 尊敬をしていた真淵に「松坂の一夜」を、初めて、直接、
 教えを受けた時である。
  その翌年の1764年から『古事記伝』を起筆し、1798年
 までの35年かけて脱稿した。
1779年12月、平賀源内が没した(1729年〜1779年、50歳)
  この年に、大名屋敷の修理を請け負っていたが、勘違
 いから大工の棟梁を殺傷してしまった。
  そのため捕縛され、獄中で破傷風に罹り獄死した。
  杉田玄白らの手によって葬儀が行われた。
  しかし、別の説があり、その事件の後、江戸を去り、
 田沼意次、または、故郷の高松藩の庇護の下に入り、天
 寿を全うしたという。
1779年頃、田沼父子の専横が甚(はなは)だしかった(田
 沼時代)。
  田沼意次を中心とした老中首座の松平武元らの幕府閣
 僚は、数々の幕政改革を行なった。
  悪化する幕府の財政立て直しなどである。
  株仲間を結成し、銅座などの専売制を実施した。
  また、鉱山開発を進め、蝦夷地開発も進めた。
  また、俵物などの専売による外国貿易の拡大もさせ、
 また、下総国印旛沼干拓に着手するなどの政策を実施
 して行った。
  その結果、幕府財政は、改善へと向かった。
  そして、景気も良くなった。
  その一方、社会は、ますます、初期の資本主義的傾向
 を強めて行った。
  民の生活、世の中は、金銭中心のものとなり、同時に、
 贈収賄も横行した。
  都市部での町人文化は発展し、賑わった。
  農民は、田畑を放棄して都市部へと流れた。
  農村は荒廃した。
  そこに、明和の大火や、浅間山の大噴火による天候異
 変を伴う凶作が起きた。
  天明の飢饉という大飢饉が起き、食糧難と共に、疫病
 が流行した。
  意次、および、幕府閣僚たちは、対策を打ち出すが、
 効果は上がらなかった。
  諸藩も財政難に陥っており、米価の値上がり、借金返
 済もあり、
  そのため、検地を行なって年貢の取立てを厳しくする
 というサイクルに陥って行った。
  この様な世情の中、都市部の治安も悪化し、一揆・打
 ち壊しが起きた。
  商人らの権益が見えていた世情に、庶民らに贈収賄
 惑が流れ、次第に田沼政治への批判が高まって行った。
  田沼時代は、外国貿易を黒字化するとか、
  国内の保有する金の量も多くなり、また、ロシアとも
 貿易を進めようとしたり、
  平賀源内などの知識人による改革を進めたり、蘭学
 手厚く保護したり、
  士農工商などに捉われない平等な実力主義による人材
 登用をしたりと素晴らしい面も多々あった・・が、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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