(増補版)184D2/3:気になった事柄を集めた年表(1779年〜1780年)

題:(増補版)184D2/3:気になった事柄を集めた年表(1779年〜1780年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1779年、出版:長久保赤水(ながくぼせきすい)が、『改
 正日本輿地路程全図(かいせいにほんよちろていぜんず)』
 を刊行した。
  赤水は、水戸藩の地理学者、儒学者天文学者、農政
 学者で、
  「改正日本輿地路程全図」を、1775年に完成させた。
  そして、幕府の許可を得て、1779年に刊行した。
  縮尺が約130万分の1の日本地図で、緯線が1度ごとに引
 かれている。
  幕府の資料など、多くの資料によって編集されたもの
 で、竹島が初めて記されている。
  隠岐諸島の北西に竹島(現在の鬱陵島)、松島(現在
 の竹島)が記され、現在の竹島がわが国の領土であるこ
 とを示している。
1780年、日本の総人口:26,011,000人
1780年、鉄・真鍮(しんちゅう)の両座を開設する。
  真鍮座は、真鍮の鋳造と、販売の独占権を与えられた
 座で、幕府が、この年に設置した。
  鉄座と共に設けられ、江戸・京都・大坂において製造
 された。
  目的は真鍮銭の確保と、冥加金があった。
  江戸時代の銭貨には、銅銭・鉄銭のほかに真鍮で鋳造
 した真鍮銭があった。
1780年代、天麩羅:
  天明の初年(1780年代)、大阪の家僕45人を使うほど
 の家の次男が、江戸に下り・・
  「江戸には『胡麻揚げ』の辻売り多し。大阪にては『
 つけあげ』という。
  魚肉のつけあげはうまきものなり。江戸にはいまだ魚
 のつけあげを夜店に売る人なし。
  われこれを売らんと思ふ」と。
  夜店の行灯(あんどん)に「魚のごまあげ」としるさ
 んも、兄が「天麩羅」とした・・と。
  一説であるが・・ポルトガル語のtempero、または、
 temporas、または、スペイン語のtemploが語源という。
  名も、調理法も、江戸中期以降に広まったことは動か
 しがたい。
1780年、出版:「都名所図会(みやこめいしょずえ)」が
 刊行した。
  京都に関する地誌である。
  旅行者や好事家のために刊行したが、好評を博したた
 め、1787年に続編の「拾遺都名所図会」が出された。
  実地踏査に基づいて、代表的な名所だけではなく、隠
 れた名所や伝説・名物などについても詳細な解説を施し、
 更に豊富な鳥瞰図や風俗図などの挿絵が広い支持を受け、
 各種名所図会刊行のきっかけとなった。
  名所図会には、一国一地方を主とするもの、街道中心
 のもの、庭園、山水に関するもの、信仰関係のもの、歳
 時記風のものなど色々な種類がある。
1780年、アフリカ分割:
  我が物顔に領土を奪うヨーロッパ列強諸国
  18世紀末から19世紀後半にかけて、アフリカで展開さ
 れたヨーロッパのキリスト教国の植民地争奪競争。
  当初、商人やキリスト教宣教師集団を先駆とする内陸
 部への探検を支援していたヨーロッパ列強諸国は、
  次第に、国家的事業に切り替え、アフリカ各地で頻発
 した激烈な抵抗を、圧倒的な武力で、強圧的に鎮圧して、
 我が物として行った。完全な侵略行為。
  そして、植民地、もしくは、保護領として侵略を進め
 た。
  その調整の場が、1884年〜1885年のベルリン会議であ
 った。
  各国は、アフリカ固有の民族文化などの差異をまった
 く無視し、自分たちだけの都合によって、意図的に国境
 線を引き、領土を決め奪い合った。
  この帝国主義の分割によって、アフリカ全大陸の9割が
 ヨーロッパ列強の支配下に置かれた。
  この民への殺戮と、侵略行為についてのお詫びはない。
1780年産業革命
  18世紀後半から約1世紀間、ヨーロッパ諸国・北米で起
 こった機械使用と工場制による生産の革命的変化と、そ
 れに伴う社会組織の変化。
  資本制生産様式の完成と資本主義社会の形成となった。
  イギリスで、まず、木綿の紡績・織布の技術革新があ
 り、動力としての蒸気機関の利用、工作機械の発明へと
 進み、
  同時に交通革命・農業革命、人口の都市集中などの現
 象が起こった。
1780年、この産業革命は、19世紀になって、各国がこれに
 追随した。
  産業革命は、一つの国内現象ではなく、原料獲得と廉
 価な工場製品の輸出で成立する世界システムであり、
  先進国の工業化は、後進地域の伝統産業や社会を破壊
 した。
  今日の南北問題の歴史的背景である。
  産業革命の語は、トインビーの研究で一般化したが、
 近年ではロストウのテイク=オフ〈離陸〉理論によって、
 近代社会への工業化現象の意味で用いられる。
  最近では、産業革命の現象そのものを否定する主張も
 ある。
1780年東インド会社・廃止・・国家が前面に:
  18世紀末、植民地の重要性が増すと、各国とも会社を
 廃止して、国家の支配下においた。
  悪どい行為を会社形式で『隠れ蓑にしていた形』だっ
 たが、
  本音が出て来た、国家が見える形の中で「侵略」と
 「植民地化」の行為となった。
1780年〜1784年、第四次英蘭戦争(えいらんせんそう)。
  このイギリスとオランダの両国は、性懲りもなく戦い
 続ける。
  欲が絡んだ利益のために・・、オランダは、イギリス
 との婚姻関係(ウィリアム3世メアリー2世)を結んだ
 ことで、共同統治者を据えることで、ロンドンを新たな
 貿易拠点として使用するようになった。
  しかし、1720年頃より、オランダ経済は発展しなくな
 ってきた。
  1780年頃には、イギリスの総生産量が、オランダを上
 回った。
  オランダは憤っていた。
  オランダが、アメリカ独立戦争アメリカを援助し始
 めた時に、第四次英蘭戦争が勃発した。
  イギリスとの同盟が無くなったことで、フランスから
 の侵攻が起きた。
  この時、オランダ海軍は弱体化していた。
  オランダは戦艦を建造した(95隻)。
  その数はイギリスの倍あった。
  1797年にも、英蘭は海戦をしている、そして、オラン
 ダ艦隊はイギリスに敗れている。
  フランスは、艦隊を持つのをあきらめている。
1780年頃、日本の一番あぶない時期
  この頃・1780年頃から、1842年のアヘン戦争終結の後、
 そして、1853年のペリー来航までの約70年間が、列強
 の侵略の恐れで、歴史上日本が最も危険な時期だった。
  当時の一般的な世界情勢は、列強の植民地になるか、
 または、不平等な条約で通商を行うかどちらかだった。
  この最も危険な期間に、人口の希薄な蝦夷地と、その
 周辺諸島を、幕府と松前藩、そして、東北諸藩が守り抜
 いたのは讃えるべきことだ。
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