(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年〜300年)

 題:(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年〜300年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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紀元0年、世界人口が2億5000万人になった。
紀元7年、イエスが11歳と言われているこの時、イスラエル
 の民が、ローマによって滅ぼされる。流浪の民となる。
紀元28年、後漢の明帝が生まれた(28年〜75年)。
  この頃、中国に仏教が伝わった。
  明帝は、インドから来た僧のために洛陽の西郊に白馬
 寺を建てた。
  これが中国仏教の始まりとされる。
30年頃、イエス、処刑される。
37年、高句麗の王が、使いを後漢朝に送る。前年に、高句
 麗が、東沃を伐つ。
45年、インドにクシャナ朝が興った。
50年頃〜100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書(新
 約聖書と言われている)が書かれた。
1世紀頃、ヒッパロス(エジプト)がインド洋において、季
 節風を組織的に利用した。
54年、ネロがローマ皇帝となった。
57年、倭の奴国(なこく)の国王が後漢王朝に使いを送り、
 光武帝より金印を受けた(漢委奴国王印)。
64年、皇帝ネロがキリスト教徒を迫害した。
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。
  ペテロはイエスの第一の弟子、ネロの迫害による。
  このペトロの墓の上に、サン・ピエトロ寺院が建てら
 れた。
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。
67年、仏教が中国に伝わった(一説では紀元前2年)
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃
 え続けた。
  その日が放火ではないかという噂が市民の中に広がっ
 た。ネロ帝はキリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。
  神殿は焼け落ちた。
  城壁を徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくな
 るほど市街を壊した。
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。
  ユダヤ国家は滅んだ。
  ユダヤ民族は離散の憂き目にあった。以後、1948年の
 ユダヤ国家建設されるまで1875年の月日が流れた。
79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が爆発し、翌25日にポン
 ペイが埋没した。
100年、インドネシア:1〜2世紀に青銅器文明が栄えた。
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物語
 が生まれ、殉教文学として流布された。
100年代〜200年代(2〜3世紀)、日本列島を含めた東
 アジア一帯に民族大移動が起きた。
  それは、気候の寒冷化が関係していた。
  この頃、中国では、寒さから飢饉や疫病が流行し、紀
 元184年に「黄巾の乱」と言う農民の大反乱が起き、
  後漢が、220年に倒れ、三国時代に入った。
  朝鮮半島でも、韓民族の軍勢が、漢の出先機関を攻め
 ると言った戦乱が続く。
  邪馬台国の女王・卑弥呼が、中国の歴史書に登場する
 のは、ちょうど3世紀のこの時期。
  「魏志倭人伝」によると、日本では小国が乱立して
 「倭国の大乱」が起こり、邪馬台国が30余りの国を統合
 したことになっている。
  邪馬台国の位置について次の説がある。
  「全国的に飢饉が見舞った江戸時代の小氷河期に、近
 畿地方も大きな打撃を受けたが、九州だけは影響が少な
 かった。
  そこから類推して、3世紀の同じ様な小氷河期にも、
 30もの国をまとめて、経済活動が活発に行える大国が、
 寒さのきつい近畿地方の存在できたとは思えない。
  邪馬台国は、九州にあったと考えられる。
103年、セルジューク朝トルコ:103年〜1157年。
  西アジアで、イスラム化したセルジューク・トルコ
 は、トグリル・ベグの時、1055年、バクダッドを占領し、
 シーア派ブワイフ朝を倒し、スンニ派カリフの保護者
 としてスルタンの称号を与えられた。
  ここに、トルコ人が、イスラム世界の担い手として登
 場した。
  アルブ・アルスランの時、東ローマ帝国と戦い、皇帝
 を捕虜にし、次いで、エルサレムを支配したので、これ
 が十字軍の一因となった。
  この業績は、宰相ニザーム・アル・ムルクに帰せられ
 るが、彼は、また、各地にニザーミア学院を設立し、こ
 の学校(マドラッサ)が、イラン・イスラム学芸の隆盛
 をもたらした。
  イスラム哲学の大成功者ガッザーリ(ヨーロッパ名は
 アルガゼル)が迎えられて、バクダッドの学院で教え、
 また、オマル・ハイヤー村の逸材を育んだ。
105年、紙が中国で発明された。
107年、倭の王・師升の後漢との外交。
166年、ローマ皇帝マルクス=アウレリウス)の使いが
 中国に至った。
184年、中国に黄巾の乱が起きた。農民の大反乱。
  この頃、中国では寒さから飢饉や疫病が流行した。
188年、後漢桓帝霊帝の間(147年〜188年)、倭国
 大いに乱れ、ついに卑弥呼を立てて王とする。
189年、この頃か?卑弥呼邪馬台国の女王となったとの説。
190年、この頃の2世紀後半、「桓霊(かんれい)の間」と
 いう倭国に大乱が起こった。
3世紀頃、この頃の日本は、邪馬台国を中心とした30ほど
 の小国の連合体が生まれていた。
  支配者層:大人(たいしん)、被支配者層:下戸(げ
 こ)と呼ばれていた。
200年、シルクロード
  中国の敦煌からタリム盆地地方を横切り、パミール
 原を越えて、シリア・エジプトに達するこの道は、絹の
 道(シルクロード)と言われる。
  中国からは、主に、絹布(シルク)・青銅器・漆器
 どを西方へ運び、
  ローマ方面からは、ガラス器などが中国へ運ばれた。
  3世紀から、5世紀には、イランの発達した工芸品が、
 この道を経由して中国に入り、
  さらに、8世紀には日本の正倉院まで至っている。
200年、マヤ文明マヤ文明の栄えたユカタン半島とペテ
 ン低地は、熱帯性の気候でトウモロコシの焼畑農耕に依
 存していた。
  黒曜石を用いて石灰岩を切り出し、壮大なピラミッド
 などの建築物を構築し、古典期(3世紀〜9世紀)には、
 ペテン地方を中心に多くの都市が興隆した。
  建築・碑石・翡翠細工・土器などに優れた芸術作品を
 残し、象形文字暦法天文学においても新大陸随一の
 発達を遂げた。
200年代初頭頃(3世紀初頭頃)、この頃、キリスト教
 「使徒信条」の原形が、出来たと言われている。
  出来たこの時期が、まだ、キリスト教の神が「三位一
 体神」ではないので、「全能の父なる神」となっている。
  この全能の父なる神が、後に出来た三位一体神の位格
 の神という神の一部を形成する神になってしまう。
  キリスト教多神教である。
  この「全能の父なる神」の一神教から変わる。
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あら
 ゆる階層にキリスト教は浸透して行く。
  宮廷から貧民窟まで、大都市から僻地へと広まり、帝
 国末期の殺伐な人心と荒廃した経済事情の中で拡大した。
  ヨーロッパの基本を決めているのは「キリスト教」と
 「古代ギリシャ精神」であると言い、
  そして、使用文字はアルファベットであると鼻高々と
 言うが、
  「キリスト教」も「アルファベット」も西アジアが生
 み出したものである。
  さらに、ヨーロッパ人は、古代ギリシャの子孫でも何
 でもない。
  ヨーロッパの基本要素に起源のあるものはほとんどな
 い。
  そうであるにもかかわらず、キリスト教の有色人種蔑
 視の教義に洗脳され、世界や異教徒を睥睨(へいげい)
 して来た。
208年、赤壁の戦いが起きた。
220年、中国の後漢が倒れ、三国時代(魏・蜀・呉)〜280
 年。魏の都は洛陽。
226年、ササン朝ペルシャが興った。ササン朝ペルシャ
 226年〜651年)。ササン朝は、ローマ帝国・東ローマ
 帝国と争ったが、またその文化を東方に伝えた。
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。
  全長62mの古墳時代最初期と見られている墳墓である。
239年、邪馬台国の女王・卑弥呼帯方郡(たいほうぐん)
 に難升米(なしめ)という遣いを送った。
  そして後、魏の都の洛陽に至る。
  魏志倭人伝には、卑弥呼は「鬼道(シャーマニズム
 こと)に事え能く衆を惑わす」とある。
  帯方郡は今のソウル付近にあった。
  魏の明帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」
 の称号を与え、金印紫綬を授けた。
  また、銅鏡も授かった。
239年、この頃、古墳が造られ始めた。
  また、大和朝廷が日本を統一した。
243年、卑弥呼が中国の王に物を贈った。
245年、中国の斎王が倭国使に物を賜った。
247年、倭女王の卑弥呼が狗奴国王(くな)の卑弥弓呼と
 争った。
250年、邪馬台国卑弥呼が死んだ? この頃より「古墳
 文化」が起こった。
250年〜300年、キリスト教への迫害。
266年、倭女王の台与(とよ)(壱与?)が西晋(せいし
 ん)に遣いを送った。
266年、(別資料に)卑弥呼の宗女・壱与が、中国に使者
 を派遣した。
266年、(また、別資料に)倭国の女王、晋に朝貢する。
280年、晋が中国を統一した。
3世紀後半〜4世紀初め、(読売新聞、2015・1・30)に、
  邪馬台国の有力候補地である奈良県桜井市の纏向(ま
 きむく)遺跡で、
  3世紀後半から4世紀初めの、占いに使われたとみられ
 るイノシシの骨「卜骨(ぼつこつ」が出土した。
  国家的な祭祀(さいし)になっていたと考えられてい
 る。
  骨は、イノシシの右肩甲骨(長さ16.7センチ、最大幅
 6.7センチ)で、深さ約1メートルから出土した。
  3世紀後半は、大和国の女王で祭祀をつかさどったと
 される卑弥呼の後継者・台与(とよ)時代。
300年代(4世紀)、キリスト教の「ニカイア信条」がで
 きた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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