(増補版)9A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200年〜紀元0年)

 題:(増補版)9A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200年〜紀元0年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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紀元前200年代(紀元前3世紀)、この頃の縄文時代の終わ
 りから、歴史時代が始まる紀元700年頃までの1000年間
 に、人口が500万人も増えた。
  この人口爆発は、自然増だけでは説明がつかない。
  この頃の農耕民の人口増加率は、平均0.1パーセント
 程度。
  最高でも、0.2パーセントくらい。
  これ等から、1年あたりの渡来人の数は千数百人と考
 えれれる。
  四角い輪郭に、彫りの深い顔の、小柄な土着の縄文人
 に対して、
  渡来した大陸系の人たちは、細面で鼻が低く、背が高
 かった。
  日本人は、この二種類の人たちが混血してできている。
  現代人の頭骨を再調査して、統計処理してみると、
  全体からみると、近畿人の骨の方が、むしろ異質な形
 態で、渡来人の影響が濃厚である。
  平均的な日本人は、北陸人で、古いタイプの縄文人
 形質を残している。
  アイヌの対極に、近畿人が位置している。
  何故、大陸の人たちは、日本を目指したのか?
  弥生時代の、紀元前3世紀〜紀元後3世紀頃は、中国で
 は動乱の秦・漢・三国時代にあたる。
  秦の始皇帝の時代に、徐福という人物が、少年少女
 3000人を連れ、不老不死の薬を求めて東海の島を目指
 したという伝説が「史記」にあるが、
  日本にも、紀伊・熊野や丹後などに、徐福伝説が残っ
 ている。
  この時代の中国は、黄河流域や、河口に、人口が集中
 して、周辺の異民族から絶えず脅かされていた。
  戦乱や大飢饉が起こればボートピープルが大量に出た。
  彼等にとって、日本列島は、稲作に適した低湿地が手
 つかずに広がるフロンティアだった。
紀元前200年、(朝日新聞、平成7年7月26日)によれば、
  佛陀(ブッダ)の生誕地として知られるネパールのル
 ンビニの仏教遺跡から、
  約2200年前の仏教建築らしいレンガ遺構層が発見さ
 れた。
  また、その中から大きな平石が出土した。
  日本とネパールの合同発掘調査団は、「この石こそ
 佛陀誕生の地点を特定するためアショーカ王が置かせ
 た目印の石。仏教史上、画期的な発見だ」という。
  断定には、慎重な立場の研究者もいるが、仏陀の時代
 にせまる発掘として古代へのロマンが広がった。
  平石は、横70センチメートル、縦40センチメートル、
 厚さ10センチメートルの砂礫岩。
  文字などを刻んだ跡はない。
  マヤ堂の中心部を南北21メートル、東西26メートルに
 わたって垂直に掘り下げたところ、
  地下約2メートルの所から出土した。
  石を保護する様に、マウリア王朝独特の大型レンガの
 レンガ基壇が配置されていた。
  基壇には、15の箱形の穴があり、そこからは佛陀時代
 から流通していたとされる銀貨「パンチマーク・コイン」
 や青銅貨が数枚、さらに、マウリア王朝独特の「北方黒
 色研磨土器」が10数個見つかった。
  仏教に帰依したアショーカ王の行動を伝える経典「ア
 ショーカ王伝」には、ルンビニを訪れた王は、王師から、
 「この場所が佛陀が誕生された地点です」と聞き、その
 場所にひれ伏したとある。
  マヤ堂のすぐそばに立つアショーカ王柱には、王の
 訪問を記念して「ここの王柱と石さく(もしくは石板)
 を建てた」という古いブラフミ文字で刻まれている。
  佛陀の入滅は、紀元前383年、紀元前485年など諸説
 ある。
  アショーカ王は、インド最初の統一王国のマウリア王
 朝で熱心に仏教を広め、紀元前249年にルンビニを訪れ
 たとされる。
  王柱には、「王は即位20年を経た年に、自らここに来
 て崇拝した。ここで佛陀が生誕されたからだ。そこで、
 石さくを造り、石柱を建立した」などと刻まれている。
  王柱のすぐ東側にあるマヤ堂は、時代ごとに改築され、
 最終的には19世紀に改築された。
  因みに、仏教遺跡が書物や言い伝え通りに遺跡が出る
 事にキリスト教研究者が驚いている。キリスト教の遺跡
 発掘は空振りになる事例の連続だと言う。
紀元前195年、劉邦(りゅうほう)が没した(紀元前247年
 〜紀元前195年)
紀元前190年、マグネシアの戦いが起きた。
紀元前189年、武帝が生まれた(紀元前189年〜紀元前
 159年)
紀元前176年、楼蘭(ろうらん)は、タクラマカン砂漠
 東端に位置し、東西交通の要衝として栄えたオアシス国
 家。
  紀元前176年に歴史上にその名をあらわし、5世紀に忽
 然と姿を消した。
  「楼蘭の美女」と言うミイラが平成4年9月に日本に来
 たが、このミイラは1980年に発見された約4000年前の
 女性のミイラ。
紀元前159年、武帝が没した(紀元前189年〜紀元前159年)
紀元前150年頃、正距円錐図法などを考案したプトレマイ
 オスの世界図が作られた。
紀元前146年、カルタゴ滅亡。ポエニ戦争で、カルタゴが、
 ローマに敗れ、滅亡した。
紀元前111年、ユグルタ戦争が起きた。
紀元前108年、前漢武帝が朝鮮に楽浪郡など4郡を設置
 した。楽浪郡ピョンヤン平壌)の付近にあった。
紀元前107年、倭国王・師升(すいしょう)が後漢書東夷伝
 に登場する。
紀元前2世紀頃〜紀元前3世紀頃、水稲耕作、鉄などの金属
 器が中国や朝鮮から伝えられた。
  特に、5世紀から6世紀頃に伝来した漢字・仏教・儒教
 は、その後の日本人の精神に大きな影響を与えている。
紀元前2世紀、韓嬰(中国)が初めて雪の六弁(六方晶形)
 なることを指摘した。
紀元前2世紀、この頃より地図がより正確さを増してきた。
  アレクサンドリア天文学者プトレマイオスが、正距
 円錐図法で経緯方向の距離を正しく表すことに成功した。
紀元前2世紀、オリエントに起源をもつと思われる羊皮紙が
 すでに用いられていた。
紀元前2世紀、ベトナム:この頃に漢帝国の領土に入れられ、
 その後、長年、中国の支配下にあった。
紀元前100年、倭国は、100余りの国に分かれていた。
紀元前100年頃、銅鐸に、シカ・イノシシ・水鳥類・カメ
 類・トンボなどを描かれている。
紀元前100年頃、旧約聖書が完成した。
  紀元前1100年頃から書き始めたものの完成、旧約聖書
 39巻が書き終えた。それまでは、口伝承であった。
紀元前100年頃、シーザーが生まれた(紀元前100年頃〜
 紀元44年)
紀元前65年、紙が中国で発明された。
  中国の古い歴史の本に、西暦105年に、倫と言う人が
 ぼろ布をドロに溶かして作ったという記録がある。
  しかし、最近の研究では、それより170年も前(紀元前
 65年)から作られていたという事が分かった。
紀元前63年に、ローマの将軍・ポンペイウスによってエル
 サレムは占領された。ローマの傀儡(かいらい)政権の
 下の政治となる。
紀元前1世紀半ば、匈奴東匈奴は、紀元前1世紀半ばに、
 さらに南北匈奴に分裂し衰微した。
紀元前58年、シーザーがガリアを征服した。
紀元前57年、後漢書東夷伝によると、北部九州の奴の国の
 王が、紀元前57年に使者を派遣し、金印を授けられたと
 ある。
  奴国王が、後漢(都は洛陽)の光武帝より授けられた
 金印には漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の文字
 が刻まれている。
  奴国は、福岡市付近にあった一小国と推定されている。
  須玖遺跡が、奴国の遺跡と考えられている。
  金印の上部の突起の形は蛇を表現している。
紀元前54年、匈奴:一大騎馬民族国家を打ち立て、秦や漢
 を脅かしたが、やがて東西に分裂し(紀元前54年)、西
 匈奴は、間もなく滅んだ。
紀元前53年、ガレーの戦いが起きた。
紀元前53年、パルティア戦争が起きた。
紀元前50年、古代ローマの征服事業がライン川に達する。
 軍を率いるカエサルは「ガリア戦記」を記した。
紀元前1世紀、日本の事が書かれている中国最古の史書
 漢書地理志」(著者:班固・はんこ)には、紀元前1世
 紀のことが記されている。
紀元前1世紀、ローマ法:古代ローマ人の最大の文化遺産
 となっている。
  ローマ法には本来、ローマ市民の市民法と、外国人の
 ための万民法があったが、紀元前1世紀はじめに同盟市
 の自由人に、また3世紀には帝国内の全自由人に、市民
 権を拡大付与したので、市民法は万民法と一体化した。
  ヘレニズム世界自然法思想。
紀元前1世紀、テオティワカン文化:
  テオティワカンは、メキシコ市の北東50キロにある紀
 元前1世紀〜紀元7世紀の大遺跡。
  広さ18平方キロメートル。
  公共建築物と住居が整然と並び、最盛期(6世紀)の
 人口は10万人に達した。
  壁や石彫には宗教色が濃く、建築様式、高原品は、信
 仰の伝播と交易を通じて広範な地域に広まっている。
  経済的基礎はトウモロコシの集約的栽培と交易。
紀元前44年、ケザール(シーザー)が没した(紀元前100
 年頃〜紀元前44年)
紀元前27年、ローマ帝国:共和政末期の粉乱の後、紀元前
 27年アウグスツスの帝政とともに成立した。
  すでに、地中海全域に広がった大領主を有効に支配す
 るための独裁体制であった。
  以後、五賢帝時代までの2世紀間、「ローマの平和」
 の下で帝国の細胞である多数の都市の市民は平和を享受
 した。
紀元前10年頃、紀元前以前に黒海北岸に建国されたスキタ
 イ人の文化は、金属文化を中心としていた。
紀元前4年、イエスが、この年に、生まれたとされている。
  紀元前7年の説もある。
  また、以前は、紀元0年とされていた。この様に、イエ
 ス誕生は確証は無い。
  イエス自体が、存在証明のできない状態となっている。
  12月25日の生誕日も、古代の他の宗教の祭日を借りた
 だけ。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009