(増補版)12A:気になった事柄を集めた年表(500年〜591年)

 題:(増補版)12A:気になった事柄を集めた年表(500年〜591年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
500年(6世紀)、百済から五経(ごきょう)博士が渡来し
 て、日本に儒教を本格的に伝えた。
500年(6世紀)、6世紀には、易・医・暦の博士も渡来し
 た。
500年、テオティワカン文化:テオティワカンは、メキシ
 コ市の北東50キロにある紀元前1世紀〜紀元7世紀の大遺
 跡。最盛期は6世紀で、人口は10万人に達した。
500年、トルコ民族:アルタイ語族。アルタイ山麓から各
 地へ拡散した。6世紀頃より、突厥(とっけつ)、次い
 で、ウイグルの大勢力を形成した。
512年、大伴金村は、百済の求めに応じて、任那の一部を
 割譲した。朝廷は、百済による「任那の四県」の領有を
 容認する(継体天皇の時代)。
513年、百済が、己汾 ・帯沙の領有を日本に承認させた。
6世紀前半、この頃に、大連・大伴金村が、外交政策の失敗
 をとがめられて失脚した。
522年2月、司馬達等(しばだっと、孫に仏師の鞍作止利
 がいる)が、飛鳥坂田原の草堂に仏像を安置し、礼拝し
 た。
  仏教が、公に伝わる以前から仏教を信仰していたとさ
 れる。この年に日本に渡来し、本尊を安置して帰依礼拝
 したという。
527年、磐井の乱(いわいのらん)。
  磐井の乱は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出
 兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を、
  筑紫君磐井がはばみ、
  翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧
 された反乱、または王権間の戦争。
  この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利
 権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導
 権争いがあったと見られている。
  天皇継体天皇だった。
  磐井の墓は岩戸山古墳と推定される。
  『日本書紀』によると、527年6月、朝鮮の倭国勢の後
 退を防ぐため、近江臣・毛野の率いる6万人の軍隊が、
 新羅討伐のために朝鮮・任那に向かって派遣された。こ
 の計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者
 だった磐井(筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の
 妨害を要請した。
527年、東ローマ皇帝・ユスチニアヌス大皇(在位527年
 〜565年)。大帝と呼ばれるが、帝国版図も広げたが、
 結果的に失敗の帝王。
529年、ユスティニアヌス1世が編纂させたローマ法の法
 典であるユスティ二アヌス法典(東ローマ帝国)が公布
 され、施行された。
  この頃の法律は、新しい法律ができると、自動的に古
 い法律が無効になることになっていた。
  その為、何が何だか分からない「ごちゃごちゃの状態」
 になっていた。
  ジュリアス・シーザーは、すっかり忘れ去られていた
 法律を持ち出して活用したりして、政敵を罠にかけたり
 していた。シーザーは、この名人だった。
532年、金官国(南加羅、日本領・任那の前身)が、新羅
 に滅ぼされた(安閑天皇の時代)
538年、蘇我稲目、向原(むくはら)の家を仏殿とする。
 (物部氏と対立する豪族の蘇我氏天皇外戚として権
 力を持っていた。渡来人の集団を支配して進んだ知識や
 技術を持っていた。この事もあって仏教を信仰していた。
 蘇我稲目〜馬子〜蝦夷〜入鹿の直系4代は独占体制だっ
 た)
538年、仏教が朝鮮から公的に伝来する。
 百済聖明王欽明天皇に、仏教及び経論を献じた。
 (552年説もある)。この頃、豪族の争いが盛ん、氏姓
 制度が乱れた。
543年、黒死病(ペスト)が」流行する。「ユスティニア
 ヌスのペスト」と言われ、ユスティニアス帝の活動の終
 わりの印ともなった。
  これ以後、帝国の領土は縮小する時代に入った。
6世紀頃、カンボジア国家の起源とみなされている国、北
 方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興
 した。クメール帝国(カンボジア):メコン川中流
 に、クメール族の国が建てられたのは、6世紀の中葉と言
 われる。
552年、正史「日本書紀」による仏教伝来。
554年、推古天皇が生まれた(554年〜628年)
555年、朝廷は、大臣稲目、穂積臣磐弓を遣わして、吉備
 の五地域に屯倉(みやけ)を設けさせる。
  屯倉は、ヤマト王権の支配制度の一つで、全国に設置
 したのは直轄地だという事を表してもいる。
  後の地方の行政組織の先駆けとなっている。
  屯倉の周りの低湿地を開発して田地として、倭屯倉
 造ったりした。5世紀頃よりと考えられている。
562年1月、任那(みまな)日本府の衰退と滅亡。任那(伽
 耶)の宮家(日本府)が、新羅の真興王(新羅の第24代
 王)に滅ぼされた。
  朝鮮半島新羅は、加羅諸国支配下に押さえた。朝
 鮮半島の南東部は、すべて新羅の領域となった。
570年3月、蘇我稲目(?〜570年)が死ぬ。物部氏ら、向
 原の仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に流す。
574年、聖徳太子が生まれた(574年〜622年)。父・用
 明天皇
577年、推古天皇が23歳で敏達天皇(30代)の后になった。
577年11月、百済が、経論・僧尼などを寄越した。
579年10月、新羅が、仏像を献じた。
581年、北周の宰相・楊堅が中国を統一した。
 律令制、均田制、科挙などを実施した。この次の帝は、
 大規模な運河を開掘したり、高句麗遠征を行ったりした
 が、国は疲弊し、民衆が反乱を起こして滅んだ。
583年、火葦北国造の子の日羅が、百済から来朝する。
  葦北国造(肥)、あしきたのくにのみやつこ、葦北(
 葦分)国造とは、葦北国(現・熊本県水俣市八代市
 葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本
 紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(き
 びつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこの
 みこと)を国造に定めたことに始まるとされる。
  国造本紀には、葦分と名が記され、また記紀では火葦
 北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られ
 ている。
  三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿
 禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万
 葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。
  三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけ
 ひありしと)は、大伴金村によって朝鮮に使わされた国造
 で、その子・日羅は、日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、
 百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として
 知られる。
  葦北郡津奈木町にある将軍神社は、日羅(将軍)を祀
 っており、逸話も多い。
  宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさ
 から葦北国造の息子と考えられている。
584年、高句麗の還俗僧・恵便が、司馬達等の娘の善信ら
 を尼にし、蘇我馬子は、飛鳥豊浦の石川の家に仏殿を営
 み、善信尼らを置いた。
585年2月、蘇我馬子が、仏塔を大野丘の北に建てた。
585年3月、物部守屋・中臣勝海らが、仏殿・仏塔を焼き、
 善信尼らを監禁した。
585年8月、敏達天皇が、訳語田幸玉宮(おさだのさきたま
 のみや)で崩御した。
  崩御の後、皇位が橘豊日皇子(たぎばなのとよひのみ
 こ)と穴穂部皇子(あなほべのみこ)の両異母兄弟で争
 われた。
  そして、仏教に関心を寄せていた橘豊日皇子が、同母
 妹の炊屋姫および大臣・蘇我馬子の支持によって、9月
 に即位した。用明天皇(31代)となった。
587年4月、崇仏の可否を群臣に諮(はか)った。
587年4月、用明天皇崩御
587年7月、大臣・蘇我馬子等が、大連・物部連守屋を滅ぼ
 した。
587年8月、崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位した。
588年、百済が、仏舎利・僧・寺工・画工などを献じた。
588年、善信尼らが、百済に派遣されて仏法を学んだ。
588年、法隆寺の建立が始まった。
589年1月、隋の文帝が、50万の軍でもって江南の陳朝を
 征服して、南北朝(中国)を統一した。
590年、善信尼らが、百済から帰った。
591年4月、敏達天皇のもがりの儀礼が6年間続き、この年、
 母の石姫(いわひめ)が葬られている磯長(しなが、大
 阪府)の陵墓に合葬された。
591年11月、紀男麻呂(きの・おまろ)宿祢・巨勢猿臣ら
 が、2万余の軍を率いて筑紫に出兵し布陣した(新羅討伐
 軍)。遠征軍は渡海することなく595年に帰還した。
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