(増補版)6A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1万年〜紀元前1200年)

 題:(増補版)6A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1万年〜紀元前1200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前8000年、マンモスの絶滅は未確定であるが、有力な
 仮説として氷河期末期の気候変動に伴う植生の変化を原
 因とする説がある。
  約1万年前に氷河期が終わり、高緯度地域の気温が10℃
 程度上昇した。
  この温暖化に伴って湿潤化し、1年の半分は大量の雪が
 降り積もる植物の生育に適さない大地へと変貌した。
  マンモスの食料となる草木は激減した。
紀元前7500年、この頃、縄文人は多くの貝塚を残す。
  縄文遺跡出土は、彼らが多種の貝類のほか、イノシシ・
 シカをはじめとする獣類や魚類・鳥類・爬虫類など数百
 種の動物を、食用その他に利用していたことを示す。
  縄文中期の土器には、ベビ類の呪力を意識したとみら
 れるデザインのものがある。
  縄文後期に、イノシシの飼育が行われとみる説が有力
 である。
紀元前6000年、およぞ8000年前から人類は、農耕の生活
 を始めた。
  世界の各地で、異なった作物を栽培するようになった
 と考えられている。
  その作物から、世界の農耕文化の原形は、根栽(こん
 さい)、サバナ、地中海、新大陸の4つの系統に大別さ
 れるとする説がある。
紀元前6000年、最古級の人為的埋葬の可能性の発見が、沖
 縄の遺跡であった。
  沖縄は、アルカリ土壌であるので骨が残っていた。
紀元前5500年、メソポタミア文明チグリス川とユーフラ
 テス川の周辺に栄えた古代文明
  この頃から、両河川流域に、徐々に、灌漑組織が発達
 し、集落が形成された。
紀元前5500年、縄文時代早期の丸木舟が発掘された。
  千葉県市川市の雷下(かみなりした)遺跡で。
紀元前5000年〜紀元前4000年、黄河文明:中国大陸の黄
 河中流域で農耕(畑作)が始まったと推定されている。
紀元前5000年、人類の人口は、増加し、この頃は、1億人
 になっている。
紀元前4600年、エジプトに、ピラミッドが出来た。
紀元前4500年、縄文中期の、北海道と沖縄を除く日本列島
 の人口は、26万人で、その96パーセントが東日本に集中
 していた。
  人口密度は、東日本が、1.7人/平方キロメートルで、
 中でも関東は、3人/平方キロメートルと最密集地帯だっ
 た。
  一方、当時の西日本は、総人口が、1万人以下で、人口
 密度も、実に、関東地方の50分の1の0.06人/平方キロメ
 ートルという超過疎地帯だった。
  生活は、狩猟・採集生活である。
  縄文中期には、平均気温が、現在より2度近く高かった。
  イノシシ・シカ・川魚・貝類は、東日本、西日本とも
 獲れる。
  緯度の低い西日本の方が温かく、住み易そうに思える
 のに何故なのか?
  この人口の差は、東日本と西日本の森の違いであった。
  縄文時代の東日本は、ブナやナラなどの落葉樹林が広
 がっていた。
  落葉樹林は、秋から春に景色が開け、森に深く入り込
 め、狩りやキノコ狩りも出来る。
  だから、東日本の縄文遺跡は、大地一帯に展開していた。
  これに対し、西日本の縄文文化は、「川筋や海岸べり」
 の森が切れたあたりに発達した。
  西日本は、シイやカシ、クスノキなど照葉樹林のおお
 われていた。
  木は、高く生い茂り、冬も葉を落とさず、地面は、じ
 めじめして奥まで入れない。
  だから、縄文遺跡は、川筋や森の海岸沿いの点在した
 だけであった。
  ところが、3000年〜4000年前の縄文後期から、縄文
 遺跡は、全国的に減り、関東地方でも遺跡がばったりと
 出土しなくなる。
紀元前4000年、黄河文明:この頃のヤンシャオ文化で彩陶
 が注目される。
紀元前4000年頃、エジプト・メソポタミアにオリエント文
 明が起こった。
紀元前4000年、この頃、オリエント青銅文化が起きる(ス
 メル文化の初め)。
紀元前3500年、メソポタミア文明:生産の発達に伴い、こ
 の頃以降に、多数の都市が誕生する。
紀元前3000年、この頃、黄河流域に新石器文明が起きた。
紀元前3000年、エジプト第一王朝の時代。
  エジプト文明ナイル川流域に発達し、メソポタミア
 文明に次いで興った古代文明である。
  都市文明への進行過程では、メソポタミアよりやや遅
 れていたが、ナイル川の特殊地理事情のため、帝国の出
 現は、メソポタミアより早かった。
  この頃に、既に、古王国が成立。
  「神の子」と称する国王が神権政治を行い、その権力
 が大きいために、スケールの大きな構造物が多く建設さ
 れた。
  キリスト教のイエスより、3000年も早く、「神の子」
 と称する人間は、出現していた。
紀元前3000年、インドに青銅文化が起きた。
紀元前3000年、メソポタミア文明シュメール人がこの頃
 から都市国家の時代へ入る。
  その後、戦争を経て、領土国家へ拡大し、バビロニア
 など種々の帝国が建設された。
紀元前2750年、この頃、アッド人がスメール人を征服した。
紀元前2600年、ピラミッド:エジプト国王の墳墓であり、
 巨大な石造建築である。
  初期のピラミッドは、比較的小さかったが、この頃か
 らのクフ、カフラー、メンカウラーの三王のピラミッド
 が、にわかに巨大になった。
  底辺の正方形の各辺は、正しく東西南北に向いている。
  最大のクフ王のピラミッドの高さは、152メートル。
  平均2トン半の石材が、230万個も使用された。
紀元前2500年、地図(バビロニア所領図)が出来た。
紀元前2500年、黄河文明:続いて、この頃の竜山(ろんさ
 ん)文化では、技術水準の高い黒陶が生産されていた。
  その延長上に都市文明が開花する。
紀元前2500年、紙に似たものがエジプトで使われた。
紀元前2500年、インダス文明インダス川流域を中心に、
 紀元前2500年頃より、紀元前1800年頃まで展開した都
 市文明。
  モエンジョ=ダーロ、ハラッパーが、代表的な都市で
 ある他に、ロータルなど地方都市も発見されている。
  都市は、すべて計画都市であり、整備された上下水道
 焼成煉瓦を豊富に用いた建築物などが特徴である。
  文字は、インダス文字が使用されていた。
  洪水・塩害など、文明を取り巻く環境の変化により滅
 亡した。
紀元前2500年、エーゲ文明:オリエントの影響を受けて、
 この頃から、東地中海のエーゲ海周辺に、ミノア文明が
 栄えた。
  河川流域の農耕によって誕生した文明とは異なり、オ
 リエントのとの交易によって勃興した文明である。
  特に、クレタ島に栄えた『クレタ文明』が注目される。
  クレタ島に迷宮の名で知られる宮殿がある。
  その壁画から、当時の島民の社会生活を知ることがで
 きる。
  オリエント:本来の意味は「太陽の昇るところ」「東
 方」。
  古代ローマ人が、メソポタミアとエジプト周辺を指し
 て名付けた。「文明の発祥地」である。
紀元前2000年、4000年〜3000年前の縄文後期から遺跡は
 全国的に減り、関東地方でも遺跡がバッタリと出土しな
 くなる。
紀元前2000年、古バビロニア王国クレタに青銅文化が起
 こる。
紀元前2000年、バビロニア:この頃に、シュメール人が建
 設したメソポタミアに、セム系のアムル人が侵入し、バ
 ビロニアという強大な国を作った。
  その首都が、バビロンで、メソポタミアの河川の中流
 域にある。
紀元前2000年、中国奥地(ゴビからタクラマカンの奥地)
 の楼蘭(ろうらん)に小さな王国があったが、現在は砂
 漠と化している。
  ここには、ロプノールという湖があったが、千数百年
 前に干上がっていたと思われる。
紀元前2000年、ベーダ:インド古代の聖典
  紀元前2000年期の中頃を中心に、イラン高原から西北
 インドに侵入したインド・アーリア人は、その後、紀元
 前6世紀ごろまでにかけて、膨大な宗教文献群を作り上
 げた。
  リグ・ベーダ、サーマ・ベーダ、ヤジュル・ベーダ、
 及び、アタルバ・ベーダに4大別されるサンヒターを軸
 に、プラーフマナ、アーラニヤカ、そして、ウパニシャ
 ッドの各文献群を成立させる。
  紀元前8世紀を中心として成立するプラーフマナは、祭
 式万能の時代を、それに続くウパニシャッドは、新思想
 を開花させ、ともに、その後のインド世界に大きな影響
 を及ぼした。
紀元前2000年、アーリア人インド・ヨーロッパ語族に属
 し、インド・イラン・ヨーロッパ人などの祖先である。
  元来、中央アジアの西方から南ロシアにまたがって居
 住したが、紀元前2000年頃から膨張し、アフガニスタン
 インド(インダス川流域)、また、バルカン、小アジア
 (ヒッタイト王国)に定住した。
紀元前1800年バビロニア:この頃、ハンムラビ王の時代
 に、バビロニア全域の統一に成功。
  有名なハンムラビ法典が作られたが、これは、集大成
 された最古の成文法として注目される。
  バビロニアは、約1000年間、メソポタミア文明の中心
 となった。
紀元前1700年、黄河文明黄河流域の肥沃な黄土地帯に誕
 生した。
  東アジア最古の大文明である。
  都市文明が開花するのは、紀元前1700年以後の殷(い
 ん)文明においてであるが、この地域の農耕文化は早く
 から発達した。
紀元前1700年、殷(いん):紀元前1700年頃から黄河
 流域で栄えた、中国最古の都市文明。
  殷王朝と言えば、領土の範囲が制限されるが、殷文明
 はより範囲が広い。
  亀甲や獣骨に刻まれた漢字(甲骨文字)、神秘的で迫
 力のある青銅器で有名である。
紀元前1600年、エーゲ文明:バルカン半島を軟化したギリ
 シャ人の一派ミケーネ人が、紀元前1600年ごろ、先行す
 る文明を継承し、やがて、クレタ文明に代わるミケーネ
 文明をギリシャと多くの島に築いた。
紀元前1600年、アーリア人:紀元前1600年頃のイラン高
 原、メソポタミアエーゲ海、さらに、ヨーロッパなど
 に進出した。
  アーリア人が、多くの地域を制圧できたのは、馬を利
 用し、また、馬の牽引する二輪車(戦車)から矢を射た
 ためである。
紀元前1600年、西ヨーロッパが鉄器時代に入る。
紀元前1580年、エジプト新王国が興る。
紀元前1500年、古代ユダヤセムユダヤ人(ヘブライ人)
 は、シリアの近くで遊牧生活を送っていたが、紀元前1500
 年以後、ユダヤ人の一部分がエジプトへ移住した。
紀元前1500年〜紀元前1000年、縄文時代後期〜晩期に、
 環状盛り土遺構が注目されている。
  埼玉県加須市の長竹遺跡が発掘調査が進み、住居や墓
 が密集した集落跡だった。
  関東地方を中心に確認例が続いた。
  環状は、高さ1.8m、幅20mの盛り土が、直径150mの
 C型の一方が開いたドーナツ状に築かれている。
紀元前1370年〜紀元前1350年、ツタンカーメンの墓が造
 られた。
紀元前1350年頃、エジプトのツタンカーメンの黄金のマス
 ク。
紀元前1300年頃、パピルスに描かれたエジプト金山図が作
 られた。
紀元前1280年頃、エジプトのルクソール大神殿のラムセス
 2世時代。
紀元前1250年頃、モーゼが居たとされている。
  歴史家は、その存在を否定しているが、そして、この
 頃、このモーゼによるエジプト脱出があったとされてい
 る。
紀元前1200年、周(西周)が興る(中国)。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009