(増補版)671E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)

題:(増補版)671E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月1日、京都帝国博物館(後の京都国立博物館)が
 開館した。
  当館は、主に、平安時代から江戸時代にかけての京都
 の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示すると
 ともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。
  1888年宮内省に臨時全国宝物取調局(局長:九鬼隆
   一)が設置され・・
   日本各地の社寺等の文化財(当時の用語では「宝物」)
   の調査が行われた。
   その結果、京都・奈良には特に文化財が集中してお
   り、それらを収蔵保管する施設の整備が「急務」と
   された。
  こうして、当時の日本政府は、京都と奈良に国立の博
 物館を設置することにした。
  1890年、帝国京都博物館の建設地を東山七条の現在地
   に定めた。
   この土地は、方広寺(大仏)旧境内にあたる。
   東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮)で・・
   恭明宮は、明治初年の神仏分離後、それまで御所の
   御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安
   置していた施設。
  1891年、本館は、当初3階建てで計画された・・が・・
   この年に発生した濃尾地震で、レンガ造2階建ての建
   物が多く倒壊した。
   ことを踏まえて、平屋建てに変更された。
  1892年6月、博物館・本館は、片山東熊の設計になる煉
   瓦造平屋建てのフレンチ・ルネサンス様式で・・
   そして、この時、建築工事が着工された。1
   設計者の片山は、赤坂離宮のほか、奈良国立博物館
   本館や東京国立博物館表慶館の設計も行なっている。
  1895年10月、竣工。
  1897年5月、諸準備が整って、博物館が開館した。
.
1897年5月1日、総武鉄道佐倉駅成東駅間が開通した。
  1894年7月、市川駅佐倉駅間が総武鉄道会社によって
   まず、開通した。
  1904年4月、両国駅銚子駅間が全通した。
.
1897年5月4日、道府県に地方視学が設置された。
  視学(しがく)とは、旧制度の国家および地方教育の
 行政官で・・
  市視学・郡視学・府県視学がある。
  学事の視察、および、教育指導監督を行なった。
  地方の視学は、教員人事の実権を持っていた。
  1872年の学制によって始まり、後に、文部省、道府県
   郡、市に置かれた。
   戦時中に教学官と改称され・・
  1948年、指導主事に移行した。
.
1897年5月4日、中越鉄道の黒田仮停車場~福野駅間が開通
 した(17.2km)
  中越鉄道は、富山県で最初に開業した私設鉄道
  富山県西部の砺波(となみ)地方から産出される米な
 どの農産物を、伏木港へ輸送することを目的として地元
 の地主などを中心に設立された。
  当初、経営不振に陥ったが、明治末頃からの経済情勢
 の好転と、伏木港の改修による増強などを追い風として
 輸送量が増加し、経営も順調となった。
.
1897年5月9日、カナダで、日本人・中国人排斥法案が可決
 した。
  鉄道工事に両国人の労働者を使うことが禁じられた。
  1858年、ゴールド・ラッシュを伴って、サンフランシ
   スコや中国本土から金鉱を目指して移民が押し寄せ
   た・・この移民の波の後、カナダへの移住の波が続
   いた。
  1881年~1885年、10000人の中国人が、カナダ太平洋鉄
   道を築くために契約がなされた。
  1882年、アメリカが、カナディアン・パシフィック鉄
   道の中国人労働者に関する特別法を可決したため、
   アメリカに居た多くの中国人達はバンクーバーへや
   ってきた。
  1885年、人頭税が課されて、その流入を止める動き・
   カナダ入国が制限され始めたが、中国人の入国は衰
   えなかった。
  1886年、また、一方、鉄道がバンクーバーまで通じる
   と、森を切り開いて、街を造成するため多くの労働
   力が必要とされた。
   州政府は、自ら開拓することを条件に、中国人に10
   年間無償で現メイン・ストリートの160エーカーの土
   地を貸与した。
   これが、バンクーバーのチャイナタウンの発展する 
   きっかけになった。
  1890年代、チャイナタウンは拡大して行く・・
   白人の雇用を奪うものとみなされて来た・・激しい
   差別が始まった。
   バンクーバーのチャイナタウンは、トロントの次に
   カナダでは2番目に大きい規模へ・・
   この頃の中国人は、中国の習慣・風習をそのまま持
   ち込んでいた・・
   男性は辮髪、女性は纏足(てんそく)、広東語を話
   し、広東食を食べ、冠婚葬祭・宗教儀礼もすべて中
   国の風習・習慣のままだった。
  1897年、中国人の商人が、次第に新しい事業に投資し、
   チャイナタウンは大きく発展して行く・・
   バンクーバーの町づくりに大きく貢献していた・・
   しかし、すべての労働市場へは進出が出来なかった。
   主流社会からも外された・・差別がより広く見られ
   た。
   中国人には、投票権が許されていなかった・・しか
   し、差別に抵抗し、法廷闘争もした。
  1907年、バンクーバー暴動へ
   この年の始めに、アメリカ合衆国での転航禁止令に
   よって、日本人移民が、渡航先をアメリカからカナ
   ダに変更した・・そのため、カナダ入国移民が急増
   した・・これが背景となった。
   また、カリフォルニア州での、排日運動に刺激され
   た。
   1907年8月、「アジア人排斥同盟」が結成された。
   1907年9月7日、バンクーバー暴動が起きる・・
   排日活動家と中国人排斥活動家、政治家、白人労働
   組合は、「ホワイト・カナダ」をスローガンとして、
   仕事を奪われたとストライキなども組織し、集会が
   市公会堂で開かれた。
   東洋人移民の全面停止を訴えた・・
   人種差別的な演説会となった・・
   夕刻に開催されたこの集会に、数千人が詰めかけ、
   公会堂に入りきらず、建物前の道路で、州総督を模
   した人形に火をつけて燃やした。
   これは、総督みずからが所有する炭坑に、中国人や
   日本人労働者を多数雇用していたことに加え・・
   この総督は、この年の東洋人移民の制限する法律に
   拒否権を発動した・・このことへの反発だった。
   公会堂の中では、イギリス帝国を築いたのは「アン
   グロ・サクソンの血属だ」、東洋人の移民停止は「
   必要だ」と言う演説が次々行なわれていた。
   そして、公会堂の外の群衆が、9000人に膨れ上がっ
   て、チャイナタウンへ向かってデモ行進(押し寄せ
   る)し、差別的スローガンを叫び、投石し、暴徒と
   化して行き・・
   資産を壊し、中国人街に隣接する日本人街へも押し
   寄せ、投石し、店から略奪もした。
   夜半まで3回ないし4回・・行われた。
   日本人街は抵抗をした・・これを、新聞が「排日暴
   動」と報道し、全カナダが注目した。
   また、新聞は、暴動を誘発した要因としてアメリ
   の排日運動の影響だと報じた・・
   暴動は、アメリカ人が扇動した排日運動によって引
   き起こされたと一貫して報じた。
   イギリス政府は、それまでのアメリカの排日運動に
   批判的だったが、これで面目を失った。
   「カナダの政府および国民を非難することなく、同
   時に、同盟国である日本を傷つけることなく、自己
   の立場を擁護するために」選んだ責任転嫁だったこ
   とを認めた。
   カナダ政府は、日本へ特使を派遣した。
   日本政府は、毅然と遺憾の意を表明し、賠償を求め
   た・・
   また、それに、早急な対応をしたカナダ政府は、損
   害賠償として、日本人被害者に9000ドル、中国人被
   害者に26000ドルが支払われた。
   中国人の大多数は社会の下層にいた。
   職業選択においても差別された・・選択できる仕事
   は、給料の低いサーモン加工工場、家具製造場、農
   場、クリーニング業、飲食業など・・
   法律や医療関係は従事しては駄目とされていた。
  1923年、中国人労働者とその家族のカナダ入国を禁止
   する「中国人排斥法」が制定された。
  1947年、「中国人排斥法」が廃止されるのはこの年・・
   中国から家族を呼び寄せられるようになった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教は、ビックバン説ができるとその説に乗っかって・・キリスト教の神・創造主が宇宙・地球を創った時だとしたが・・
    宇宙に始まりがあるという考えに、アインシュタインは否定的だった。
.
紀元前180億年、ビッグバンが起きた。
  ビックバン宇宙論によって導き出された一説の宇宙の
 爆発的膨張が始まった。
  観測で遠くの銀河が遠ざかっていることが観測された。
  それから、それを過去に戻ったところが「宇宙の始ま
 りだ」とした。
  ビックバンは、そうであるならその時は高温・高密度
 であっただろうとして出された説(物理学者の間で合意
 されたものではない)・・
  因みに、宇宙に始まりがあったという考えに、アイン
 シュタインは否定的・・
  キリスト教は、これがキリスト教の神・創造主の「宇
 宙創造だ」とこの説に乗っかった。
  しかし、そのキリスト教の神・創造主が創った宇宙・
 地球は、ダーウィンが証明した通り・・進化して来た。
  キリスト教の神・創造主の「創造が不完全であった」
  そのため、その修正がなされ、より適合したものへの
 進化がなされた・・と・・
  そして、今、人間は、今、ゲノムの技術を手に入れた。
  6日間でキリスト教の神・創造主が創ったその後を、
 人間の手によって、「より良いものがそのゲノム技術で
 創られている」。
     ・
     ・
     ・
紀元前35万年、ナウマン象が、日本列島に現れた。
  日本列島の旧石器時代は、日本列島へ人類が移住して
 来た時に始まり、その終りは1万6000年前である。
  最終氷期の時に、大陸と繋がった北海道だけはマンモ
 ス動物群が宗谷陸峡を渡って来ることが出来た。
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万
 7000年前に絶滅した。
  長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層からナウマン象の
 骨製品がまとまって発見された。
  12万年前の島根県出雲市多岐町砂原にある砂原遺跡は、
 中期旧石器時代の遺跡である。
  岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石
 器が発見されている。
  そして、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の
 採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では
 知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
  日本の旧石器時代の調査・研究が始まるきっかけを作
 った相沢忠洋氏の岩宿での旧石器が発見され・・それ以
 降、日本列島の全域で4000ヶ所を超える遺跡が確認され
 ている・・そして・・
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の
 後期旧石器時代となる。
  日本列島の後期旧石器時代は、3.5万年前に始まり、縄
 文時代へ移行する1.5万年前までの「2万年間続いた」。
  遺跡は、樺太から沖縄まで約1万ヶ所以上が確認された。
  また、青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着
 した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代
 法で、1万6500年前と出た。
  北海道の何万年も続く旧石器時代・・
  そして、それに続く1万年以上の縄文時代弥生時代
 生きた本当の日本の先住民・・
  日本の本当の祖先たちは、この様な長い年月を北海道
 の地にも居た。
  その北海道の生活の痕跡は、本州奥羽地方などより、
 逆に濃いのだと古代史研究家の歴史学者(東大教授)は
 言う。
  わずかな年数・・最近の七百年前に、北海道に来たア
 イヌが日本の先住民であるはずがない。
  日本の政治家は、圧力に屈して「アイヌが先住民」と
 いう法律を作ってしまったが、これは間違い。
  この科学的に間違った法律は改正すべきである。
  また、圧力をかけた者は、「間違いを認めて、謝罪を
 表明すべきである」。
  また、この者たちへ数々の名目で渡した金は「その返
 済を求めるべきである」。
  その返還訴訟もすべきである。
     ・
     ・
紀元前12万年、日本の旧石器時代の始まり・・
  日本に人類が移住して来た時が始まり、旧石器時代
 無土器時代、先土器時代、先縄文時代ともいう。
  日本列島での人類の足跡は、12年前(島根県出雲市
 伎町砂原、砂原遺跡)がある。
  因みに、日本人の祖先たちは、舟に乗って海上をかな
 り自由に往来した・・それは、伊豆諸島や神津島産の黒
 曜石が、関東地方の後期旧石器時代の遺跡から発見され
 ている事からも分かる。
  また、特筆できることは、磨製石器の世界最古のもの
 が日本列島で製作されていて、かなり独自の文化が形成
 されていたと言える・・その年代は4万年前~3万年前。
     ・
     ・
紀元前16000年、縄文時代が始まった。
  日本の縄文時代の始期と終期については多くの議論が
 あるが、まず始期に関しては一般的に16000±100年前と
 考えられている。
  終期は概ね約3000年前とされている(諸説ある)
  縄文の人口は26万人、戦争が無い・・長期無変動文化。
  世界最古の縄文土器文明。
  森林と石清水の文明・・砂漠の文明とは違う。
  人々の暮らしの知恵、祭祀のあり方、建物の技術、社
 会構成、埋葬の形式などに一つの型が生じて、文化的同
 一性が形成された。
  海により大陸から切断された古地理的条件は、必ずし
 も人種の同一性を可能にはしないけれども生活文化の共
 通性と連続性を引き起こす可能性は高かった。
  稲作は縄文時代に始まっていた。
  森に覆われた湿潤な風土は体質と深く関係して(砂漠
 の文明とまったく違うものだった)
  日本は稲作が中心、他の地域は放牧と牧畜(牧畜と遊
 牧民)。
  東日本にはブナの森が広がり、他に楢・栗・胡桃(く
 るみ)、落葉広葉樹林に覆われ、縄文後期に杉林が拡大
 した。
  西日本には早くから杉林があり、ブナ・楢が退いて、
 代わりに樫・椎・楠などの常緑広葉樹林となった。
  「栗の栽培」はかなり早くから行われていた。
  また、「カキの養殖」も行なわれていた。
  日本の地と違い、ユーラシア大陸は民族が入り交じり
 戦争の世の中にあった。
     ・  
     ・
紀元前10000年、日本の稲の痕跡がある・・起源とされる
 中国の長江より古い。
  鹿児島県の遺跡では、12000年前の薩摩火山灰の下層か
 らイネのプラント・オパールが検出されており、これは、
 稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年
 代となる。
     ・
     ・
紀元前8000年、稲作の起源
  稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の
 約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国・長江
 流域の湖南省周辺地域と考えられている。
  (かつては、雲南省の遺跡から発掘された4400年前の
 試料や、遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺
 からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とさ
 れていた)
     ・
     ・
紀元前6000年、日本へ伝播するジャポニカ米の稲作が始ま
 る。
  長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析
 によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培
 されており、インディカ米の出現はずっと下るという。
  野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後に、
 その集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、
 インディカ米の系統が生じたと考えられている。
.
紀元前6000年~紀元前3000年、中国国内の稲作の伝播
  中国では、紀元前6000年~紀元前3000年までの栽培痕
 跡は、黄河流域を北限とした地域に限られている。
  紀元前3000年以降、山東半島先端部にまで分布した。
.
紀元前6000年、日本列島の稲作の起源となる地域=中国・
 長江流域で稲作が始まる。
  現在の南京や武漢の長江流域の下流域から中流域にか
 けて稲作が始まった。
  今・現在、遺跡や遺物の発掘や研究が進み、その日本
 までの稲作伝搬ルートが解明されつつある。
  その研究成果によると従来の各説のルートがほぼ一本
 のルートに絞られた。
  長江から遼東半島から山東半島の暖流にそって伝搬し、
 紀元前1000年頃、朝鮮半島へ伝搬する。
  そして、紀元前900年〜紀元前800年頃、日本の九州へ
 伝搬して来た。
  また、紀元前6000年頃、雑穀栽培が、中国の長春や瀋
 陽や北京辺りで始まり、
  紀元前3000年頃、朝鮮半島へ伝搬し、
  紀元前900年〜紀元前800年頃、稲作と同じ頃、雑穀栽
 培も日本へ伝搬する。
  今・現代、レプリカ法という方法で、土器についた穀
 物類の痕跡の解明・研究が進んでいる。
  日本列島の穀物の出現が、縄文時代晩期終末の紀元前
 8世紀〜紀元前4世紀に、イネと雑穀(アワ・キビ)がほぼ
 同時に出現したと知ることができた。
  今まで稲作の発生地と思われていた中国・雲南省から
 インド・アッサム州という説は消えた。
  朝鮮への稲作伝搬に時間がかかったのは、この地域に
 獲物が多く、狩が楽なため食糧に困っていなかったと考
 えられている。
  (参考)レプリカ法:最近の古代の研究に貢献したの
     がレプリカ法である。
      これは、土器についた圧痕から穀物の種類な
     ど、当時の食べ物が割り出せる様になった。
      また、プラント・オパールという目では見え
     ないガラス質の粒(土中にある)を分析して、そ
     のプラント・オパールの中に封じ込められてい
     る花粉などを分析する。
      この様な分析から木の実や猪や鹿を主食とし
     ていたことが確かめられた。
      日本の縄文時代早期にはすでに「ヒョウタ
     やアサを栽培していた」。
      また、縄文中期には「ダイズやエゴマを栽培
     していた」。
      また、「シソやゴボウなど、嗜好品を栽培し
     ていた」。
      そのプラント・オパールの分析で縄文時代
     期に稲作をしたという痕跡があるという(目下、
     研究中)。
      レプリカ法の良いところは、土器の圧痕を調
     べるというところから、混入とかのデータが乱
     れることもなく、また、土器の年代が確かなら
     その存在も確かとできる。
      長野県飯田市の石行遺跡からイネの表面の果
     粒状組織が鮮明な圧痕が確認された。
      この土器は縄文時代晩期終末である。
     縄文時代に稲作がなされていた。
     ・
     ・
紀元前6000年、日本の稲作栽培の証拠が発見された。
  日本では、陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の
 朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つ
 かった。
  (参考)プラント・オパール:植物は土壌中の珪酸(
     水に溶けたケイ酸塩)を根から吸収し、特定の
     細胞の細胞壁に蓄積しガラス質の細胞体を形成
     する。
      植物珪酸はイネ科、カヤツリグサ科、シダ植
     物、コケ植物において含有量の高いことが知ら
     れ、特に表皮細胞、樹木類の維管細胞と表皮細
     胞など蓄積されやすい箇所がある。
      ガラス質に変化した植物珪酸体は、植物体が
     枯死した後にも腐敗せず残存し土壌に保存され
     る。
      更に、植物体毎の特徴があることから種を特
     定することが可能であり、花粉と共に古植生環
     境を推定する手段として利用される。
      花粉は広域に拡散し局所環境の推定には向か
     ないが、プラント・オパールは飛散しにくく乾
     燥地や酸性土壌など花粉が遺存しにくい環境で
     も遺存するため、局所的な環境と植生の分析が
     可能である。
      特に、イネ科植物はプラント・オパールが残
     りやすく、稲作の起源を探る研究が精力的に行
     われたため多くの知見が蓄積されている。
     ・
     ・
紀元前3500年、日本への稲作伝播の証拠として岡山県の南
 溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつ
 かった。
  縄文稲作の証拠として、有力な考古学的証拠は、縄文
 時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同
 県津島岡大遺跡の土器胎土内から出たプラント・オパー
 ル。
  砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の
 土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時か
 ら混じっていたと考えられている。
     ・
     ・
紀元前3000年、中国・遼東半島で炭化した稲が見つかった。
  遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、
 朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。
     ・
     ・
紀元前2600年、日本の稲作を行なった水田稲作の遺跡が見
 つかった。
  水田稲作に関する約2600年前の菜畑遺跡の水田跡があ
 る。
  水田稲作の伝来経路としては、従来、「朝鮮半島経由
 説」「江南説(直接ルート)」「南方経由説」の3説がある
 が、現在も議論が続いている。
.
紀元前2500年、韓国の水田跡・・
  水田稲作に関して、約2500年前の水田跡が松菊里遺跡
 (韓国の西南部、忠清南道松菊里にある遺跡)でみつか
 る。
.
紀元前2000年、もともとは「黄河中流域にしか居なかっ
 た少数民族漢民族」が、今は、世界を制覇する民族に
 までなっている(黄河流域の農耕民)
  それは、武力を磨き、策謀を巡らして来た長い歴史が
 ある。
  漢民族の長い歴史は、他民族攻略の歴史だった。
  中国大陸は、多民族が蠢(うごめ)く地で、中央の政権
 を取った政権は入れ替わり立ち代わりめざましく代わっ
 た。
  「洗国(せんこく)」という相手の国を奪う方法は中国
 では古い昔から行われて来た。
  今、共産政権の中華人民共和国も盛んにこの方法を使
 っている。
  女真族(満州族) の多く居た地域に、日本は「満州国
 建国する援助をした」。
  しかし、今、その地は洗国されて、満州族の方々は居
 なくなってしまった。
  その地の名称も「中国東北部」と呼ばされている。
  本当は「中国東北侵略部」と呼ぶべき地域なのだ。
  そして、中国は、今、長い国境線を接するロシア(旧:
 ソ連)国境を超える浸透を諮(はか)っている。
  その「中国東北侵略部」からさらに北の地域を領土に
 しようとの行動をいている。
  今、ウイグルの方々が、大量に大勢の方々が拘束され
 洗脳教育をされているのも「洗国」である。
  ウイグルの国を無くそうとしている。
  今、共産中国は、一帯一路という形で世界の覇権を盗
 ろうとしている。
  日本は、この様な共産・中国の動きで滅亡されない様、
 「反工作員」を大量に組織せよ!!
  共産・中国の消滅までの間の臨時行政措置で、即刻実
 施せよ!!
  今、緊急事態にある。
  日本は、この様な形で自由と民主主義を守る世界に貢
 献せよ!!
  中国が、世界に大量に出動させている工作員に日本が
 メインとなって対抗せよ!!
     ・
     ・
紀元前206年、前漢が成立した。
  漢(かん)は、中国の王朝で、通例、前漢(紀元前206
 年~紀元後8年)と後漢(紀元後25年~紀元後220年)の
 二つの王朝がある。
  漢の成立前にあった国=秦・・
  多くの王国に分かれていた中国を、初めて統一した秦
 だった。
  漢の前の秦は、漢民族ではない民族である・・
  現代の新疆ウイグル自治区チベット満州、内モン
 ゴル自治区、南東部の地域は、この頃の中国・秦にとっ
 て外国だった。
  秦の始皇帝の実の父は、荘襄王ではなく「呂不韋(ロ
 フィー)」と言われている。
  この名前は、中国人ではなく外国人の名前を中国語で
 表記したと言える。
  秦の始皇帝に不老不死の仙薬を求められて、日本に探
 しに来た「徐福」は数千人の集団とともに、その後、日
 本に永住した。
  秦の滅亡を機に、秦の渡来人は、迫害を避けて最終的
 に朝鮮半島へ移住した。
  そして、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留し、
 韓流文化の影響を受けた。
  「魏志和人伝」において「辰韓人(秦韓人)」と記載
 されている。
  その秦の渡来人が、日本に渡ってきて、「秦氏」と名
 乗った(韓民族ではない)。
  『日本書紀』 巻第10「応神紀」の記載では・・
  「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)
 を奉った。・・・・・
  その年、弓月君(=泰氏)が百済から来る。
  奏上し、「私は、私の国の百二十県の人民を率いて来
 ました・・
  しかし、新羅人が邪魔をし、みな加羅国に留まってい
 ます」・・と・・
  それで速やかに新羅に行って、「弓月の民を救出した」
 と記されている。
  この秦氏(はたし)が、大陸から携えてきた文化は、
 極めて高度で・・
  泰氏は、その財力と土木技術を活かして灌漑や大規模
 な土木工事、古墳の造営に着手した・・
  湿地で洪水の多かった山背国(現:京都)の治水事業
 や地域の開発と発展に大きく貢献する。
  嵐山にある渡月橋の葛野大堰(かどのおおい)と呼ば
 れている堰(せき)はこの泰氏が築いている。
  この秦の滅亡によって前漢が出来た。
  林惠祥は著書『中国民族史』で・・
  漢民族は、華夏族を中心として東夷系、荊呉系、百越
 系及び東胡系、匈奴系などの民族を吸収し形成した民族
 と論じている。
  黄河の上・中流を中心に居住していた華夏系は、黄河
 の下流の東夷系、長江の中流の荊呉系、及び、珠江を中
 心とした百越系と融合、及び、統合のプロセスを通して
 漢民族に生まれ変わった・・この時、漢民族が出来た・・。
  漢族は、黄河文明を生み出した華夏族と周辺の多民族
 との混淆で形成された民族である。
  中国には、純粋血統の「漢族」は存在しない。
     ・
     ・
     ・
19世紀後半、まだ不完全な明治の日本だった・・
  実力を備え切れていない日本だった・・
  その様な状況の中に、不平等な条約が存在した。
  また、不正常な国際関係が存在した。
  この様な中で、列強諸国と対峙する為の軍拡について、
 為政者と民権派の活動家を含めた国民のあいだに、「基
 本的な対立はなかった」。
  両者が共に敏感に感じる「早急に解決すべき関心事」
 であった。
  自由民権論者の対外認識は極めて正常だった。
  この時代の中国も、今・現代の様に、中国独特の論理
 「華夷秩序」であった。
  それは、「文明の中心である中国が周辺地域に対して、
 世界の中心である中国の『徳』を及ぼすものであり、そ
 の感化によって求める世界を実現する」だった。
  19世紀後半、この中国の華夷秩序が、「欧米列強の形
 成する秩序」に置き換わって行った。
  しかし、この「欧米列強の秩序」と言ったって理想的
 なものではなかった。
  キリスト教マインド・コントロールされた有色人種
 蔑視観を持って、何ら遠慮なく「その領土を奪取する行
 為を是認するものだった」。
  東アジア諸国は、その強権によって植民地化されて行
 った。
  また、その中国の基本理念にある「冊封」も、いつの
 時代においても中国が罹患している病気だった。
  中国は、その行為をすることによって「民族的、かつ、
 文化的な優越意識を確保していたい」とした。
  朝鮮は、今・現代と同様に、安易に、この中国の冊封
 体制下に入った。
  日本は、この様な中国を含めた国際情勢をよく見てい
 た。
  中国は、果たして欧米列強の秩序の前に屈するのか?
  イギリスはイギリスで、ロシアの南下が気になってい
 た。
  イギリスは、ロシアへの対抗を第一とする帝国主義
 行動を取っていた。
  この様な意味から、イギリスが中国の古い秩序感覚=
 冊封体制を認める動きもあり得た。
  その辺がどうなって行くのかが日本の関心事の一つだ
 った。
.
1880年3月24日、日本が「独立の維持」を真剣に考えた時代・・
  約140年前の東京横浜毎日新聞の論説に・・
  「列強諸国が迫って来ている今日、東アジアで、独立
 を保てる国は日本と中国くらいしかないだろう」と論説
 されている。
  それほどの欧米露などの「列強諸国が迫(せま)る危機」
 の中に東アジア諸国があった。
  韓国が、時代が変わった今・現代、立派に独立の形態
 を保っている今・現代、「過去にも同様に、誰にも頼ら
 ずに独立を保てた」かの様な顔をして、日本にあること
 ないことの、言いたいことを言っているが、当時の自国
 の状況をよく知ってから発言して戴きたい。
  韓国・朝鮮は、独立が保てず「日本に頼って来た」と
 いう事実を「韓国はなかったかの様な感じで、今・現代、
 好き勝手を発言している」。
  日本の保護を受けて「時代の波を乗り越えて来られた」
 ことを、韓国は「日本に感謝しなければならない」。
  朝鮮の独立も風前の灯(ともしび)のように・・ロシ
 アの南進の脅威の中にあった。
  そして、この1880年代と言えば、イギリスとフランス
 による「アフリカ再分割」が本格化した時代だった。
  強国の「切り取り自由の野蛮な時代」だった。
  欧米列強の、植民地を獲得して経済的利益を得たいと
 いう野蛮な野獣の様な行動がなされる時代だった。
  そして、遠慮会釈なく植民地の政治にも直接に関わり、
 直接統治をするという卑劣さだった。
  それも「世界的規模で、それをやりだした」。
  その様な状況を見る日本は、危機を最大に感じていた。
  当時の日本の新聞は、今がまさに帝国主義の時代だと
 報じていた。
  そして、欧米露の帝国主義の列強諸国によって、アジ
 ア諸地域が蚕食されつつあるとリアルな認識・現実を報
 じた。
  この様な世界および極東情勢、リアルな認識を持って
 民権派の活動家が活動していた。
  当然、日本の独立の維持についても考え及んでいた。
.
1880年11月30日、冷静な日本の重鎮・山県有朋が、天皇
 下へ「隣邦兵備略表」を上奏した。
  (参考)上奏:じょうそう、大臣・議院・官庁等が天
     皇陛下に意見を申し上げること。
  隣邦兵備略表は、隣国・中国の調査書である。
  山県有朋は、参謀本部長の任にあり、国防計画や作戦
 計画などに関わる軍令機関の長だった。
  山県は、1879年〜1880年にかけて、桂太郎らの将校10
 余名を、駐在武官や語学研究生の名目で中国・清へ派遣
 した。
  中国の兵制改革の進展ぶりを探らせた。
  そして、その報告を受け、深刻な状況にあることを知
 った。
  近代的兵制への改革をしている清の実態に最大限注意
 を払うべきだとした。
  その清国の望ましい状況に引き換えて、日本はといえ
 ば、第一線の海岸防御でさえ準備が不十分であることが
 如実であった・・日本は、この時、この後の対応策を
 着々と取って行く・・
  令和となった今・現在、この時と同じ状況となってい
 る、いや、それ以上の最悪の状況となっている。
  しかし、その様な状況を「見て見ぬふりをする」とい
 う実態がある。
  何ら対応策を取ろうとしない現実の中に居る日本とな
 っている。
  日本国民を守ることについて諦(あきら)めているの
 か?
  愛する人々を守ろうという事について諦めの状況にあ
 るのか?
  北朝鮮は、あの貧困な財政状況の中、必死に国防策を
 進めている。
  「攻撃が最大の防御」という策を進めている。
.
1909年、権益を狙って美しく立ち回るアメリカ・・
  「六ヵ国の提議」(1909年)。
  これはアメリカの偽善である。
  1899年、後から来たアメリカが、中国に対する「門戸
 開放」を宣言した。
  しかし、これは、後から来たアメリカに中国の美味し
 いものが残ってないので、「機会均等」や「領土保全
 という「きれいごと」を提唱して「各国平等で公平に」
 と美しい言葉でアメリカは語ったのだった。
  ヨーロッパ各国は、アメリカが言っていることが正論
 の様に見えたため、従わざるを得なかった。
  ドイツもロシアも表立って反論ができなかった。
  まんまと、アメリカは後から来たけれど、中国の美味
 しいものを手に入れた。
  この「六ヵ国借款」も同じだった・・アメリカの論理
 だった。
  満州に(中国の地ではない、それを国際的に認められて
 いた)、その地に、日本とロシアとイギリスが、共同で
 管理する鉄道があった。
  しかし、後から来たアメリカは、これに難癖(イチャ
 モン)をつけた。
  「これは中国のものだ。中国へ返せ」と・・
  そして、さらにアメリカは言う・・
  「支那は資金難だ」。
  「だから各国が分担金を出し合って借款団を作って、
 支那に金を貸して、名目だけ支那のものにしよう」と・・
  そして・・
  「その鉄道は、日・露・英・米・独・仏の六ヵ国で平
 等のものにしよう・・そして、管理しよう」と・・
  アメリカはきれいごとを言って難癖(イチャモン)を
 付けて「利権に割り込もうとした」。
  こんな論理なら何でも言える。
  例えば、「マンハッタン島はアメリカ・インディアン
 のものである」、だから、各国が分担金を出し合い借款
 団を作り、インディアンに貸し、名目はインディアンの
 ものにしよう」、そして、「そのマンハッタン島を米英
 独仏日露の六ヵ国で平等に管理しよう」と。
  どうですか・・おかしくはないですか?
  アメリカは、こんな猿知恵・悪知恵ばかりを使って、
 こんなことばかりをしていた。
.
1909年9月4日、日清協約・・「満州及び間島に関する日清
 協約」
  (参考)間島:かんとう、豆満江以北の満州にある朝
     鮮民族居住地を指す。
      主に、現在の中華人民共和国(中国)吉林省
     東部の延辺朝鮮族自治州一帯。
      朝鮮王朝実録によれば、太祖・李成桂の時代
     に北部女真族満州族)を帰順させ鴨緑江と豆
     満江(中国名、図們江)を国界とした。
      李氏朝鮮において、「野人」居住地域である
     満州に関する地理的知識は乏しかった。、
      満洲族清朝は、白頭山一帯を祖先の地とし
     て封禁地としていた・・そこへ徐々に朝鮮農民
     が入植し、住民の8割を占める様になった。
      清朝は、引き上げさせようとしたがどうしよ
     うもなかった・・そのため領民と認めた。
      日清戦争で清が敗北し、大韓帝国が樹立され
     たが、1899年、韓清通商条約でも国境の確定を
     することができなかった。
      1900年に清に義和団の乱が起きると、朝鮮は、
     この地の管理使を任命して現地に派遣した。
      ますますこじれた国境問題となった。
  この地に勢力拡大していたロシアが、日露戦争で敗け
 ると、この地から手を引いた。
  大韓帝国は、お陰でこの地を支配した・・日本は大韓
 帝国の主張を継承した。
  清国の統治が弱まった・・清の裁判権や課税権も否定
 された。
  清は、反発して一個連隊の軍を間島に移駐させ強硬な
 態度を見せた。
  ここで、日本と清の外交交渉の必要性が高まった。
  そして、1909年9月4日に条約が成立した。
  間島協約
  第一条:図們江(豆満江)を韓国と清朝の国境とする。
  第二条:清国は、間島の竜井村など4地域を外国人の居
   留・経済活動のために開放し、日本が、領事館また
   は分館を設置できる。
  第三条:韓国人が、豆満江以北の開墾地に居住するこ
   とができる。
  第四条:間島の韓国人は、清国の法律に従う。
   ただし、訴訟事件では日本側の領事館員の立会や覆
   審請求権が認められる。
  第五条:清国は、間島の韓国人の土地・家屋の保護の
   義務を負う。
   また、往来の自由を認める。
  第六条:吉長鉄道を延長して韓国鉄道と接続すること
   を認める。
  日本は、上記のように、一生懸命、韓国人の立場を尊
 重させる様に清国と交渉した。
  韓国人が開墾できるようにしたし、居住もでき、韓国
 人の土地・家屋の保護を約束させ、往来の自由も約束さ
 せたりした。
  因みに、ウィキペディアのこの項は、中国の工作員
 より間違いの記述となっている、日本を貶(おとし)め
 て、まったく間違った記述であるので注意のこと・・
.
2019年、ウイグルの破壊をしている中国の「悪の実態」が
 浮き彫りに・・
  ウイグルで、300万人以上を中国は強制収容している。
  中国は、「再教育センター」だと表向き美しい言い方
 をしているが、この名称の「再教育」という事から思想
 改造をする目的という事を認めているようなもの・・
  捕まえ始めた時、中国は、最初に宗教指導者を捕まえ
 始めた・・
  ウイグルの方々の心の支柱になっているイスラム教の
 聖典コーランウイグル語に訳した宗教者や学者たち
 を捕まえた。
  習近平中国国家主席は明言した「宗教より(中国の共
 産)国家が優先する」と・・
  習近平の狙いは、東トルキスタンが独立した時に「国
 の柱になりそうな人たち」から拘束して、排除した。
  この事を話すムカイダイス女史の両親も捕まっている。
  3年間、母親と連絡が取れていないという・・知人か
 ら「お母さんは亡くなったようだ」と言われている・・
  お母さんは、新疆大学の哲学の教授をしていた・・今、
 63歳になる・・
  大学教授のお母さんが、どのようなやり方で中国は
 再教育をしたのか??
  そして、お父さんに関しても、最近、「貴方の父も亡
 くなったのではないか」と言われた・・もうすぐ70歳に
 なる・・石油管理局のエンジニア・・お父さんともここ
 3年間、連絡が取れていない。
  中国の再教育センターという名称であるが、この様に
 連れ去った後の保障がまったくあやふやな、生死の与奪
 がある様な状況の事をしている。
  このムカイダイス女史の例は、1例で、すべてのウイグ
 ル人の中国の拘束がこの様な状況の中にある・・今・現
 代の時代に行われているとは思えない様な前近代的な行
 為がなされている・・ドイツの強制収容所を彷彿とさせ
 られる・・
  最後の連絡だったのが2015年で、「今、大変危ない状
 況にある」と言われた・・「その為、連絡は取らない様
 に」と言われた・・
  また、弟さんも、38歳であるが、やはり拘束されて、
 連絡が取れない状態になっている・・
  大学の法学部を出て裁判官をしていた・・ホータンの
 強制収容所に中国に連れて行かれた・・まったく不明の
 状態になっている・・好き勝手に国民を連れ去る中国の
 状態となっている・・連絡も何もしないという状況・・
 中国にどのような正義があるのかが「全く説明が無い状
 態」となっている・・
  そして、この収容所に強制収容された方々がウイグル
 人の学者や理論家で、ウイグルの正当性を語れる人々だ
 った。
  ウイグル人ウイグル文学研究家のムカイダイス女史
 が話す。
  https://www.youtube.com/watch?v=NMwwXRHxadI
  ウイグルにとって、この大切な人々は「何処がテロな
 のだ」と言いたいほどの『テロと無関係な人たち』。
  中国の目論見は「まずウイグルをリードしている人々
 を捕まえてしまえ」にある。
  明らかに、「リーダー不在」にして「ウイグル社会を
 破壊したい」にある。
  大学教授・インテリ・医者などを狙った。
  台湾でも同じことが行われ、2万人以上が殺された。
  ウイグルは、規模が極大で台湾の比ではない。
  ウイグル会議は「500万人に達する」という恐ろしい
 規模を算出している。
  2019年12月9日、ニューヨーク・タイムズの報道による
 と・・ニューヨーク在住のウイグル人の息子は、ウイグ
 ル在住の母親が強制収容所に入れられてというニュース
 と連絡を受け・・アメリカで「母親を助ける運動を始め
 た」・・
  それを知った中国が、その母親を監獄送りにした・・
  厳しい管理下に置いた・・体が弱く病気を持っている
 彼女は、常時、薬を飲んでいたが、その薬をまったく与
 えられず・・彼女は病気を発症した・・
  彼女はニューヨーク・タイムズの記者と連絡が取れた・・
 記者は、東トルキスタンに入って、そして、その詳細を
 記事として新聞に載せた・・
  この様な状況の彼女が、労働も強いられていたことも
 判明した・・この強制労働で背骨を折るという重大事態
 になる・・歩行困難になる・・
  この様になってやっと家に帰れた・・というより、ど
 こも行けない彼女を放置した・・
  だが、中国は病院の通院を禁止した・・
  この様な彼女であるが、息子へ伝えたいことがあるか
 との質問に、記者を通じて次のような事を息子へ言った・・
  「貴方の行なったことは、民族として、また、人間と
 して、やるべきことをやった・・正義の行動です。
  このままその行動を続けて下さい。誇りに思います」
 と・・
  中国は、事前に、この母親を脅していた「語るのでは
 ない」と・・しかし、母親は語った・・
  そして、記者に「是非とも公(おおやけ)にして下さ
 い、世界に知らせて下さい」と言った・・
  記者は、母親は命の危険を顧みず、この言葉を言った
 ので、記事に出来ました・・と言った。
  同時に取材したウイグル人の方々のイリの町は廃墟と
 なっていた・・ウイグルの方々の生活も日常もまったく
 無い状態だった・・
  イリは、ウイグルの文化が栄えた町だった・・ウイグ
 ルの昔の面影の残る美しい町だった・・日本で言えば「
 京都の町が破壊され、無人の町になったようなもの」・・
 とことん文化まで破壊する中国・・これが中国の再教育
 センターの政策か??
  中国によってずたずたに破壊されたウイグルの世界が
 あった・・
  日本に国賓として習近平が来た時に、この事について
 明確な説明をしてもらうようにしよう・・
  民主国家・日本も、アメリカのように、この事につい
 て中国の説明をはっきりと追求しよう・・
  中国に忠誠を誓っても「死刑とされた」ウイグル人
 ウイグルの大学の学長がいる・・日本で博士号を取った
 この方は、「心の中は親中ではない」と言われて判決が
 下された・・この様な判決があって良いのか??
  ウイグル文化を担(にな)って来たリーダーが、特に、
 この様な状況で「破壊している中国」・・
  日本の北海道が、沖縄が、また、あなたの国に、中国
 が来て、強制収容所を作られ、この様な事をされたら・・
 「それを思って下さい」・・
  貴方が、是非、声をあげなければ、この中国の動きは
 止められません・・
  一民族の戦いではありません・・
  皆が結束しなければ、止めることはできません・・
.
2019年、人間は、ゲノムを操作できる様になった。
  それも、益々、その技術は進歩し、ゲノム技術によっ
 て好き勝手に操作できる様になって来ている。
  キリスト教の神・創造主が6日間で創ったものが人間の
 手で変えられている。
  キリスト教の神・創造主のやったことが過去の仕事と
 なりつつある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/