あまりにも大きな悲劇が・・起きていた

 題:あまりにも大きな悲劇が・・起きていた
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 1945年8月15日、第二次世界大戦大東亜戦争)が終わ
った時・・、
 世界が、日本に対して「奇蹟」と思うぐらい感じた事が
あった。
 それは、「一部の日本軍民に至るまで、激情的な反撃が、
本土は元より・・全戦線に渡って、全然、見られなかった」
ことであった。
 これは、日本人の素晴らしい資質であるのだが・・、
 そこに、大きく作用したのが・・、
 天皇陛下の戦争終結に関する詔書(しょうしょ)であっ
た。
 全国民が、天皇陛下詔書を拝した時、大詔を拝した時
・・、
 すべての国民が・・、
 謹(つつし)まざる国民は一人としていない気持ちにな
った。
 詔書にある「耐えらざるを耐える」ところへ、心をおさ
めたのだった。
 しかし、一方、この終戦詔書が発せられた後において
も、大いなる悲劇が起きていた。
 事の発端は・・
 1943年10月に、アメリカのルーズベルト大統領が、ソ
連への対日戦に参戦するように要請していたことにあった。
 その話は、卑劣な事に、ソ連が喜ぶ、そして、得する餌
(えさ)の話が付けられていた。
 その話とは・・ソ連が参戦すると得るだろう「千島列島
樺太」を、ソ連の領土にする事をアメリカは認めると話
しかけていた。
 ソ連はその話に乗った。ここに新たな悲劇が始まった。
 ソ連は、即、敗戦濃厚となっているドイツを破った後に
参戦すると回答した。
 そして、事実、その通りにした。
 この時のはるか以前に、日本とソ連は、 1941年4月13
日に、「日ソ中立条約」を締結していた。
 この条約によって、ソ連は、極東に配備していた部隊を
西部へ移送し、モスクワ防衛線の投入していたぐらいだっ
た。
 そして、この条約は5年間、1946年まで有効という事ま
で決めていた、約束していた。そして、その時に、さらに
延長するかどうかを決めようともなっていた。
 その様な事を知っているのに、アメリカ大統領のルーズ
ベルトは、自分さえよければ良いの勝手な思惑で、ソ連
誘いの話をしていた。
 この事による悲劇は・・、 1945年8月8日にやって来た。
 この日に、ソ連は対日参戦した。
 長崎に原爆が投下される前日だった。
 日ソ中立条約の一方的破棄の参戦だった。
 アメリカのルーズベルト大統領の誘い水通りとなった。
 この日に、宣戦布告がなされ、翌日の1945年8月9日に、
ソ連軍は満州になだれ込んだ。
 戦場は、満州以外にも、北朝鮮南樺太・千島列島にお
いても戦闘状態となった。
 1945年5月のドイツ降伏後、ソ連シベリア鉄道をフル
稼働させて、満州国境に巨大な軍事力を集結させていた。
 突入してきたソ連軍に、満州開拓団として行った日本の
家族の方々は逃げまどった。
 特に国境付近の居留民の多くの方々は、この進攻したソ
連軍に逃げまどった。
 さらなる悲劇として、このソ連軍の暴挙に乗っかって、
匪賊(徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊)となった
者たちの餌食となった。
 当時、満州の首都の新京だけでも14万人の日本人市民の
方々が居た。
 地獄となった人々・日本人家族たち、そして、1945年8
月11日に、この日に新京から逃げる18本の列車が出た(正
午頃までに)。
 逃げられた日本人家族は、3万8000人だった。
 逃げた3万8000人のうち、53%の20310人という半分
以上が軍人関係家族だった。
 そして、44%の16700人が満鉄関係の家族だった。
 ほとんどが、この両方で97%で、脱出のための仕立てら
れた列車は、軍と満鉄の家族のためだった。
 残りは大使館関係者750人(2.0%)、そして、民間人家
族は240人(0.6%)であった。
 ほとんどの一般日本人市民・開拓団民の方々は、満州
置き去りにされた。
 満州に残された一般の日本人の方々に悲劇が始まる。
 ソ連軍突入で、即、多くの方々が亡くなったが・・、
 歴史として語り継がねばならない事件の一つは・・、
 1945年8月12日の満州の麻山付近で、約400名の日本の
方々が、追い詰められ悲惨なうちに集団自決(自殺)した
事件である。
 この様な事は、この地の各地で起きた。
 興安街付近では、東京荏原開拓団で行った方々が中国・
暴民に襲撃されて、約400名の日本の方々が虐殺された。
 また、仁義仏立開拓団の日本の方々が、ソ連の機甲部隊
の一斉射撃を受け、600名以上が虐殺されたなどなど・・
など、筆舌につくせぬ事ごとが起きている・・、
 1945年8月14日には、葛根廟(かっこんびょう)事件
が起きている。
 満州の葛根廟鎮において、日本人の避難民の方々の約千
数百人の方々が、この人たちは、9割以上が婦女子で、こ
の人たちが、ソ連軍や中国人に襲撃され、1000人以上の
ほとんどの方々が・・虐殺されている。
 別な場所でも、白旗を上げているのに関わらず・・、ソ
連の戦車の機関銃が火を噴き、この銃撃で、多くの方々が
亡くなっている。
 また、避難する方々を焼き殺したり、機関銃を撃ちなが
ら、掃射をしながら・・引き殺したり・・、
 ソ連軍の戦車のキャタピラに巻き込まれて・・引き殺さ
れた日本人の方々が・・宙に舞ったりしたという悲惨な光
景が伝えられている。
 そのあと、ソ連軍戦車は、丘の頂(いただき)に戻り、
また避難民の方々を、めがけて突入しながら・・機銃掃射
や攻撃するということを繰り返した。
 完全に軍人ではない『非戦闘員の方々』への殺戮行為で、
国際法で許されている行為でない『違反行為をするソ連軍』。
 また、トラックで来たソ連兵が、民間人の、避難民の生
存者を見つけ次第・・次々と、銃剣で刺したり・・、射殺
したりした。
 2時間ぐらいの間に、女性や子供を主体とした1000人以
上の方々が殺害されてしまった。
 男性は、兵士に駆り出されたりしていたので、南方方面
へ転戦したりしていたので、ほとんどが女性や子供たちと
いう多い状態だった。
 そのあまりにもの悲惨さに、自ら命を絶つ、自決・自殺
する日本人の方々も、多い状態だった。
 頼みの日本の軍隊は、既に、南転と言って、南方諸島の
激戦地に行って居なかった、日ソ中立条約もあったし・・、
 僅かに残った日本軍も奮戦したが、全滅したりしていた。
 そして、その避難民の方々、僅かに残った生存者にも、
襲撃が執拗に続いた。
 中国人も暴徒化して、身に付けている下着まで奪って行
った。
 乳房を鎌で切り落とされる女性、川に逃げで溺死する方、
 幼い子供達への襲撃、国民学校の児童たちの死・・、
 悲惨な・・地獄であった。
 子供を連れた母子に、子供を奪い、母は棒で殴りつけら
れたりした。
 親が殺された子供たちは、生き残った大人たちのところ
に集まっていたが、暴民たちは、その子供たちに襲いかか
り、奪って行った。
 その子供たちは、売られたりするのが一般的だった。
 悲しいことに、8月15日の終戦を過ぎても襲撃は続いた。
 ソ連兵などに見つかり暴行を受ける女性たちも多かった。
 また、ソ連兵は、火を付けて回った。
 隠れていた家に、火を付けた枯れ草を投げ入れられて、
焼け死んだ人たちなども多かった。
 また、中国残留孤児や中国残留婦人となった方々も多く
居た。
 これは、明らかにソ連は軍人であり、軍隊である。
 一般民間人に対する殺戮行為で、戦争犯罪である。
 無差別な大量虐殺のジェノサイドである。
 ナチスユダヤの方々に対する行為を、ドイツの方々の、
ジェノサイド行為であるとの反省行動と同様な行為を、ソ
連は、なすべきである
 また、間接原因者であるアメリカも、反省を表明すべき
である。
 アメリカが、原因者の一端に居る事は免れ得ない。
 満州人や朝鮮人には襲撃はなかった。
 日本人を狙っての行為だった。
 ソ連兵の卑劣な行為は多かった、女性方は暴行された。
 ソ連兵は、物を持ち出す様に、日本人女性方を車に乗せ
て連れ去った。
 その様な女性が、ボロボロになって帰ってくる場合もあ
った・・が、若い女性が牡丹江に流されて行く姿もあった、
行方不明となってしまった。
 ソ連参戦で、色々な事があるが、抜粋的に記しているの
だが・・、
 次の記述も、戦争が終わっているというのに、起こされ
たことである。
 戦争が終わっているのに起こされているので、ソ連の不
法行為であるが・・、
 1945年8月22日に、日本が無条件降伏をしているのに、
ソ連は日本を攻めた。
 何と!戦争も終わり、引き揚げる方々へ、日本の引揚者
を乗せた船が、ソ連軍の潜水艦の攻撃によって沈没させら
れた。
 それも2隻もある、小笠原丸と泰東丸である。
 1708名の尊い命が、日本へ向かって帰国の途にあった
日本人の方々が亡くなった。
 樺太からの婦女子を主体とする引揚者の方々だった。
 この2船の外にも、白旗を掲げたにもかかわらずソ連
水艦が攻撃し、沈没させられた船がある。667名の方々が
亡くなった。
 そして、満州では、まだまだ悲劇が続いていた。
 1945年8月27日には、ソ連軍に連日に渡り強姦をされ続
けていた日本人女性の方々が・・可哀想な事に、集団自決
をするという事が起きた。場所は、満州国吉林省だった。
 敦化(とんか)事件という。悲惨な強姦の多い状況は、
筆舌につくせない。
 また、ソ連兵は、日本人を使役し、線路などもはがさせ
たりした。そして、その線路は、持ち去るという様な事ま
でした。
 1945年8月27日には、ソ連軍に遭遇した日本人の開拓団
の一般の方々が、ソ連軍から攻撃を受けた。950名の方々
が亡くなられた。
 そして、まだ悲劇は続いた。その為、行く末に希望を無
くした方々の514名が後に続くと、集団自決した。
 この他にもこの様な事例は多数。終戦後に、ソ連は酷い
ことを不法に続けている。
 1945年9月2日に、東京湾内に停泊するアメリカ戦艦ミ
ズーリ号の甲板で、日本政府全権の重光葵大本営(日本
軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、降伏文書(休
戦協定)に調印しているが、
 この様な状況であるのに、不法にもソ連は、まだまだ、
日本を攻撃を続けていた。
 ソ連が、勝手に続けていた不法行為を止めたのは1945年
9月5日だった。
 この日に、ソ連軍が、やっと、日本への攻撃・戦闘行動
を止めた。
 ソ連は、ポツダム宣言受諾も無視し、また、日本の降伏
文書調印をも無視し、そして、戦闘行動を続けていた。
 ソ連支配下に置いた地域は、国後(くなしり)・択捉
(えとろふ)・歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)の北
方4島、および、北千島・南樺太朝鮮半島満州だった。
 ルーズベルトアメリカ大統領のソ連参戦の誘い水通りの
行動だった。
 アメリカ大統領のルーズベルトの、『千島列島や樺太
領土をソ連が得ることを容認するから」と・・、
 ソ連の対日参戦を餌を付けて促(うなが)していた悪辣
行為が・・、
 日本人の無実の・・一般の方々の、あまりにも大きな悲
劇もも起こされいた。
 これでも・・以上は抜粋です。
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 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009