気になった事柄を集めた年表 [Ⅰ]:(2014・10・30 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [Ⅰ]:(2014・10・30 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 気になった事柄を、年代順に並べていたら、以下の様な、
年表が出来上がりました。
 第二次世界大戦前の、アメリカの対日感情は、どうなの
かなどなどを・・お読みください。
 [内容]:::
紀元前10000〜400年頃、日本の縄文時代。偉大なる日本、
 この様に日本の歴史は遡(さかのぼ)る。→8500年
紀元前1500年〜紀元前1000年、縄文時代後期〜晩期に、
 環状盛り土遺構が注目されている。埼玉県加須市の長竹
 遺跡が発掘調査が進み、住居や墓が密集した集落跡だっ
 た。関東地方を中心に確認例が続いた。環状は、高さ
 1.8m、幅20mの盛り土が、直径150mのC型の一方が開
 いたドーナツ状に築かれている。→150年
紀元前1350年頃、エジプトのツタンカーメンの黄金のマス
 ク。→70年
紀元前1280年頃、エジプトのルクソール大神殿のラムセス
 2世時代。→30年
紀元前1250年頃、モーゼが居たとされている。歴史家は、
 その存在を否定しているが、そして、この頃、このモー
 ゼによるエジプト脱出があったとされている。→150年
紀元前1100年、この頃から、キリスト教旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。〜紀元前100
 年頃まで。→379年
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。数万のイスラエル
 人が捕えられて、メソポタミアとメディアに連れ去られ
 た。→124年
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。第1回バビロン捕囚である。
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。第
 2回バビロン捕囚である。この時、ソロモンの財宝のす
 べてが奪われた。→7年
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。→44年
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。→23年
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム
 殿の第2神殿を建てた。→115年
紀元前400〜500年頃、旧約聖書の編集が始まる。→70年
紀元前384年〜322年、アリストテレス。62歳。
紀元前330年に、ペルシャが、マケドニアギリシャのア
 レクサンドロス大王に滅ぼされた。→120年
紀元前250年頃が中国の始皇帝陵の兵馬俑坑(へいばよう
 こう)。→50年
紀元前200年〜300年頃(紀元前3世紀頃)、この頃に、ロ
 ウソクが誕生した。→0年
紀元前200年、クムランで発見された「死海文書」に、こ
 の頃の写本が含まれている。→100年
紀元前100年頃、旧約聖書が完成した。紀元前1100年頃か
 ら書き始めたものの完成、旧約聖書39巻が書き終えた。
 それまでは、口伝承であった。→37年
紀元前63年に、ローマの将軍・ポンペイウスによってエル
 サレムは占領された。ローマの傀儡(かいらい)政権の
 下の政治となる。→59年
紀元前4年、イエス、生まれる。→11年
紀元7年、イスラエルの民が、ローマによって滅ぼされる。
 流浪の民となる。→23年
30年頃、イエス、殺される。→20年
50年頃〜100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書が書
 かれた。→4年
54年、ネロがローマ皇帝となる。→10年
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。ペテロ
 はイエスの第一の弟子、ネロの迫害による、このペトロ
 の墓の上に、サン・ピエトロ寺院がたてられたが4世紀
 に・・、→2年
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。→1年
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃
 え続けた。その日が放火ではないかという噂が市民の中
 に広がった。ネロ帝はキリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。神殿は焼け落ちた。城壁を
 徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくなるほど市
 街を壊した。→3年
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。ユダヤ国家は滅んだ。ユダヤ民族は離散
 の憂き目にあった。以後、1948年のユダヤ国家建設され
 るまで1875年の月日が流れた。→6年
79年、ポンペイが埋没した。→21年
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。→0年
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物
 語が生まれ、殉教文学として流布された。→100年
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あ
 らゆる階層にキリスト教は浸透して行く。宮廷から貧民
 窟まで、大都市から僻地へと広まり、帝国末期の殺伐な
 人心と荒廃した経済事情の中で拡大した。→30年
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。全長62mの古墳
 時代最初期と見られている墳墓である。→83年
313年、コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出して、
 キリスト教を公認した。→11年
324年、キリスト教ローマ帝国の国教となった。→2年
326年、コンスタンティヌス帝によって、サン・ピエトロ
 聖堂が建てられた。→4年
330年、コンスタンティヌス帝が、ローマを見捨てて、コ
 ンスタンティノーブルに遷都する。度々の火事に見舞わ
 れた。ローマは、すっかり寂(さび)れていった。
 →67年
397年、キリスト教聖書が現在の形の様に整(ととの)え
 られ、決定された。これまでの約400年間は、キリスト
 教は聖典の無い年月を過ごした。イエスは、アラム語
 話した。そのイエスアラム語が翻訳されている。翻訳
 による齟齬が発生している。旧約聖書39巻、新約聖書
 27巻、計66巻。仏教経典から見るとささやかな経典と
 なっている。→55年
452年、フン族がイタリア侵入と共に、色々な民族がヨー
 ロッパへ侵入した、匈奴と呼ばれるフン族はインドや中
 国へも侵入した→24年
476年、西ローマ帝国が滅亡した。→116年
592年、佛教興隆の詔(みことのり)が出る、→8年
600年、初めての遣唐使、→4年
604年4月3日、17条の憲法を制定、→1年
605年、斑鳩(いかるが)の宮に移り、法隆寺が建つ、
607年、小野妹子遣唐使とした、日出ずる天子、日没す
 る天子の言葉→15年
622年、聖徳太子が病に死す、翌日、妻も亡くなる→78年
700年代(8世紀)、ベルベル人のタリクの侵入によって、
 スペイン・ポルトガルの地・イベリア半島が征服された。
 以後、約300年支配する。→12年
712年、古事記712年(上)(中)(下)の三巻、→5年
717年〜741年、この年に在位するレオ3世は、コンスタン
 ティノーブルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラ
 ムス)を始めた。首都にあった聖像のほとんどを消滅さ
 せてしまった。多くの教会の装飾や美術品は、オスマン
 =トルコ時代のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に
 破壊された。ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィ
 ア教会においては、イスラム教徒によってモザイクやフ
 レスコ画すべてが漆喰で塗り固められてしまった。→3年
720年、帝紀・・天皇の系譜、稗田阿礼(ひえだのあれ)
 が暗唱していた、720年日本書紀30巻、→109年
829年、9世紀の初頭に使徒ヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が829年に、ヤコブの墓の上に教会
 と修道院を建てた、これが聖地とされているサンティア
 ゴ・デ・コンポステラの始まり。そして、1478年に、教
 皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ・コンポステ
 ラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の価値があると
 言ってから、この地への巡礼が増えた。因みに、ヤコブ
 は「雷の子」と言われるほど気性の激しい人だった。
 →161年
990年代(10世紀末)、キリスト教徒が、イベリア半島
 スペイン北部を占領した。レコンキスタという国土回復
 運動の戦いを、イスラム教徒に挑(いど)む。→10年
1000年(11世紀)、11世紀から(聖徳)太子信仰が大き
 く広がった、→0年
1000年代(11世紀)、ヴェネティアが独立国になった。
 →0年
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティ
 アゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
 エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険になっ
 たため。→0年
1100年代(12世紀)、遅れていたヨーロッパ。このヨー
 ロッパに、イスラム世界から最先端の科学が、そして、
 ギリシャからは、古代ギリシャの哲学などがもたらされ
 た。ヨーロッパが、それらの恩恵に浴して、この時代、
 ルネサンスと呼ばれる知的高揚があった。→81年
1181年、フランシスコが、アッシジで生まれた。裕福な
 織物商人の家だった。→19年
1200年〜1250年、この50年間に、ヨーロッパで、70も
 の大学が設立された。→4年
1204年、キリスト教の十字軍は、コンスタンティノーブ
 ルを占領した。多くの略奪品を奪った。その略奪品は、
 ヴェネティアに運び込まれた。香料・宝石・織物などは
 莫大な利益をヴェネティアにもたらした。略奪品の商売
 の都。→0年
1204年、十字軍が、コンスタンティノーブルを占領した。
 この影響で、コンスタンティノーブルの人々は、西のロ
 ーマカトリックが異端とみなしたことに驚き、敵対関係
 となった。コンスタンティノーブルの目は東に向いた、
 そして、スラブ人の教化となり、キエフ公国のキリスト
 教化、そして、ロシアにおよび、ロシアはギリシャ正教
 を国教とした(1547年)。→1年
1205年、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の礼拝
 堂の十字架像を祈っていたフランシスコへ「わたしの家
 を再建しなさい」というイエスの声が聞こえたという。
1220年、フランシスコが、指導者の立場を退く。→89年
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。ロー
 マは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去った。
1315年〜1317年、ヨーロッパが天候異変により深刻な飢
 饉となる。餓死者多数。1315年には150万人もの餓死者
 を記録した。また、疾病による死者も増加した。→6年
1321年、ダンテが死んだ。→7年
1328年、フランス国王のシャルル4世が死ぬと、王子が居
 なかったため、王位継承をめぐって、フランスとイギリ
 スの間で、100年戦争が始まった。フランスは、家系が
 絶えたので別の家系の王を即位させた。これに対し、家
 系が絶えたフランス国王の血筋のイギリス国王が、フラ
 ンスの王位の継承権を主張し、フランスに侵攻し、100
 年戦争がはじまった。→20年
1348年〜1350年、ペストが流行するが、特に、この頃の
 流行の猛威は凄(すさ)まじかった。ヨーロッパの3分
 の1の方々が亡くなった。全滅した村もあった。死者を
 埋葬する間もなく、次々と死者が出て、町のいたるとこ
 ろに累々と死体が積まれた。→29年
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
 →35年
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。→4年
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易
 する。→14年
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクが捕縛された。イギリ
 スとイギリスに味方するフランス軍の一部の策略があっ
 た。また、このジャンヌ・ダルクが活躍したイギリスと
 フランスが戦った百年戦争には「戦地を連れ歩く娼婦
 (従軍慰安婦)」が居た。
  ジャンヌ・ダルクを告発したキリスト教の異端審問所
 に、フランス人のキリスト教司祭(ピエール・コーショ
 ン)だった。このキリスト教司教は非人道的方法でジャ
 ンヌ・ダルクを責めた。また、罠(わな)を仕掛けた糾
 弾の仕方をした。また、ジャンヌ・ダルクを罵(ののし)
 りもした。→1年
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが火刑(焚刑)に処せ
 られた。19歳の若さだった。キリスト教会の異端審問所
 が彼女に下した罪状は「悪魔の喚起(かんき)、様々な
 異端行為、様々な過(あやま)ち、偶像崇拝、その他」
 という、多くの罪状を付けた。卑劣そのものだった。彼
 女は北フランスのルーアンという所の広場で公開で処刑
 されたのだった。処刑される時、彼女は泣いていたとい
 う。キリスト教の聖職者の司祭が取り囲んでいたという。
 また、観衆が大勢の見物人の中だったという。焼かれる
 前に、彼女は「異教徒で、異端で、偶像崇拝者である」
 と書かれた帽子をかぶせられ、また、杭に縛(しば)ら
 れていた。1412年生まれの彼女のはかない一生だった。
 悪の宗教=キリスト教には救いがなかった。城に立て籠
 るフランス軍は積極的に攻めるという姿勢も無く、また、
 取り囲むイギリス軍も積極的に攻めるというわけでなく、
 兵糧攻めの状態だった。そこに、ジャンヌ・ダルク
 援軍で、フランス軍は活気づき、積極的に攻めて勝ち戦
 となった。この北フランス生まれの彼女の功績は何だっ
 たのか?ジャンヌ・ダルクは、男装をしたのを「異端」
 とされた。キリスト教の聖書に「女は男の服装をしては
 ならない」とあるからである。今は隠しているが・・、
 →21年
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。→1年
1453年、東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、
 オスマン=トルコの攻撃で陥落した。ビザンティン帝国
 の滅亡。これによって、多くの学者やキリスト教聖職者
 が、ローマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の
 勃興に大きな力になった。→7年
1460年代〜1499年、一向宗浄土真宗)の蓮如が活躍す
 る。蓮如は1499年に没した。→18年
1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ
 ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の
 価値があると言ってから、この地への巡礼が増えた。
 →5年
1483年、ルターが生まれた。→1年
1484年、教皇インノケンティウス8世が回勅(指令)で、
 魔女の逮捕と裁判をキリスト教裁判所の異端審問として
 行うことを正当とした。→6年
1490年頃(15世紀末)、魔女によって殺される女性が多
 く、最盛期の様子となる。この状態は18世紀の末まで、
 長く続くことになる。主に、キリスト教カトリックが行
 ったが、プロテスタントも行い、キリスト教のすべてが
 行った大悪行。→1年
1491年頃〜1556年、イグナデウス・デ・ロヨラ、初めは
 軍人だった。後にイエズス会を作った。キリスト教枢機
 卿より「ヒツジの皮を着ている狼だ」と迫害された。
 65歳。→1年
1492年、コロンブスアメリカを発見した。やはり、イン
 ディオスの黄金のありかを血眼(ちまなこ)になって捜
 した。大殺戮時と同じく強欲な人。→5年
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を通過し、新しい
 航路を発見した、→8年
1505年、ルターが、アウグスティノ修道院に入った→1年
1506年、教皇ユリウス2世は、最盛期のルネッサンスの天
 才たちを集めて、サン・ピエトロ大聖堂の再建を始めた。
 建築家ブラマンテ、画家ラファエロ、彫刻家・画家ミケ
 ランジェロ。ラファエロは、彫刻家として入ったミケラ
 ンジェロの足を引っ張るために、彼に絵を描かせるよう
 教会に進言した。芸術家の仕事の奪い合いの世界だった。
 →0年
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルが生まれた。
 〜1552年、46歳。→1年
1507年、ルターが、キリスト教の聖職者の司祭になった。
 彼は、鬱(うつ)気分で、キリスト教内にある序列(ヒ
 エラルキー)や習慣や富の蓄積について批判した。例え
 ば、サン・ピエトロ大聖堂の膨大な建設資金を得るため
 に、ローマ教皇は、免罪符を盛んに売り出した。また、
 地方のキリスト教会も乱れに乱れ、堕落していた。居る
 べき司祭が居ず、名前だけとなっているのに、集められ
 た金は取り上げられた。
  また、キリスト教聖職者が、無気力で無能な身内の者
 を、自分さえよければ良いと、キリスト教会内の役職に
 つかせることが横行した(今・現在でも、この様な事は、
 キリスト教会に限らずあらゆる所で行なわれている)。
  また、裕福で暇なキリスト教聖職者の肉欲に耽(ふけ)
 る姿が、目にあまる状態だった。そしてまた、この様な
 聖職者の美食に耽る姿も多い状態だった。→5年
1512年、教皇ユリウス2世は、ミケランジェロに命じて、
 システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描かせ、こ
 の年に完成した。→0年
1512年〜1524年、スペインとフランスが戦争をした。
 →5年
1517年10月31日、ルターは、ウィッテンベルク城内の聖
 堂に免罪符のおかしさ、疑問を述べた95の疑問を掲(か
 か)げた、「95カ条の論題」。これは、キリスト教ロー
 マ教会の免罪符販売への抗議もあった。これへの同感の
 意思表示が2週間で全ドイツに起きた。
  当時の免罪符の売り方は、キリスト教聖職者が、ロー
 マ教皇の免罪符販売奨励を意味した教皇の紋章の付いた
 十字架を先頭にして、免罪符の教皇の勅書(書状)を金
 のビロードの上に載(の)せて行列を作って歩き回り、
 説教した。教皇は偉大なのだ。地獄での刑罰はどんなに
 恐ろしいかなど・・。「お金が箱の中でチャリンと音を
 立てさえすれば、たましいは地獄の焔(ほのお)の中か
 ら救われ、飛び出してくる」と大声で叫んだ。人々は繰
 (く)られ、争って買い求めた。大司教というキリスト
 教の高い地位の聖職者が、「懺悔をしなくても、免罪符
 を買えば、死者も救われた事になる、有効なのだ」と言
 った。→1年
1518年6月、ルターの裁判が始まった。罪状は、「異端の
 流布」だった。→1年
1519年、マゼランが世界一周した、→2年
1521年、ルターが、ローマ教皇のウォルムス勅令によって
 異端者とされた。そして、追放の処分となった。そして
 また、ルターの本は、焚本にして処分せよとされた。
1521年1月3日、キリスト教のローマ教会(バチカン)は、
 ルターに正式な破門状を発布した。絶対権力を持つキリ
 スト教ローマ教会のこの処置によって、ルターの法によ
 る保護はないという状態へと追放された事となった。
1521年4月初旬、マルティン・ルター(1483〜1546)は、
 「屋根の瓦ほどたくさんの悪魔がいる」と言った。
 そして、この頃、権力絶大なローマ教会によって、ルタ
 ーに『異端宣告』がなされた。その宣告文は、「ルター
 は自由意志を否定する異教徒であり、彼の考えは、騒乱
 (そうらん)・戦争・殺人・キリスト教界の崩壊につな
 がる。・・誰もルターを匿(かくま)うな。いな、また
 ルターに従う者も罪に定める。ルターの本も庶民の記憶
 から根こそぎ葬(ほうむ)り去らねばならない」。→0年
1521年12月、ルターが、聖書翻訳を始めた。聖書の原典
 とされたギリシャ語からドイツ語への翻訳だった。→4年
1525年、ルターが結婚した。キリスト教の聖職者の司祭で
 あり、キリスト教の戒律を守らなくてはならなかった立
 場だったが無視した。子供を6人つくった。→9年
1534年、ロヨライエズス会設立、→1年
1535年〜1541年、教皇パウルス3世が、正面祭壇の『最
 後の審判』を描かせた。→5年
1540年9月27日、教皇パウルス3世が、イグナチオ・デ・
 ロヨライエズス会を正式に認可した。→2年
1542年5月、ザビエルがインドに赴任し、ゴアに着いた。
 36歳。ゴアは華やかで活気に満ちた町だった。しかし、
 キリスト教司祭たちの生活は乱れ、道徳的にも荒廃して
 いた。そして、人々の救済をするどころか、自分たちの
 懐(ふところ)を肥やすことばかりしていた。商売をし、
 金もうけにうつつを抜かすという状態だった。また、生
 活も怠惰そのものだった。→1年
1543年8月25日、種子島に、ポルトガル船が漂着し、鉄砲
 を伝えた。→1年
1544年1月15日、キリスト教の日本に宣教師として来たザ
 ビエルのこの日の書簡:「・・(キリスト教聖職者にな
 ろうと)大学で勉強している多くの若者達は、教会の高
 い地位や顕職(けんしょく・地位の高い要職)に相応(
 ふさわ)しい学問を身につけたいと思うよりも、高位、
 聖職禄(ろく)、司教の地位を得たいと願って学問をし
 ているのです」と。→2年
1546年、ルターが死んだ。63歳だった。→1年
1547年、オスマン=トルコのコンスタンティノーブル占
 領後、ロシア教会は独立した総大主教座をモスクワに置
 き、この年、ロシア正教とした。→2年
1549年8月15日、ザビエルが、鹿児島の海岸に上陸した。
 同行者は、トルレス神父、フェルナンデス修道士、日本
 人3人、船員として中国人3人、計9人だった。この日本
 人の一人が、アンジローだった。アンジローは、人を殺
 したので日本にいられなくなり、海外へ逃れたのだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009