自分の利=自利の欲しさに・・・

 題:自分の利=自利の欲しさに・・・
.(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 イエスに「汝の敵を愛せよ」という言葉がある。
 この句が出て来る(「マタイによる福音書」5・43〜44)に
は「隣人を愛せよ」という言葉がある。
 しかし、当時、「隣人」と言っても極めて限定した意味の
「隣人」であり、「隣人愛」であった。
 隣人とした、その極めて限定された「隣人」は、
 「ユダヤ教共同体に属した人」を指し、
 そしてさらに、「同じ信仰を共有している人」の事を指して
いた。
 キリスト教は、得意のプロパガンダ(嘘宣伝)で、広い愛の
如くに言って来た。まったく、嘘つき宗教である。
 キリスト教は、所詮、自分たちがよければ良いに帰結してい
く。
 それは、宗教の成立過程にあった、
 砂漠の恵みの少ない地は、飢餓の世界だった。
 奪い取りの世界であった。
 そこに生まれた宗教は、自然と民族の存続を祈り、
 飢餓の時は、隣国の富を奪いに行った。
 古代の、その様な薄氷の上での生活の中に、生まれた宗教だ
った。 
 今・現代では、世界の連携が進んだ世界には、その様な考え
・教義は受け入れられないが・・・。
 キリスト教にはその様な『背景』があった。
 その様な背景から、他人を平気で殺戮することが、キリスト
教には、実に多い。それも、弱い者いじめ。
 自分達だけの愛であるのに、その愛を広く言う嘘、厳然と
「異教徒は殺せ」の敵対の教義を、今でも持つキリスト教であ
るのに。
 イエスの言葉の「汝の敵を愛せよ」の後の言葉の「自分の迫
害する者のために祈れ」は、イエスの言葉ではない。
 キリスト教は、キリスト教だけが、特に、愛の宗教の様にプ
ロパガンダ(嘘宣伝)するが、仏教も「慈悲}や「愛」を説い
ている。
 キリスト教は、さらに、旧約聖書には、新約聖書のマタイに
よる福音書にも記されている様に、「敵を憎めと命じられてい
る」と記されている。
 「敵は憎め」がキリスト教の心底に流れている。
 キリスト教は、実際、その歴史には、愛と言うより「異端狩
り」「異教徒狩り」「ユダヤ教徒狩り」「魔女狩り」「異端裁
判」「宗教裁判」「宗教戦争」「植民地の残虐な殺戮」などな
ど、切がないほどの非人道的行為が、あまたある。
 愛の宗教と程遠い実態が、歴史に歴然と刻まれている。
 何とプロパガンダ(嘘宣伝)しようが、過去の歴史は変えら
れない。南米・中米・北米メキシコ・そして、それらの離島で
1000万人の方々が、キリスト教徒と同行した聖職者たちに殺
された。その方々の『無念な死』は、歴史に歴然と刻まれ、キ
リスト教を睨んでいる。この例ばかりではない。
 このキリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)の「隣人愛」の「
同胞・兄弟」への愛を説けば説くほど、同じ信仰の同胞・兄弟
の他の人・異教徒に対する差別・猜疑・不信・軽蔑を誘発した。
 最後には憎悪へと至った。
 キリスト教という自分たちの宗教を絶対化すればするほど、
キリスト教唯一絶対主義」と伴に、キリスト教の卑劣な歴史
が現出した。
 「そうすればあなたがたは、天におられるあなたがたの父の
子となるでしょう」と自分だけの利益を説くというキリスト教
の教義。
 その報償を欲しいと願うばかりに、自分の利益=自利の欲し
さに、キリスト教徒による悲惨な戦争や殺戮・殺し合いが、あ
また現出した。