こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れる。

題:こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れる。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 イエスの家族について、見てみると、
 イエスには、兄弟姉妹が大勢いる。
 イエスは、現代からみれば、多いと言える大家族の肉親を持
っている。
 イエスの弟・ヤコブが有名だが、キリスト教の宗教的な教義
から見れば、イエスは『神』だが、ヤコブは『使徒』だ。
 また、キリスト教の宗教的な教義から見ると、「イエスだけ
が、ヨセフと血縁ではない」。
 しかし、イエスが故郷のナザレに返ってくると、
 故郷の人たちは、イエスを懐かしく見て、「預言者とはうま
いことをやっているな」とイエスに声をかける。
 イエスも、「古里では、預言者預言者ゼンとしてられない」
的な言葉を言っている。神通力が働かないというところか。
 故郷という所のイエスは、イエスの治療効果が働かないとい
うことは科学的にも立証されている。
 イエスがやっている「患者に手を置く」「手を当てる」とい
う行為は、病を癒(いや)す効果があることは、近代科学でも
立証されている。
 つまり、イエス以外の人でも効果があるという事である。
 また、精神的に病んだ人も、ステータスのある人がイエス
な治療効果を得させることはあるとの結果を得ている。
 そして、イエスを子供の頃から見ていた故郷の人には、キリ
スト教的な見方では、当然、なかったのは当然だろう。
 普通の子供の様に、子供仲間と駆け回っていた野山があり、
古里の家並みがあり、喧嘩もしたのだろう(イエスは短気だし)、
 そして、泣きわめく男の子として近所の人・古里の人たちは
見ていたのだろう。大きくなっていく、育っていく過程を。
 そしてまた、その故郷の人たちは、近所の人として、夫婦
(ヨセフとマリア)の血のつながった子供と見ていたのだろう
(血縁の子)。
 キリスト教は、イエスを宗教的な題材として取り上げた時か
ら、神格化への道を歩み、数百年も経っての後の公会議で、
「やっとイエスを神として認めた」。
 その途中には、イエスを「主とも呼んでいなかった」。
 イエスを「主」と呼ぶ様にしたりして来たり・・・。
 イエスが神となった公会議決定のその時から、キリスト教
には、マリアは、神の子を産んだと言う事になった。
 そして、神の子を産んだのなら、母・マリアも神だろうとい
う話になり、その問題点を補完するキリスト教の教義も新しく
作ったりした(「無原罪の御宿り」など新しく教義として決め
た)。
 がしかし、マリアは、人の子も産んだという事になっている。
 次から次へと問題点は出て来る。
 イエスが、その兄弟姉妹の長男という事は間違いない事実だ
し・・・。
 キリスト教の教義的には、説は色々あるが、マリアは、イエ
スを処女で産み、ヨセフは、マリアの処女性に悩んだという話
は聖書にあるが、イエスの後、ヨセフとの間の子(人間の子供)
を何人か産んだ。
 またはそれとも、マリアの処女性を優先するのなら、その後
の子供達も(イエスの兄弟姉妹たちも)、神の子となるのだろ
うか?・・と、話は舞う。
 いずれにしても、この様な事を「ああだ」「こうだ」と言う
キリスト教の宗教性の程度にクエスチョン・疑問が涌く。
 話のレベル的には高いという感じはしない。
 それを気にしてか、キリスト教の聖書の(「マタイによる福
音書」1・25)には、
 ヨセフが、「男の子(イエス)が生まれるまでマリアと関係
する事は無かった」とわざわざ書いている。
 そしてまた、イエスの誕生後は、性的関係を持ったという事
が明記されている。その様に、はっきり「わざわざ」書いてい
るが、キリスト教は、このブログに書くのも嫌になるほど、こ
れを問題とし「ゴチャゴチャ」言い続けている。軽蔑すべき状
態となっている。
 こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れるという
状況のキリスト教宗教となっている。
(参考)ステータス【status】 《「ステイタス」とも》 1 社
会的地位。また、それを表すもの。 ステータス‐シンボル【sta
tus symbol】 社会的地位や身分を象徴するもの。