臨時ブログ:キリスト教が、『平和主義的』であったなら、既に絶命しているか、弱小セクトに留まっていただろう

臨時ブログ:キリスト教が、『平和主義的』であったなら、既に絶命しているか、弱小セクトに留まっていただろう
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  キリスト教の歴史は、戦争と殺戮ばかりだった。
  キリスト教のために、本当に多くの方々が亡くなった。
  しかし、キリスト教は、「シャローム」という言葉が
 好きだ。
  シャロームというヘブライ語は、キリスト教は「平和」
 を意味していると言っている、そう思っている。
  キリスト教系幼稚園の名前にしているくらいだ。
  しかし、このシャロームという言葉は、「戦いで勝つ
 ことで得られた『平和』を意味している」。
  戦いを前提としている平和の意味なのである。
  武力によって、異教徒たちを殺戮し、その異教徒の方々
 が居なくなった「平和」を意味しているのである。
  まったく「キリスト教的な平和」なのである。
  また、キリスト教は、「隣人愛」で愛を説いていると
 言うが、
  この言葉もまったく都合よく使われている。
  このキリスト教の隣人愛は、「同じ宗教を信じ」「同
 じ地域に住み」「同じ民族の人」に対しての愛が、キリ
 スト教のこの隣人愛なのである。
  平和でも何でもなく、また、愛と言ってもごく狭い愛
 を意味している。
  愛を説いているという代物ではない。
  キリスト教新約聖書には、戦争を否定する記述は、
 まったくない。
  この事は、後述する同志社大学の学長も言われている。
  キリスト教は、戦争肯定の立場ではないか?と疑われ
 る宗教であり、また、聖書(書物)である。
  その所をはっきりと説明した研究者が居る。
  同志社大学の学長・村田晃嗣氏は・・、
  聖書の事を「恣意的(しいてき、何の論理的な必然性
 が無く)に聖書の記述を選択し、個人の主張を正当化す
 るための書物だ」と言う。
  この氏の言葉は、早く言えば、「気休めの書物だ」と
 言っている様なものである。
  だから、示唆を与えるような書物ではないと言外に否
 定している。
  個人が、勝手に好きなキリスト教聖書の記述を読み、
 そして、勝手に自分を正当化するために聖書はあるのだ
 と言う。
  また、氏は、本「キリスト教と戦争」(石川暁人著)
 を紹介し、
  この本の筆者が、「キリスト教が、『平和主義的』で
 あったなら、既に絶命しているか、弱小セクトに留まっ
 ていただろう」という著者の記述を紹介している。
  その通りであろう。
  イギリスは、キリスト教の記述通りに、世界中を殺戮
 し、「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても
 良い」のキリスト教の考え方・論理・教義を、蛮行を行
 なった。
  そして、同志社大学長の村田氏は言う・・、
  「キリスト教が真理であるから、世界に広まったと言
 うのは傲慢だ」・・と。
  そして、広めるために平和を説いていると強調せざる
 を得ない宗教としてのやむを得ない所があった・・と言
 う。
   (読売新聞、2016・2・28)の書評より。
  明治期のキリスト教に引かれた人たちは、キリスト教
 の情報不足で完全に見誤っている。
  この様な明治期の新島襄が、見誤りのキリスト教の立
 場から創立した同志社大学
  その学長が、今・現代、この様な書評を書く時代、書
 かざるを得ない時代になったかという感である。
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