(増補版)537E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月〜1891年5月)

題:(増補版)537E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月〜1891年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年5月15日、イギリスが、ニヤサランド(後のマラウイ
 を保護国化した。
  卑劣な事にイギリスは、先住民族の方々が法的な事に
 無知な事をいいことに、好き勝手をやっていた。
  (それはそうだろう、自分の好き勝手な法律を作り、
 自分の好き勝手な制度によってやっていれば、君だって、
 その様になるのです)
  虐げられた先住民族の方々は、熾烈(しれつ、燃え立
 つように盛んな、そして、激しいさま)な独立の努力を
 して行った。
  イギリス保護領となって以降、法的手続きに関する無
 知から先住民族の方々は、不利な立場に追いやられてい
 た。
  ・・が、しかし、徐々に、ヨーロッパやアメリカで教
 育を受けたアフリカ人のエリート達が、主張し、政治的
 活動を行うようになって行った。
  そして、この後の24年後の1915年に、ジョン・チレン
 ブウェによる反乱がおきた。
1891年5月15日、鉄道庁列車乗務者宿泊料、及び、乗務日当
 支給規程制定(列車務乗[乗務]員の宿泊料および乗務日当
 は、一般の宿泊料や日当とは区別されて支給される)
1891年5月16日、新聞・雑誌、文書図書の外交記事に関し、
 内務大臣に検閲・禁止権ができた。
  これは、大津事件に影響されていた。
1891年5月20日、畠山勇子が、大津事件を憂い、日本の危機
 回避を祈願し、京都府庁の門前で自殺した。
  5月11日、来日中のロシアのニコライ皇太子が、暴漢に
 襲われて重傷を負う事件が発生したが(大津事件)・・、
  そして、日本中が騒然となったが・・、
  そうした中、ロシア皇太子が、本国からの命令で、急
 遽(きゅうきょ)、神戸港から帰国の途につくことにな
 った。
  それを知った勇子は、帰郷するからと奉公先の魚問屋
 を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。
  榎本は貿易商で・・、島津・毛利・山内・前田・蜂須
 賀らの大名家が、幕府に隠密に銃を買い入れていた武器
 商人だった・・、
  維新後は、生糸の輸出で財を得ていた。
  勇子は、伯父ならば、自分の気持ちを理解してくれる
 だろうと考えた。
  「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行かれ
 て、皇太子を見舞い、そして、謝罪した天皇陛下の面目
 が立たない」と口説いた。
  伯父は、一介の平民女性が、国家の大事を案じても、
 どうなるものでもあるまい・・と諫めたが、
  思い詰めた勇子は、汽車で京都へ向かった。
  京都に着いた勇子は、京都で、様々な寺を人力車で回
 った。
  そして、その後、5月20日の午後7時過ぎ、「露国御官
 吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書
 を、京都府庁に投じた。
  そして、府庁前で、死後見苦しからぬようにと両足を
 手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀
 った。
  しかし、すぐには死ぬことができず、すぐに、病院に
 運ばれた。
  治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ、
 出血多量で絶命した・・享年は27歳だった。
  この頃の日本は、まだ極東の弱小国であり・・、
  この事件を口実に、大国ロシアに宣戦布告でもされた
 ら、国家滅亡さえ危ぶまれる・・彼女はそう判断した。
  伯父や母、弟にあてた遺書は、別に、郵便で投函され・・、
 総計10通を遺していた。
  その壮絶な死は、「烈女勇子」と、メディアが喧伝し
 た・・、
  世間に広まって、盛大な追悼式が行われた。
  そして、末慶寺(京都市下京区)に葬られた。
  彼女の墓には、ラフカディオ・ハーン小泉八雲)や、
 ポルトガル領事・モラエスも訪れた。
  モラエスは、また、リスボンの雑誌『セロエーズ』に
 彼女を紹介した。
  彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書や、新聞の
 報道などによって、国際社会へも報道され、知らされて、
 国際社会の同情を買った。
  ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともに無
 し)につながったとの評価がある。
1891年5月20日トーマス・エジソンが、キネトスコープを
 公開した。
  キネトスコープは、映画を観る装置で・・、
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、同じくエジソンが発明していた。
  スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき
 込む形になっていた。
1891年5月21日、屋井先蔵(やい さきぞう)が、電気時計
 を発明した(1885年説あり)
  因みに、先蔵は、乾電池も発明している。
  先蔵は、1864年1月13日(文久3年12月5日)に、越後
 長岡藩の士屋井家(300石)(現在の新潟県長岡市)に
 生まれた。
  1870年(6歳)父が死去し、叔父に引き取られた。
  1875年(かぞえ13歳で)東京の時計店の丁稚となった
 が、病気のため帰郷した。
  修理工として年季奉公した後、東京高等工業学校(現:
 東京工業大学)入学を志望したが受験に2度失敗。
  年齢制限もあって進学を断念し、それからの3年間は、
 独力で永久自動機等の研究を続けた。
  1885年、23歳のときに、電池(湿電池)で動作する連
 続電気時計を発明した。
  連続電気時計に用いられていたのは、ダニエル電池な
 どであり、電池の手入れが必要なことと、
  冬場は、電池の液が凍結するため使用できなくなると
 いった問題があった。
  屋井は、これら問題を解決する電池の開発に取り掛か
 った。
  連続電気時計は、1891年に、日本では初めてとなる電
 気に関する特許として認められた。
1891年5月26日、法相と内相が、児島惟謙、及び、裁判官の
 説得を図るが失敗。
  児島惟謙(こじまいけん)は、1837年、愛媛(伊予宇
 和島)に生まれた・・、
  幕末には、尊王倒幕の思想を抱いて、3度にわたり脱藩
 し・・、
  長崎では、坂本竜馬らと交わって、倒幕運動に参加。
  戊辰戦争にも従軍した・・明治期の裁判官で・・、
  各地の裁判所長を歴任の後・・、
  1891年、大審院長に就任した。
  大津事件で、内閣、元老の圧力(犯人・津田三蔵の
 死刑を要求)・・
  その政府に対し、条文にない刑罰は適用できないとし
 て排した。
  津田には、通常人に対する謀殺未遂の条文を適用すべ
 きことを強調し、司法権の独立を守った。
  この他にも、児島には多くの正義の判決があり「護法
 の神」と言われた。
  (参考)当時の青木外相の、ロシア公使に対する事前
     の約束にしばられた政府は、犯人津田三蔵に、
     皇族に関する刑法規定を準用して死刑とするよ
     う要請した。
      ・・が、児島は、外国皇族に関する規定がな
     い以上、通常謀殺未遂の罪をあてるよう担当裁
     判官を説得し、無期徒刑を判決させた。
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  (今日の言葉)
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  題:そして、もう一度、「私は、無実です」と、静かに、
    はっきりと、付け加えて言った。
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1494年、この年に、卑劣な事に、ローマ法王教皇)アレ
 クサンデル6世は、スペインに対して、アメリカ新大陸の
 征服の優先権を与えた。
  この事から、スペインによる大殺戮の行為、悪名高い
 スペインのアメリカ大陸の大虐殺の征服が始まる。
  ローマ法王アレクサンデル6世は、口ききをして、スペ
 インとポルトガルの間でトルデシリャス条約を結ばせた。
  スペインは、「新大陸」における征服の優先権が与え
 られた。
  (君に、何の権利があるのだ!と、怒りをぶつけたい)
  そして、悲劇の話が始まる・・その可哀想な、非人道
 的な、悲劇の話・・、
  メキシコとグアテマラの国境近くに「チャパス」とい
 うマヤ文明の名ごりの町がある。
  ここの住民は、スペイン人によって男は、皆、殺され
 た。
  そして、残された女性は・・強姦された。
  それ故、酷(ひど)い事に、今、ここに住む住民と言
 えば、その強姦したスペイン人との混血の「メスティー
 ソ」ばかりとなった。
  このローマ法王のからむ『悲惨な事実』を、この悲惨
 な歴史を、世界記憶遺産に登録せよ!
  また、この悲惨な出来事を、スペインのサクラダ・フ
 ァミリア教会に彫刻で、この悲惨な歴史を、事実を残せ!
  そして、さらに悲劇的なことは、このここの住民の男
 性がみな殺されて、女性の方々がスペイン人に強姦され
 て、混血にされた人間だけになったということを、「良
 い事なのだ」と洗脳し、洗脳されている。
  そして、スペイン文化ももたらされて、良かったのだ
 とあらゆる屁理屈で洗脳し、洗脳されている。
  卑劣なスペインである。
  懺悔(ざんげ)するどころか、反省するどころか、開
 き直っている。
  弱者の方々に対して、卑劣な極みの事をして、好き勝
 手をやって、命まで奪って、それで良かったという洗脳
 をしている。
  スペインに於いて、その様な事が起きた方が良いとい
 う論理なのか?
  自分に対して、その様なことが起きる事を是認すると
 いう事なのか?
  恥の上塗りの卑劣な事はするな!!
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1517年、スペインのキリスト教宣教師が、黒人奴隷の所有
 の提案をした、影響力のある提案をした。
  スペインのキリスト教宣教師ラス・カサスは、黒人奴
 隷12人の所有を認める提案をした。
  これによって奴隷貿易が、活発となった。
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1619年、アメリカの最初の奴隷
  奴隷の概念が、キリスト教の聖書に何回も何回も書か
 れているが・・、
  キリスト教の神が、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫
 ぶ卑劣さも書いてあるが・・、
  その卑劣な行為が、そのため。消えることなく、古代
 から人類の歴史と共にあったが・・悲しい事に・・、、
  古代から、キリスト教徒によって、アフリカのエチオ
 ピアの方々が奴隷にされて来た事例などなど・・、
  そして、アフリカの方々を、一番多く奴隷にした国・
 アメリカでは、1619年に、アフリカの方を、最初に奴隷
 にした記録がある。
  そして、この後、奴隷としてアメリカ大陸に連行され
 たアフリカ人は、黒人の方々独自の言語・宗教などを、
 いっさいを剥奪された・・卑劣な事である・・
  卑劣なアメリカは、卑劣な奴隷行為の他、言語や宗教
 をも剥奪するという、人権・人格をも剥奪するという卑
 劣の極みの行為をした。
  黒人の方々は、アフリカの地の宗教も、当然、持って
 いて、また、黒人の方々の独自の『黒人霊歌』も持って
 いて・・、
  この様な苦しい境遇・状況下で、ここからゴスペルは
 生まれて来た・・、
  この様に、黒人の方々の間から生まれたゴスペルが、
 今・現代では、白人のキリスト教会が利用し始めている。
  しかし・・直接的にこの様な状態になった訳ではなか
 った。
  この様に黒人の方々が関(かか)わったゴスペルの真
 の姿を伝えない解説が多い・・これも卑劣である・・す
 べてを隠すという状態で・・
  アメリカの白人支配層は、黒人の方々から宗教を剥奪
 (はくだつ)したが・・、
  黒人の方々も、奴隷解放の活動をして自由を獲得して
 来ると、キリスト教会へ、黒人の方々の来ることが拒否
 され、差別される状況の中に於いて(黒人の方々は、入
 れないレストラン、映画館、ホテルなどなどが、いっぱ
 いあるというアメリカに於いて、キリスト教会も黒人の
 方々が入れない状態だった)
  キリスト教聖職者も、その状態を打開する行動をせず、
 差別した。
  すべてが差別の状態にあるというアメリカの低劣な状
 態の社会だった。
  キリスト教の有色人種蔑視観もある状態で・・人種差
 別社会だった。
  黒人の方々が、やむなく作った黒人の方々のキリスト
 教会。
  その教会が、白人たちに襲われ、その教会に来ていた
 黒人の子供たちが殺されるという事件も起きたりする社
 会だった。
  (黒人の方々が、教会を作ることに反対だった)
  この様な宗教事情の中で、黒人の方々は、白人教会で
 歌われる賛美歌に抵抗感を持った。
  自分たちには黒人霊歌があった。
  そこで生まれたのが、教会で、黒人の方々の中にある
 黒人霊歌を謳う事だった。
  ここから、「黒人霊歌を起源に持つゴスペル」が生ま
 れた。
  今、ゴスベルの解説に、この様な真実が隠され、無反
 省の中に黒人の方々が関係する事が隠され、その様なゴ
 スベルの表面だけを美しく語る解説に満ちている。
  その1例が・・:「ゴスペルは、英語で福音の意味で、
 アメリカ南部の礼拝集会などで演奏され、発展した。
  今、癒しの音楽として受け入れられている」・・と。
  黒人の方々の苦しみや涙は、まったく説明されていな
 い。
  そして、強い白人キリスト教会は、美味(おい)しい
 所だけを取り去って、奪って行く。
  あたかも、インドで活躍したマザー・テレサ女史が、
 某マスコミに取り上げられるまで、見向きもしないで、
 また、手助けもしなかったキリスト教界が・・、
  マスコミに取り上げられると、手のひらを返して、マ
 ザー・テレサ女史を『広告塔にした』ごとくである。
  この様な真実が、最近は、特に、隠されている。
  また、マザー・テレサ女史は、「キリスト教の神は居
 ない」と言って亡くなられた。
  ・・が、しかし、この様な真実も隠されて来ている。
  インドのビンズー教の方々は、マザー・テレサ女史が
 来る前から、当初から、「インド人の死に臨む方々」に
 付き添うという活動をしていた。
  ・・その組織へ、マザー・テレサ女史が入って行った
 のだったのだが、この事実も完全に隠されている。
  ヒンズー教の寺で、マザー・テレサ女史が活動したこ
 とも隠されている。
  キリスト教は、マザー・テレサ女史を広告塔にして、
 「キリスト教の神の啓示を受けた」などなどのでっち上
 げの美化と共に、完全に勲章を我がものだけのものにし
 ている。
  このゴスペルも・・まったくこれと同じ・・、
  マザー・テレサ女史は、生涯、「キリスト教の神は居
 ない」という心の闇を持っていた・・
  神への渇望があるが、神は居ないと・・死ぬまでその
 思いを持っていた。
  それを、表わす手紙が下記・・、
  「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。
  神への深い思慕の情・・神との触れ合いを渇望するそ
 の思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。
  私は、神から求められてはいません。
  神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱
 意もありません。
  私の魂には、何ひとつ魅力あるものがありません。
  天国は何の意味もありません。
  それは、私には空虚な場所のようにしか感じられませ
 ん」・・と・・、
  そして、「私は『神が居ない』という地獄の苦悩を少
 し理解しています」と・・、
  そして、年とともに「闇は大きくなるばかりです」と
 苦悩が広がることを告白する。
  「心には矛盾に満ちている」・・と。
  多分、自分だけに来る名声が広がるとともに、当初、
 共に働き、助けてくれた、そして、陰で支えてくれたヒ
 ンズー教の方々への思いが募ったのだろう。
  (日陰になって、何ら讃美されないヒンズー教の方々
 の一方の姿)。
  そして、年を経て・・
  「私には信仰がありません。
  言葉に出来ないほどの苦悩を、口にすることはできま
 せん。
  私は、それを打ち明けるのが怖いのです。
  それが、神を冒涜する事であると思うと・・。
  もし神が居られるのなら、どうか私を許してください」。
  不存在への確信に対して、許しを乞うている。
  キリスト教が真実を語り、ヒンズー教の方々も栄光の
 座に座ることが出来、世界の人々からこの陰になってし
 まった方々へ光が与えられたならば、マザー・テレサ
 史の肩の荷も下り、
  共に栄光の中で過ごされたのだろうと言える。
  すべては、キリスト教の「自分一人だけの栄光」の独
 り占めの横暴が、マザー・テレサ女史の業績を喜んで受
 容できない苦悩の悩みの状態にした。
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1829年、悲惨な、非人道的奴隷貿易の目撃談・・
  史上に、悪名高い「中間航路(ミドル・パッセージ)」、
  低い宗教性ゆえに行われた・・卑劣な行為・・、
  スペイン、ポルトガルの独占する奴隷貿易は、巨大な
 儲(もう)けを生んだ。
  これを、ただ、見ているだけで居られなくなった欲の
 皮の突っ張ったイギリス、オランダ、フランスが、真似
 をしはじめた。
  安いヨーロッパ製品をアフリカへ運び、アフリカの黒
 人の方々を奴隷としてこれと交換した。
  そして、卑劣にも奴隷を欲しがるアメリカへ、大西洋
 を越えて運んで行った。
  そして、また、アメリカの特産物や、その他の品々と
 交換し、ヨーロッパへ持って行って売った。
  ヨーロッパに、巨大な儲けが持ち帰えられた。
  イギリスは、ラム酒をアフリカへ持って行った。
  アフリカからアメリカへ渡る過程が地獄だった。
  キリスト教に洗脳された有色人種蔑視観から黒人の方々
 の人権など、まったく無視だった。
  1829年、R・ウォルシュ(イギリス)が見た光景は、
 「奴隷たちは、すべて甲板の下に鎖でつながれて詰め込
 まれて居た。
  その場所は非常に低いので、彼らはお互いの足の間に
 座わり、また、ぴっちり詰め込まれていたから、夜でも
 昼でも、横になることも、場所を変える事さえできなか
 った。
  彼らは、誰かに所有され、所有主とは別な人間によっ
 て輸送されて居たから、ひつじの様に、所有主の様々な
 形の『焼き印』を押されていた。
  胸の下、または、腕に焼き印を押され、そして、船員
 が、まったく冷然と教えてくれた所では、灼熱した鉄で
 焼かれたとの事であった・・・・」。
  この奴隷船には、男女合わせて505人の黒人奴隷が居て、
 17日間に55人が死んで、海中に棄てられたという。
  この三角貿易は、儲けの多い取引となっていた。
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1955年、ローザ・“リー”・ルイーズ・マコーリー・パー
 クス女史(1913年2月4日〜2005年10月24日)は、アメリ
 カ合衆国の公民権運動活動家で・・、
  1955年に、アラバマ州モンゴメリーで、公営バスの運
 転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離
 法違反の容疑で逮捕されて著名となった。
  (アメリカは、このバス運転手だけでなく、社会全体
 で、あちこちで、映画館で、レストランで、ホテルで、
 キリスト教会等々で、黒人の方々を差別していた。
  黒人用トイレとか、キリスト教会に来てはいけないと
 か・・とかとかと軽蔑すべき社会だった・・
  今・現在も続いている)。
  この女史の一件を契機に、モンゴメリー・バス・ボイ
 コット事件が勃発した。
  アフリカ系アメリカ人(黒人の方々)による公民権
 動の導火線となった。
  このことで、ローザ女史は、アメリカ史における文化
 的象徴と見なされ、「公民権運動の母」と呼ばれている。
  最悪の事は、黒人の方々に、選挙権が与えられてない
 というアメリカ・・、
  「3割が白人で、7割が黒人だから」が、白人たちが言
 う「その理由」だという。
  ナッシュヴィルだけではない・・、
  町はずれにある「テント・シティー」は、選挙の時に、
 選挙人登録に行った黒人の方々が、町から追放され、差
 別されて作った。
  バスの座る場所も・・白人が前で、黒人は後ろ。
  日本人は、「名誉白人だと、馬鹿にされて言われた」。
  絶えず差別する白人によって、黒人の方々は、いや応
 なしに劣等感を植え付けられた・・
  このテント・シティーの事でも、白人のアメリカ人は、
 『あれは黒ん坊が勝手にやっている事だから、俺たちは
 知らんさ』・・と言い捨てた・・
  選挙権の事についても、「彼らに、それだけの能力が
 無いからさ」と・・切り捨てた・・
  白人アメリカ人に言わせれば、「黒人の『無知』を、
 俺たち白人が、必死に食い止めてやっているのだ」だっ
 た。
  我々の税金で作った黒人の工業学校で教育したって、
 皆(みな)、北部の資本家に吸い取られて行ってしまう
 (北部のために安価な労働力を、我々の税金で育成して
 いるようなものだ)
  キリスト教の聖書で、キリスト教の神が、「奴隷にせ
 よ、奴隷にせよ」と叫ぶが、
  人間を奴隷にしてはならず・・差別してはならず・・、
  また、奴隷と同様の地位に置いておくことが許されて
 いいはずはない。
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1987年5月20日キリスト教によって、有色人種に対して、
 差別観を植え付けられたアメリカは・・、
  可哀想な事に、黒人の方々が嘘の判決で、よく死刑に
 された。
  1987年5月20日、午前0時1分、アメリカのミシシッピ
 州サンフラワー郡パーチマンにある州立刑務所内のガス
 室で、チーク郡高等裁判所の判決により、26歳の一人の
 青年の死刑が執行された。
  刑の開始から5分後の0時6分、彼の心臓は、完全に停止
 した。
  処刑された若者の名は、エドワード・アール・ジョン
 ソンと言い・・、
  アメリカの人種差別と偏見の、特に強い地で成長した
 黒人の方だった。
  事件は、この8年前にさかのぼるが、白人女性が、何者
 かに襲われ、救助に駆け付けた白人警官が殺された。
  ジョンソンは、この犯人とされた。
  唯一のその理由が、現場から走り去った車と同じ型の
 車を、ジョンソンが持っていたという事だった。
  面通しも行われた。
  面通しした女性は、ジョンソンを知っていて、顔見知
 りだったので、すぐに、ジョンソンではないと分かった。
  そして、「ジョンソンではない」と、はっきり証言し
 た。
  ジョンソンは、当然の釈放となった。
  しかし、ジョンソンは、その後に、何の新たな証拠も
 示されない状態で、再逮捕された。
  そして、ジョンソンは、連行され、あらかじめ用意が
 なされていた嘘の自白調書に、無理やり署名をさせられ
 た。
  ジョンソンは、逮捕される前にも、捜査官と警察官の
 二人から、人気のない所で、「言う通りに答えろ、そう
 しなければ殺す」と脅されていた。
  言う通りしなければ、間違いなく殺されるという状況
 の、「程度の低いアメリカ」だった。
  警官に連れて来られて、署名を無理やりさせられた時
 も、「内容は気にするな。とにかく署名しろ」と脅され
 た。
  服役中も、看守も、そして皆も、誰もが、その様に犯
 人に仕立てられる黒人の方々が多いアメリカで、このジ
 ョンソンの場合も、仕立てられたと、ジョンソンは真犯
 人ではないと・・思っていた。
  再審や、刑の執行停止の申請も却下された。
  恩赦の申請も功を奏さなかった。
  刑の執行は予定通りだった。
  ジョンソンの最後の言葉は、「私は無実だ。誰も恨ま
 ない。今まで力になって戴いた方々に感謝します」だっ
 た。
  そして、もう一度、「私は、無実です」と、静かに、
 はっきりと、付け加えて言った。
  ジョンソンは、無実で処刑されたが、アメリカという
 国は、黒人の方が、白人に殺されるとき、その殺人犯の
 白人が、死刑にされる割合が極端に少ない。
  しかし、この逆は、卑劣にも、極端に多い。
  400パーセント以上の差がある。
  黒人の方々が、死刑にされる割合が多い。
  有色人種蔑視のキリスト教による偏見がある。
  これは、日本人とて同じ、ハロウィンで仮想した日本
 人青年が殺された場合もそうだった・・等々の事例があ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive