(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月〜1889年3月)

題:(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月〜1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年2月、全国で憲法発布の祝賀会が行われる。
  理解していない人も多かった。
  1889年2月9日:東京では、11日日の憲法発布をひかえ
 てその準備のため、言語に絶する騒ぎを演じていた。
  至るところで奉祝門(ほうしゅくもん)、イルミネー
 ション(照明)や行列等の祝賀行事が行われた。
  だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容を存じな
 いのだ。
  1889年2月11日(東京)本日、憲法発布。
  天皇陛下の前には、やや左に向かって諸大臣、高官が
 整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなけ
 れば立場をかえて将軍であったはずの徳川(田安)亀之
 助氏(徳川家達氏)や、
  ただ一人(洋服姿でいながら)なお、正真正銘の旧い
 日本のまげをつけているサツマの島津侯(忠義=島津久
 光の長男で、開成所を創設、藩の近代化を進め、また、
 1867年、密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力した)を
 認めた。
  珍妙な光景だ!‥‥残念ながらこの祝日は,忌(い)
 まわしい出来事で気分がそがれてしまった――森文相の
 暗殺である。
  1889年2月16日(東京)日本憲法が発布された。
  新聞が、すべて満足の意を表している。
  東京帝国大学で26年間医学を講義したドイツ人医学者
 ベルツの日記より抜粋した)
1889年2月12日、黒田清隆首相が、地方長官に超然主義
 方針を訓示した。
  超然主義は、他の動きには関知せず、自分の独自の立
 場から事を行うという主義で・・、
  大日本帝国憲法下で、藩閥官僚政府が、政党の影響を
 受けずに政治を運用しようとした政治姿勢を言った。
  この時の黒田清隆首相が、地方長官を鹿鳴館に集めて
 演説した。
  その中で、「政府は、常に一定の方向を取り、超然と
 して政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず」
 とのべたことから『超然主義』が一つの政治姿勢をあら
 わす言葉として使われるようになった。
  大日本帝国憲法は、政党内閣を制度として認めていな
 い。
  藩閥官僚、とりわけ山県有朋系の官僚内閣に政党政治
 から距離を置く傾向があった。
  (薩長閥の均衡と交代を基調に、組閣や内閣運営を行
 なう体制としたいという意向だった)。
  しかし、政党の政治的力はしだいに強まって行った。
  その後、超然主義を持続することは困難となった。
1889年2月13日、海軍治罪法が公布された(2月15日説あり)
  海軍治罪法は、大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施
 行された軍法で、
  1884年明治17年)に、海軍治罪法(明治17年3月21日
 太政官布告第8号)として制定され、
  1889年(明治22年2月15日法律第5号)に全部改正され
 た。
  1922年(大正11年)に「海軍軍法会議法」(大正10年
 4月26日法律第91号)が制定され、それにより廃止された。
  構成は・・、
  第一章:総則、第二章、軍法会議ノ構成、第三章:軍
 法会議ノ権限、第四章:海軍検察、第五章:審問、第六
 章:判決、第七章:再審、第八章:復権、第九章:特赦
1889年2月15日、秋田新報(秋田日報)をあらためて、秋田
 魁新報(あきたさきがけしんぽう)が創刊された。
  東北地方で最も長い歴史を持つ新聞で、首相になる犬
 養毅が主筆を務めていた時もあった。
1889年2月23日、『女学雑誌』が、皇室典範を批判した。
  女学雑誌は、1885年7月に、「女学新誌(1884年)」の
 後身として創刊された女性向け婦人雑誌で、
  (婦人論が活発になった風潮をみて「女学新誌」を、
 1年で廃刊して「女学雑誌」を創刊した)
  編集のほとんどを明治女学校の校長・巌本善治が担当
 し、
  男女同権論や自由恋愛論など、婦人解放の立場に立っ
 た啓蒙的な活動をしていたが、
  その後は、北村透谷、石橋忍月山路愛山内田魯庵
 らを登場させ、明治浪漫主義文芸運動の母体となった 。
  明治20年代(1887年代)のオピニオン・ジャーナリズム
 の一翼を担った。
  1904年(明治37年)2月、526号で廃刊となった。
  (1903年には『文学界』が分離独立していった)
1889年2月、『頓智協会雑誌』が、憲法発布に合わせ、宮武
 骸骨が程度の悪い絵などを使い、
  寓意画入りの「頓智研法発布」論説を掲げ、 不敬罪
 発禁処分を受けた。
  (同誌創刊者で編集発行人の宮武外骨(みやたけがい
 こつ、20歳)は、3月4日に、収監された)
1889年2月、全国で、憲法発布に関する錦絵出版が盛んにな
 る。
1889年3月2日、東京図書館官制を公布し、東京図書館を文
 部省直轄機関として独立させた。
  東京図書館官制公布によって東京教育博物館から分離
 し、独立の図書館となるが、
  財政や施設が、ともに貧弱であり、国立図書館という
 にはまだまだ不十分でだった。
1889年3月9日、参謀本部条例、海軍参謀本部条例が公布さ
 れた。
  参謀本部は、創設以来、日清戦争に至るまで、制度は
 しばしば改正された。
  外征ができるための機構の改編だった。
  1886年明治19年)、参謀本部は、陸海軍を統一管掌
 する機関となった。
  そして、参謀本部に陸軍部と海軍部が置かれた。
  1888年明治21年)に、陸海軍を統一管掌する参謀本
 部を参軍と改めた。
  そして、その下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部を置く
 制度となった。
  機構の充実のための措置だった。
  翌年の1889年に、参軍制は廃止され、参謀本部条例が
 制定されて、陸軍の軍令機関として参謀本部は残り、
  海軍の軍令機関は、海軍大臣に属する海軍参謀本部
 機構を縮小された。
  1889年5月、陸地測量部条例が公布された。
  参謀本部の一局であった測量局は分離され、本部長直
 属の独立官庁として、陸地測量部となった。
  その主務は、「陸地測量を施行して兵要地図、及び、
 一般の国用に使うべき内国図を製造し、修正して正す業
 務、そして、その他の量地に関する事を行なった」。
  そして、下部組織に三角・地形・製図の三科、および、
 修技所を置いて、測量局の業務を引き継いだ。
  この時の組織改正によって、全国規模で行われる測量
 については、行政上・国防上の見地から、陸地は陸軍に、
 水路は海軍で、それぞれ統括するという方針が組織面か
 ら確立された。
  これは、1945年の終戦まで継続された。
.
  (今日の言葉)
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  題:アメリカのこと・・、
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1924年7月1日、アメリカは、卑劣にも「排日移民法」を施
 行(しこう、実際に行うこと。政策などを実行すること)
 した。
  アメリカは、日本を、国家として貶(おとし)めた。
  また、アメリカは、日本人を人種として貶めた。
  また、アメリカは、日本の文明を貶めた。
  アメリカは、その様な、あらゆる点で、日本を貶める
 法規を作った。
  日本へ、そして、日本人へ、強い劣等意識を突き付け
 た。
  何ら、その法の根拠はなく、ただ、感情的に差別した。
  根には、キリスト教の有色人種蔑視の教義・考え方が
 あった。
.
  そして・・、
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1927年(昭和2年)3月、昭和金融恐慌(経済恐慌)が発生
 した(日本経済)。
  因みに、世界大恐慌は1929年に始まった。
.
  そして・・、
.
1928年、アメリカ大統領のフーバーが、「貧困という言葉
 が無くなるだろう」と豪語するくらい、アメリカは好景
 気だった。
  しかし、この時、アメリカ景気は、曲がり角に来てい
 た。
  第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは、大戦への
 輸出によって発展した重工業の投資、
  帰還兵による消費の拡張、
  モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍
 進、
  ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、
  同地域への輸出の増加などによって・・「永遠の繁栄」
 と呼ばれる経済的好況を手に入れた(この後の時代のル
 ーズベルト大統領も第二次世界大戦を引き起こして利用
 した戦争景気)。
  1920年代前半に、既に、農作物を中心に余剰が生まれ
 ていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題
 は発生しなかった。
  しかし、農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの
 復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。
  また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国
 の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市
 場からの離脱などにより、アメリカ国内の他の生産も過
 剰になって行った。
  また、農業不況に加えて、鉄道や石炭産業部門も不振
 になっていた。
  1927年に、ジュネーブで行われた世界経済会議では、
 恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審
 議・採択された。
  商業では、関税引き下げ、
  工業では、コストダウン目的の産業国有化、独占禁止
 と生産調整の国際協定、
  農業では、方法の改良と資金の貸付について議論され
 た。
  しかし、決議そのものは、各国議会から無視されてし
 まっていた。
  3月には昭和金融恐慌が起きた。
  そして、1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズ
 信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
.
1929年7月30日、世界恐慌のきっかけとなるニューヨーク・
 タイムズ紙が信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
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1929年10月25日、この日のニューヨーク・タイムズ紙が、
 「株式市場は、史上最大の破壊的な落ち込みに襲われた」
 と、大見出しで歴史的大暴落を報じた。
  この約2か月後、アメリカのホワイトハウスが火事に
 なり西棟が焼け落ちた。
  アメリカ国民へ、一層、暗いイメージを与えた。
.
  そして・・、
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1929年12月24日、クリスマスイブのこの日の夕刻、ホワイ
 トハウスが火事になり、5時間後には瓦礫(がれき)の山
 になり、分厚いコート姿のフーバー大統領は、ただ呆然
 (ぼうぜん)と立ち尽くしていたと記録されている。
  ホワイトハウス西棟が焼け落ちた。
.
  そして・・、
.
1932年11月、ルーズベルトは、前任の大統領のフーバーと
 の大統領選挙に勝った後、11月に、ホワイトハウスに、
 わざわざ、立ち寄った。
  フーバーとルーズベルト、二人が、直接、顔を合わせ
 たのは、この時が初めてだった。
  ルーズベルトは、上機嫌だった。
  フーバーは、足元を見つめ、苦虫を噛み潰したような
 顔をしていた。
  重苦しい雰囲気を破ったのはフーバーだった。
  フーバーは、アメリカの現状や課題などを語りだした。
  約1時間にわたって語り続けた。
  「第一次世界大戦で最大の債権国となったアメリカ」
  「世界が大不況にある今、その債権の借金を取り立て
 ては駄目で、一時的にもあきらめなければならない」
  「不況の悪循環は、避けねばならない」などと。
  同行していたルーズベルトの政策顧問のレイモンド・
 モーレイは、「フーバーが、具体的な数字を含め、完全
 に問題点を理解しており、その緻密(ちみつ)さに圧倒
 された」と証言している。
  その間、ルーズベルトは、まるで素人のような質問を
 繰り返すばかりで、問題点や、論点を理解していなかっ
 たという。
  アメリカは、間違った選択をしたと言える。
  今、2017年、オバマ大統領から、トランプ大統領へと
 バトンが渡されて行くが、この様な間違いのバトンタッ
 チではないことを・・祈る。
  ルーズベルトの様な、「問題点や論点を本当の意味で
 理解していないで、トンチンカンな素人に毛が生えたく
 らいで大統領になった」という・・過去の悪い事例の様
 にならない様にと・・祈る。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代の
 アメリカ大統領に就任した。
  ルーズベルトは就任した際、ヘンリー・モーゲンソウ
 を連邦農業審議会の議長に指名した。
  そして、翌年の1934年に、財務長官のウィリアム・ウ
 ッディンが病気で辞任すると、このモーゲンソウを、後
 任の財務長官に指名した。
  そして、ルーズベルトが、この財務長官のモーゲンソ
 ウに言った言葉が記録されている。
  それは・・、「私〈ルーズベルト)はジャグラー(曲
 芸師)なのだ。
  右手と左手がまったく別々の動きをする。
  例えば、欧州向けに特定の政策があっても、北米や南
 米では、まったく正反対の政策を、平気で実施すること
 が出来る。
  私は、矛盾だらけで、ミスリード(失敗の間違った政
 策〉だってする。
  戦争に勝つためなら・・嘘だってつく」。
  この言葉は、本当に、アメリカの政治を現わしている。
  アメリカの利益になれば、嘘だってつき、弱い者でも
 誰でも暴力をふるう。
  領土や、金を、利益を奪う・・である。
  歴史学者のウォーレン・キンポールが、ルーズベルト
 を軽蔑して「曲芸師(ジャグラー)」と呼ぶ。
.
  そして・・、
.
1945年2月4日少し前、ヤルタ会談が開かれる前の事である。
  アメリカが、地中海方面での会談を望んだ。
  しかし、スターリンは、「長旅が禁じられている」「
 気候の変化がよくない」などと、のらりくらりと会談の
 出席を断り続けた。
  ドイツが敗退し始めると、ソ連の東欧占領が確実にな
 って行った。
  逆に、アメリカのルーズベルトは、そうした状況に焦
 っていた。
  早急に戦後を協議する必要性に迫られていた。
  スターリンは、ソ連軍の進撃があればあるほど、占領
 地域が拡大して行った。
  協議の開催が、遅ければ遅いほどソ連に有利に働いた。
  スターリンも、その様に判断していた。
  ルーズベルトは、この頃、体が、体調が、最悪な状態
 にあった。
  焦るルーズベルトに、イギリスのチャーチルが「最悪
 の場所」と呼んだヤルタに向かうしか選択の道は残され
 ていなかった。
  ヤルタはクリミアの都市で、クリミア半島南端に位置
 し、黒海を臨んでいる地。
  スターリンには近いが、体が弱っているルーズベルト
 には遠かった。
.
  そして・・、
.
1945年2月8日〜2月11日、ヤルタ会談が行われた。
  ヤルタは、ソ連領のクリミア半島南端に位置し、黒海
 を臨む地だった。  
  このヤルタ会談は失敗だった。
  ドイツがソ連領から退却し始めて、それで、ソ連は、
 自信を付けたのか? ヤルタ会談以降のソ連は、特に、
 横暴となった。
  ヤルタという遠隔地に赴(おもむ)いたアメリカ大統
 領のルーズベルトには、その出張は重荷だった。
  その様なルーズベルトの印象が、スターリンにその様
 な横暴な態度をとることをさせたのか?
  何しろ、チャーチルが言うように、ヤルタは「最悪の
 場所」だった。
  この事からも、この地が会談場所として選ばれた事は、
 ソ連の勝利の一端が伺(うかが)える。
  ヤルタ会談から2か月後、駐ソ連大使のハリマンは、是
 非、帰国したいと、アメリ国務省に願い出た。
  すると、国務長官のステティニアスは、「持ち場を離
 れることは許されない」と拒否した。
  サンフランシスコの国連憲章会議に出席するソ連外相
 のモロトフに同行するという名目で、ハリマンは、4月19
 日に、ワシントンに来ることが出来た。
  早速、翌日・1945年4月20日、ハリマンは、ホワイトハ
 ウスを訪れ、新大統領のトルーマンに会った。
  ルーズベルトの葬儀から5日後だった。
  国務長官のステティニアスと国務長官代理のグルーが
 同席した。
  ハリマンは言った、「大統領、今、ヨーロッパでは新
 たな野蛮による侵略が起こりつつあります」・・と。
  「ソ連に対する幻想を捨てなくてはなりません」と。
  ハリマンは、ヤルタ会談以降、ソ連が横暴となり、欧
 州解放宣言にもかかわらずソ連占領地では、傀儡(かい
 らい)政権が樹立され、どんどん共産化が進んでいる・・
 と報告した。
  ハリマンは、1945年5月にも、再度、帰国し政府首脳に
 訴えた。
  「日本をどうするか?」の話を乗り越えた、大きな懸
 念が生まれていた。
  そして、日本を、この様な状態にした行為が正しかっ
 たのか?
  また、良かったのか?
  また、日本を、完全破壊するのか?
  ・・の疑問が・・、
  アメリカ政府首脳の頭に去来していた。
  国務長官代行のグルーは、眠れぬ夜を過ごした。
  この様な時の流れの中で、ルーズベルトが進めてきた、
 20億ドルもの巨費を投じて開発した原子爆弾が完成しよ
 うとしていた。
  新大統領トルーマンと、陸軍長官スティムソンと、ト
 ルーマンに大きな影響力を持つ新国務長官のバーンズら
 3人は、それを、原爆を日本に投下すべきかの国際法違反
 行為の原爆投下の選択をどうするかが迫られていた。
  グルー等は、「日本の国体維持・天皇制維持の承認を
 する」・・それで、「原子爆弾投下は、一種の脅し」で、
 戦争の早期終結を計る・・という考え方にあった。
  そして、その提案をした。
  だが、トルーマンの決断に影響を与えたのは・・バー
 ンズだった。
  トルーマン大統領をはじめ、アメリカの政府首脳たち
 は、このバーンズの強力な原子爆弾投下論に対する意見
 を持っていなかった。
  結局、このバーンズの投下論が、アメリカ政府意見・
 判断となった。
  バーンズは、1945年5月28日に、核融合の研究者で、原
 爆製造計画に携わってきたシカゴ大学のレオ・ジラード
 と会った。
  手にはアルバート・アインシュタインの推薦状を持っ
 ていた。
  サウスカロライナのバーンズの自宅を訪ねていた。
  ジラードは、最初、トルーマン大統領に面談を求めた
 が、トルーマンからは、バーンズに会ってくれと言われ
 ていた。
  ジラードは、15ページもの書類をバーンズへ渡し、原
 爆開発に携わった科学者の総意を記した内容を説明した。
  それは、『ナチズムの終焉のために開発してくれ』と
 言われ、ユダヤの方々の研究者が多く参加し、組織され
 た開発組織によって開発されたのだった。
  日本へ投下すべきとして開発されたのではない。
  「(ドイツが降伏して)戦争終結が間近な今、原爆投
 下の意味はない」。
  「原爆投下は単なる破壊でしかない」。
  「原爆の使用によって、戦後、ソ連などと一層の開発
 競争を強める可能性もあり、使用は、まだ、控えるべき」。
  バーンズは、その話を聞き、信じられないという顔を
 した。
  そして、言った・・、
  「あなた方は何もわかっていない。巨額の開発費に見
 合う結果を出さずに、次の研究への予算が議会を通ると
 でも思うのですか?」・・と反論した。
  バーンズは、結果を、成果を出さないと政治問題化す
 ると言った。
  スティムソンやグルーの脅しに使うという意見に対し
 ても、
  バーンズは、「そんな警告を与えたら、目標地点に捕
 虜の米兵を送り込むだろう」
  「原爆が不発(使わない)で終わったら、原爆が不発
 だったと逆宣伝されるに違いない」・・と。
  そして、ポツダムでの会談へ向かうトルーマンらのア
 メリカ政府首脳たちは、この時には、「京都、広島、新
 潟」の三地点のどこに投下するか?・・の話になってい
 た。
.
  そして・・、
.
  アメリカのやった事。
  アメリカは、国際法で「してはならない」とされた『
 非戦闘員(民間人)の殺戮』をした。
  民間人殺戮を目的とした「原爆投下」や「じゅうたん
 爆撃」など・・、
  そして、負けた国のプライドや、文化や価値観を、土
 足で踏みにじった。
  そして、敗戦国を二度と立ち上がれないようにした。
  明らかに、その様にしようという意思でもって行った。
  未発達の昔でも、非武装の婦女子を大量に、無差別に
 殺戮はしなかった・・という、人類の『最低の掟」を踏
 みにじった。。
  このやってはならない卑怯・卑劣な事を、アメリカは
 行なった。
  アメリカとは、その様な国である。
  アメリカは、自分が正しいのだと、そして、自分こそ
 正義だと、「独善的な考え方」で、事を処理し、そして、
 外交をした。
  自分たちだけに都合の良いイデオロギーや、歴史解釈
 をやった。
  これが正しいのだと、他国に一方的に押し付けた・・
 また、押し付け続けた。
  納得しない者・・国は・・異教徒とされ・・
  「異教徒は殺せ」とキリスト教の考え方となった。
  また、今も・・多分に・・その中にいるアメリカとな
 っている。
  納得できない・・お前が・・悪いのだ・・と・・、
  また、戦争に勝つためなら何をやってもいいのだとい
 う考え方で・・、
  「戦争に勝つためには手段を選ばず」・・と、
  非武装の子供や女性を含む一般人を・・大量に無差別
 に虐殺した。
  そのアメリカの歴史が、累々と積み重なって来ている。
  ネイティブ・アメリカンアメリカ・インディアン)
 の方々は何千万人と・・殺された。
  ベトナムの方々も、卑劣な武器によって殺され・・新
 しい武器を試す・・などという・・卑劣な行為もなされ
 た。
  フィリピンの方々も、ドゥテルテ大統領が怒ったよう
 に・・多くの方々が、フィリピンの方々も殺された。
  ハワイの方々も・・メキシコの方々も・・
  日本も・・日本人は、卑劣な武器である原爆を落とさ
 れ、また、都市という都市を、市民をターゲットにして、
 非戦闘員に対して、無差別に大量の爆弾が落とされた。
  この他、まだまだ数多くの行為がある・・
  また、アメリカは、戦争に勝つと、負けた国を徹底的
 に叩き潰した。
  二度と自主防衛すら出来ないようにしておこうとした。
  こんな事は・・どこの国もやらなかった。
  傲慢でエゴイスティックな鉄血宰相のビスマルクでさ
 え、やらなかった事を・・アメリカはした。
  ビスマルクは、「相手の国に恨みを残すようなことを、
 してはならない」・・と、口癖のように言っていた。
  しかし、野蛮性を持ったアメリカは、戦争に勝つと、
 相手の国に土足で上がり込んで来て・・、
  相手国の人々(国民)へ、「戦争に敗けた国は邪悪な
 国である」というプロパガンダ(嘘宣伝)を吹き込んだ。
  さらに・・敗戦となった国が、二度と独立した外交政
 策や国防政策を実行できないようにするため、
  敗戦国を「不能国家」「去勢国家」に作り替えを行な
 った。
  キリスト教の神が居るから「勝ったのだし」・・その
 様な行為が「許されるという迷信」の下に行われた。
  卑怯・卑劣な独善的な外交アジェンダ(政治・政策的
 な分野で、検討課題、行動計画)を押し付けてくる。
  ケナンや、ウォルツなどが言っている・・、
  「第一次世界大戦の後、アメリカが、あんな無責任外
 交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなかっ
 た」・・と、
  アメリカ外交の二大目標は、「日本とドイツを二度と
 自主防衛できない状態にしておく」とした。
  アメリカは、日本人の歴史解釈まで強制的に変更させ
 た。
  そして、アメリカは、戦争に勝ったのだからと、さも
 権利の如くに、敗戦国をディモナイズ(悪魔化)した。
  また、ディヒューマナイズ(非人間化)した。
  アメリカは、敗戦国の子供や女性を含む一般市民を『
 何百万人も虐殺していること』に対しての「罪悪感」さ
 え感じていない。
  今でも、現代でも、アメリカは、中東で、アフガンで、
 世界中で、ディモナイズし、ディヒューマナイズしてい
 る。
  ディビット・ハルバーズタムは言う・・、
  「アメリカ外交を見ると、本当に『アメリカ人は田舎
 者だ』と思う。
  アメリカ人は、いつまで経っても、国際政治が理解で
 きない田舎者の集団だ。
  だから、ベトナム戦争の様な愚劣な戦争をやって、と
 んでもない破壊行為を実行するのだ」・・と、
  アメリカは、自分たちだけが、世界を支配するんだと
 いう意識しかなかった。
  自分たちがすべての国を押さえつけていないと駄目だ
 ・・と、傲慢に考える。
  ウォルツも言う・・、
  「アメリカ外交というのは、自分たちのやり方を、全
 部、他の国に押し付けようとする。
  過剰な介入主義を実行する。
  それが出来ない場合は、腹を立てる。
  そして、そっぽを向き、引きこもって、孤立主義をや
 る」・・と。
  トランプも・・これなのか・・?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive