(増補版)477E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月〜1889年1月)

題:(増補版)477E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月〜1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年、歌・流行・世相:
・「的」の字が大流行
中村福助人気:薄ねずみ色の襟や、紳士コートが流行。
  中村福助(9代目)は、歌舞伎界を代表する女形として活
 躍した。
・電気時計:アメリカから輸入され正確さが評判
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1889年、演劇:
・東京・木挽町歌舞伎座が開場:11月21日、
  歌舞伎の専用劇場を、福地源一郎(桜痴)が、東京市
 京橋区木挽町(今日の東京都中央区銀座)に建設した。
  外観洋風、内部はすべて日本風で、舞台間口 13間(約
 23.63m)、奥行 16間(約 28.96m)、回り舞台直径 9間
 (約 16.29m)と 7間(約 12.67m)の蛇の目回し、本花
 道 5尺(約 1.52m)の機構であった。.
1889年、発明:
・意匠:知的財産権、我が国初の意匠の制度が設けられた。
 この年の出願件数:176件、因みに、1988年(昭和63年)
 は5万1000件。
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1889年、医・衛生:
北里柴三郎が、破傷風菌の純粋培養に成功した。
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1889年、教育:
・水産伝習所(現=東京水産大学)が開所:1月20日
東京美術学校開校:2月1日、東京・上野に東京美術学校
 (現=東京芸術大学美術部)が開校。絵画科、彫刻科、
 美術工芸科、漆工科の4科で、74人の生徒が入学した。
日本法律学校(日本大学)が設立。
東京仏学校東京法学校が合併して、和仏法律学校と改
 称(現=法政大学):9月9日、
東京音楽学校編 「中等唱歌集」(埴生の宿など)
・幻灯機:娯楽から教育教材として利用されるようになる。
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1889年、災害・防災:
・横浜相生町で大火、焼失1600戸:3月22日
熊本地震。死者20人(7・28熊本大地震(死傷者94人)。
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1889年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・「相撲会所」が「東京大角力協会」になる:1月。
 日本相撲協会の前身。
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1889年、その他:
・ 婦人矯風会:一夫一婦制確立の運動
・公開会議中の野次がきっかけで傍聴規則検討の機運が生
 まれる。
・印刷工同志会結成(氷川清話)
・新聞・雑誌の郵税半額となる。
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  (今日の言葉)
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  題:ルーズベルト大統領が、部下を一喝し・・戦争への道へ・・
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1939年1月16日、アメリカ大統領のルーズベルトが、部下の
 反対を・・一喝して押さえつけ・・アメリカの法律違反
 のフランスへの爆撃機などを提供する決定を、この日に
 した。
  ルーズベルトは、「戦争をしない」と何回も宣言して
 大統領に当選したが、アメリカ国民の方々の期待を裏切
 る行為を、第二次世界大戦がはじまる前、大分以前から
 行っていた。
  それも、アメリカの法律違反を誤魔化すため、カナダ
 に販売したように装って、その様に見せかける書類を作
 って、フランスへ兵器を提供した。
  この日、ホワイトハウス閣僚室に、ブリット(計画を
 担当させた)、モーゲンソー(財務長官)、ハリー・ウ
 ードリング(陸軍長官)を集めて協議した。
  最新のダグラス爆撃機をそっくりそのまま提供すると、
 ルーズベルトが言い出した時・・、
  「軍の機密が多くある」
  「開発にアメリカ政府の予算が使われている」などの
 反対意見が出た・・しかし・・
  ルーズベルトは、激しい口調で一喝し、悪計の法律違
 反行為が行われることとなった。
  この後、当然、アメリカの議会調査委員会の追及を受
 ける事になったが・・、
  ルーズベルトは、「アメリカ政府の関与はない」と嘘
 を言った。
  また、言い逃れと、言いくるめで、ことは進んだ。
  これの・・どこが・・アメリカの民主主義だと言うの
 か?
  ルーズベルトは、「民主主義のために、全体主義と戦
 う」と言ったが・・? ルーズベルトこそ『総統』とま
 ったく同じだった。
  リンドバーグは激しく抵抗した。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトを信じていた。
  そして、8割以上の方々が戦争反対の世論だった。
  リンドバーグの夫人は、本を出し「民主主義の危機を
 訴えた」「ルーズベルトが良いというが・・果たしてそ
 うなのか?」・・と訴えた。
  この本は、ベストセラーとなった。
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1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結された。
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1939年9月1日早朝 、ポーランド侵攻(中央ヨーロッパ
 時間) 、
  ドイツ軍と、その同盟軍であるスロバキア軍とが、ポ
 ーランドへ侵攻した。
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1939年9月3日、イギリス・フランスが、ドイツに宣戦布告
 をした。
  ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが、
 相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約、ポー
 ランド・フランス相互援助条約)を元に、1939年9月3日に、
 ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
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1939年9月17日、ソ連が、ポーランドに侵攻した。
  ソビエト連邦軍が、ポーランド領内に侵攻し、ポーラ
 ンド東部を占領した。
  そして、1940年にフィンランドからカレリヤ地方を獲
 得し(ソ連フィンランド戦争)、バルト3国併合、ルー
 マニアに旧ロシア領ベッサラビアを割譲させた。
  第二次世界大戦の当初は、ポーランドを共に占領して
 いたドイツとソビエト連邦であったが、
  1941年6月22日に、突如ドイツ国防軍ソ連に侵入し、
 戦争状態となった。
  当時のソ連は、国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボ
 ナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼称
 した。
  一方、ドイツ側では、主に東部戦線と表現された。
  アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギ
 ーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の
 戦争であると認識していた。
  1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロ
 ッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。
  日本が関わる「日ソ中立条約」で、1941年、相互の領
 土不可侵を約束した(ソ連は、この後、一方的にこの条
 約を破り、日本に侵入してくる)。
  その様な、この頃の時の流れの中で・・、
  1939年9月1日が、ドイツ軍が、ポーランドへ侵攻し、
 第二次世界大戦の始まりとされている・・が、
  約1週間前の1939年8月23日には・・、
  独ソ不可侵条約が・・秘密条項を持った独ソ不可侵条
 約が締結されていた・・、
  そして、1939年9月1日早朝 (ヨーロッパ時間) ドイツ
 軍がポーランドへ侵攻し、
  1939年9月3日に、イギリス・フランスが、ドイツに宣
 戦布告をした。
  (因みに、独ソ戦は、1941年6月22日から開始された)
  この頃、アメリカ大統領のルーズベルトは、以下の様
 な言葉を言った、
 「ドイツが、第一次世界大戦で負けたにもかかわらず、
 このドイツとイギリスの金融家たちは・・、
  これまで随分と長い間、一緒になって、世界貿易を支
 配し、金もうけをして来た。
  アメリカにとって、これは、非常に宜しくない」と。
  そして、また言った・・、
  「アメリカを、世界貿易から締め出してきたドイツと
 イギリスが戦争を始めた今・・、
  アメリカは、これにどう対応すべきなのか?
  (ドイツの)ナチズムは憎むべきで、アメリカの国益
 も心情も、イギリス側にあるのは間違いない。
  だが、人の良いアメリカとはいえ、いつでも大英帝国
 の救援にかけ付けるとは限らない」・・と。
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  1939年11月、アメリカは中立法を廃止した。
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  1940年7月、アメリカが、イギリスへの無制限の援助を
 行なうことを表明した。
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  1941年2月、アメリカが、「安全水域」をアメリカ沿岸
 部に設定していたが、これを大幅に拡大して、ヨーロッ
 パ近くまで拡張した。
  これは、ドイツ商船の位置を通報するというアメリ
 の中立精神に反する事でもあり、ドイツに対しての敵対
 的行動を増大させていた。
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  1941年8月9日〜8月12日、大西洋会談
  大西洋上で、ルーズベルトと、イギリス首相のチャー
 チルとの会談(大西洋会談)がなされた。
  その時、イギリス首相チャーチルは、アメリカの参戦
 を促した。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、はっきりしたОKの
 返事は避けた。
  代わりにルーズベルトは言いたい事(異議)があった。
  イギリスのチャーチルには、植民地の権益を守りたい
 という考えがあった。
  そして、ルーズベルトにも、「(大西洋会談による)
 大西洋憲章は、有色人種のためのものではない」という
 発言があり・・、また、次の発言の様に・・
  「ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べ
 たものだ」・・と側近に語っている様に、キリスト教
 洗脳されたルーズベルトには、有色人種蔑視の精神から、
 公正な、人種差別のない考え方はなされていなかった。
  そして、ルーズベルトには・・、
  「大英帝国に属するインドなど植民地諸国」と、イギ
 リスの間の特恵貿易(オタワ合意)が引っ掛かっていた。
  イギリスは、それまで自由貿易の立場をとって来てい
 たが、
  1931年、一転して特恵貿易の国家となった。
  1932年、カナダのオタワで結ばれたオタワ合意で・・、
  イギリス帝国の植民地とイギリス本国だけの関税特恵
 地域をつくり、外国製品を締め出していた。
  そして、今、大西洋会談となり(カサブランカ会談の
 1年半前の1941年8月3日)、ルーズベルトは、魚釣りと偽
 (いつわ)って、側近と、カナダ・ニューファンドラン
 ド島沖へと出かけた。
  これが、ルーズベルトと、イギリスのチャーチル首相
 との初めての顔合わせの大西洋会談だった。
  ルーズベルトは、この点、植民地を死守して、自分た
 ちだけの利益を得たいという考え方のイギリス・フラン
 ス・オランダとは違っていた、これは、日本と同じ立場
 であった。
  ルーズベルトは、アメリカの参戦によって、戦争に勝
 利して、イギリスやフランスの植民地が復活する事には
 反対だった。
  1943年1月14日〜1月23日のカサブランカ会談でも、ル
 ーズベルトは言った、
  「戦争が終われば、植民地諸国は次々と独立する事に
 なるでしょう」・・と。
  カサブランカ会談で、「自由な通商」と「民族自決
 の2項目が盛り込まれた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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