(増補版)456E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年10月〜1887年12月)

題:(増補版)456E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年10月〜1887年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年10月15日、三大事件建白書を提出する(10月29日説
 あり)
  諸県の代表が東京に会合し、建白書提出について協議
 した。
  2府18県の有志と片岡健吉が、政府に建白書「三大事件
 建白書」(言論と集会の自由・地租改正の軽減・不平等条
 約の改正・外交失政の挽回)を元老院に提出した。
1887年11月4日、大阪府の大和地方を分離して奈良県を設置
 した。
  1887年10月5日、大和国出身の大阪府会議員5人が、内
   務大臣・山形有朋に奈良県再置の件を請願した。
  1887年11月4日、大阪部から奈良県を分離、
  1887年12月1日、県庁開庁式を挙行した。
  そして、これまで・・、
  1868年(慶応4年)1月、新政府は、添上郡奈良に大和
 鎮台を設置。
  大和鎮撫総督府を経て、
  同年・1868年5月19日に、奈良県(第1次)、
  1868年7月29日に、奈良府となり、色々変遷があって、
  1871年明治4年)に、第1次府県統合により、大和国
 10県が統合され、改めて奈良県が設置されたが、
  1876年(明治9年)に、堺県に編入されてしまう。
  1881年明治14年)に、堺県は大阪府編入され、奈
 良は「大阪府の大和地域」とされた・・しかし・・、
  1887年(明治20年)11月4日に、大阪府より分割され、
 奈良県(第2次)が再設置された。
1887年11月6日、浅草六区に、高さ32mの富士山の模型が置
 かれ、見せ物興業が行われた。
  安政の大地震1855年)の時、浅草寺五重塔が損傷
 を受けた。
  その修繕が、やっと、1886年明治19年)に着工とな
 った・・が・・、
  この時、修繕費用を集める目的で、代金を1銭を取って、
 組んだ足場に登らせた。
  これが評判になった。
  これにヒントを受け・・明治20年のこの時・・、
 香具師の寺田為吉という人物が、浅草公園六区に、木造
 の富士山を作った。
  「富士山縦覧場」と言った。
  この時・1887年11月6日付の読売新聞広告に・・、
  「今般浅草公園第六区の地へ木造にて新築したる富士
 山は、その高さ18間(32.8m)、裾廻り150間(273m)、
 登りの長さ200間(364m)、降り230間(418.6m)にして、
 頂上の廻り18間(32.8m)、
  此の所に、天文鏡を備え、太陽内部の黒点を審らかに
 望み、
  その他望遠鏡を設け、東は隅田川より鴻の台を眺め、
 西は箱根の連山より富士の本山を望み、南は府下の市街
 を一覧し、北は吉原の遊郭、及び、千住戸田近郊を却下
 に見下ろす絶景なり。
  実に、開闢以来未曾有の観物なれば、開業当日より四
 方の諸君陸続御光臨の程伏して奉願上候」・・とある。
1887年11月10日、屋外集会と示威運動の規制
  警視庁が、野外集会・示威運動は、3日以前に届け出て
 認可を受けるようにした。
1887年11月29日、東京電灯会社が、市内配電を開始する。
  東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始する。
  この年1887年の末には、火力発電所を、東京5箇所に設
 置する工事を始め、直流送電を行った。
  しかし、旺盛な電力需要の高まりに交流送電への転換
 を余儀なくされ、
  1893年明治26年)には、200kWの国産大出力交流発電
 機を備えた浅草火力発電所の建設を開始した。
  そして、3年後の1896年に、完成させた。
  この時、浅草発電所において、東京電燈は、ドイツの
 AEG製交流発電機も併せて購入使用したが、
  これは交流50Hzによる電気を供給するものであった。
  これに先立ち関西の大阪電燈が、アメリカゼネラル・
 エレクトリック製の交流60Hz供給発電機を採用したが、
 これが現在まで続く、日本の東西で商用電源周波数が異
 なる原因となった。
1887年11月1日、法律取調所(委員会)を司法省へ移管した。
  法律取調委員会は、法典の起草を行なう機関であり、
 日本の法典整備に大きな役割を果たした。
  不平等条約の改正を進めていく中で、フランス公使シ
 ェンキェヴィッチが、司法大臣・山田顕義に対して、「
 日本が近く備えるであろう諸法律の体系をばらばらにし
 ない必要」があるが、「そのためには、一人の大臣を委
 員長とし、法典起草を担当する外国人を委員とする委員
 会を作るほか良策はないのではないか」と進言した。
  山田司法大臣は、この進言をいれ、井上外務大臣と協
 議を行い、山田から伊藤博文総理大臣宛に、法律取調委
 員会を設けること、その委員長には井上を任命すること
 が上申された。
  委員長、各委員は、伊藤より天皇陛下の裁可をへて、
 1886年8月6日付で任命された。
  明治期の日本国政府にとって、欧米諸国との間の不平
 等条約の改正ほど、難航をきわめた外交問題はなかった
 が、この外交問題が、日本国法制の近代化の原動力とも
 なった。
  治外法権の撤廃を求める以上、外国人に適用される法
 律は外国人から見ても納得のいくものでなければならな
 い。
  日本国政府は、条約改正の交渉を進めていく過程で、
 西欧型(泰西の法原則)に従った諸法律を作成するため、
 法律取調委員会を、1886年明治19年)8月に、外務省に
 設置した。
  1887年11月1日、委員長山田司法大臣は、法律取調委員
 会略則を伊藤総理大臣に提出した。
  略則は、内閣で一覧されたようであるが、政令でもな
 く、勅令でもなく、委員長限りでの委員会の運用につい
 ての構想を文章化したもののようであった。
  法律取調の目的、内部に報告委員組合(民法組合・商
 法組合・訴訟法組合)を設けるなど委員会の組織、法案
 の外国語への翻訳等について規定していた。
  そして、司法省へ移管された、
  外務省に一時移っていた法律取調委員会が、再び、司
 法省に移管されると、顕義は、法律取調委員長に就任し
 た。
1887年12月1日、東京手形取引所が開設された。
  1879年12月に、16の銀行が参加した大阪手形交換所
   日本の最初のものであり、
  以後、手形法制の整備に伴って、
  1880年10月に、東京でも為替取組所が創設され、
  1883年9月に、東京銀行集会所の機関である手形取引所
   が創設され、
  1887年に、東京手形交換所が、その下部機関として発
   足した。
  1891年3月には、日本銀行も参加してロンドンで行われ
   ていた銀行が、日本銀行に持つ当座預金を通じた振
   替決済が導入された。
    また、この時東京銀行取引の直属の機関となり、
   東京交換所と改称した。
   その後・・、
  1897年に神戸、1898年に京都、1900年に横浜、
  1902年に名古屋と、各地の主要都市に手形交換所が設
   置されていく。
  1903年には、全国の手形交換所の代表による第一回各
   地交換所組合銀行連合会も結成された。
1887年12月4日、龍池会が、日本美術協会と改称した。
  龍池会(りゅうちかい)は、明治時代初期の美術団体。「
  明治初年は、急激な西洋化の流れがあり、その結果、
 従来の美術作品は価値を落とし、作家も需要を失って窮
 乏した。
  この様な状況を危惧した佐野常民、河瀬秀治、九鬼隆
 一らは、1878年明治11年)3月、上野の天龍山生池院
 (弁天堂)に集まった。
  これが、後の、「龍池会」の始まりだった。
  会頭は佐野、副会頭は河瀬が担当し、古美術品の鑑賞
 会(「観古美術会」)や、同時代の作品の品評会を主な
 活動とし、上野で会合を持った。
  当初は、旧来の美術をそのままに保護しようという方
 針であったが、
  重要なブレーンであったフェノロサは、狩野芳崖を通
 じて和洋折衷の新しい日本画の創出を目指すようになり、
 内部での対立を生み出した。
  この結果、1884年明治17年)に、九鬼や岡倉覚三(
 天心)、今泉雄作らの文部省組が離反して、新たに「鑑
 画会」を発足させた。
  この運動は、1887年(明治20年)の東京美術学校の設
 立へと至った(同校の授業開始は1889年(明治22年
  鑑画会の革新運動に危機感をいだいた龍池会側は、宮
 内省との関係を深め、
  1887年(明治20年)に、有栖川宮熾仁親王を総裁に迎
 えて「日本美術協会」へと改称する。
  純粋な伝統絵画を保存しようという方針の下に、伝統
 画派の重鎮が集まり、鑑画会系の革新派が新派と呼ばれ
 たのに対して旧派と呼ばれた。
  1888年明治21年)には、会報である『日本美術協会
 報告』を創刊した。
1887年12月6日、島津久光が逝去した(享年70歳)
  島津右大臣逝去(氷川清話)
  幕末・明治の政治家。
  薩摩藩主・島津斉興の三男(5男説あり)(1817年〜
 1887年)
  島津斉彬は異母兄。
  初名は忠教、幼名は普之進・又次郎。
  号は頑古道人・大簡等。
  斉彬の死後、久光の実子(じっし、血を分けた自分の
 子)の忠義が藩主となった後は、本家に復帰して藩政の
 実権を握った。
  兄・斉彬の遺命で子・忠義が藩主の座につき、久光は
 国父として藩政の実権を掌握する。
  急進派と佐幕保守派の両者を排して朝廷と幕府との間
 を妥協させようとする公武合体派の中心人物となり、
  1862年公武合体周旋のため兵を率いて入京し、
  その立場から、寺田屋騒動では討幕派志士・藩内尊攘
 派を武力鎮圧した。
  さらに、勅使・大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に
 向かい幕政改革を実行した。
  帰途、生麦事件が発生し、薩英戦争の種をまいた。
  1874年(明治7年)維新後の新政府で左大臣に任じられ
 るが、保守的意見がいれられず、まもなく帰国し、
  1875年(明治8年)引退した。
  明治20年(1887)12月6日、歿、
1887年12月9日、最初の大型鉄橋である隅田川吾妻橋
 あづまばし)が竣工した。
  最初の架橋は、1774年(安永3年)10月17日で、それま
 では「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
  江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋
 で、1769年(明和6年)4月に、浅草花川戸の町人・伊右
 衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、
 着工後5年で完成した。
  長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、
 武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記
 録にある。
  1786年(天明6年)7月18日の洪水の時に永代橋、新大
 橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中
 で無傷で残り、
  架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったと言われている。
  その後、幾度かの架け替えが行われたとある。
1887年12月15日、郡山〜塩釜間が開通。
  日本鉄道の郡山駅塩釜駅間が開通し、これにより、
 上野駅塩釜駅が全通した。
   上野〜仙台は1日12往復で、所要時間は12時間20分。
1887年12月16日、宮城(皇居)二重橋木橋を石造に改築
 して竣工した。
  木造橋の時に、橋桁が上下二段に架けられていたこと
 から、「二重橋」と呼ばれるようになった(奥の橋)
  二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋
 である」との誤認が多い。
  また、「手前の石橋と奥の鉄橋が同じ濠に2つ重なって
 架かる橋だから二重橋」というのも正確ではない。
1887年12月17日、倉敷紡績所の設立許可(営業許可)が出
 された。
  1888年岡山県窪屋郡倉敷村(現,倉敷市)に設立され
 た有限責任倉敷紡績所に始まる。
  初代社長は地元の実業家大原孝四郎。
  1906年〜1939年、社長をつとめた大原孫三郎は孝四郎
 の次男。
  1889年から綿糸生産を開始、
  1893年に、倉敷紡績(株)に社名を改めた。
  合併・買収等で規模を拡大し、
  1924年には、精紡機20万錘を有するまでになった。
  また、経営多角化をすすめ、
  1926年に、倉敷絹織(現,クラレ)を設立してレーヨン
 に、
  1935年には、倉敷毛織を設立して羊毛紡織に進出した。
1887年12月18日、島津久光国葬が鹿児島で行われた。
  葬儀のために道路が整備されて、熊本鎮台からは儀仗
 兵1大隊が派遣された。
  1887年9月21日、従一位
  1887年9月29日、金製黄綬褒章
  1887年11月5日、大勲位菊花大綬章
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  (今日の言葉)
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  題:停戦を引き延ばす・・『アメリカ』と『ソ連』・・
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1945年7月17日、ポツダム会談
  ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17
 日〜1945年8月2日に行われた。
  ソ連占領地域となったポツダム(ドイツのベルリンの
 近く)に、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦
 3カ国の首脳が集まった。
  このポツダム会談は、イギリス首相のチャーチルの強
 い要望で始まった。
  ドイツが降伏して、アメリカ軍が、日本の戦線へ移動
 するため、欧州から引き上げているのに対し、今まで味
 方だと思っていたソ連赤軍の占領地域が広がっていた恐
 怖からだった。
  まったく愚かな事だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトのそそのかしによって
 領土欲を強く持ったソ連スターリンは、東アジアにお
 いても、アメリカの思惑以上の侵略欲を行使しようとし
 ていた。
  このヨーロッパ戦線においても、そのソ連軍の恐怖が
 始まっていた。
  1945年7月18日、ポツダム会談の中で、ソ連のスターリ
 ンは言った・・、
  「日本から要望書が来ている。どう対応すべきかアド
 バイスしてほしい」・・と、
  それは、日本の近衛公が、和平努力のため、モスクワ
 を訪問するという日本からの『正式要望書』だった。
  そして、スターリンは言った・・、
  「こういうのは無視するに限る」・・と、(この時は
 まだ、日ソ中立条約が継続中(成立している)
  そして、また、「近衛訪問はまだ問題があり、貴国(
 日本)はしばらく静観すべし」と解答する予定だと言っ
 た。
  (もう、完全に、ソ連スターリンは、日本をだまし、
 日ソ中立条約を破棄して、戦端を開く腹積もりになって
 いる・・日本の領土が欲しい・・だった)
  ソ連には、日ソ中立条約を破棄して、日本領を奪う予
 定がはっきりあり、領土奪取にとらわれていた。
  (もう完全に・・アメリカ大統領ルーズベルトのマイ
 ンド・コントロールにはまってしまっていた)
  アメリカ大統領のトルーマンは、日本の暗号は完全に
 解読し、
  日本の交信は、すべて知っていて、日本が、スウェー
 デンや、スイスに停戦の仲介を求めている事も知ってい
 た。
  日本の和平努力は、空回りしていた。
  アメリカが、早期に戦争を戦争を止めたいのなら、ア
 メリカは、どんどんスウェーデンや、スイスに働きかけ
 て、戦争を終わらせる努力をするわけだ・・が・・そう
 しなかった・・正義があるなら、話をするべきだった。
  しかし、アメリカは、その様な事を知っていながら、
 その様な努力は・・しなかった。
  何故か?
  同席して居たアメリカの国務省ロシア専門家のボーレ
 ンは、「(アメリカが、ソ連へ撒いたエサ)対日参戦で
 約束された「獲物」の事を考えれば、スターリンの意図
 はむしろ停戦の可能性を引き延ばす事にあった」と思っ
 たと記録に残しているが・・
  しかし、ソ連の、『そのことだけだった』のだろうか?
 それだけだっただろうか?
  アメリカが、日本の意思(早く停戦したい)を知って
 いながら、積極的に停戦へ向けて動かなかったのは・・
 アメリカはアメリカで、停戦時期を延ばす目的があった、
  「原爆投下の予定があったからだった」。
  原爆投下後の・・アメリカの動きからも・・その予想
 できる。
  ソ連は領土、そして、アメリカは、この後、「戦略的
 に重大な重みをもつ原爆」の威力が知りたくて、試した
 かった。
  卑劣な事である。
  これが真実なのである・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive