(増補版)415E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年7月〜1885年9月)

題:(増補版)415E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年7月〜1885年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年7月、長崎区内でコレラが流行した。
  夏の時期で、患者833人、うち、死亡617人となった。
  長崎新聞に・・、
  再発見!近代化遺産 長崎市編・ししとき川
  児童の元気な声が響く長崎市立諏訪小(諏訪町)のす
 ぐそばに、
  銅座川の方向に延びる幅2メートルほどの「ししとき
 川」がある。
  明治中期に改修された当時の下水溝で、底と両脇に板
 石が敷かれている。
  長崎大の岡林隆敏名誉教授によると・・、
  改修の背景にはコレラの流行があった。
  検疫体制が確立していなかった幕末から明治初期にか
 け、
  コレラなどの疫病が、外国人居留地から爆発的に全国
 に広がった。
  コレラは、下水路から地中に浸透した汚染水が、井戸
 水に混じることで拡散する。
  長崎では、1885年の大流行を受け、第8代県令(県知事)
 の日下義雄が、下水溝改修を指示した。
  「ししとき川」は、1886年に整備された、総延長4.2
 キロに及ぶ6本の下水溝の一つだ。
  溝の内側の3方向に敷かれた板石の間を、石灰や砂な
 どを混ぜた「あまかわ」でふさぐことで、汚染水の地中
 への浸透を防いだ。
  現在は、下水は流れていない。
  岡林氏は、「近代的な公衆衛生を確立した貴重な構造」
 と強調。
  さらに「横浜や神戸などと違い、長崎は、居留地が都
 市部に隣接していたため、
  下水溝が、都市全体に整備されたことが画期的だった」
 と評価している。
1885年8月1日、 郵便汽船三菱と共同運輸の過当競争に、政
 府が勧告を行い、
  この日、三菱は両社合併の方針を表明した。
  そして、8月15日に、合併を決定した。
1885年8月12日、教育令が改正され、地方教育費の節減が進
 められる。
  教育令は、1879年9月に公布された総合的教育基本法
 だった。
  1880年12月と、1885年8月に、2回にわたって改正され
 たが・・、
  1886年に、諸学校令の制定により廃止された。
  そのたび重なる改廃は、明治維新期の社会的激動の下
 での教育制度政策の不安定さが現れていた。
  1879年に、「学制」を廃して公布された第1次教育令は、
 自由民権運動の台頭を前に、画一的強制的な小学校制度
 建設方針だったのを改めて、
  地域の条件に即した教育の普及を図り、
  教育課程の編成を公選の学務委員にゆだね、
  また、地方行政単位である区町村を学校設置単位とし
 た。
1885年8月14日、初の特許7件が下りた。
  最初の専売特許が免許された。第1号は「錆止め塗料及
 び塗り法」。
1885年8月15日、土地賦課の区長村費は、明治19年以降地租
 の1/7以内とする(8月12日説あり)
  「土地ニ課スル区町村費ハ地租七分ノ一ヲ超過スルヲ
 得ス」
  1885年8月12日に改正された教育令(以下、第3次教育
 令という)は、
  研究史上、しばしば町村教育費節減を目的とするもの
 として把握され、
  普通教育政策史上の位置づけが十分明確にされてこな
 かった。
  もちろん、第2次教育令改正は、内務・大蔵両省の文
 部省にたいする町村教育費節減要求を直接の契機とする
 ものであったが、
  そのことと第3次教育令の意図とは同義ではない。
  文部省は、一方では、内務・大蔵両省の要求を「経済」
 面において受けいれつつも、
  他方では、「教育」面においてこれまでの教育政策、
 とりわけ、普通教育政策実現の好機とするという「一挙
 両全」の方策を打ち出した。
  第3次教育令は、森御用掛が主導する諸学校への転換
 準備という状況のもとで、事実上、実効を見るに至らな
 かったが、
  普通教育(政策)史という文脈のなかで見たとき、
  第3次教育令の制定はその後の普通教育政策上におい
 ても重要な方向を提示するものであった。
  (World of Common education 武田晃二のページより)
1885年8月19日、文部省が、府県町村立の学校の授業料徴収
 を通達した。
  文部省において、1885年は、教育令期から学校令期へ
 の移行時期である。
  この年、太政官布告第23号をもって、教育令は、再改
 正される。
  教育令再改正は、未曾有の経済不況のなかで、町村人
 民の教育費負担軽減を目的として実施されたものである。
  ・・、1885年になると、内務省や大蔵省から地方教育
 費の削減圧力が、文部省にかかることになる。
  こうしたなかで、教育令が2度目の改正を余儀なくさ
 れる。
  ・・、再改正教育令は、1886年に公布された文部大臣
 森有礼による諸学校令に、僅か約半年で、席を譲ること
 になる。
  しかし、この短い再改正教育令期に、授業料徴収原則
 の確立(達第7号「府県立学校ニ於テ授業料徴収ノ事」、
 達第8号「町村立学校ニ於テ授業料徴収ノ事」)、
  半年進級制から1年進級制への変更(達第16号「公立小
 学校修業期限一箇年ヲ以テ一学級トナスノ事」)、
  授業料を納めない簡易な小学校の設置(達第12号「小
 学教場及其設置ニ関スルノ事」)、
  尋常・高等の2階梯小学校構想への変更(大木喬任
 示)、
  戸長管轄区域を学区とする学区改定(「学区校数指示
 方心得」)、
  自然科学教科の理科への統合(「小学科課程表」)な
 ど
  小学校令(勅令第14号))の時期に引き継がれる重要
 な改革が実施された。
  これらの改革は、ほとんどが1885年において、実施さ
 れたものである。
  (論文:初等教育施策を中心としてみた1885年の文部
 省、伊藤稔明氏より)
1885年8月27日、東京女子師範学校を東京師範学校と合併し、
 同校女子部とする。
1885年8月、尖閣諸島などの調査
  内務卿であった山県有朋は、この時に、沖縄県に対し
 て、魚釣島大正島久場島尖閣諸島の三島への調査
 を命じた。
  1887年6月、軍艦「金剛」は水路部測量班長・加藤海軍
 大尉を乗船させ,那覇から先島群島(尖閣諸島方面)に
 向かい、魚釣島等の調査を行った。
  日本政府はそれ以降も、1890年に沖縄県属の塙忠雄に
 よる漁業状況聞取調査、
  1893年に、沖縄県八重山島取調書(野田正以下の提出
 資料他尖閣諸島に関する聞き取り調査)を行い、尖閣
 島における漁業者(糸満人)の活動実態を確認している。
  その後日本人が入植し、アホウドリの羽毛の採取や海
 鳥の剥製の製作、そして鰹節の製造などが行われた。
  特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期、同島
 には99戸、248人もの日本人が暮らしていた。
1885年8月、ローマ教皇レオ13世の親書、オズーフ司教の手
 で天皇陛下に奉呈される。
  「明治天皇紀」第六は、1885年(明治18年)9月12日、
 「羅馬法王施設アルシノエ僧正ピー・エム・オスーフ参
 内、法王レオ十三世の親書を捧呈す」と記述する。
  これは法王が日本との交誼(親しい交わり)を求めて
 実現したもの。
  1885年8月22日に、横浜着し、
  1885年9月19日に、横浜を出帆した。
1885年8月、医師・松本良順が、大磯に海水浴場を開く。
  松本良順は、軍医・政治家で、大日本帝国陸軍の初代
 軍医総監を務めた。
  松本良順は、1857年、幕府の命を受け、長崎伝習所へ
 行く。
  長崎で、オランダ軍の軍医ポンペと出会い、助手とな
 り医学や蘭学を学ぶ、
  ポンペは、医療行為としての海水浴の効用に注目して
 いて、その助手となった松本は、ポンペから海水浴療法
 についても学んでいた。
1885年9月5日、学習院女子教科を廃止した。
1885年9月6日、束髪の大流行の騒ぎ
  この日の、東京日々新聞(後の毎日新聞、東京での最
 初の日刊紙)の記事、 明治18年9月6日号に・・、
  束髪について・・、
  「この節は、奥方連中までも束髪を採用せられ、一日
 も早く我が国婦人の結髪を改良せんとの奮発にて、
  女子師範学校は、率先して束髪となり、
  又、束髪会が起こり、追々、蔓延流行して、各小学女
 教師は、勿論、
  裏店の山の神も、束髪するに至りたるは、何より結構
 とは存ずれども、
  独り迷惑を受けたるは、小間物屋 まで同商人等は、転
 業せねばならぬと言ひ居るよしなり」・・とある。
1885年9月10日、英吉利法律学校が開校した。
  東京・神田に、英吉利法学校(現=中央大学)が開校
 した。
1885年9月17日、日本郵船が創立された(9月29日説あり)
  政府の仲介で、郵便汽船三菱会社と三井系国策会社で
 ある共同運輸会社が合併し、日本郵船会社を設立、競争
 を避けた。
1885年9月22日、東京外国語学校、同校高等商業学校、東京
 商業学校の3校を合併し、東京商業学校を新たに設立さ
 れた、後の、一橋大学
  東京外国語学校と合併し、神田一ツ橋に移り、東京商
 業学校と称する。
  明治18(1885)年2月、語学部を廃止する。
    (一橋大学ホームページより)
1885年9月24日、違警罪即決令が制定された。
  違警罪(いけいざい)は、旧刑法で、拘留・科料にあ
 たる軽い罪の総称で、
  違警罪即決令(いけいざいそっけつれい)は、明治18
 年太政官布告31号。
  違警罪について、正式の裁判によらず警察署長などの
 官吏が、即決処分によって処罰することを認めた法令。
  被告人を呼出さず言い渡し書を送達するだけでよい場
 合が認められており、その場合は5日以内に被告人または
 その法定代理人、配偶者などから正式裁判の申立てがな
 いと、裁判は確定した。
1885年9月25日、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が没
 した。
  (1836年2月12日〜1885年9月25日)満45歳没。
  薩摩(鹿児島)藩の儒者・五代直左衛門秀尭と、母・や
 すの次男として生まれる。
  幼名徳助、または、才助。
  少年時代には、藩の聖堂造士館で文武を学ぶ。
  1854年(18歳)父の死後、藩に出仕して郡方書役とな
 るが、
  1857年(21歳)藩命により、幕府の長崎海軍伝習所
 遊学、
  以後、1868年(32歳)まで、主として長崎に居をかま
 え、勝海舟榎本武揚寺島宗則本木昌造佐野常民
 高杉晋作らと交遊し、
  トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、開明的知識を
 養う。
  1862年(26歳)、2度にわたって上海に渡り、薩摩藩
 ために、汽船、武器を購入。
  1863年(27歳)薩英戦争が起こると寺島宗則(当時:松
 木弘安)と共に、英艦隊と交渉に当たるが、捕虜となり、
 横浜に拉致される。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(29歳)薩摩藩留学生の引率者としてイギリス
 に渡り、紡績機械、武器を購入し、
  また、ベルギー、フランスでは、貿易商社設立契約や
 万国博への出品委託を行った。
  渡欧中、薩摩藩主に、富国強兵に関する18カ条の建言
 書を送り、
  1866年(30歳)帰国後は、御用人席外国掛に任ぜられ
 て、
  外国貿易、鹿児島紡績所の建設、長崎小菅修船場の建
 設、薩長合弁商社設立の計画を行うなど、
  薩摩藩の殖産興業政策を推進するとともに、諸藩の志
 士と交わる。
  明治政府成立後、参与となり、外国事務掛、外国官権
 判事、大阪府判事を歴任、
  大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の建設にか
 かわるとともに、
  通商・為替会社設立などを契機に、大阪経済界とも接
 触した。
  1869年(33歳)官を辞し、金銀分析所、弘成館(鉱山経
 営)、朝陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社を設
 立。
  さらに、阪堺鉄道、大阪商船、神戸桟橋会社の設立に
 関係するなど実業界に入った。
  また、旧来からの大阪商人の力を結集して、堂島米会
 所の再興、大阪株式取引所の創設、大阪商法会議所(現在
 の商工会議所)の設立、
  大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設置にリーダ
 ーシップをとり、
  商法会議所の初代会頭となるなど大阪財界の指導者と
 なった。
  「財政救治意見書」を建白するなど大久保利通の経済
 政策ブレーンとしても知られ、
  1875年(39歳)の大阪会議では根回し役を務めた。
  政界との関係深く、政府から多額の補助金を得、
  1881年(45歳)には、関西貿易会社を設立して、北海
 道開拓使官有物払い下げ事件、いわゆる、明治14年の政
 変を引き起こすなど、政商のイメージが刻印されている
 実業家であるが、
  沈滞気味であった明治初期の大阪経済界をリストラク
 チャリングさせた功績は大きい。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカは、中国支援を早い時期から始めていた。
    これが、日中戦争の泥沼化の大きな原因。
    だから、これは、日中戦争ではなく・・、
   影に隠れたアメリカが入っている『日・中米戦争』。
   第二次世界大戦は、既に、この時、開始されていた。
.
1937年、アメリカ大統領のルーズベルトは・・、
  日中戦争に、1937年に、大量の軍事物資を援蒋ルート
 を通じて、蒋介石が率いる国民党政権へ送り続けた。
  援蒋ルートとは、日中戦争(日・中米戦争)で、アメ
 リカが、中国の蒋介石軍を支援するために、軍事物資を
 輸送したルート。
  イギリス・ソ連も一部支援していた。
  ソ連は、日ソ中立条約があったため、すぐ取り止めた。
  イギリスは、1942年に、ビルマで日本に負けた後は、
 ほとんどできない状況となった。
  余談だが、イギリスは、インドから中国を侵略したと
 き、こんな広大な領土を持っている『中国は罪だ』と言
 い、自分の侵略を正当化した。
  何とでも言って、自分を正当化する論理だった。
  このアメリカなどの支援の目的は、徹底的に支援して、
 日本に対する『抗戦をさせるため』だった。
  日本と中国とアメリカの消耗戦であった。
  このルートは、第二次世界大戦まで続き、このルート
 と援助行為が続く限り、戦争は拡大こそすれ、終わるこ
 とはなかった。
  また、日本を潰したかったアメリカにとって、一種の
 代理戦争となっていて、「都合がよかった」。
  そしてまた、ちょっと、脇道にそれるが・・、
  日本は、この蒋介石の国民党軍と戦った訳で・・、
  今・現代、なんだかんだと言う共産党政権の中国と戦
 ったわけではない。
  つまり、共産党の中国政権が、日本と戦って勝ったと
 いう『戦勝国ではない』。
  さも、戦勝国の様に言うのは・・おかしな発言だ。
  そして、話を戻して・・、
  その約2年の後の1939年になって・・、
  アメリカは、日本の中国侵略に抗議するとして、1939
 年7月に、日米通商航海条約の廃棄を通告した。
  通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に、同条約
 は失効した。
  そして、日米関係は無条約時代に入った。
  また、アメリカ軍人のクレア・リー・シェンノートが、
 中国・国民党に雇用されていて(実際はアメリカの派遣)、
  シェンノートの指揮のもとに組織されたアメリカの退
 役軍人(?)を中心としする義勇軍(?)「フライング・
 タイガース」を、1941年に、中華民国(国民党軍)へ派
 遣させるなどをした・・と言われているが(?)、
  これは、アメリカに配慮した「ごますり記述」である。
  クレア・リー・シェンノートは、中国名を持つ(れっ
 きとした)アメリカの正規の軍人で、
  アメリカ軍の中将までの階級を得た正規の軍人だった。
  生半可な軍人ではない。
  そして、れっきとしてアメリカが支援して、設立され
 た中華民国空軍の顧問として従事した。
  そして、ルーズベルトの(正式な)指示によってでき
 た「ワシントン中国援助グループ(オフィス)」の支援
 を受け、アメリカ合衆国軍(「義勇軍だ」とアメリカは
 言いたい)を設立し、
  アメリカ大統領が、正規に指示して、それが、例え、
 「義勇軍をつくれ」と、アメリカの正規の軍人と、正規
 の軍備を持って赴(おもむ)いたら、それは義勇軍か?
  違うだろう・・それは、義勇軍という名の「アメリ
 の正規軍」だ。
  れっきとした、アメリカの介入で、真珠湾攻撃前に、
 アメリカと日本は、中国で戦端を開いていた。
  第二次世界大戦は、中国で、既に、開始されていた。
  アメリカは隠れて、日本を攻撃していた、奇襲である。
  アメリカの最新鋭の戦闘機100機と共に、
  また、精鋭のアメリカ人パイロットと、そして、、
  地上要員200名までそろえた『れっきとしたアメリカの
 正規軍部隊』を介入させた。
  アメリカのごますりマスコミが、日本の真珠湾攻撃
 後だった等と、アメリカの顔を立てているが、れっきと
 した、早々と中国に介入して、日本と戦闘していた。
  なお、蒋介石は、1928年から、ドイツ軍事顧問団によ
 る指導を受けていた。
  中独合作、1910年〜1940年との史料もある。
  中国は、日清戦争の敗北による反省から、ドイツを招
 聘したが・・、
  1938年に、ドイツの軍事顧問団は引き上げている。
  また、蒋介石の顧問に任命されていたオーウェン・ラ
 ティモアは・・
  この人は、アメリカのハーバード大学に学んだ太平洋
 問題調査会の中心的メンバーを長く務めた人で、
  アメリカの対中国政策の形成に関与し、影響を与えた
 人・・、
  日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対するよう
 蒋介石に助言した。
  このラティモアの考えは、ルーズベルトの考えと一緒。
  アメリカの目的は、徹底的に日本を潰すだった・・、
  また、このラティモアは、日本の天皇制の廃止を主張
 した男だった。
  天皇陛下と、天皇位継承の資格のあるすべての男子を
 中国に流して、抑留しろと主張した男だった。
  この様にはっきりした史料があるのに、日本のマスコ
 ミは、アメリカへの「ごますり報道」をよくする。
  例えば、読売新聞は、「中国に関与したのは、真珠湾
 攻撃の後だ」と、わざわざ取って付けた様な言葉を付け
 て記事とした。
  これは「嘘記述をしている記事だ」。
  朝日新聞の問題となった『慰安婦記事』の様な「嘘記
 事」だ。
  何故、読売新聞は、読者=日本国民=日本を貶(おと
 し)めるのだろうか?
  何で、アメリカを庇(かば)い、媚(こび)を売り、
 日本人読者に嘘記事を刷り込もうとするのか?
  今後、ニュースがもらえなくなるという、自分の利益
 を阻害する何かがあるのだろうか?
  この件について、アメリカは、最初、「アメリカが中
 国を支援していること」も否定していた。
  その後、その事、嘘がばれると・・、
  アメリカは「ボランティアだ」と、また、嘘を言った。
  「嘘の屋上屋を重ねた」。
  つまり、読売新聞の「真珠湾攻撃の後だ」などとの言
 い訳は、アメリカは、最初からズーット、一度も言って
 ない。
  読売新聞のこの様な記事は、読売新聞のつけたしの、
 作り物の記事だと言える。
  放送大学も、よくアメリカを庇(かば)った放送を、
 大学講義で正しいのだと思わせて、錯覚させた放送をよ
 くする。 
  嘘講義を、『よくする』。
  何度、抗議しても反省はしない、再発防止策は取られ
 ていない。
  相手が、アメリカだと、話はいつも美しくしている。、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive