(増補版)414E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年6月〜1885年7月)

題:(増補版)414E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年6月〜1885年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年6月3日、旅団条例制定
1885年6月6日、松方正義大蔵卿が、翌年からの兌換紙幣銀
 本位制を建議した。
1885年6月、町村法取調委員会が、山県有朋へ町村法草案を
 提出する。
  内務卿・山田顕義(あきよし)の命を受けた内務省
 書記官・村田保が、1884年明治17年)5月に、町村法草
 案を作成したことに始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月に、内務省内に町村
 法調査委員会が設置され、
  1885年(明治18年)6月に、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、
  1886年明治19年)7月に提出された御雇外国人アルベ
 ルト・モッセの意見書を契機として、
  町村合併による改革が図られることとなった。
  そして、1887年(明治20年)2月に、内閣に設置された
 地方制度編纂員会が、地方制度編纂綱領を策定し、
  同年・1887年9月17日に、市制・町村制法案を提出、
  最終的には、1888年明治21年)4月1日に、市制・町村
 制が公布され、
  1889年(明治22年)4月1日に、施行された。
1885年6月、内村鑑三が、クリスチャンの女性と巡り合い
 結婚をする。
  しかし、わずか7か月で離婚し、
  6月のこの時に、鑑三はアメリカへ渡った。
  しかし、キリスト教国という期待のこのアメリカにも
 裏切られた。
  そのキリスト教国にあらざる状態、また、反人道的な
 人種差別のアメリカを、まざまざと見せられたからだっ
 た。
  鑑三は言う、
  「これがキリスト教宣教師により、キリスト教の他の
 宗教に勝(まさ)る証拠なりとして教えられし文明なり
 や」・・と。
  宣教師が言った「キリスト教は他の宗教より勝ってい
 る」というのは『嘘だった』と、実感し思う鑑三だった。
  鑑三は、新渡戸稲造から「高慢」とか、「利己的」と
 かと批判された。
  また、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻も23歳
 という若さで亡くなっている。
1885年7月1日、醤油税・菓子税が実施。
  日本には、菓子を課税対象とした菓子税があった。
  これは、「菓子税則」という法律で定められていて、
  この時に、「醤油税則」とともに公布された。
  「菓子税則」では、菓子業者は、免許鑑札料、営業税、
 及び、製造税を納付することと定められていた。
  実は、「菓子税則」の以前にも、菓子に対しては、各
 地で、「菓子屋税」、「菓子種商税」、「饅頭屋税」、
 「餡物商税」などの税が、課税されていた。
  この他にも、各地には、様々な税(雑税)があったが、
 1875年(明治8年)に行われた雑税整理の際に、整理され
 た。
  この時、菓子に対しては、府県が適宜、地方税として
 課税することができるとされたが、
  この10年後のこの時に、菓子税が国税として復活する
 ことになった。
  菓子税や醤油税が導入された背景には、前年に起きた
 甲申事変により、陸海軍の拡張が急務となり、
  それを賄う新税創設が必要となったことによる。
  菓子税創設の理由について、政府は、保護関税がかか
 らない外国からの輸入砂糖が大量に流通し、国内の砂糖
 産業が大きく圧迫されていた状況の打破にあると説明し
 たが、
  実際には、外国産と同様に、国内産の砂糖も課税対象
 であり、国内産砂糖の保護には結びつかなかった。
  菓子税則法案の審議を行った元老院でも、同様の指摘
 がされた。
  元老院は、むしろ、砂糖を多量に消費する菓子を一種
 の「奢侈品」と位置付け、課税の根拠の一つとした。
  実際、元老院での審議では、醤油税については、元老
 院議官から導入反対の声が多くあがっているが、
  菓子税については、奢侈品とされ、若干、声は小さか
 った。
  このような経緯で、導入された菓子税だが、すぐに、
 廃止、もしくは、改正を求める運動が全国で起こった。
  運動の過程で、さまざまなパンフレット類が作成・配
 付された。
  その一つが、京都市にあった全国菓子商協議会が発行
 した『菓子税則廃止懇望意見書』で、
  この史料には・・、
  (1)租税とは、国民の所得額の多寡に応じて賦課する
 べきであり、
  多額の所得がある諸商業には課税せずに菓子業に課税
 するのは不当であること、
  (2)菓子商は、経営規模が小さい業者が多く高利を
 得られる業態でもないため、国税を負担させるべきでは
 ないこと、
  (3)そもそも菓子の定義があいまいであること、
  (4)菓子税の税収は、当時の内国税全体に占める割合
 が1%前後と低く、徴収コストと見合っていないこと等
 の理由をあげた。
  そして、廃止を求める内容となっていた。
  この史料の特徴として・・、
  『時事新報』や『東京経済雑誌』など、国内の新聞雑
 誌の掲載記事を引用するだけではなく・・、
  アダム・スミスや、ロッシ、ガルニエなど、海外の経
 済学者の租税論も引き合いに出すなど、
  さまざまな角度から菓子税廃止論を述べている。
  また、この史料は、非売品で、一般に頒布されたもの
 ではなく、
  その内容からも、ある程度の知識を持った人たちに向
 けて配ったものと考えられる。
      (参考:国税庁ホームページより)
1885年7月1日、特許法が実施された。
  (第1号特許は堀田瑞松届けの錆止め塗料で1885年8月
 14日に特許権が成立した)
1885年7月2日、明治十八年の淀川洪水
  関西地方に、豪雨が続き大洪水(特に、大阪市内の橋
 梁悉く流失し、死傷者多数)
  明治十八年の淀川洪水は、1885年(明治18年)6月中旬
 から7月にかけて続いた淀川の洪水のことで、
  「明治大洪水」とも言う。
  1885年(明治18年)6月は、上旬から二つの低気圧の影
 響により雨が降り続けた。
  6月17日、淀川左岸にある支流の天野川の堤防が決壊、
 次いで、枚方の三矢、伊加賀で、淀川本流の堤防が三十
 間(約182m)にも渡って決壊したのを皮切りに、
  以後、淀川左岸の堤防は、各所で決壊した。
  25日から始まった新たな暴風雨によって、水は、寝屋
 川に達し、
  その他の河川も、水が溢れ出した結果、
  江戸時代の干拓で消滅したはずの深野池と新開池以上
 の大きな湖、
  かつての河内湖が、地上に現れ出す始末であった。
  これにより、大阪府下の北河内郡中河内郡、東成郡
 及び大阪市街(現代の地名では、北は枚方市から南は東
 大阪市大阪市のうち住之江区東住吉区住吉区、平
 野区以外の淀川以南の区)の、約15269町歩(15142ha)、
  当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71000戸が
 最大で約4mも浸水し、
  家屋流失約1600戸、同損壊約15000戸という甚大な被害
 が発生した。
  大阪市内では、大阪城天王寺間の上町台地一帯を除
 くほとんどの低地部が、水害を受け、
  被災人口は約27万人。
  天満橋・天神橋・難波橋の浪華三大橋も流され、
  安治川橋に至っては、漂流物が橋に引っ掛かって川を
 堰き止める様子を見せたので急いで爆破した。
  こうして、八百八橋とうたわれた大阪の橋は30余りが
 次々に流失し、
  市内の交通のほぼ全てが寸断された。
1885年7月3日、朝鮮の事を思う日本
  駐清公使・榎本武揚が、井上馨外務卿の士道により、
 天津に李鴻章を訪問し、
  日清共同による朝鮮内政改革と、大院君の帰国を提議
 した。
1885年7月8日、500石以上の大型和船の建造を、1887年1月
 以降禁止する。
  明治政府は、国内海運の近代化を意図して、大型和船
 のかわりに、洋式帆船を主用しようとしたが、成功しな
 かった。
  そこで、1887年(明治20)以後は、500石積み以上の和
 船の建造禁止に踏み切った。
  しかし、現実には、和船に洋式帆船の技術を取り入れ
 た折衷式の合の子船の全盛時代を現出し、
  これが、昭和初期の機帆船時代へと移行した。
  他方、小型和船は、制約外のため沿岸漁船として近年
 まで全国的に使用され、
  どうにか和船の姿をとどめていたが、
  これも、主流は、合成樹脂使用のFRP船(プラスチック
 船)にとってかわられ、
  今日では、ほぼ滅亡に近い状況となっている。
1885年7月13日、大阪中学校を大学分校に改称された。
1885年7月16日、日本鉄道の大宮〜宇都宮間が開通、営業
 をはじめる。
  同時に、宇都宮市伝馬町で、日本鉄道の嘱託を受けた
 旅館「白木屋」(旧脇本)を経営する斉藤嘉平が、
  鉄道会社の依頼で、「日本初の駅弁」を宇都宮駅ホー
 ムで売り出した。
  弁当の内容は、黒ゴマをまぶした梅干し入りのおにぎ
 り2個と、たくあん2切れを、竹の皮で包んだ質素なも
 のだった。
  駅弁1個5銭という高額であったため、不評だった。
  この日本鉄道東北線の内、大宮〜宇都宮が、利根川
 梁を除いて開通して、
  これにともなって、旧街道宿場の店が、宇都宮駅で駅
 弁販売を開始したという事だった。
  上野〜宇都宮間の開通に伴って上野駅が完成し、
  日本鉄道の路線が、大宮から宇都宮まで延び、上野〜
 宇都宮間の開通となった。
  利根川の橋梁は未完成ため、渡し船で渡った(完成は
 1886年)。
  完成した上野駅は、煉瓦造り駅舎だった。
1885年7月17日、海底電信万国条約に加盟する。
  参考:1884年4月12日、海底電信線保護万国連合条約
 加入した。
  仏蘭西共和政府大統領閣下普魯西兼独逸皇帝陛下亜爾
 惹丁連邦大統領閣下澳地利兼洪牙利皇帝陛下白耳義皇帝
 陛下伯西爾皇帝陛下哥斯太利加共和政府大統領閣下丁抹
 皇帝陛下度美尼哥共和政府大統領閣下西班牙皇帝陛下北
 米合衆国大統領閣下哥倫比亜合衆国大統領閣下大不列顛
 愛爾蘭兼印度皇帝陛下牙徳麻刺共和政府大統領閣下希臘
 皇帝陛下伊太利皇帝陛下土耳其皇帝陛下荷蘭兼盧森堡皇
 帝陛下波斯皇帝陛下葡萄牙亜爾珈揮皇帝陛下羅瑪尼皇帝
 陛下全露西亜皇帝陛下薩爾波度児共和政府大統領閣下摂
 児比亜皇帝陛下瑞典兼諾威皇帝陛下烏拉芸東部共和政府
 大統領閣下ハ海底線ヲ経過スル電気通信ヲ保護スルコト
 ヲ冀望シ夫レカ為メニ条約ヲ締結セント欲シ各其全権委
 員トシテ左ノ人々ヲ任命ス
  参考:万国電信条約(ばんこくでんしんじょうやく):
  1865年、電信料金・取扱方法等を国際的に統一するため、
 パリで結成された万国電信連合の加盟国が締結した国際
 条約で、
  1879年に、日本は加盟し、電信において国際社会の一
 員となった。
  1932年に、万国電信連合は、国際電気通信連合(略称ITU)
 となり、1947年に、国連の専門機関となった。
  因みに、この年(1885年)に、政府は、国内の全ての
 主要都市を結ぶ電信網の建設を決定し、国内均一料金制
 度を導入した。
1885年7月20日、「女学雑誌」が創刊した。
  近藤賢三が編集し、万春堂が発行した。
  女性の「めざめ」と、社会的地位の向上をめざした雑
 誌として登場した。
  後の文学界に、大きな影響を与えた。
  この雑誌から、1893年1月に『文学界』が誕生した。
1885年7月、岩本善治(いわもとよしはる)が「婦人大学」
 を創刊した。
  巌本 善治は、女性教育家で、評論家、事業家だった。
1885年7月26日、明治天皇陛下が、山陽巡幸御発輦
1885年7月31日、農商務省が、郵便線路規定を定め、3線路
 段階を決定した。
  日本の郵便制度は、1880年明治13年)から1885年(
 明治18年)にかけて大きな転換点を迎える。
  日本全国を網羅する郵便ネットワークが完成した明治
 16年(1883年)には、通常郵便物の引き受け数が1億通
 を突破し、郵便局数も5,651局とピークに達した。
  1883年(明治16年)の「郵便条例の制定」は画期的な
 ことだった。
  「特別地方郵便制度」の契約によって、駅逓局は、各
 府県の公用通信網を郵便に取り込むことに成功していた。
  これによって、郵便の政府専掌を完全なものとした。
  そして、全国を網羅する郵便逓送ルートと、郵便集配
 網を完成させた駅逓局は、
  さらに、「均一料金制」の完全実施を目指して、郵便
 条例の制定に力を注いだ。
  これは、前島郵便の集大成の行動だった。
  すでに、1882年(明治15年)4月に、農商務省伺は、郵
 便条例制定の経緯と、主な、改正内容が記し、
  上記改正を実行するためには・・、
  「均一料金としての通常郵便物の料金を2銭5厘とし、
 郵便はがきを1銭5厘とする料金値上げを行わなくては
 ならない」として、
  1880年明治13年)の郵便物数に基づいた詳細な積算
 により説明を行なっていた。
  (参考:日本郵政株式会社郵政資料館 資料専門員・
 井上卓朗氏の論文)
1885年7月、渡辺鼎・石川映作が、婦人束髪会を設立した。
  女性の髪型「束髪(そくはつ)」 が流行した。
  束髪は、髪を束 (たば) ねて結ぶ事こと・結んだ状
 態になる。
  この時、婦人束髪会と云う組織を作り、和風結い髪か
 ら西洋風結い髪がファションとなった。
  和風結い髪に比べて、簡便なため、急に流行となった。
  髪型デザインは、揚げ巻 ・下げ巻 ・イギリス(英吉
 利)巻など、後には色々なバリエーションが作られた。
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  (今日の言葉)
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  題:戦争についての罪悪感を、日本人の心に植えつけ
   るための宣伝計画
    アメリカ主導による、連合国軍最高司令官総司令部
  (GHQ)による、日本占領政策として行われた。
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1948年2月6日、アメリカ主導のGHQの『日本の教育』や、
 『日本のマスコミ』に対する方針は・・、
  「日本人の再教育」と称して行われることと並行して
 ・・
  「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
 (WGIP)」という計画に基づいて行なわれた。
  この計画は・・、
  日本人に、『自虐史観を植え付けよう』という目的を
 持っていた。
  そして、結果的に・・、
  日本人に『自虐史観』の植え付ける結果となった。
  「日本が行なったことは悪い事だった」という洗脳、
 罪悪観念を植え付けることが目的とされた。
  その結果・・、
  日本人が、日本を悪く言うようになった。
  (今でも、NHKの「日本の貶(おとし)め行為など、
 ひどいものだ・・
  その他・朝日新聞や、日本のマスコミなどなど・・)
  この様な結果となったのは・・、
  アメリカを主導とするGHQの一連の政策を遂行する
 事によってだった。
  GHQは、NHKに、「真相はこうだ」というラジオ
 番組を企画させ、放送させた。
  このNHKの放送は・・、
  「日本国民は軍に騙されていた」
  「日本軍は大陸で残虐なことをした」・・と、主張し
 続ける放送内容だった。
  結果的に・・、
  日本人は洗脳され、刷り込まれ、
  新聞紙上でも、『日本軍の蛮行』という『捏造記事(
 ねつぞうきじ、事実でないことを事実の様にこしらえた
 記事)が連載された。
  そして、世は、国際法にもない法規によって東京裁判
 が行われていた。
  (酷いことだ・・国際法にない法規を作ってまでして
 日本を裁いた・・)
  二度と日本が戦争する事が無いような『弱体化した国
 家としたい』とした。
  そして、日本人の精神面に於いても、『日本の国民精
 神を衰退させたい』としていた。
  日本が、主権を回復した後も・・、
  革命思想を持った人たちが、教育界やマスコミに入り
 込み、
  日本を破壊して、共産主義革命を起こすためにもと、
 続けて洗脳した。
  そして、近年は、中国や韓国などの日本崩壊を目論む
 国が、
  それを利用して、日本をプロパガンダ攻撃している。
  そして、この洗脳行為であるGHQの歴史教育による
 影響は、外交にも及んでいる。
  (頭の柔らかいうちにと・・自虐史観で書かれた教科
 書によって教育されたり・・盛んに洗脳された・・
  今・現代でも、その傾向は多く残されている・・)
  その教育の刷り込みの影響から・・、世界を相手にす
 る現役のある外務省幹部は・・、
  「相手国の外交官と議論をする時、日本は、お互いの
 歴史認識がテーマになると、決まって負けてしまう」と
 述べている。
  外交交渉上も、無用な譲歩や謝罪をさせられ、この歴
 史認識問題は、大きな外交敗北の原因となっている。
  そして、ウォー・ギルト・インフォメーション・プロ
 グラム(略称:WGIP)について・・、
  これは、文芸評論家の江藤淳氏が、その存在を証明し
 た。
  太平洋戦争(大東亜戦争終結後の・・、
  アメリカ主導による連合国軍最高司令官総司令部GHQ
 による、日本占領政策の一環として行われた「戦争につ
 いての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」
 だった。
  江藤氏は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・
 プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植
 え付けるための宣伝計画)という名称が・・、
  GHQの内部文書に基づくものであると説明し・・、
  高橋史朗氏、藤岡信勝氏、小林よしのり氏、櫻井よし
 こ氏、保阪正康氏、西尾幹二氏、勝岡寛次氏、『産経新
 聞』などが同じ行動をとっている。
  1979年より、ウィルソン・センターで、米軍占領下の
 検閲事情を調査していた江藤氏は・・、
  アマースト大学の史学教授レイ・ムーア氏より、
  「Draft of c/n, Subject : War Guilt Information
 Program,From : CIE, To : G-2 (CIS), :Date : 6 February
 1948」・・と、表題された文書のコピーを提供された。
  江藤氏は、この文書について・・、
  1948年(昭和23年)2月6日付で・・、
  CI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間
 諜報局)宛てに発せられたGHQの内部文書であると説
 明されている。
  そして、「コピーには特段のスタンプは無いが・・、
  The National Record Center, Suitland, Marylandで、
  ムーア教授が、GHQ文書を閲覧中に発見したものと
 考えられている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive