(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月〜1884年8月)

題:(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月〜1884年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年7月28日、京都二条城が離宮に定められた。
  宮内省の所管となり、「二条離宮」と改称した。
  「廃城令」とか、「城郭取壊令」とか、または、「存
 城廃城令」とかと略される令・・1873年1月14日に出さ
 れた全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじ
 ょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせ
 んていかた)によって、廃城がいっぱい出た・・、
  二条城が廃城にならなかったのは・・、
  この「二条離宮」への動きがあって、宮内省の所管に
 なる動きのため・・、
1884年7月、文部省に、図画教育調査会が設置された。
  1880年代半ば頃、日本では、「国粋保存」の思潮や、
 日本美術・日本画復興の機運が高まりを見せた。
  その一方で・・、
  1883年(明治16年)、工部美術学校が廃校になるなど、
 西欧風美術教育は後退しつつあった。
  こうした状況を背景に・・、
  1884年明治17年)に、文部省内に設置された「図画
 教育調査会」の決議に従って、
  1885年、文部省の専門学務局内に、図画取調掛(ずが
 とりしらべがかり)が設置された。
  同掛は、濱尾新を委員長にして、岡倉覚三(天心)・
 フェノロサ・狩野友信を委員に、西欧の図画教育の実態
 調査を委嘱され、
  翌年・1886年に、岡倉とフェノロサは、欧州の調査旅
 行に出発した。
  因みに、図画取調掛は、文部省内に設置された部局で、
 東京美術学校の直接の前身となった。
1884年7月、東洋絵画会の結成を決定した。
  この前身の竜池会は、1879年(明治12年)に設立され
 た美術愛好家の団体だった。
  佐野常民(さのつねたみ、日本赤十字社創始者)や、
 河瀬秀治、山高信離といった人たちが、東京・上野の不
 忍池にある弁天社の境内に集まって、古書画の展示会を
 開いたのが発端だった。
 これらの人々は、いずれも、明治政府の官僚であった。
  しかし、維新後の極端な欧化政策の中で、わが国の伝
 統美術が衰微していく情況に、危機意識をもった人たち
 だった。
 また、欧米讃美で、国内で顧みられなくなった日本の
 美術品が、海外に大量に流出していた。
  その影響もあって、ヨーロッパでは、その日本美術の
 素晴らしさで『ジャポニズムの風潮』が生まれていた。
  このメンバーのこれら官僚らは、この風潮を利用した
 美術工芸品の輸出、
  すなわち、殖産興業に結びつけようという意図もあっ
 た。
 こうした行動は、政府の施策にも反映した。
  日本画(東洋画)の保護奨励を目的とした政府主催の
 絵画共進会が開催されるに至った。
  この様な中、東洋絵画会は、竜池会からの呼びかけに
 応えて結成された。
  画家サイドの団体であった。
  画家サイドの団体とはいうものの、会長には品川弥二
 郎(当時は農商務大輔、そして、政治家、子爵)が就任
 した。
  1887年(明治20年)、竜池会は拡大・改組され、日本
 美術協会が設立された。 
  この時、東洋絵画会も、この日本美術協会に合流した。 
1884年8月10日、自由党の有一館が設立された。
  自由党が、文武研究所として有一館を開館した。
  群馬事件などの過激な事件の発生は、関東にあって、
  自由党の党勢は、関東において、大いにふるっていた。
  関西は沈滞し、あるいは、脱落傾向のみが強くあらわ
 れていた。
  自由党首脳部は、6月5日に、大阪で関西有志懇親会を
 開き、同志の団結をはかった。
  そして、先に解党した旧立志政党員の自由党への入党
 を呼びかけた。
  また、相輝館を新設して、活動の便宜をはかった。
  この様な、地方懇親会が、いたるところで聞かれた。
  そして、結合の強化がはかられた。
  さらに、6月下旬には、有一館がほぼ竣工し、
  8月10日に至って、開館式が行われた。
  この様に、党首脳部の党維持の努力は、続けられたが・・、
  ついに、9月には、自由党が解散に追い込まれる事件・
 加波山事件がおきた。
1884年8月10日、武州御殿峠に困民党が蜂起した。
  明治10年代後半、特に、1883年(明治16年)〜1885年
 (明治18年)にかけて、
  神奈川県は、激しい経済的混乱に陥(おちい)った。
  繭や生糸の値が大暴落し、職人や人力車夫の手間賃も
 急落を続けた。
  1881年明治14年)と1884年明治17年)の物価や、
 手間賃の統計をみると、30%〜50%のひどい落ち込みが
 見られる。
  松方デフレ下の農村は・・悲惨だった・・、
  対応策が図られていたが、農民たちは、困民党を組織
 して、状況の積極的打開をはかろうとした。
  しかし、その運動が一頓挫(とんざ)をきたし、新たな
 運動を組織しはじめた。
  その様な、時期に、非常に大きな問題をかかえていた。
  松方デフレの影響を、営業・生産活動の停滞や、生活
 の破壊の形で、
  まともに背負うことを余儀なくされた底辺の民衆は、
 困民党を組織し、当面する敵対者であった高利貸資本に
 対し激しい闘いをいどんで行く。
  神奈川県下の底辺の民衆の多くは、地租や地方税負担
 の重さにくらべ、問題にならないほど多くの負債をかか
 えて、呻吟(しんぎん、苦しんでうめくこと)していた。
  神奈川県の民衆は、過重な負債の負担軽減をもとめて
 1884年明治17年)3月以降、組織的な行動を開始した。
  大衆集会を開いて、債主に対し示威行動を展開すると
 いう形をとった。
  それを最初に行なったのが、神奈川県の南西部地域(
 大住郡・淘綾郡足柄上郡などで、現在の平塚・大磯・
 秦野の周辺地域)の人々であった。
  1884年7月終わりになると、南西部地域の困民党にかわ
 って、武州と相州の国境付近の民衆が、新たな運動のに
 ない手として登場した。
  相州高座郡上鶴間・下鶴間・磯部・鵜野森村(鶴間組
 困民党)、武州南多摩郡木曽・根岸・高ケ坂・鶴間村(
 木曽・小川組困民党)、同じ南多摩郡の南大沢・松木
 宇津貫村(柚木組困民党)などで、
  1884年7月31日に、高座郡上鶴間村谷口の鹿島神社に、
 最初の大衆集会を開いた以後、各地で集会・総代会議を
 開いた。
  そして、ついに、1884年8月10日に・・、
  八王子の町を眼下に見おろすことのできる御殿峠に、
 数千人の困民を集結させ、打ちこわし前夜のたかまり
 見せた。
  そして、1884年8月10日の夕刻から、御殿峠は、高座郡
 南多摩郡都筑郡などの村々から集まって来る農民たち
 で喧噪(けんそう)をきわめた。
  彼らは、蓑笠に身をかため、筵(むしろ)や竹槍を用意
 し、太鼓を打ちならして、八王子の町へ押し出ようとし
 ていた。
  掲げた要求は、借金の五年据置き、五十か年賦だった。
  要求が入れられなければ、実力行使も辞さない・・と
 いう激しいものだった。
  この運動は、1884年明治17年)を中心に、武相の山
 野に一年以上にわたって繰り広げられた。
  負債問題をいかに解決するかをめぐる争いのため、簡
 単には解決に至らなかった。
  多くの人が負債で難儀しているとき、困難打開のため、
 なんらかの配慮がおこなわれて当然、と思っている人と、
  契約どおりに借金を返すのは負債人の当然の義務、と
 考えている人・・、
  その争いは、簡単に解決できるような対立ではなかっ
 た。
  この運動は、民権運動の「旦那衆」に対して、困民党
 の担い手は、「底辺民衆」だった。
  その意味で、民権運動の出来ない領域の、民権運動の
 限界をこえる運動だった。
1884年8月19日、秋田小坂鉱山の払下げ許可が藤田組に下り
 た。
1884年8月24日、森鴎外が、ドイツ留学のため横浜を出発し
 た。
  1862年1月19日、島根県津和野で、御典医の家柄に生ま
 れた(長男)。
  小説家、評論家、翻訳家、軍医で、本名:林太郎とい
 う。
  1869年(7歳)藩校養老館で漢学を学ぶ、また、父に
 ついてオランダ文典も学ぶ。
  1872年(10歳)旧藩主亀井氏に従って、父とともに上
 京。
  親戚の西周(にしあまね)邸に奇遇(きぐう)し、本
 郷の進文学舎に通い、ドイツ語を学ぶ。
  1874年(12歳)東京医学校予科に入学
  1877年(15歳)東京大学医学部本科生となる。
  1881年(19歳)7月、東京大学医学部を卒業。
  しばらく、当時、千住(せんじゅ)で開業していた父
 の医療を手伝う。
  1881年(19歳)12月、陸軍省に入り、陸軍軍医となる。
  1884年(22歳)〜1888年(26歳)9月、多年の念願が
 かなって、ドイツへ留学(4年間)、ライプツィヒ大学
 ホフマン教授、ミュンヘン大学のM・ペッテンコーファ
 ー教授、ベルリン大学のコッホ教授らについて衛生学を
 学んだ。
  その一方、多くの文学書に親しみ、
  また、日本の評価をめぐって、新聞紙上で、日本弁護
 の論陣をはり、地質学者ナウマンと論争するなどの活躍
 をした。
  また、K・ハルトマンの美学に傾倒した。
  1888年9月、帰国後の・・
  1888年(27歳)10月、この頃、鴎外の後を追って、来
 日した「舞姫」のモデルの女性を説得して帰国させた・・
 との甘い話がある。
  1889年(27歳)1月、「東京医事新誌」の主筆に就任
  1889年(27歳)3月、啓蒙誌「衛生新誌」を創刊、
  1889年(27歳)3月、赤松則良(のりよし)男爵の長女・
 登志子と結婚したが、約1年半で離別した。
  1889年(27歳)9月、帰国後、陸軍軍医学舎の教官に任
 じられたが、
  その職務のかたわらジャーナリズム活動を開始した。
  1889年(27歳)10月、「文学評論しがらみ草紙」創刊、
 きわめて闘争的と言われるジャーナリズム活動をした。
  1889年(27歳)11月、ゆえあって「東京医事新誌」を
 去ると、
  1889年12月に「医事新論」を創刊した。
  1890年(28歳)9月、両誌を統合して「衛生寮病志」
  1890年(28歳)「舞姫」を発表し、文壇に登場。
  1891年(29歳)〜1892年(30歳)坪内逍遥との「没理
 想論争」が注目された。
  1893年(31歳)〜1894年(32歳)医学界中枢と対峙(
 たいじ)した「傍観機関」論争、
  1896年(34歳)「めさまし草」を創刊、
  1897年(35歳)「公衆医事」を創刊、
  1900年(38歳)近衛師団軍医部長兼軍医学校長から、
 小倉の第12師団軍医部長へ転勤(1899年説あり)、
  これは、文学活動が災いしたか?と言われている。
  1902年(40歳)第一師団軍医部長として帰京。
  これまでの間、問題となっていた創作はしなかった。
  フランス語の学習、唯識論の沈潜、クラウゼヴィッツ
 の「戦争論」の訳述など・・勉強の日々を送る(文学活
 動再開は1909年)
  1902年(40歳)荒木志げを妻に向かえる。
  1902年(40歳)3月、第一師団軍医部長に任じられ帰京、
 帰京後、「めさまし草」にかえて、「万年艸(まんねん
 ぐさ)を創刊、
  この頃、新歌舞伎や長詩の詩作が注目された。
  1904年(42歳)日露戦争に第二軍軍医部長として出征、
  軍陣の余暇に詩歌の創作に努め、後に「うた日記」と
 してまとめられた。
  1906年(44歳)山形有朋を囲む歌会常磐会(ときわか
 い)をもつ。
  1907年(45歳)短歌諸派の興隆を企図して、自宅で観
 潮桜歌会を始める。
  1907年(45歳)11月、陸軍省医務局長に就任、
  1907年以降は、陸軍のボス山形有朋の後援を受ける。
  一方、諮問に応じて、インフレ対策論や、国家社会主
 義に近い社会改革論を献策したり、
  行動範囲は広範・・、
  1909年(47歳)〜1916年(54歳)、反自然主義文学の
 立場で執筆活動を全面的に再開させ、
  文壇を盛況にした。
  作品:翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「フ
 ァウスト」、
  小説「舞姫」「青年」「雁(がん)」「ヰタ・セク
 スアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎(1916年)」
  ・・「半日」「妄想(もうぞう)」「興津弥五右衛門
 の遺書(1912年)」など多岐にわたり執筆し、大きな業
 績を残す。
  1916年(54歳)軍医総監医務局長を辞任する。
  1917年末(55歳)帝室博物館総長兼図書頭(ずしょの
 かみ)として宮内省に入る。
  1919年(57歳)帝国美術院初代院長に就任、
  1921年(59歳)図書寮の仕事として、「帝諡考(ていし
 こう)」を完成し出版する。
  1922年7月9日、委縮腎と肺結核で没す(60歳)
  墓所:東京・三鷹市禅林寺
  生家は、津和野町で保存されている。
  1892年以降の住居、文京区千駄木(せんだぎ)の観潮
 桜跡には鴎外記念本郷図書館が建つ。
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  (今日の言葉)
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  題:終わるべき戦争も、終わらない事態が現出していた。
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1945年5月28日、アメリカの国務長官代行のジョセフ・グル
 ーが、トルーマン大統領を訪れ、
  第二次世界大戦を終わらせるための打ち合わせを行な
 った。
  ルーズベルトの死から1ヶ月半が経っていた。
  また、ナチス・ドイツは崩壊していた。
  日本との戦いは、沖縄戦が展開されていて、最終的な
 局面を迎えていた。
  このグルーは、日米が開戦するまで、日本の大使をし
 ていて、
  日本の事情に良く精通していた。
  グルーは、天皇陛下に戦争責任はないと考えていた。
  そして、天皇制の維持を約束する事が、「早期に、戦
 争を終結する事になる」と考えていた。
  ルーズベルトの「日本人に対する異常な嫌悪感」、そ
 して、「無条件降伏の押し付け」という考えではなかっ
 た。
  トルーマンは、その話を聞き、自分になかった見聞と
 考え方・判断を聞き、感謝し、同意した。
  そして、トルーマン大統領は言った・・、
  「異論はない。ただ、軍の指導層がどう考えるかだ」
 ・・と。
  そして、その翌日、開かれた会談にグルーは出席し、
 協議がなされた。
  陸軍長官のスティムソンは、グルーの考えに賛意を表
 明した。
  しかし、その他のメンバーは、今、沖縄で戦いが展開
 されているからと、理由にならない理由で、協議の決定
 を先延ばしにした、
  決定にはには至らなかった。
  死闘を繰り広げられている中で、今までの条件を緩(
 ゆる)めるのは良くないという、理由にならない理由だ
 った。
  日本としての、日本の皇統が維持されるなら、早期に
 戦争を終結しようという考えには、思いが及ばなかった。
  ここに、中国の異常なプロパガンダがあった。
  「天皇制への攻撃」の中国のプロパガンダが影響して
 いた。
  これは、すでに、アメリカで広く知られ、天皇の戦争
 責任が、「間違って喧伝されていた」。
  今、現在の中国・韓国の慰安婦プロパガンダの様な
 事が、この時もなされていた。
  終わるべき戦争も、終わらない事態が、現出していた。
  尚、今・最近、中国は、金の力で「アメリカの新聞社」
 を買っている(シカゴの新聞社)。
  急に論調が、中国寄りとなった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive