(増補版)339E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年10月〜1876年12月)

題:*(増補版)339E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年10月〜1876年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1876年11月1日(明治9年)、官軍が、秋月の乱を平定す。
  1876年10月24日の「神風連の乱」が起き、そして、
 この3日後の27日、今度は九州・福岡で、旧秋月藩士・
 宮崎車之助ら400名が、神風連に続けと蜂起したが、
  しかし、鎮台が出動すると、敵(かな)わないとみて
 大分方面に逃走し、
  現地の士族たちに呼応を呼びかけたが応じる者もなく、
 結局、小倉鎮台に鎮圧された。
1876年11月3日、宮中御宴にて、初めて洋楽が演奏された。
  宮内省雅楽課が、初めて、洋楽を演奏する。
1876年11月4日、「甜菜(てんさい)より砂糖製造の法」
 を内務省にて翻訳し、これを地方産業開発のため領布
 た。
1876年11月5日、前原一誠らが捕らえられた。
  陸軍少将・三浦梧桜(みうらごろう)が、萩に進撃し、
 前原一誠の餘党を破り、平定した。
  乱の首謀者・前原一誠と横山俊彦は、出雲瓜港にて捕
 えられた(11月6日説あり)。
  この萩の乱の首謀者の前原一誠(いっせい)は、10月
 30日に山口県令・関口隆吉(たかよし)を急襲し、萩で
 の市街戦を行なうが、
  前原らは、途中で戦線を離脱し、
  その後・11月5日、わずかな人数で出雲にいたところ
 を逮捕された。
  その出雲の島根県令の佐藤信寛は、前原の気持ちを理
 解した。
  佐藤も、新政府の一員でありながらも、中央政府の一
 部・政治家の不誠実な行為に批判的な気持ちがあった。
  その佐藤が、前原に言った「東京への護送において、
 天皇陛下に訴えるチャンスを与えたい」・・と。
  しかし、大量の逮捕者を、東京に護送し、裁判を行う
 事が難しいと判断した中央政府は、彼らを、萩に護送し、
 そこで裁判を行うことに決定した。
  萩での審議は、1週間に渡って行われ、
  1876年(明治9年)12月3日、前原以下・幹部7名+1
 名を斬刑に、48名を懲役刑に、14名を除族+放免に、残
 り388名を放免する・・と判決した。
  その日のうちに、刑は執行された。
  前原一誠、享年43歳・・
  除族:(じょぞく)華族・士族の者がその身分を除か
 れて平民とされること。
1876年11月6日、玉木文之進(たまきぶんのしん、長州藩
 士、教育者、山鹿流の兵学者、松下村塾創立者、吉田
 松陰の叔父)が自害した。
  前原一誠による萩の乱に、養子の玉木正誼や門弟の多
 くが参加したため、
  玉木文之進は、その責任を取る形で、11月6日に、先
 祖の墓の前で自害した。享年67歳。
  その後は、正誼の子・正之が相続した。
1876年11月9日、谷干城(たにたてき)が、熊本鎮台司令
 長官となった(1872年説あり)。
1876年11月16日、日本初の幼稚園
  東京・神田の東京女子師範学校お茶の水女子大学
 構内に、官立幼稚園の附属幼稚園が設立された。
  中流以上の家庭の3歳〜7歳の幼児をあずかり、教育
 を施こした。
  日本で最初の幼稚園で、主任・保母は、幼稚園教育の
 祖・フレーベルの教えを受けた。
  日本で、1872年(明治5年)に公布された学制に、小
 学校の一種として「幼稚小学」がある。
  「幼稚小学ハ甲女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ
 端緒ヲ教ルナリ」(第二十二章)・・と規定された。
  就学前の幼児教育施設として、日本で、実際に設けら
 れた最も早いものは、1875年(明治8年)12月に、京都
 上京第三十区第二十七番組小学校(後の柳池小学校、現
 在の京都市立柳池中学校)に付設された「幼穉遊嬉場(
 ようちゆうきじょう)」。
  これは、フレーベルのキンダー・ガルテンに倣って、
 官民一致で設けられたもので、しかし、1年半しか存続
 しなかった。
  キンダー・ガルテンの訳語として「幼稚園」を最初に
 名乗ったのが、1876年(明治9年)に開園した東京女子
 師範学校附属幼稚園だった。
  これが、日本で最古の幼稚園とされている。
1876年11月29日、東京・京橋の大火(約8500戸焼失)
  東京・日本橋数寄屋町から出火し、2万戸を焼失。
1876年11月、「朝野新聞(ちょうやしんぶん)」が、社
 屋を銀座4丁目に移転した(現:和光の地)。
  イギリス人・ブラックが「日新真事誌」を創刊した地
 を買い取った。
  1877年(明治10年)の西南戦争の現地取材を逡巡し、
 時期を逸し、遅れて、社長兼主筆の柳北が、京都まで行
 って、記事を送り、読者を失望させた。
1876年11月、伊勢暴動(12月18日および19日説あり)
  この時に、三重県飯野郡(現在の三重県松坂市)に端
 を発した、地租改正反対一揆(竹槍一揆) 。
  愛知県・岐阜県・堺県(現在の大阪府南西部)にまで
 拡大した。
  受刑者数は50,773人に達した。
  この暴動を通して、地租が、3%から2.5%に引き下げ
 られたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とう
 たわれた。
  12月18日、翌日に控えた租税取り立ての延期を現在の
 三重県松阪市に相当する地域の農民が、戸長らに申し入
 れた。
  この農民と戸長らの話し合いはもつれ、松阪の農民は
 北と南に分かれ集団で行進を始め、
  各地で新政府に関係する施設の破壊・放火を行った。
  特に、北へ展開した一揆は、三重県を越え、愛知県や
 岐阜県にも広がった。
  こうした動きに対して、新政府は、鎮台や警視庁の巡
 査を派遣して農民を抑え込んだが、結局、地租を引き下
 げざるを得なくなった。
1876年12月1日、鉄道の複線の新橋〜品川間が初開通した。
  新橋〜品川間の鉄道が複線運転になった。
1876年12月1日、中外商業新報(ちゅうがいしょうぎょう
 しんぽう、日本名材新聞の前身)が創刊された。
  この時、三井物産の益田孝らが週刊で創刊したタブロ
 イド4ページの『中外物価新報』が起源(12月2日説あり)、
  1882年7月には、三井物産の手を離れ、
  1885年7月から、日刊となり、
  1889年1月27日に、「中外商業新報」に改称した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株
 式会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1924年12月、『大阪中外商業新報』を創刊して、関
 西にも進出した。
  1942年11月1日、政府の新聞統合令により「日刊工業」
 「経済時事」両紙と合併。
  「日本産業経済」と改題し、東日本唯一の経済新聞と
 なった。
  1946年3月1日、社名を日本経済新聞社に、題号を「
 日本経済新聞」に改めた。
1876年12月3日、前原一誠以下、萩の乱徒処分される。
1876年12月9日、各家毎に氏名の標札掲示を命ず。
  東京府 明治9年12月9日ほか
  東京府管内では、明治九年十二月九日に雛形を示し、
  明治十年一月三十一日を期限として標札等を標出致す
 べし旨の布達。
東京府布達 明治九年十二月九日甲第百四十四號
  ※戸籍札更ニ一定候様別紙標札心得書相示シ候條
來明治十年一月三十一日限リ標出可致此旨布達候事※
  標札心得
  第一條 宅地番號札ハ家主ニ於テ戸數點檢札ハ地主ニ
    於テ、戸主名札ハ居住人ニ於テ各自標出スヘシ
1876年12月15日、吉野朝の忠臣・新田義貞正三位、楠
 木正行に従三位を追贈する。
1876年12月19日、函館の海防に備え湾岸砲台を設ける(
 砲12門に中隊長以下92人を置く)
1876年12月19日、伊勢暴動(三重騒動)
  三重県下で地租改正の反対する農民たちが、竹槍、ム
 シロ旗を押し立てて蜂起した。
  12月23日、東海地方にまで拡大し、日本の百姓一揆
 上最大と言われる。
1876年12月27日、地租軽減の建議
  内務卿・大久保利通が、地租軽減を建議した。
  1873年7月28日に、地租改正法(上諭と地代の3%を地租
 とする旨を記載した1ヶ条で構成)と、
  (注):上諭(じょうゆ):公布の冒頭に記され天皇
    陛下の裁可を示す文章)。
  具体的な規定を定めた地租改正条例などから成る太政
 官布告第272号が制定され、
  明治政府は、翌年・1874年から地租改正に着手し、
  政府は、当初、検地が農民からの反発を受けることを
 懸念し、農民からの自己申告主義を採った。
  すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を
 算出し、
  (注):地押(じおし):田畑の等級や石盛 (こくも
    り) は従来のままとし、反別 (たんべつ) を測量し
    て修正すること。
  (注):丈量(じょうりょう):土地の面積を測量す
    ること。
  地方庁は、地方官心得書の検査例に基づいて点検し、
 これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行する形を取
 った。
  しかし、この方法では、全国一律公平の租税を徴収す
 る目的は達しがたく、
  また、1874年の改租結果から、目標の租税額が確保で
 きそうにないことが明らかとなった。
  また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問
 題」も影を落としていた(内務省設置による測量機構と
 税額算定機構の分離)。
  このため政府は、1875年に、内務省及び大蔵省の両省
 間に地租改正事務局を設置し、
  これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換し
 た(明治8年太政官達第38号)。
  この中で、府県庁は、地租改正事務局があらかじめ見
 当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、
  申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と
 費用をかけて算定した地価を否定し、強圧的に変更させ
 たことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各
 地で頻発した(地租改正反対一揆)。
  これを受けて政府は、1877年1月に、地租を100分の
 3から100分の2.5に減額することを決定した。
  その後、政府の強硬姿勢は、1878年頃まで続いたが、
 税収の見込みがつくようになると、徐々に緩和されてい
 き、
  1880年に、耕地宅地の改正作業が完了した。
  地租改正は、約7年にわたる大事業であった。
  安定した税収を得たい政府方針に対して・・、
  税率を地価に対する一定率とすることにより、従前の
 ように農作物の豊凶により税収が変動することなく、政
 府は安定した収入を確保することができるようになった。
  具体的には、農作物の価格変動リスクを、政府から農
 民へ転嫁したものといえる。
  しかも、「旧来の歳入を減じない」という政府の方針
 によって3%という高額な税率が算定された。
  (地租改正の推進派であった木戸孝允は、この高税率
 を聞くと、農民を幕藩体制よりも酷い状況に追い込むも
 のだとして、最後まで反対した)。
  これは、結果的に、大多数の農民の負担を高めること
 につながり、
  また、土地の所有者がおらず、納税が困難な入会地が
 事実上、政府に没収されたことなどから、伊勢暴動、真
 壁暴動など一揆(地租改正反対一揆)が頻発し、
  自由民権運動へ影響を与えた。
  このため、士族反乱と農民一揆の結合を恐れた大久保
 利通の建議(意見)で、1877年(明治10年)に、税率
 が2.5%に引き下げられた。
1876年12月29日、三条実美および岩倉具視を、各勲一等に
 叙し、旭日大綬章を賜う(臣下勲章拝受の始まり)
1876年3月10日、電話が発明された。
  スコットランド生まれの科学者であるアレキサンダー
 グラハム・ベルが、電話を発明した。
  助手との間で初の通話に成功した。
  ベルは、金銭的支援を受けて、トーマス・ワトソンを
 助手として雇うことができ、
  2人は、1875年6月2日に、実験を行った。
  その時、ワトソンは、偶然金属リードの1本を引き抜い
 てしまい、受信側にいたベルが、その金属リードの倍音
 を聞いた。
  倍音は、音声の伝送に必要である。
  この事から、ベルは、複数のリードは不要であり、1
 つのリードでよいと気付いた。
  これにより、明瞭な音声は伝えられないが、何らかの
 音だけは伝送できる電話の様なものができた。
1876年6月25日、インディアンの方々の最後の戦い
  アメリカ・インディアンとアメリカ政府軍・第七騎兵
 隊の戦いが起きた。
  この戦いを、インディアンの方々は、「グリージー
 ラス川の戦い」と言い、
  アメリカ合衆国は、「リトルビッグホーンの戦い」と
 言った。
  アメリカ合衆国軍のカスター将軍が、この戦いで戦死
 した。
  アメリカ・インディアンの方々と、アメリカ合衆国
 との戦いを、時系列的に大きく見ると、
  インディアンの方々の居留地の位置と、大きさを示す
 図において、
  年と共に、アメリカ・インディアンの方々が、東から
 居なくなっていく。
  つまり、西へ行けと、東の地に居られなくされて、追
 い出されている。
  そして、そこの西へ行ったところへ、また、白人のア
 メリカ人が入り込んで来て、さらに西へ移動させられる
 インディアンの方々。
  そして、ある特定の区域に住むようにさせられている。
  そして、その区域が、時代が進むにつれて狭くなって
 行き、居留地の広さ、大きさが小さくなって行く。
  そして、最後は、ゴマ粒のような居留地が、転々とあ
 るという姿になって行く。
  つまり、アメリカ合衆国は、インディアンの方々と条
 約を結んだりしているが、前の条約を無視して、その条
 約の約束を破って、常に、変更している約束が続く歴史
 となっている。
  そして、最後は、ゴマ粒のような居留地が、アメリ
 中西部にばらまかれたように残るという状況へ至る。
  この戦いの発端も、現在のワイオミング州のビッグ・
 ホーンに金が発見されると、
  白人・アメリカ人は、ほってはおけなくなる、
  そこが、インディアンの方々の土地で、狩場であろう
 となかろうと。
  白人・アメリカ人は殺到した。
  約束も何もないように振る舞う白人・アメリカ人と、
 スー族の方々と衝突するのに、時間はかからなかった。
  当然、白人・アメリカ人が悪いのである。
  白人・アメリカ人のインディアンの方々の土地奪いが
 始まる。
  境界を侵しているのは欲に絡んだ白人・アメリカ人で、
  アメリカ合衆国政府は、カスター将軍に指示した。
  (力で奪って来いという命令になっている)
  命令を受けたアメリカ軍のカスター将軍は、
  公然と、インディアンの方々の意見や権利の主張を嘲
 弄(ちょうろう、相手を馬鹿にしてからかう事)して、
 インディアンの方々を挑発した。
  (西部劇映画でよく見る悪漢が嘲弄して、相手に、先
 に銃を抜かせるという・・あの悪巧みである・・こんな
 カスター将軍に、そして、将軍に命令したアメリカ合衆
 国に正義がある訳がない、卑怯なアメリカだった)。
  解決への道が閉ざれた中で、インディアンの方々は結
 集する。
  そして、この日に戦いは起きた。
  そして、カスター将軍と285人のアメリカ軍兵士は、
 リトル・ビッグ・ホーン川で殲滅させられる。
  このアメリカ軍の敗北は、アメリカ社会を大きく揺さ
 ぶった。
  一握りのアメリカ・インディアンの方々が、アメリ
 合衆国軍を相手にして戦い、カスター将軍を失わせる勝
 利を得た。
  アメリカ政府は、直ちに報復・復讐に出る。
  正義も、また、復讐する正しい論理もない行動に出る。
  そして、この不名誉を挽回する策を取った。
  参謀本部へ命令した。
  今度は、クルック将軍が、最新の武器で、武装を固め
 た兵士、数千人と共に、スー族に立ち向かって行ってた。
  容赦のない攻撃を仕掛けた。
  アメリカ・インディアンの方々の抵抗の最後の砦であ
 った強大なスー族が敗れる時が来た。
  スー族を率いていたシッティング・ブルは、カナダへ
 逃れた。
  クレージー・ホースは、居留地に戻ったが、卑劣にも、
 そこで、アメリカ合衆国は殺した。
  インディアンの方々は、勇敢に機敏に、インディアン
 の方々に正義がある戦いを戦った。
  機関銃と大砲を持つアメリカ合衆国軍と、弓と矢で立
 ち向かったインディアンの方々。
  インディアンの方々に正義と勇気があったが、結果は、
 その武器の差で決着がついた。
  小さな戦いが、この後あるが、インディアンの方々の
 大きな戦いは、この戦いが最後だった。
  シッティング・ブルの、自分たちの土地を当然の権利
 として主張し、そして、要求した言葉:
  「われわれは白人が好きではない、ブラックヒルズは
 われわれのものだ」・・と、(その通り)。
1876年、イギリス女王ビクトリアがインド皇帝の座につい
 た(事実上、インドを奪う行為)
1876年、オーストラリア人(イギリス人)の絶滅行為
  イギリスは、タスマニア島アボリジニーの方々を全
 滅させた。
  イギリスが、オーストラリアを占有して、オーストラ
 リアのタスマニア島に、19世紀に入った直後には、8000
 人のアボリジニの方々が居た。
  少なく見積もっても2500人のアボリジニの方々が居た。
  しかし、このタスマニア島アボリジニの方々は、こ
 のイギリス人(オーストラリア人)に殺されて、約30年
 後に300人まで激減した。
  そして、この年の1876年に、最後のアボリジニーの女
 性が亡くなり、タスマニア島アボリジニーの方々は絶
 滅した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive