(増補版)248D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1859年8月〜1860年12月)

題:(増補版)248D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1859年8月〜1860年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1859年(安政6)9月6日、幕府、銅の海外密輸を厳禁す。
1859年9月6日、パリ外国宣教師会のジラール神父が、滞在
 中の那覇から江戸に入った。
  また、日本教区長に任命されていたジラール神父は、
 長崎を布教した。
1859年9月、安政の大獄吉田松陰らが死んだ(29歳)
  吉田松陰は刑死だが、梅田雲浜獄死。
1859年9月27日、幕府が、会津、秋田、荘内、盛岡、弘前
 の5藩に命じ蝦夷地の開墾を命じた。
1859年10月4日、石見で地震(1月もあったが・・)。
1859年11月、勝海舟、米国へ軍艦差遣するにつき乗組を命
 ぜられる(氷川清話)
1859年11月1日、橋本左内頼三樹三郎ら処刑。
1859年11月21日、吉田松陰処刑(10月27日説あり)
  江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される(満29歳)
  松蔭は、尋問で老中の暗殺計画の詳細を自供し、自身
 で「死罪」にするのが妥当だと主張。井伊の逆鱗に触れ
 た。
1859年12月、勝海舟、賜暇謁見。金二枚時服二を賜う(氷
 川清話)
1859年12月、勝海舟、長崎伝習中、格別の骨折があった為、
 金三枚時服二を賜う(氷川清話)
1859年12月、勝海舟、米国航海中、両番上席を命ぜられる
 (氷川清話)
1859年、福沢諭吉が、英学に転向する。
  横浜に行ったとき、今まで一生懸命勉強した和蘭では、
 横浜の商売人の看板を読むことが出来なかった。
  そこで、これからは、英語が必要になるに違いないと
 思う。
  そして、英語を勉強し出す。
  横浜に行ったとき蘭英会話集を2冊買っている。
  しかし、辞書がないので、蕃書調所に通いだす。
  この時、箕作阮甫(みつくりげんぽ)という人が調所
 の頭取で、早速、入門を許してくれた。
  当時、英蘭対訳発音付の辞書1部1冊ものが価5両(福
 翁自伝)
1859年、大蔵永常(おおくらながつね、農学者)著の『広
 益国産考(こうえきこくさんこう)』刊。
  1842年から1859年の17年の著作物。
  天明の大飢饉を目撃し、志を立てる。
  この著は、江戸後期の商品経済の発展に対応するため
 に農業経営の改良を説いた。
  また、農業技術を集大成した。
1859年、この頃、寺子屋の開設が隆盛。
1859年11月、種の起源ダーウィン)が発表された。
  ダーウィンは大論争を巻き起こした。
  猿から人へのこの道筋を彼も示す事が出来なかった。
  猿から人間が生まれたという。
1859年、イタリア独立戦争が起こった。
  イタリアが、独立と統一をしたいと、3次にわたって
 オーストリアと戦った。
  第1次(1848年〜1849年)から始まった。。
  第2次(1858年〜
  1859年は、ハプスブルク家の排除の戦いと言える
  第3次(1866年6月〜
  1866年10月、ウィーン条約
  1870年9月、イタリア軍がローマを占領。10月、イタ
 リア王国が、住民投票によりローマを併合。
  1871年7月、イタリア王国が、ローマに遷都。
1860年安政7年)、推定世界人口:12億5000万人
1860年1月1日、日米修好通商条約によって、新潟が開港す
 る。
1860年1月4日、日米修好通商条約によって、日米和親条約
 で開港した下田が閉鎖された。
1860年1月13日、咸臨丸がアメリカに向けて品川を出港した。
  乗組員96名、木造蒸気船、長さ50メートル、幅7.3メー
 トル、砲:12門、250トン、100馬力、3本マスト、
  咸臨丸は、オランダから、10万ドル(2万5000両)で、
 物と交換で買い取った。
  幕使:新見正興、通弁官:中浜万次郎
  江戸(東京)湾を出ると、小型艦である咸臨丸は、た
 ちまち暴風雨に遭い、酷い目にあった。
  提督の木村摂津守が、交際費として、私費10万ドルを
 持って行ったその小判が、箱から転がり出すほどの、揺
 れ方であった。
  毎日毎日の大嵐、なかなか茶碗に飯を盛って本式に食
 べるなんという事は容易なことではない・・とある。
  また、はしけ船が4隻あったが、激浪の為に、2隻も取
 られた。
  日本人が、初めて、オランダ人から航海術を伝習して、
 わずか5年で、
  「少しも他人の手を借りずに、出かけて行こうと決断
 したその勇気と言い、
  その技量と言い、これだけは、日本国の名誉として、
 世界に誇るべき事実だろうと思う」・・と、福沢諭吉
 言っている。
  しかし、咸臨丸の場合、実際には、アメリカ海軍将兵
 11名が同乗していた。
  それは、日本近海測量に来ていたJ・M・ブルック大
 尉、他10名で、
  その乗船が、難破したため、咸臨丸に同乗させて送り
 返すという事で、艦の運航には、口出ししないという建
 前にはなっていた。
  だが、実際に、暴風雨の中に船を出してみると、日本
 人乗組員の技量では、危なっかしく見ていられず、
  アメリカ人将校が、手を貸さない訳には行かない。
  ブルックは、その「航海日記」に書いている。
  「私は、時々癇癪を起こす。日本人たちはまったくノ
 ロマだ。
  彼らは、荒天に対してまったく無経験で、しかも、部
 署を割り当てられない」。
  「我々の乗組員が、操舵や見張りなど、当直仕官のな
 すべきことを皆やっている」。
  「船の中で、秩序とか規律とかいうものは、まったく
 見られない
  ・・・飲酒はそう厳しく取り締まられていない」。
  また、ブルックの観察では、
  木村摂津守は、「地位や、習慣などを頑固に守る人」
 として映り、
  勝は、「大変小柄であるが、良く均整が取れ、たくま
 しく身軽である。
  鋭い見透すような目、筋の通った鼻、やや小さいあご。
 歯を合わせたまま話す。
  彼は、なかなか活動的である。
  手すりの上に飛び上ったり、索具にのぼったりする。
  感じの良い顔立ちで、決して、機嫌が悪いという事が
 ない。
  彼は、航海中ほとんど船酔いしていた」と見られてい
 た。
  福沢は、「勝麟太郎という人は、艦長木村の次にいて
 指揮官であるが、至極船に弱い人で、
  航海中は、病人同様、自分の部屋の外に出ることは出
 来なかった」と述べているが、
  木村摂津守の想い出話では、「福沢の伝にある様に、
 ただ船に酔ったというのではない、
  つまり、不平だったのです」とある。
  勝が、何に不平だったかと言えば、
  身分とか、待遇とか、役割が、その人の能力相応でな
 い事に対する不平である。
  上役の無能ぶりと、船内無統制に、カンシャクを起こ
 して、
  船酔いを口実に、部屋から出ようとしなかった。
  勝は、アメリカで把んで来たものは「能力主義」とい
 う人事管理の方式にあった。
  咸臨丸の船内の人事組織からして、近代的な能力主義
 でやってみたかったのだ(氷川清話)
  正月、正使新見豊前守、副使村垣淡路守、目付小栗豊
 後守、米艦「ポーハタン」で米国に向けて出発(氷川清
 話)
  300トンの小さな艦で40日の航海。
  勝は艦長、福沢は総督である木村摂津守の従者。
  咸臨丸に乗船中の勝は、終始不機嫌でかんしゃくを起
 こしてばかりだった様だ。
  体調も悪かったのだろうが、実力に比して不当に低い
 身分に対する不満もあったのだろう。
  勝は、7歳年下でも身分の上の木村に反抗する態度も
 とった様だ。
  木村の従者の福沢にとって、これが不愉快でないこと
 はなく、二人の不仲の原因はここにあったのだろう。
1860年1月、河竹黙阿弥三人吉三廓初買』初演。
  横井小楠『国是三論』。
  この頃、かっぽれ、すちゃらか節流行。
1860年2月27日、咸臨丸が、サンフランシスコに入港した。
 (2月26日説あり)
  海舟は、熱病を患っていたが、サンフランシスコに着
 く頃には自然に全快していた。
  サンフランシスコへ着くと、日本人が独りで軍艦に乗
 ってここへ来たのはこれが初めだ・・といって、アメリ
 カの貴紳(きしん、身分と名声のある男子)らも、たい
 そう誉めて、船底の掃除や、ペンキの塗り替えなども、
 すっかり世話をしてくれた(氷川清話)
  ・・・着くやいなや、土地の主だった人々は、船まで
 来て、祝意を表わし、
  歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。
  次で、陸から祝砲を撃つということになって、あちら
 から撃てば、咸臨丸から応砲せねばならぬとなった、
  ・・が、勝の説に、なまじ、応砲などして遣り損なう
 よりも、こちらは撃たぬ方が良いと言う。
  そうすると、運用方の佐々倉桐太郎は、いや撃てない
 ことはない。
  乃公(だいこう、男性が、目下の人に対して、または
 尊大に、自分をさしていう語、我が輩)が撃て見せる。
  「馬鹿言え、貴様達に出来たら乃公の首を遣ると冷や
 かされて、佐々倉は、いよいよ承知しない。
  何でも応砲して見せるというので、それから、水夫共
 を指図して大砲の掃除、火薬の用意して、
  砂時計を以って時を図り、物の見事に応砲が出来た。
  さあ、佐々倉が威張り出した。
  首尾よく出来たから、勝の首は乃公の物だ。
  しかし、航海中、用も多いから、しばらくあの首を当
 人に預けておくと言って、大いに、船中を笑わした事が
 ある。
  さあ、どうも彼方の人の歓迎というものは、それはそ
 れは、実に至れりつくせり、
  この上の仕様がないと言う程の歓迎。
  サンフランシスコに上陸するや、馬車を以って、迎い
 に来て、
  取り敢えず、市中のホテルには、市中の役人か、何か
 は知りませんが、
  市中の主だった人が、雲霞(うんか、大勢の人が群が
 り集まるたとえ)の如く出掛けて来た。
  さまざまの接待饗応。
  それからサンフランシスコの近傍に、メールアイラン
 ドという所に海軍港がある。
  その海軍港付属の官舎を、咸臨丸一行の止宿所に貸し
 てくれ、
  船は、航海中なかなか損所が出来たからとて、ドック
 に入れて修復をしてくれる。
  逗留中は、勿論(もちろん)あっちでも何もかも、そ
 っくりやってくれる筈(はず)であるが、
  水夫をはじめ日本人が、洋食に慣(な)れない、
  やはり、日本の飯ででなければ食えないというので、
  自分で賄うという事にしたところが、
  アメリカの人は、兼(か)ねて、日本人の魚類を好む
 という事を良く知っているので、
  毎日毎日、魚を持って来てくれたり、
  或(ある)いは、日本人は、風呂に入ることが好きだ
 というので、毎日、風呂を立ててくれるというようなわ
 け。
  ところで、メールアイランドという所は、町でないも
 のですから、折節(おりふし、その場合場合)、今日は
 サンフランシスコに来いと言って誘う。
  そこから船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応す
 るという様な事が毎度ある。
  ところが、こっちは、一切、万事不慣れで、
  例えば、馬車を見ても、初めてだから実に驚いた。
  そこに車があって、馬が付いていれば、乗物だという
 事は分かりそうなものだが、
  一見したばかりでは、ちょいと考えが付かぬ。
  ところで、戸を開けて入ると馬が駆け出す。
  成程(なるほど)これは馬の引く車だと、初めて発明
 するようなわけ。
  いづれも、日本人は、大小を差して、履物は麻裏草履
 (あさうらぞうり)を履(は)いている。
  それで、ホテルに案内されて行ってみると、毛氈が敷
 き詰めてある、その毛氈は、どんなものかというと、ま
 ず、日本で言えば余程(よほど)の贅沢者が、一寸四方、
 いくらという金を出して、買って紙入れにするとか、煙
 草入れにするとか、云うようなそんな珍しい品物を、8畳
 も、10畳も、恐ろしい広い所に敷き詰めてあって、
  その上を靴で歩くとは、甚(はなは)だ途方もない事
 だと、実に驚いた。
  けれども、アメリカ人が、往来を歩いた靴のままで、
 ひょうひょうと上がるから、こっちも麻裏草履で、その
 上に上がった。
  上がるといきなり酒が出る。
  徳利の口を開けると、恐ろしい音がして、先(ま)ず
 変な事だと思ったのはシャンパンだ。
  そのコップの中に何か浮いているのも分からない。
  3、4月、暖気の時節に、氷があろうとは思いも寄らぬ
 話で、
  ずーっと銘々の前にコップが並んで、
  その酒を飲む時の有様(ありさま)を申せば、
  列座の日本人の中で、先ずコップに浮いている物を、
 口の中に入れて、肝を潰(つぶ)して噴き出す者もあれ
 ば、
  口から出さずにがりがり噛む者もあると云うような訳
 けで、しばらく氷が入っていると云う事が分かった。
  そこでまた、煙草を一服と思ったところで、煙草盆
 ない、
  灰吹きがないから、その時、私はストーブの火でちょ
 いとつけた(福翁自伝
1860年3月18日(万延1年)、「万延」に改元された。
1860年3月24日、桜田門外の変(18烈士)
  水戸藩薩摩藩の浪士が、彦根藩の行列を襲撃し、大
 老の井伊直弼を暗殺した(45歳)。
  水戸人17名、薩摩人1名、
  勝は、この変で、幕府の行く末を感じ、また、見た。
  幕府の、体制のその内実を表していることを悟った。
  幕府の今までの経過と、これからの時を知り、実感し
 た。
1860年3月、その時、井伊の家中は・・、
  井伊の家中で、血気にはやる連中は、直ぐに、水戸の
 屋敷へ暴れ込むと言って大騒ぎをしたのを、
  岡本黄石、は色々になだめて、幕府へは、ただ、自分
 の主人が、登城の途中、暴漢のために傷つけられたこと
 を届け出て、
  事を穏便に済ませた。
  この時、黄石が、思慮のない男で、一時の感情から壮
 士どもの尻押しでもしたのなら、それこそ大変だった(
 氷川清話)
1860年3月、徳川慶喜が、隠居謹慎を許され、家茂の後見人
 となる。
  徳川慶喜が、条約締結問題につき、井伊を詰問した事
 から、隠居謹慎させられたが、
  井伊の横死後、幕府が、公武合体に転換したのに伴い、
 許されて、家茂の後見人となり、松平慶永(よしなが)
 とともに幕政改革に務めた。
  1861年10月東下、1862年2月婚礼。
1860年3月、公武合体を策し、和宮降嫁を奏請した。
  老中の安藤信正らが、公武合体を策し、皇女・和宮
 嫁を奏請した。
1860年3月、外国人に酒を飲ませることを禁じた。
1860年閏3月19日、咸臨丸がサンフランシスコを出港した。
 (3月18日説あり)、5月5日に品川に入港する。
1860年閏3月、外国人を宿泊させることを禁じた。
1860年4月、外国人へ食用のほか牛馬を売ることを禁じた。
1860年5月5日、咸臨丸が、浦賀に到着した。
  5月6日に、品川に入港する。
  5月7日に、勝海舟、帰府(氷川清話)
  帰りにはハワイに立ち寄って、それから浦賀へ帰った。
  そして、桜田の変があったことを始めて知って、これ
 で幕府はとてもだめだと思った。
  これから品川へ船を廻して一同上陸した(氷川清話)
1860年、帰国後の勝海舟福沢諭吉
  アメリカから帰国後、福沢は、世襲でない社会、デモ
 クラシーを感じ、
  この世襲が、政治のバイタリティーを無くしていると
 見抜いた。
  福沢は言った、「封建制度は親の仇でござる」と、近
 代社会の形を体感していた。
  勝は、老中から、「そのほうは、眼光を見えているか
 ら、何か眼を付けた事があろう」と言われ、
  「人間のする事は、古今東西同じで、アメリカとて別
 に変わったところはありません」と答えた。
  老中が、なおも、「左様ではあるまい、何か変わった
 ところがあろう」と聞く。
  再三再四、聞かれた勝は、「さよう、少し眼につきま
 したのは、アメリカでは、政府も民間も、人の上に立つ
 人は、皆、その地位相応に怜り(かしこい、利口な)で
 す。
  この点ばかりは、まったく我が国と反対の様に思いま
 する」と答えた。
  老中は、目を丸くして、「この無礼者控えおろう」と
 叱った。
  この胆力と、一言の多さが・・勝だった。
  尚、福沢諭吉は、この1860年の幕府使節随行のほか、
 1861年、1867年の計3回の幕府使節随行で、洋行し、近代
 文明をつぶさに観察している。
  この辺からも、上野の山の攻略の大砲の音を聞きなが
 らも、かかわりのない事の態度で、次世代の俊英を育て
 るための講義を、粛々と続けたのだろう。
1860年4月、外国人へ食用のほか牛馬を売ることを禁じた。
1860年緒方洪庵が、この年から天然痘に尽力した。
  その拠点が、「除痘館」。
  洪庵は、自らが開いた私塾「適塾」で、医学を教える
 かたわら、その南方約100メートルの地で種痘事業をした。
  孫が、その跡地に、産婦人科医院を開設した。
  因みに、日本では天然痘は、1980年に根絶された。
1860年6月、ポルトガルと仮条約。
1860年9月29日、水戸斉昭(徳川斉昭、なりあき)が没した。
1860年10月、種痘館を種痘所と改称した。
  大槻俊斎が頭取となる(氷川清話)
1860年10月、プロシアと仮条約。
1860年11月、福沢諭吉、外国方役員となる(氷川清話)
  福沢諭吉が、1860年〜1867年の間、幕府の翻訳方に勤
 める。
1860年12月、勝海舟が、アメリカに行った功績で、金5枚
 時服2を賜い、且つ、軍艦派遣は、我国はじめての新事業、
 無事航海をまっとうした功労によって、終身(?)米を
 賜う(氷川清話)
1860年12月5日、麻布で、アメリカ公使官員が浪士に殺害さ
 れた。
1860年井伊直弼の暗殺後、尊王攘夷および倒幕運動が盛
 んになって行った。
1860年、米価暴騰による農民一揆が頻発した(〜1865年)。
1860年11月6日、エイブラハム・リンカーンが、アメリカの
 第16代大統領に選出された。
1860年、清国、涙の北京条約。
  イギリス・フランスは、思惑通り、徹底的に清国を痛
 めつけ、思い通りのうまい汁を吸う条約を締結させた。
  香港の九龍半島の一部を割譲させる・・ほか。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive