(増補版)247D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1858年12月〜1859年8月)

題:(増補版)247D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1858年12月〜1859年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1859年(安政6年)1月、勝海舟が、正月、汽船・朝陽丸で
 帰府、暴風雨に会い、体をマストに縛り指揮、綱が切れ
 波に捲かれようとする航海中の難、危険を瀕す(氷川清
 話)
1859年1月、勝海舟、軍艦操練所教師頭取を命ぜられる(氷
 川清話)
1859年1月、勝海舟、長崎伝習中止の命あり(氷川清話)
1859年1月5日、石見で地震
1859年1月7日、秋山好古(あきやまよしふる)誕生(逸話)
  伊予松山城下(現・愛媛県松山市)に松山藩士の三男
 として生まれる。
  秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石ほどの下
 級だった。
  藩校・明教館へ入学し、家計を支えつつ学ぶ。
  大阪師範学校を経て、1877年に、陸軍士官学校へ入学。
  日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃滅した秋山
 真之は実弟にあたる。
   陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古
 の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破る
 というただ一点に尽きている」と賞されているとおり、
 日本騎兵の父と云われた。
1859年1月13日、幕府が、長崎、神奈川、箱館3港の開港に
 あたり、同地への出稼ぎ、移住、自由売買の許可を布告
 した。
1859年2月7日、勝海舟が、長崎での海軍伝習が終了するこ
 とにあわせ、長崎を出発、江戸へ帰る。
  日米通商航海条約の批准のため、使節を米国に派遣す
 る噂を聴いて、勝海舟は直ちに帰府を願い出た。
  何としても、近代国家の実情をこの目で見たい、それ
 にはこの機会に、使節について米国へ渡航したい、
  太平洋を自力で軍艦を操縦して渡ってみたい、という
 冒険心やら勇猛心やら好奇心が、いっぺんに噴出してき
 た。
  正月、紀州沖の暴風雨の中を、朝陽丸を指揮して彼は、
 江戸に帰った(氷川清話)
1859年2月9日、遠隔地長崎では、経費がかかり、西役所の
 海軍伝習所を閉鎖した。
  ポンペの医学伝習所は続行。
1859年2月22日、江戸の大火(青山より音羽へ延焼)
1859年2月26日、山内豊信(やまうちとよしげ、容堂)が、
 隠居を命ぜられる。
  1862年に、許されて、公武合体に尽力する。
1859年5月2日《03/30》開港後、最初のキリスト教の伝道者
 が、中国在留の米国監督教会宣教師・リギンスが来航し
 た。
  米国領事・ワルシの斡旋(あっせん)で、上陸が許可
 された。
  長崎奉行の依頼で、通訳官8人に英語を教授した。
 居住地は、崇福寺後山の広徳院とした。
  1860年2月に、病のため帰国。
1859年5月25日、吉田松陰が、萩獄より江戸に送られる。
1859年5月26日、イギリス総領事(のち公使)オールコックが、
 来日した。
  高輪東禅寺を居館とした。(6月9日説あり)
1859年5月27日、米国総領事・ハリスが、幕府に弁理公使昇
 格を通告した。
  麻布の善福寺を居館とする。(6月4日説あり)
  弁理公使は、外交使節の第3の階級で、公使に次ぎ、代
 理公使の上位のくらい。
1859年5月、米英公使と居留地造成の交渉で、わが国の腹案
 は遂次つぶされた。
  9月に、計画案をたて実施されることになった。
  大浦湾入の大半を梅香崎側に埋立てるもの(現・長崎
 県庁近く)。
  居留地の核体となる第1次の造成。
  1861年4月になって、第1次居留地の完成に伴い、仮泊
 地協定により4月をもって居留地への移動を決めた。
  大浦海岸通りの造成により、仮泊地で待機していた山
 手地区一帯の貿易商人や商社が移動を開始。
  ほとんどが英米系で、なかでも英国人は海岸に面する
 上等地を占領して活躍した。
1859年5月、長崎奉行所よりの達しで、「たとえ、外国人が
 買い揚げている遊女であっても、見物のために外国船へ
 行くことは罷りならぬ」と禁止した。
1859年5月、イギリスが、大浦郷の妙行寺内にて外交事務・
 英国領事館を開始した。
1859年6月2日、下田、横浜、長崎、函館の4港を開き、英・
 米・仏・蘭・露の5国と交易す(5月28日説あり)
  自由貿易を許可する旨布告。
1859年6月2日、幕府が、貿易許可の3開港場で、江戸図面、
 官服、法制書籍、武艦類、兵学書類、甲冑、刀剣などを
 外人に売ることを禁止した。
1859年6月20日、幕府が、外国より武器輸入を許した。
  幕府が、3開港場における武器購入を大名、旗本、藩
 士に許可した。
1859年6月22日、幕府が、外国との貿易を許す(当時生糸1
 斤の価1両1分、生糸輸出始まる)
1859年6月25日、幕末の通貨問題。
  日米和親条約の締結後に決められた日本の貨幣と海外
 貨幣の交換比率に関する問題で、
  日本と諸外国の金銀交換比率が異なったため、日本か
 ら大量の金が流出した。
  この日に出された幕府の触書で、当時、小判として最
 も多く流通していた天保小判は、一分銀5枚の増歩通用と
 されたが、
  実際の流通の場の市場では、さらに上がり一分銀6枚を
 要求される状況で、
  これが、9月になると8枚とか、9枚とかと上昇した。
  国際価格から見て、日本の金が安い状況であるため、
 この様な事態が生じたのだが、安い日本の金は、海外へ
 大量に流出した。
  これは、開国に伴う日米間での日本貨幣と西洋貨幣と
 の交換比率の交渉において、1856年に、ハリスの論理に
 押し切られた結果であった。
  この時、1ドル=3分との交換比率を飲まされた。
  米国総領事のハリスは、これでたいぶ私腹を肥やした。
  儲けのカラクリは、1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換
 し、両替商で4枚を小判(金)にし、国外で地金にして売
 却するという手順で大儲けした。
  1両が4ドルになった。
  つまり、1ドル銀貨の1枚と1/3枚が、4ドルになった。
1859年7月、新たに外国奉行を置く(氷川清話)
1859年7月、勝海舟、赤阪元氷川下に転居(氷川清話)
1859年7月1日、横浜港・函館港・長崎港開港。
  イギリス、ロシアに開港。
1859年7月4日《06/05》日米修好通商条約により、神奈川と
 長崎が開港した。
1859年7月9日、吉田松陰が、江戸伝馬町の獄に投じられた。
1859年7月16日、幕府が、外国人擁護を令す。
1859年7月、コレラが流行し、青魚、タコ、生野菜、果物、
 鶏肉など禁食リストを公表した。
1859年8月、蝦夷地を割き、奥羽諸藩に賜う(氷川清話)
  奥羽6藩に蝦夷地を分割す。
1859年8月、運用銀、吹直し(氷川清話)
1859年8月、洋銀、運用を許す(氷川清話)
1859年8月、勅書水戸家に下る(氷川清話)
1859年8月、松木弘安箕作秋坪、原田敬作、高畑五郎、外
 国方訳員となる(氷川清話)
1859年8月、水戸斉昭、一橋慶喜松平慶永、引責、蟄居を
 命ぜられる(氷川清話)
1859年8月、江戸城本丸火事(氷川清話)
  江戸城本丸全焼、翌年11月、殿舎再建成る。
1859年8月、横浜、凾館、長崎を開港す(氷川清話)
1859年8月、横浜の風聞:
  五国条約というものが発布になったので、横浜は正し
 く開けたばかりのところ、
  そこで、私は横浜に見物に行った。
  その時の横浜というものは、外国人が、そこに住って
 店を出している(福翁自伝
1859年8月4日《7/6》シーボルトが、日本追放後30年ぶりに
 ドイツ人の妻と、5人の子女を連れて、再来日した(7月
 6日説あり)
  日本にいた時に、妻と子としていた母娘に再会した。
  再会後シーボルトは、「たき」と疎遠となり同居を拒
 んだ。
  「たき」は、シーボルト帰国の1年後に再婚した。
  その後、寡婦(その夫を失い未亡人)となった。
1859年8月10日、フランス総領事(のち公使)ド・ベルクール
 着任、三田済海寺を居館とする。
1859年8月13日、ポンペが、幕府の許しを得て、早朝から夕
 暮まで3日間にわたり、
  西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習を行なった。
  日本初の死体解剖実習に、受講生46人、シーボルト
 娘イネも参加した。
  許可が下りるまでは、パリから取り寄せたキュンスト
 レーキによって説明されていた。
  キュンストレーキとは、紙製の人体解剖模型で、フラ
 ンス人の解剖学者オズーによって作られたもの。
1859年8月15日、フランスに開港した。
1859年8月27日、徳川斉昭を国許永蟄居、徳川慶篤を差控、徳
 川慶喜を隠居謹慎に付する。
1859年、第二次アヘン戦争(アロー戦争、アロー号事件
  1856年10月に、イギリス船籍のアロー号が、広東の下
 流域に停泊していた時、
  この船が、禁制品のアヘンを積んでいたので、中国の
 清国兵が、乗組員12名を清国軍艦に引致した(いんち、
 引っ張っていくこと)。
  イギリスは、清国と戦争する口実が欲しかった。
  この事件は、難癖をつける、言いがかりをつけるに絶
 好だった。
  イギリスは、フランスと連合し、
  1857年暮れに、英仏連合軍は、広東を攻め、陥落させ
 た。
  そして、その時、捕らえた清国の総督を、インドのカ
 ルカッタへ連れ去った。
  1年後、この総督を幽死させた。
  イギリスは、強圧的に、「清国全権が香港に来て和を
 講ぜよ」と敗北を認めよと言ったが、清国は応じなかっ
 た。
  そこで、英仏連合軍は、白河河口の太沽砲台を陥(お
 としい)れた。
  そして、河をさかのぼって天津に入った。
  清国は、やむなく、敗北を認め、英仏と和議を結んだ
 (天津条約)。
  しかし、事は、これで終わらなかった。
  清国の利益を、とことん得たいイギリスとフランスは、
 この条約の批准交換をする地に難癖をつけた。
  すぐれたる武器を持つ英仏は、再度、清国に対して武
 力をふるった。
  条約の批准地と言ったって「北京」にするか?「上海」
 にするか?の違いだけだった。
  結局、イギリスとフランスは、とことん清国を攻めて
 利益の収奪(より有利な講和条約を締結する)をしたい
 だけだった。
  イギリス艦隊は、1859年に、天津に侵攻しようとした
 が、太沽砲台の砲撃を受け、いったん退いた。
  そして、今度は、イギリスは、仏と連合し、英仏連合
 軍として宣戦布告をした。
  そして、英仏連合軍は、陸海から北京へと進撃した。
  清国皇帝は、熱河に蒙塵(もうじん、余裕なく都落ち
 する事)した。
  熱河は、中国河北省の都市。
  この時のイギリス兵の主力は、インド兵の1万だった。
  インドは、可哀想な事に、イギリスに国を奪われた上
 に、先兵として戦わせられたりもしていた。
  清国は、1860年10月に、英仏と北京条約を結び、九龍
 を奪われた。
  イギリスの新聞のデイリーテレグラフは、1859年に、
 次の社説を書いている・・
  「大英帝国は、支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、
 清帝をその宮廷より放逐し、将来起こり得る攻撃に対し
 て実質的保障を得ねばならぬ。
  我が国家的象徴に侮辱を加えんとする支那官吏を鞭(
 むち)にて打て。
  すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦
 の帆桁にかけよ。
  人殺しのごとき人相して、奇怪な服装をなせるこれら
 多数の悪党の姿は、笑うに堪えざるものである。
  支那に向かっては、イギリスが彼等より優秀であり、
 彼らの支配者たるべきものたることを知らせねばならぬ」。
  因みに、帆桁にかけるは絞首刑を意味している。
  キリスト教の有色人種蔑視の観念が現れている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive