(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年〜1733年)

題:(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年〜1733年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1732年、イギリスのアメリカのジョージア植民地が成立し、
 北米のイギリス植民地が13州(最初は「邦」と言ってい
 た)となった。
  北米におけるイギリスの植民地は、1607年のヴァージ
 ニアに始まり、
  この1732年のジョージアに至って、北アメリカ大陸
 東海岸に13の植民地が形成された。
  このイギリスからの移住者(植民地人)は、フランス
 からの移住者と違い、先住民のインディアンの方々の土
 地を奪って、定住して行ったため、
  インディアンの方々と衝突することも多く、殺戮し、
 土地を奪って行った。
  ニューイングランド植民地(北部植民地)は、ピュー
 リタン(キリスト教清教徒、イギリスの新興宗教のキリ
 スト教でイギリスで迫害を受けたため、アメリカの新天
 地を求めて移住して来た)が多かった。
  後に、奴隷貿易を始めて、アフリカから非人道的行為
 である黒人の方々を連れて来る(輸入すると称した)。
  この黒人の方々を使ったプランテーション経営層は、
 キリスト教カトリックが多かった。
1732年、中国、清朝雍正帝が、軍機処(ぐんきしょ)を設
 置した。
  軍事機密を保持するため。
  軍事・行政上の最高機関。
  1929年に、紫禁城内に臨時に設けられ、1732年に独立
 し、正式に軍機処と呼ばれることになった。
  雍正帝の時は、北方遊牧民族に対する軍事力行使のた
 めに臨時に設けられたが・・、
  乾隆朝になると、内閣の実権を奪って、重要政務全般
 をつかさどる最高機関になった。
1733年、杉田玄白(すぎたげんぱく、蘭方医蘭学者)が、
 江戸で生まれた(1733年〜1817年)
  前野良沢らと「ターヘル・アナトミア」を訳出し「解
 体新書」として刊行した。
  西洋医学を広く紹介した。
  著書に「蘭学事始」などがある。
1733年、円山応挙(まるやまおうきょ、絵師)が生まれた
 (1733年〜1795年)
  「雪松図屏風」(国宝)
1733年1月、米価騰貴し、初めて江戸で打ち壊し(打毀・う
 ちこわし)起こる。
  また、各地で米価高騰のため、打ち壊しが相次いだ。
  前年の1732年に、享保の大飢饉が起きている。
  打毀は、百姓一揆と違い、おもに都市において見られ
 た暴動で、暴動の主体勢力が都市の下民層で、原因が、
 米価高騰にあった。
  打毀の対象となったのは、米屋、酒屋、質屋、問屋な
 どの富裕な商人たちだった。
  この人々の意識に、米価の吊上げを謀った(はかった、
 計略に掛ける)ことから、その影響を受けたという意識
 があった。
  打潰(うちつぶし)とも言い、打壊とも書き、
  百姓の場合は、大庄屋・庄屋層、地主・在方商人(ざ
 いかたしょうにん、農民身分のまま商業活動を手広く営
 むようになった商人層)・都市富商などの豪農・豪商の
 家屋・家財・生産用具類を破壊し、被害を与えた。
1733年、江戸日本橋で高間騒動。
  この江戸での打ち壊しに、高間騒動というのがある。
  高間伝兵衛は、豊かな米商人だった。
  幕府は、1730年9月12日に、この打ち壊しから3年前に、
 豊年が続いて米価が下落し、武士などの財政が困窮して
 いたのを救うため、
  幕府は、伝兵衛など8人の米穀商に、上方の米(かみが
 たまい)の独占取引権を与え、買い入れさせていた。
  1731年には、幕府は、米穀商へ安売りを禁じた。
  そしてまた、1731年7月には、米方役の伝兵衛を、大阪
 に派遣して買米(かいまい、幕府の買い上げ)をさせた。
  1732年に、享保の大飢饉が起きる。
  1733年まで餓死者が相次いだ酷い飢饉だった。
  幕府は、この飢饉の時、昨年に買入れた米や、東国の
 米までもを加えて、西国に送り出し、救援した。
  その為、江戸でも、米不足が起きて来て、米価が上が
 った。
  そして、庶民は困窮した。
  1733年1月23日に、伝兵衛は、高騰した米価を下げるた
 め、幕府に安価で、備蓄していた米の2万石を売りに出す
 ことを願い出た。
  幕府は許可した。
  しかし、江戸の町民は、「米価が高騰したのは、幕府
 と癒着した米商人の、この高間伝兵衛が、米を大量に買
 い占めて、貯えているせいだ」と噂を立てた。
  その時、流行った狂歌が・・、
  「米高間 壱升弐合で粥にたき 大岡食はぬ たった
 越前」・・と詠った。
  これは、米が高く(高間)て、銭百文では一升二合し
 か買えないので、お粥にしたが、多く(大岡)食べられ
 ず、たった一膳(越前)だけだ。
  実際は、伝兵衛の備蓄は、米価調整の為であり、私欲
 で貯め込んでいた訳ではなかったが、
  米方役として米価を左右し、江戸吉原を3日間貸切ると
 いう豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対し、
  庶民は「私欲で、米穀を買占め、高値で売っている」
 と疑った。
  そして、26日の夜、町民たちが1700人余り(4000人と
 もあり)が集まり、
  伝兵衛の本船町の店(たな)の打ち壊しを決行した。
  家財は砕かれ、前の川に捨てられた。
  町奉行は、捕り手を出動させ、騒動を収めた。
  そして、打ち壊しを扇動した首謀者を捕らえた。
  首謀者4人の内、1人を重遠島、3人を重追放とした。
  伝兵衛は、打ち壊しは会ったが、翌月には、米2万石を
 安価に売却する事を、幕府に願い出て、上申した。
  歌舞伎・講談などでは、町人の受けを狙って伝兵衛を
 悪徳商人として描いていることが多い。
  伝兵衛は、1735年7月に、病死した。
  そして、次の代の同じ名の伝兵衛が引継ぎ、11月に、
 米方役に任命された。
1733年、狂犬病の流行(日本における最初の流行)
  西日本に狂犬病が流行し、以後、東日本にも波及した。
  この狂犬病の発端は長崎だった(外国からの流入)。
  この年に、長崎から狂犬病の大流行が始まった。
  「両郡古談」に、
  「(1733年の享保)18年5、 6月頃より犬夥しく麻疹
 に而多くくるい人に喰付く、 はれ候者は疵口甚痛、 病
 犬の熱毒皮肉臓腑に通り多く死す。 尤去子年、 長崎辺
 りより流行、 牛馬等へも喰付候段、 打殺川にも入る也」
 とある。
  翌年の1734年には、長崎から大分へ伝播した。
  また、別の史料によると、
  「享保17(1732年) 壬子年、今年西国筋は不気候に之
 あり、備前、備中、広島、備後辺之犬迄も病につき、人
 民に噛付き、多く人損しも有之、播州辺迄も同様之由也」
 という記載がある。
  長崎での発生と同時に、中国地方を山陽道に沿って一
 気に東走して、4年後の1736年に、東海道を経由し、江
 戸まで到達したという。
1733年、農業:藍専売制、阿波藩(徳島藩)が、藍の専売
 制を開始した。
  吉野川流域に産する阿波藍(あい)は、藩最大の国産
 品で全国に市場を持っていた。
  1804年のピーク時には27万俵を算出し、藩の経済を大
 きく支えていた。
  しかし、順調に来たわけではなかった。
  藍作人は、藍作の展開に伴って、逆に、商品経済の好
 餌となり、経営が破綻し、困窮化の様相を強めた。
  藩は、阿波藍の利潤に着目して、1733年に、藍方御用
 場を新設し、葉藍取引税など葉藍専売制の政策に着手し
 た。
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