(増補版)126D1/3:気になった事柄を集めた年表(1668年〜1671年)

題:(増補版)126D1/3:気になった事柄を集めた年表(1668年〜1671年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1669年頃、建設:江戸小石川の後楽園(水戸候別邸の庭園、
 特別史跡特別名勝)が完成した。
  徳川光圀が、朱舜水の意見を取り入れて、この頃、完
 成した。
  神田上水を利用した築山(つきやま)泉水庭。
  第二次世界大戦で焼失し、一部が残存している。
1669年、指示:淀川工事費を四国大名らに課した。
  幕府は、淀川の浚渫(しゅんせつ)の費用をつくるた
 め、西国・中国・四国の大名らへの課役銀を賦課した。
1669年、北海道の全域でアイヌの諸部族の統合が進んだ。
  しかし、松前藩の交易独占の動きがあり、また、交換
 レートに反対して反乱が起きた(シャクシャインの乱)、
  松前藩の交換レートが不平等が原因だった。
  幕府は、東北諸藩も応援させて治めた。
1669年、コーヒーのパーティー
  この年、パリでトルコ大使のソリマン・アガーが、新
 しい飲み物、コーヒーのデモンストレーション・パーテ
 ィーをベルサイユ宮殿で開いた。
  これが評判を呼び、コーヒーは上流社会に流行して行
 った。
1669年、オスマン帝国が、クレタ島を併合。
  クレタ島、地中海に浮かぶギリシャ南方沖の島。
  古代にもミノア文明が栄えたこの地を、1645年〜1699
 年にかけて、ベネチアオスマン帝国が戦った(クレタ
 戦争、54年間の戦い)。
  ベネチア領だったクレタ島オスマン=トルコの手に
 落ちた。
  エーゲ海からベネチアの勢力圏を排除し、制海権を得
 た中で地中海貿易がしたかったと考えられる。
  クレタ戦争は、はっきりした史実だが、世界史小辞典
 にも解説されていない何か不明な戦争。
1670年、私塾:林雅邦の「本朝通鑑」が完成した。
  「本朝通鑑」完成のために、幕府は、95人扶持の費用
 を給した。
  支給開始は寛文4年、その支給金は、寛文10年に完成し
 たからと、給付中止をする訳ではなく、幕府は給付し続
 けた。
  そして、その給付金でもって書生教育をしなさいと言
 った。
  この頃から、林家の私塾が、だんだんと幕府の官学的
 色彩を帯びるようになった。
  朱子学が、幕府の官学、つまり、近世儒学の正統とし
 て定着して来ていた。また、ほぼ同じこの頃、それを批
 判する古学も勃興して来た。
  思想・哲学探求に熱心に取り組む幕府だった。
1670年、藩校:閑谷学校の設立
  岡山藩主の池田光政が設立した。(1668年説あり)
1670年、経済:十人両替が成立
  大阪十人両替が成立した。
  十人両替とは、江戸幕府が、大阪の本両替仲間の内か
 ら、仲間の取締りと同時に、公金の取り扱い、米の買い
 上げ、御用金の調達などの公用を務めさせるために選任
 した10人の御用両替商のこと。
  鴻池屋・天王寺屋・泉屋らの10人がそろったのは1670
 年だった。
1670年3月14日、江戸城の刃傷(にんじょう、刃物で人を傷
 つけること)、
  元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん、忠臣蔵
  浅野長矩浅野内匠頭)が、江戸城殿中(松之大廊下)
 で吉良義央吉良上野介)を傷つけた。
  浅野内匠頭は、「この間の遺恨」と言って斬りかかっ
 たという。
  その遺恨は、どのような遺恨かの記録はない(忠臣蔵
 ではいろいろ言うが?)。
  浅野内匠頭は、即日、切腹となった。
  そして、浅野内匠頭播磨国赤穂藩主であったため、
 赤穂藩はお取り潰しとなった。
  赤穂城も明け渡しとなった。
  吉良には何のお咎めもなかった。
  浅野内匠頭が斬り付けた時、吉良が抜刀しなかったの
 で喧嘩ではないとして(浅野内匠頭の一方的な違法行為
 として)「喧嘩両成敗」にならなかった。
  ここから筆頭家老・大石良雄(内蔵助)の話が始まる。
1670年3月、八丈島・・発見、
  幕府が、長崎代官の末次平蔵に命じて建造させた唐船
 造御船が、この時に、竣工した(長さ30メートル、1500
 石船だった)。
  3月25日に、長崎を出航し、4月10日に、江戸に着いた。、
  この船は、1673年1月に、志州(志摩国)安乗沖で、海
 難により沈没した。
  2隻目が幕命を受け、1673年2月に建造された。
  1674年に、この2隻目の船で、無人島調査を密命で行
 った、
  それは、紀州のみかん船が遭難し、江戸の南方・母島
 に漂着し、生還した。
  そして、「八丈島はるか南方洋上に無人島群あり」と
 驚くべき発見を、幕府に報告していたからだった。
  2隻目の船は、1675年6月22日に、苦難の末、その無人
 島を発見し、父島湊内に錨をおろした。
  翌日、調査を開始し、父島・母島に神社を建立し、日
 本領土の明示の標柱を建てた。
1670年、令:酒造を禁じた、凶作による令だった。
1670年、事件:江戸城内で、口論から切腹
  右筆の水野伊兵衛が、江戸城右筆部屋で大橋重政と口
 論し、水野が脇差を抜いたため、4日後に切腹を命じられ
 た。
1670年、社会資本整備:箱根用水
  箱根用水が完成した。
  友野与右衛門らが、箱根用水を掘削し、芦ノ湖の水を
 トンネル水路を通して引いた。
1670年、出版:「新版江戸大絵図」(寛文5枚図)が出版
 された。
1671年、日本の領土・竹島
  家綱が、この年に、巡検使を引見し、関東各地の政治・
 民情を下問した。
  巡検使は、幕命を受けて諸国を巡回し、政情・民情や
 作物の豊凶を視察した臨時の職のことで・・、
  竹島の事で、綱吉のお目見えにあづかった大谷家があ
 った。
  また、この年に、大谷九右衛門は家綱の御目見得にあ
 づかっていた。
  ・・というのは、大谷家と将軍家とのつながりの中に
 竹島の事があった。
  大谷家は、1617年に、竹島に漂着して、島に豊富な物
 資(海産物など)がある事を発見した。
  そして、その物資を日本に持って来て、商う事業を始
 めた。
  そのため、島へはよく渡っていた。
  幕府に対しても、事情をよく説明し、渡海許可を受け
 ていた。
  その様な事もあり、大谷家は、幕府へ海産物などを献
 上していた。
  例えば、公方様と老中様へのお礼に、竹島の干しあわ
 び500個入り1折り、
  側用人様、若年寄様、寺社奉行様へは、300個入り1折
 りなどを献上した・・
  この様な記録が残っている。
  そして、この1671年に、将軍様のお目見えにあづかっ
 ていたのだった。
1671年、阿部忠秋(あべただあき)が官職を退く(隠居)。
1671年、幕領諸代官に宗門人別改帖を作らせた。
1671年1月、有名な事件:伊達騒動(だてそうどう)
  伊達宗重(むねしげ、通称:安芸、涌谷伊達氏当主)
 の訴えによって、この年に、幕府の法廷に仙台伊達家の
 両派の抗争が持ち出された(江戸出府の命が幕府から出
 て、仙台より江戸に立つ)。
  仙台藩の藩主・伊達綱宗の放蕩が原因で、諌めても直
 らなかったので、幕命によって強制隠居させられた。
  そして、わずか2歳の伊達綱村が藩主となった。
  事件はこれで終わらず、先の件は序章だった。
  そして、これから起きる騒動が、一般に伊達騒動と言
 われている事件で、「寛文事件」という。
  幼い藩主を支える大叔父・伊達宗勝は、権力を自分に
 集中させ、実権を掌握した。
  そして、協力する家臣たちと前事件の処理をした。
  断絶した家も出たりした。
  また、悪い時に悪いことが起きるもので、伊達家内で
 所領のいざこざが起きた(所領紛争)。
  その境界の争いの処理案について、専横があるとか、
 ないとかの問題で、幕府に上訴する問題が起きた。
  江戸の審議が、またすんなり行かなく、同じ藩で、家
 なのに、互いに深く傷つく争いが続いた。
  幕府の裁断にも不満の思いが出た。
  証言の違いのいざこざ、処分のない家への妬み、問題
 がすっきりと解決して行かなくて、審問は続いた。
  それだけ、根が、深い問題となっていた。
  幕府も大変だっただろう。
  場所を移して審問したりした。
  メンバーも変わったりしての審問。
  その様な中で、審問控室で、原田は宗重を惨殺した。
  そして、老中の居る部屋に向かって突入した。
  驚いた柴田は、原田と斬り合いとなった。
  加勢したものも出る。
  原田は即死、酒井家家臣の3人が斬られ、柴田は翌日に
 死亡した。
  問題を起こした家は処罰され、宗勝は、後見人の責任
 を問われ、一関藩は改易となった。
  ただ、幼い藩主には責任がないと、お構いなしとなっ
 た。
  この事件を後世に伝える記録は多い。
  そしてそして、この寛文事件後に、この事件の後遺症
 の事件が、また、起きる・・が、割愛。
  1697年に、そして、1703年に、幕府の手を煩わせるこ
 とが、また起きた(綱村隠居事件)。
1671年、社会資本整備:釜無川
  甲州釜無川の右岸に徳島堰が開削された。
1671年、流通:航路開発
  河村瑞賢が、奥州と江戸間の航路(東回り航路)を開
 発した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/