(増補版)120D1/3:気になった事柄を集めた年表(1655年〜1657年)

題:(増補版)120D1/3:気になった事柄を集めた年表(1655年〜1657年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1656年10月、浅草に鋳銭座(ちゅうせんざ)を設置された。
  鋳銭座は、銭貨の鋳造と発行を行った機関。
  銭座(ぜにざ)とも言う。
1656年、琴・生田流
  生田検校(1656年〜1715年)が生まれた。生田流を起
 こし、ついで、寛政年間に、山田検校(1757年〜1817年)
 が山田流を開いた。
1656年、社会資本整備・市之堀用水が完成した、
  宇都宮藩の山崎半蔵は、流水量の豊かな鬼怒川から市
 之堀用水を引いた。
  新田開発のための用水だった。10年を要した。
1656年、制度・町名主制
  江戸の町名主制が強化された。
  農村を統制する名主に対して、町名主と呼んだ。
  家康が、1590年に江戸に入った時、既に江戸にいた者
 から取り立てたり、家康が入国後に命じたり、新たな町
 が建設されるに際してなる者がいた。
  訴訟の和解なども行った。
1656年、体制転換:知行制から俸禄制へ転換
  鳥取藩が、知行制を改革した。
  諸藩で地方知行制の廃止し、俸禄制への転換をした。
  家臣に領地を与え、または、本領安堵をし土地支配権
 を認める知行制(家臣が、知行地の農民に対して直接に
 個別的に年貢の取り立てをする)に替えて、
  武士の給与を俸禄とし、大名が土地支配権を一括して
 担う傾向が強くなった。
  俸禄として米や貨幣を与えた。
1656年、盗賊取締り
  関東の盗賊取締りのため、5人組の規制を強化した。
1656年12月、吉原移転
  吉原に移転命令が出た。
1656年、酒井忠勝(さかいただかつ、若狭小浜藩主)が、
 大老の職を辞した(隠退)。
1656年、清が、商人の出海貿易を禁じた。
1657年3月2日〜4日、明暦の大火(振袖火事)
  火元は1ヶ所ではなかった。
  本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生した。
  一つ目の火災が収束しようとしている所へ、次の火災
 が発生し、江戸市街の6割が焼失した。
  前年の11月から雨が無く、非常に乾燥していたという。
  北西からの風が強かったという。
  3月2日、14時頃、本郷より出火し、神田・京橋方面に
 燃え広がり、隅田川対岸にまで及んだ。
  3月3日、10時頃、小石川から出火、飯田橋から九段一
 体に延焼し、これによって江戸城天守閣を含む大半が
 消失した。
  3月3日、16時頃、麹町より出火、南東方面へ延焼し、
 新橋の海岸に至って鎮火した。
  死者、3万〜10万人、
  放火説がある。
  幕府は、米蔵から備蓄米を放出し、食糧の配給をした。
  また、木材などの騰貴を押さえるため、木材や米の価
 格統制をした。
  また、武士・町人を問わない復興資金の援助をした。
  老中の松平信綱は、合議制の先例を廃して、老中首座
 の権限を強行して、1人で諸大名の参勤交代を停止し、ま
 た、早期帰国などの施策を行って、災害復旧に力を注い
 だ。
  また、信綱は、米などの物価騰貴も見越して、旗本ら
 に救済金を渡した。
  大火後、町割りを改正した。
  本丸は、翌年、再建された。
1657年3月、林羅山(林道春)が没した(1583年〜1657年)
1657年3月、新井白石(あらいはくせき、旗本・政治家・
 学者)が生まれた(1657年〜1725年)
  開幕以来、長崎貿易で大量の日本の金銀が海外流出し
 ていたため、これを縮小する政策を取った(海舶互市新
 例、かいはくごししんれい、1715年)。
1657年、三間梁規制
  大火の後、梁間を3間(約5.4メートル)に制限した。
  瓦葺禁止(火事の際に、瓦が落下して怪我をするため
 との事、江戸の民家は板葺や草葺が多かった、しかし、
 防火性の向上の為、土蔵には瓦葺屋根が認められた、8
 代将軍の吉宗の時に、瓦葺禁止令が全面廃止となった)。
  本町通り・日本橋通りで、庇による街並みの統制を図
 った。
1657年、大火後の独占
  幕府は、江戸の商人組合が、何かと申し合わせをして
 独占的な行為に走るので、それを禁じたが、
  その対象となった組合20種の中に『物之本屋』も入っ
 ていたので、出版業者(販売も兼ねていただろう)も、
 江戸の主要業者の仲間入りをしていたものとみられる。
1657年、江戸大火後の再建に際して、各地に広小路・火除
 地を設けた。
1657年、木材が急騰した。
1657年4月、大日本史の編纂に着手
  水戸藩主の水戸光圀大日本史の編纂を開始した。
  明暦の大火で江戸・小石川の藩邸が焼失したために、
 駒込の別邸へ移り、ここで編纂事業を開始した。
  1672年からは編纂事業を本格化した。
  史館を再建し、史館員を各地方へ派遣し、史料収集に
 努めた。
  明朝遺臣の朱舜水を招聘して助言を受けた。
  光圀が亡くなった1701年以降も、編纂事業は継続され
 た。
  しかし、江戸時代中には完成せず、明治39年1906年
 に完成した。249年を要した大事業だった。
1657年7月、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ、町人、
 旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領)
  旗本奴の水野成之(みずのなりゆき、水野十郎左衛門)
 が、町奴の幡随院長兵衛(日本の侠客の元祖といわれる)
 を殺した。
  十郎左衛門は、この件では御咎めなしであったが、後
 に(1664年)行跡怠慢で母の実家・蜂須賀家にお預けに
 なった。翌日、評定所へ召喚されたところ、月代を剃ら
 ず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜である
 として即日に切腹となった。享年35歳。
1657年9月、株仲間(かぶなかま)の独占禁止をする。
  株仲間は、幕府や諸藩の許可を得た独占的な商工業者
 の同業組合だが・・、
  幕府は、外国貿易品統制や、良品の製作販売、価格統
 制などの目的から保護政策をとった。
  幕府は、当初は楽座(らくざ)政策をとって、座や仲
 間の申し合わせを禁じた。
  しかし、実際には仲間が組織されていた。
  幕府は黙認していた。
  しかし、この年に、商工業の組合を禁止した。
1657年、大八車の導入
  普請に大八車が導入された。
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