(増補版)98C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月〜1600年9月)

題:(増補版)98C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月〜1600年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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慶長5年(1600年)9月3日、戦機が熟して行く。
  天下を分ける戦いになると予想している家康。
  世の流れを完全に掴んでいた家康。
  この家康が、満を持して9月1日に江戸城を出陣した。
  関ケ原の戦いまで、あと15日。
  江戸城に、26日間、居て、諸大名へ、そして、諸将へ
 書状を出し、今まで、豊臣の世に居た武将たちの気持ち、
 そして、動向を掴んでいた。
  そして、家康の考えを伝えていた。
  家康の世に代わるその必然な動きがあるだろうか、そ
 して、なるだろうか・・と、その動きも見つめて来てい
 た。
  そして、この時、その動静を掴み、ここだという9月1
 日に、江戸城を出陣した。
  岐阜城を陥落させた諸大名・諸将たちが、家康の出陣
 を、今か今かと待っていた。
  ここも家康の読みだった。
  上州の小山会議(1600年8月23日、慶長5年7月24日)で
 打倒三成で結束した面々たちだった。
  福島正則田中吉政加藤嘉明細川忠興藤堂高虎
 池田輝政・堀尾忠氏・山内一豊・一柳直盛・浅野幸長
 京極高知黒田長政井伊直政・本田忠勝といった東軍
 34000が、岐阜城をまたたく間に攻略し、
  続けて翌日には、黒田・藤堂・田中の軍勢が大垣城
 赤坂に陣取っていた。
 一方、西軍も、着々と関ヶ原へと結集して来ていた。
  大谷吉継が、この日・9月3日、関ヶ原西南にあたる山
 中村に到着した。
  宇喜多秀家も、8,000の軍勢を率いて大垣城に入った。
  ついで7日には、毛利秀元吉川広家長宗我部盛親
 長束正家らの率いる約30,000の大軍も、続々と伊勢から
 美濃に入り、南宮山の東麓に陣を敷いた。
慶長5年(1600年)9月8日、三成も、この日・8日に、大垣
 城に入った。
  病気を理由に形勢を見守っていた小早川秀秋も、14日、
 松尾山に着陣した。
慶長5年(1600年)9月11日、家康が、清州城に入った。
慶長5年(1600年)9月14日、岡山本陣、
  岡山本陣は、家康が最初に本陣所としたところである。
 この日(14日)の正午頃、家康は、70000余の東軍の軍
 勢が結集し、大垣城に対面している赤坂陣の高地である
 ここ岡山に本陣を構えた。
  そして、早速、家康は、軍議を開き、
  三成らの拠る大垣城には押さえの兵を置くだけで、東
 軍の主力は佐和山城を攻略し、
  その勢いで大坂城を攻める作戦を確認する。
  この情報は、同じく軍議を開いていた西軍に流れる。
  三成は急きょ軍議を中断し、
  東軍を関ヶ原で食い止めるべく、夜のうちに大軍を関
 ヶ原に移動させることを決意した。
  この時の家康の考えは、豊臣恩顧の武将が多く、機の
 熟した今、即戦即決で行く・・と考えていた。
 こうした動きの裏で謀略が進行していた。
  西軍・吉川広家は、東軍・黒田長政に密使を送り、君
 主・毛利輝元の無罪と、毛利家の領国安堵を条件に戦闘
 の不参加を約束する。
  さらに、松尾山に着陣した小早川秀秋には、東西両軍
 からの勧誘の手が伸びていた。
  東軍側は、黒田長政を通じて工作を進めており、14日
 の時点で、秀秋は内応を約束し、長政のもとに人質まで
 出していた。
  一方、西軍側も、同じ14日付けで安国寺恵瓊、大谷吉
 継、石田三成長束正家小西行長の5名連署による誓書
 を届け、懐柔を図っていた。
慶長5年(1600年)9月14日、杭瀬川の戦い
  この頃の大垣城では、岡山に立ち並んだ馬標や白旗を
 見て家康の着陣を知り、士卒の間に動揺が起こっていた。
  三成の臣・島左近勝猛は、ここで一戦して西軍の威勢
 を示して士気を回復すべしとして、蒲生郷舎と共に兵500
 を率いて打って出た。
  杭瀬川を渡った島左近らの一隊は、東軍・中村一栄の
 陣前で稲を刈って挑発した。
  これに対して一栄の部将の一色頼母が一隊を率いて柵
 から出戦し、島隊に襲いかかった。
  島隊は、わざと敗走し、川を渡り中村勢を東岸に誘い
 込んだ、そして、伏兵と共に挟み撃ちにして頼母以下30
 余人を討取った。杭瀬川の戦いである。
  この戦いを岡山から見ていた家康は、はじめは称揚し
 ていたが、次第に不機嫌となって、「大事の前にこの様
 な小戦で兵を損じるとは何事か」と怒り、本多忠勝を派
 して兵を収めさせた。
  家康は、「明夜明けに当所を発して佐和山城を破り、
 大坂城に進む」という情報をわざと三成方に知らせる様
 に間者を放った。
  岡山本陣では家康が、大垣城の動静を見守っていた。
  ついに午後7時頃、降りしきる雨の中を、石田三成
 を先頭に西軍勢40000が、兵7500を大垣城に残し、西に向
 かって進発した。
  闇に包まれた雨の中を松明を消し、馬の口を縛り、息
 をひそめて泥道を進んで行った。
  先頭の石田三成が、関ケ原の笹尾山に布陣したのが、
 日にちが変わった15日の午前1時頃と言われている。
  最後尾を進んでいた宇喜多秀家が布陣を終えたのが、
 午前5時頃とされる。
  実は、これは家康の策にかかった行動だった。
  杭瀬川の戦いの後、西軍では、早速、軍議を行ってい
 た。
  そして、意見は二つに割れていた。
  戦慣れした宇喜多秀家は夜襲を主張した。
  「徳川軍はかねてよりの行軍にて、疲れきっている、
 この機を逃さず、夜襲を仕掛けるのがよい」と。
  島津義弘も同調した。
  これに、石田三成小西行長は反発した。
  「夜襲は危険である。家康がそれほど簡単に夜襲を受
 けるほど、無策とも思えぬ」と。
  もう一つの意見が、大垣城での籠城案だった。そして、
 秀頼公と毛利中納言(輝元)殿の出馬を待とうという案
 だった。
  軍議は紛糾の様相を呈し、長引いた。
  そして、夕刻頃、西軍の軍議の席にもたらされた報が
 あった。それが・・、
  「東軍は、佐和山から大坂に向かう動きあり」と。
  三成は、戦略の変更を余儀なくされた。
  そこで、積極策が取られる事となった。
  西軍は、ただちに大垣城を出撃し、関ケ原で東軍の動
 きを止めるとなった。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、関ケ原の戦い
  徳川家康の総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将と
 して石田三成を中心とする西軍の戦いがはじまった。
  豊臣家の家臣同士の戦いと言ってもいい戦いだった。
  秀頼の出陣を要請した西軍であったが、秀頼は出陣せ
 ず、立場上は静観の立場であった。
  戦闘時間は約6時間、死者は両軍合わせて8000だった。
  この日、関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込めていた。
  家康から先鋒を命じられていた福島正則は、機会をう
 かがっていた。
  濃霧の中、両軍は2時間ほど対峙し続けた。
  霧が晴れて来た頃、その福島隊の前を井伊直政と松平
 忠吉の小隊が出て行った。
  福島正則の家臣の先頭部隊長の可児吉長が呼び止めて
 るが、かまわず井伊は陣形を見るとか言って松平ともど
 も福島隊の前方へ張り出した。
  そして、勝手に、直政の小隊は、西軍の主力である宇
 喜多隊に向けて突然発砲を開始した。
  宇喜多隊も直ちに応射。
  そこへ、井伊隊の抜け駆けに激怒した福島隊の鉄砲隊
 800名が宇喜多隊に突撃した。
  ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。
  この関ケ原の戦いで、最大の激戦と言われているのは
 東軍の福島隊と西軍の宇喜多隊の争いだという。
  双方ともが二、三度も退却した一進一退の激闘と『関
 ヶ原軍記大成』に書かれている。
  石田隊に黒田隊、細川隊が攻めかかり、
  石田隊は、木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎ
 ながら、鉄砲や大筒などを用いて必死に東軍部隊を抑え
 たという。
  そして、やや遅れて大谷隊に、藤堂隊、京極隊が襲い
 掛かり、吉継は巧みな用兵で、三倍近い藤堂隊、京極隊
 を何度も押し返したという。
  また、小西隊には、古田隊、織田隊がそれぞれ攻めか
 かり互角だったという。
  家康本隊3万は、戦闘には参加していなかったという。
  前線に床几を移した位であったという。
  実際に戦を見て書かれた『慶長記』には、
  「笹尾山陣地跡敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの
 声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜
 となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干
 戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う」とある。
  三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦してい
 ない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。
  また、戦いに加わらない島津隊に応援要請の使いを出
 したという。
  西軍は、総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万
 3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に
 は運んでいた。
  兵力数で上回る東軍は、西軍一部隊に対し、複数の軍
 勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、また
 間断無く攻め立てていたという。
  戦局は時間と共に、東軍優位に傾き始め、特に、石田
 隊は猛攻を受け、柵の中に退却していた。
  ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利
 秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親
 隊6,600ら、計4万7,000が、まだ、動かずにいた。
  徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦でき
 ずにいたと書く資料もある。
  結局、毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦しなかった。
  そして、この直後に起きる小早川秀秋の裏切りもあっ
 て、これが西軍の敗因となった。
  小早川秀秋は、松尾山の山奥に布陣し、初めは両軍の
 戦況が落ち着くまで動かない考えであった。
  正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が、
 動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射
 撃を加えるように命じた。
  迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し
 て松尾山を降りた。
  ここに、小早川隊1万5,000の大軍は、東軍に寝返った。
  なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は、「
 盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命
 令を拒否し離反した。
  小早川隊は、山を駆け降りると、大谷隊の右翼を攻撃
 した。
  ところが、それまで傍観していた脇坂安治小川祐忠
 赤座直保朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に
 呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。
  予測し得なかった四隊の裏切りも加わり戦局は一変し
 た。
  吉継は自刃して果てた。
  大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤
 堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げ
 ている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を
 始めた。
  ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。
  小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の
 家康本隊もようやく動き出し、東軍は、西軍に総攻撃を
 かけた。
  やがて3倍以上の東軍勢の前に、西軍は壊滅して行く。
  宇喜多秀家は、小早川秀秋と刺し違えようとするが、
 家臣に説得され苦渋の思いで敗走した。
  宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊は、早々と壊
 滅し、小西行長も敗走。
  石田隊も、粘りに粘り続けたが重臣が討死していて、
 とうとう壊滅した。
  三成は伊吹山方面へ逃走した。
  こうしたなか、戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲
 された。
  ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「
 島津の退き口」が開始された。
  島津義弘隊1,500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開して
 いた福島隊の中央に突撃を開始する。
  西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの
 反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は
 強行突破に成功した。
  更に、寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・
 井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破した。
  この時点で、島津隊と家康本陣までの間に遮るものは
 無くなってしまった。
  島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立
 ち、馬に跨って刀を抜くほどだったという。
  しかし島津隊は、直前で転進、家康本陣をかすめるよ
 うに通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始し
 た。
  松平・井伊・本多の徳川諸隊は、島津隊を執拗に追撃
 するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みた。
  決死の覚悟を決め、死兵と化した島津隊将兵の抵抗は
 凄まじく、
  追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。
  この際、島津方では島津豊久、阿多盛淳が捨て奸とな
 り玉砕。
  次に追撃した松平忠吉は、申の中刻に狙撃されて後退、
 負傷。
  本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬。
  徳川諸隊は、島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官
 が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決して
 いたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどか
 ら深追いを止めた。
  一方の島津隊は、多数の犠牲者を出しながら、兵も80
 前後に激減しながら辛くも撤退に成功した。
  西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢
 は、何も戦わせずして撤退を開始した。
  浅野幸長池田輝政らが追撃した。
  毛利は、長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受けて無
 事に戦線を離脱できた。そして、伊勢街道から大坂方面
 へ撤退した。
  殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は、
 少なからざる損害を受けるが辛うじて退却に成功。
  安国寺勢は、毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、
  長宗我部勢と長束勢は、それぞれの領国である土佐と
 水口を目指して逃亡した。
  西軍諸隊の中でまともな形で撤退できたのは彼らだけ
 だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/