(増補版)72C2/3:気になった事柄を集めた年表(1566年〜1568年)

 題:(増補版)72C2/3:気になった事柄を集めた年表(1566年〜1568年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1567年、淀君(よどぎみ、よどどの、秀吉の妻)が生まれた
 (1567年?〜1615年)(1569年生誕説あり)
  父・浅井長政、母・信長の妹・お市の方
  本名・浅井茶々(あざいちゃちゃ)、および、浅井菊
 子(あざいきくこ)、
  秀吉の側室となるが、大坂夏の陣(1615年)で、家康
 の作った江戸幕府との戦いで生涯を閉じた(48歳、もし
 くは46歳)
1567年、伊達政宗(だてまさむね、出羽国陸奥国の戦国
 大名)が生まれた(1567年〜1636年)
  独眼竜政宗で有名、幼少時の天然痘によって右目を失
 明した。
  秀吉の命令に従わなかった(秀吉が惣無事令という私
 戦禁止令を伊達向けに出したが、無視して戦争を続けた)。
1567年、織田信長が、小牧山城から井ノ口城に入る。
  信長は、1567年に、美濃を手に入れ、小牧山城から井
 ノ口城に入りその地を岐阜と改めた。
1567年春〜8月、信長が、北伊勢に出兵した。
1567年、信長が、斎藤竜興を追い、岐阜に移る。
1567年8月15日、信長が、稲葉山城を攻落する。
  信長は、1567年8月15日に、稲葉山城を攻め落とし、
 斎藤竜興を追う事に成功した。
  そして、信長は、そこを岐阜と命名して居城とした。
  信長に美濃三人衆の稲葉通朝・安藤範俊・氏家卜全
 通じて来た。
  慎重にと構えてきた信長は、思い切って一挙に稲葉山
 城を攻め、1567年8月15日に、これを落とした。
  竜興は、船で伊勢長嶋に退いた。
  信長はすぐここへ移り、この地を井ノ口と言っていた
 のを改めて岐阜とした。
  これは墨俣築城があったからであり、また、墨俣築城
 が出来たのも土豪地侍を組織した事が功を奏した。
1567年11月、信長が、皇室領回復などの勅命を受けた。
1567年、ガタルカナル島発見。
  スペイン人のオルテガが発見し、出生地に因んでガタ
 ルカナルと命名した。
  イギリスが、1893年に、保護領とした。
1568年2月、信長が、北伊勢を平定した。
  岐阜攻略の前後3回に渡って北伊勢に出兵したのも、
 「京都への上洛」の為であって、
  ただ、領土拡張を目指したのではない。
  当時、伊勢では、国司・北畠が、南五郡に勢力を張り、
 北伊勢8郡には、関・工藤両氏の一族と、48家にものぼ
 る独立の小大名が割拠していた。
  信長は、まず、1567年春、岐阜攻撃を前にして滝川一
 益をやって、伊勢北境の諸城を攻めさせ、
  次いで8月、翌年2月と、3度出兵し、関一族の惣領・
 神戸友盛を降ろして、3男・信孝をその養子に押し付け、
 工藤一族の惣領・長野に弟・信包(のぶかね)を入れた。
  そして、関一族は信孝に、工藤一族は信包に、他の諸
 氏は滝川一族に支配させ、また、安濃郡安濃津に織田掃
 部を置いて北畠に備えさせた。
1568年7月、信長が、義昭を迎える。
  信長は、その第一歩として、当時、越前朝倉の下に身
 を寄せていた足利義昭を、美濃立政寺(りゅうしょうじ)
 に迎える事が出来た。
  そして、自ら、浅井長政の属領・近江・佐和山城(城
 主・磯野員昌・かずまさ)へ出かけ、六角承禎に、義昭
 擁立について協力を求めた。
  承禎は断った。
  信長や長政など、外部の、それも、本来守護の家臣に
 過ぎない成りあがり者の、干渉すへき筋合いのものでは
 ない、と考えられたのだろう。そこで、信長は、一旦岐
 阜に帰った。
1568年9月、信長が、楽市・楽座を指定する。
  信長は、1567年に、岐阜へ移ると早々の9月に、城下
 の北加納に布告して百姓の保護を計り、
  10月に、加納の市場を「楽市場」として、
  この市場へ来る商人たちは、信長の領国を自由に往来
 できること、
  この市場に代々居住していた者も、それを邪魔にして
 はならないと、その他を布告した。
  1568年9月の布告では、はっきり加納を「楽市楽座
 と指定した。
1568年9月7日、信長が、近江に攻め入る。
  信長が、尾張・美濃・伊勢の兵と、徳川家康の援軍を
 率いて、1568年9月7日に、岐阜を出て、近江に攻め入っ
 た。
  六角は、本城の観音寺・箕作(みづくり)両城を修築
 する一方、和田山城を築いて、選りすぐりの兵を入れ、
 信長の侵攻に備えていた。
  ところが、信長は、この城には美濃衆を差し向け、子
 飼いの総力を挙げて、箕作城を攻めた。
  本城さえ落とせば、支城は降りると見通したのである。
1568年9月12日、信長が、箕作城を落とした。
1568年9月18日、信長が、観音寺城を落とした。
1568年9月18日、信長が、観音寺城と箕作城の両城を落と
 すと、この日、支城の18が開城した。
  降伏したものは人質を取って、そのまま、その城にい
 る事を許した。
  そして、すぐ義昭を迎え、抜かりなく義昭を奉じて上
 京する旨を上杉謙信に知らせた。
1568年9月22日、信長が、近江を平定。
  信長が、近江を平定し、上京した。
  1568年9月22日に、信長は京都に入り、義昭は清水寺
 に泊まり、信長は東寺に陣を張った。
  信長が近江を平定して、京都に迫ると、朝廷は激しい
 恐怖に襲われていたという。
  信長の「上京」には放火・略奪・暴行は避けられぬと
 感じられていたのだろう。
  しかし、信長は、皇居の警固と、京都内外の治安維持
 にひどく気を使い、事実、織田軍の軍紀はかなり引き締
 まっていたようである。
  これは、織田軍の組織の性格にも関わることだろうが、
 ともかく天皇・貴族は、ひとまず胸をなでおろしただろ
 うし、京都の民衆も同じだったに違いない。
  米欧各国と違い、今・現代でも、日本は、東日本大震
 災ででも、世界中から絶賛されたように、日本人の高い
 倫理性と誠実性・高貴性が昔からあったと言える。
  入洛してからの信長は、義昭を将軍に置いた。
  そして、天下統一の画期をなした(かっき、過去と新
 しい時代とを分ける事)
  この時、秀吉も軍事行動に加わり、近江の六角に対す
 る攻防などに戦功をあげ、上洛後、京都奉行に抜擢され
 た。
  この時の奉行は、複数制で秀吉のほか、佐久間信盛
 村井貞勝丹羽長秀明智光秀中川重政であった。
  秀吉は、おねとの結婚7年目、その才能を認められる
 軌道に乗ったのだった。
  この際も、6万の信長の大軍と共に行った働きが元だっ
 た。
  この頃、キリスト教宣教師の信長に対する評がある、
 「傲慢」「ほとんど規律に服せず」(従来の習慣・規律
 に捉われないという事)、
  そして、この頃、信長は、将軍にした義昭の邸を建築
 させている。
  そして、その工事現場で、信長は坐するための虎の皮
 を腰につけていたという、そして、「甚だ粗末な衣服を
 着す」と記す。すると、「皆がこれに倣っていて、宮廷
 の服を着して彼の前に出る者なし」とも書いている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009