(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年〜1096年)

 題:(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年〜1096年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1055年、セルジュク軍がバクダッドに入城した。
1056年、藤原清衡(きよひら)が生まれた(1056年〜
 1128年)
1062年、源頼義(988年〜1075年、1051年から安倍氏
 戦う)・清原武則(不詳〜不詳、出羽の豪族)等が、厨
 川柵(くりやがわのさく、盛岡市付近にあった安倍氏
 築いた柵)に安倍貞任安倍頼時の第2子、厨川柵主)を
 殺し、弟の安倍宗任(あべむねとう、安倍頼時の子)を
 降ろした(これより源氏の基盤固まる)。
1066年、イングランドが、ノルマン人(ゲルマン人の一種)
 に征服された。
  ノルマンディー公ウィリアム(キヨーム2世、1027年
 〜1087年)が、イングランドに侵入し、(イギリスを)
 征服し(ヘースチングスの戦い)、ノルマン朝を成立さ
 せた。現在のイギリス王室の開祖となった。
  イギリスは、国を開いてから950年弱、1000年にも満
 たない。
  キヨーム2世は、1066年12月、ウェストミンスター
 院でイングランドウィリアム1世として戴冠した。
1068年、後三条天皇(在位、1068年〜1072年)
1068年、藤原教通(関白在位、1068年〜1075年)
1069年、再び、寛徳2年以後、新立荘園を停止させた。
1069年、初めて、記録荘園券契所(荘園調査機関)をおい
 た。業務は、不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の
 没収など。
  この頃になると、摂政関白への寄進地系荘園集中が進
 んだ。1069年の後三条天皇による「記録荘園契約所」の
 設置と荘園整理(延久の荘園整理令)は、藤原頼道の反
 対で目的を十分には達しなかった。
1070年頃、この頃、「大鏡」や「今昔物語集」が書かれた。
1072年、白河天皇(在位、1072年〜1086年)
1072年、ノルマン人による南イタリアの征服。
  南イタリアシチリアが、ノルマン人に征服された。
  ノルマン人(ゲルマン人の一種)が、傭兵として南イ
 タリアで働き始めた11世紀前半から12世紀前半に至る
 100年近い期間に及び、そこには、多くの戦いと、独立し
 た複数のノルマン人勢力による幾多の『領地獲得行為
 (征服)』が含まれていた。
  そして、それらの行き着いた過程の中に、数年の戦い
 の後に達成された1066年のイングランド征服、
  そして、数十年となったが南イタリア征服など。
  ゲルマン人の大移動に始まるこのヨーロッパの大変化
 は、戦いの後の各地の征服となった。
  この姿が、ヨーロッパの基礎である。
  「壁の向こうには異教徒の敵がいる」という世界であ
 る、そして、信仰は、キリスト教の「異教徒は殺せ」の
 教義で、異教徒に決して馴染(なじ)むなと説く教えで
 ある。

1073年、院の蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
  蔵人所は、天皇天皇家に関する私的な要件の処理や、
 宮中の物資の調達や、警備などをつかさどった。
1074年、藤原頼道が没した(990年〜1074年)
1075年、藤原師実(関白在位、1075年〜1086年)
1077年、疱瘡が流行した。
1077年、ハインリッヒ4世がキリスト教教皇に敗北する。
  キリスト教が強大な力を誇示する世となった。
  世俗の王(ドイツ王神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世
 が、宗教のキリスト教教皇グレゴリウス7世)に敗北
 し、謝罪せざるを得ないという事件が起きた。
  キリスト教会が破門を行うという行為が絶大な権力誇
 示の行為となっていた。
  叙任権(任命権)を世俗王がキリスト教に奪われた(
 カノッサの屈辱)。
  現在でも、「カノッサの屈辱」の語は、「強制されて
 屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられている。
1079年、堀河天皇が生まれた(1079年〜1107年)
1083年〜1087年、後三年の役が起こった。
  奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦い。
  前9年の役で、陸奥国安倍氏が滅んだが、この時に、
 参戦し、国司側に付き、国司側勝利の原動力になったの
 が出羽国清原氏だった。
  こうして奥羽に力を伸ばした清原氏に内紛が勃発。
  そこへ陸奥守として赴任した源義家が介入。
  藤原清衡を助けて反乱者の清原家衡・武衡を滅ぼした。
  源氏は東国に基盤を築いた。
1083年、富士山が噴火した。
  延暦寺の僧が記した「扶桑略記(ふそうりゃっき)」
 に記録されている。
1086年、堀川天皇(在位、1086年〜1107年)
1086年、藤原師実(摂政・関白在位、1086年〜1094年)
1086年、白河上皇(1086年〜1129年)が院政を始めた。
  幼帝の補佐のために院政が出現した。
  引き続いて、摂政関白が置かれていたが、次第に、名
 目上の存在となって行った。
1091年、源義家への荘園寄進を禁止した。
1092年、源義家の荘園設立を禁止した。
1094年、初めて、院の北面の武士を置いた。
  院の親衛隊と言える。
  摂関家が、源氏と結んで武士的な力を高めて来たのに
 対抗した形。
  伊勢平氏を取立て、平正盛を任命した。
  平正盛は、源義親を出雲に追討して武名を高めていた。
  また、源義家は、後三年の役ののち、名声が高まり、
 諸国の百姓らの寄進が義家に集中するようになっていた。
  そして、貴族の様な荘園領主化する動きが出て来るこ
 とが恐れられた。
1095年、堀河天皇による嵯峨野の虫取りが伝えられる。
  鳴く虫の愛玩が宮廷にみられる。
1096年、平忠盛が生まれた(1096年〜1153年)
1096年12月、第1回十字軍が各地から出発した。
  十字軍に参加すると、完全に免罪がなされるという「
 完全免罪」が与えられるとされた。
  キリスト教は生まれた時から原罪があるとされるが、
 その原罪どころか、人間は日々の生活で罪を犯している、
 その罪をも完全に免罪されるとされた。
  そして、死後の天国行きが確実だとされた。
  自分の利益だけにとらわれたキリスト教だった。
  当然、これまでの悪行は、すべて帳消しとなると、キ
 リスト教聖職者は説いた。
  また、十字軍に出立するとき、財産のすべてを、キリ
 スト教会に預けさせた。
  出立した兵士が戦死とか、色々な理由で帰って来ない
 とき、その財産をキリスト教会は、自分のものとした。
  そして、ただの烏合の衆にならない様にとの規則があ
 ったが機能しなかった。
  また、出立したら、絶対、帰るなとされたが、途中か
 ら帰る者が居て、キリスト教会は、その者を破門にした。
  また、十字軍は、当時、不満がたまっていた相続権の
 ない次男・三男対策のために計画されたという経緯があ
 る(ガス抜き)。
  1096年から1270年までに7回行われ、結果は失敗であ
 った。
  教皇権が失墜し、イスラム文化流入などをもたら
 したが、中世社会の崩壊を導く一大契機となった。
  十字軍の異端撲滅のキリスト教世界の教義・考え方は、
 世界の戦争体質を拡大した。
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