今現代は『経時劣化している』。

 題:今現代は『経時劣化している』。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は、自分の宗教を美化するために、きわどい
話や、言い回しをよく言う宗教だ。
 そして、キリスト教のイエスが、十字架刑になったが、
この十字架刑にした者を怨みに怨んだ。
 卑劣にも、その古代のイエスを殺した者達への怨みだけ
ではなく、その殺した者の民族までをも・・、
 ユダヤの方々にまで・・怨みに怨んだ。
 さらに、キリスト教が卑劣な事は・・、
 後々までも、ユダヤ民族の方々を、「主(イエス)殺し」
と言い、
 そして、思い続けながら・・後々までも、しつこくユダ
ヤの方々を追い回し、殺戮し、殺した。数々の卑劣な殺し
方までした。非常に非人道的なことなので詳細は書けない。
 その怨みつらみの・・イエスの死を・・美化して・・
 「本当のことなのだ」・・と、躍起(やっき)になって
言う。
 本当なら、キリスト教に、「そんなに怨むなかれ」・と、
言いたい。
 「汝の怨む相手を・・愛せよ」・・と、言いたい。
 キリスト教は、恨みの塊になって、ユダヤの方々を、長
い歴史の中で殺しに・・殺した。愛の宗教なんかでは・・
これッぽッちもない・・、
 「本当に多くの、ユダヤの方々を殺すなー」・・と、腹
の底からキリスト教に吐きつけたい。
 キリスト教は、そのイエスは、「死して、贖(あがな)
ったのだ」と言う。
 十字架で・・終わりでは・・無かった・・という
 イエスの十字架の死を・・キリスト教は、悲劇的最後と
は取らないと言う。
 (こうは言ってても、キリスト教は、ユダヤの方々を必
要以上に恨む・・恨みの宗教となっている、信徒になると
この恨みのネーバーがまとわりつくから注意して戴きたい)。
 キリスト教は、『悲劇とは取らない』と言う。
 『神の救いの計画があった』と言う。
 「死人の中からの復活」が、予定されていたのだと言う。
 ならば、何ら、ユダヤの方々を、恨んだりする事は無い
だろうに・・この野郎となる。
 あのように追い回して、殺す事も無かっただろうに。
 いたいけな子供たちに、イエスの十字架刑を、卑劣な行
為として、反感を植え付ける教育をして? そして、その
後、その十字架刑は神の計画だったと教える。
 子供達が、こんな授業が、『辛い』と言う訳だ。
 この様な洗脳、マインド・コントロールは止めよ!
 英国のキリスト教の聖職者でさえ、過半数の多数が、「
この復活話は信じない」と答えている。
 古代の当時でさえも、信じる者も居ない『眉唾話』だっ
た。
 「イエスの死体を、弟子たちが盗んで、デッチアゲてい
る」とかと言われていた・・、
 キリスト教のスタートのこの話は・・まるっきり信用の
無い話に当時からなっている。
 また、「墓の番人が、死体を別の所に埋葬し直しただけ
だ」とかと、当時でも言われて、まったく信用されていな
い。
 それにしても、キリスト教は、「神のいる天のみが清浄
で、地は汚(けが)れ・・、肉体はけがらわしい、不浄な
ものだ」と説き・・、そして、教義にしているが・・、
 そんな不浄な肉体が・・イエスが必要としたのか?
 必要なのか?
 オカシイでは無いか? 肉体を持ってイエスは復活した
とは?
 キリスト教の教義なんて、「口から出まかせ、信じるに
足るものでは無いが、これも、あまりにもオカシイではな
いか?」。
 イエスは、肉体が必要だと考えたのか?
 そして、(「ヨハネによる福音書」20・19〜20)に、
 復活したイエスが、弟子たちが居る家に現れたという。
 弟子たちは、何も悪い事をしていないのに、何故か?怖
がって、家に集まって、家に鍵を掛けて、閉じこもってい
たという。
 その、鍵が掛かっている家に現れたという。
 幽霊の出現的である。鍵のかかった部屋にすっと現れた
という。
 肉体を持った状態ではない。
 つまり、墓から復活したと思わせるためには、肉体が無
くなった事にすると、その復活があったと・・話の展開が
しやすいというだけの話なのだ。
 墓にイエスの亡き骸(なきがら)があるが・・、
 イエスは、復活しましたたとは・・? 話の展開が、し
にくいだけの話なのだ。
 肉体は・・その程度の話。
 そして、弟子たちの居る家へ・・幽霊状態で・・肉体無
しで・・現れた・・そして、イエスが言ったという、「あ
なた方に平和がある様に」・・と。
 キリスト教は、今、必死に世界観を広く言い、そして、
繕(つくろ)っているが?
 やはり、キリスト教は、民族宗教の域(いき)を出ない。
 イエスも同じ。
 選民思想で、「我が民族だけ」の宗教。
 また、信じる者だけが救われると言う。
 同じ宗教を信じる者だけの『同民族の宗教思想』、
 そして、『異教徒は殺せ』の教義を持つ宗教=キリスト
教である。
 そんな話の展開の中で、「手と脇腹とをお見せになった」
と言う、
 そして、弟子たちは「主を見て喜んだ」と言う。
 最初、すぐに弟子たちは、喜ばなかったようだ。
 幽霊状態で入って来たイエスを見て、弟子たちは、復活
があると言っていたにもかかわらず・・、
 弟子たちは、そのイエスを見て、すぐに、イエスだとは
と気が付かなかったとは?
 何と、抜けている弟子たちではないか?
 イエスは、だから、見せなくてもよい傷を、見せたのだ
ろう。
 イエスも、傷を見せないと、信じてもらえないと思った
のだろう。
 それしか、イエスが、わざわざ傷を見せる必要性はない。
 まさか、イエスが「ほら」っと、傷を見せびらかしたな
どと考えたくない。
 それにしても、傷を見せるというレベル的に低い話の展
開だ。
 イエスだと知らせる別なやり方があるわけだ?
 そして、傷を見て、それから弟子たちも分かったのか、
「主を見て喜んだ」という。馬鹿馬鹿しい展開だ。
 それにしても、キリスト教は、「復活した」とか、「人
を生き返らせた」とかの低劣な驚かせ話があまりにも多い。
 この人の生き返らせは、イエスと喧嘩ばかりしていた弟
子たちも、イエスが生きていた当時に、既に、出来ていた
という、
 キリスト教聖書に書いてある。
 イエス復活の前の弟子たちに、まったく駄目だと言われ
る弟子たちにさえ出来たという。
 ならば、手の込んだ事をしなくて、弟子が、イエスを復
活をさせればとも思う。
 「人の生き返らせ」とか、キリスト教は、飽(あ)きも
せず、こんな類いの、何ら意味のない、人をただ驚かせよ
うという、『単純驚かせ話』が続く。古代の人なら驚いた
だろうが、今現代は『経時劣化している』。
 そんな宗教。
 人生を埋めるべき宗教ではない。
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