気になった事柄を集めた年表 [1931年〜1940年]

 題:気になった事柄を集めた年表 [1931年〜1940年]
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1931年、満州事変が起きた。
 そして、日本は、ドイツと組む道を選ぶ。
 その道へ進まねばならない理由に、アメリカの日本孤立
策があった。
 アメリカは、日本が黄色人種の代表の位置につかせない
ために画策した。
 そして、自らの中国政策を推し進めた。
 日中離間策を強引に進めた。
 蒋介石(しょうかいせき)と日本政府との間の対立を画
策し、軍事物資その他で全力をあげて中国政府をアメリ
は支えた。
 日本は、アメリカの武器を相手に戦わなければならなか
った。
 膨大な中国兵の人数と、果てしなく供給されるアメリ
の武器。
 泥沼に入って行く原因だった。→2年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年〜1945年)は、
 日本人が凶暴なのは頭蓋骨の形が違うからと本気で信じ
ていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
考えを、
 外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏が言う。
 当時、イギリス海軍中南米を防衛するという事をして
いた。
 日本は世界の5つの大きな大国の一つになっていた。
 「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。→4年
1937年、日本は、アメリカの様な人種差別・人種偏見は
無かった。
 アメリカの黒人知識人W・E・B・デュボイスは、
 この年、旅行し、
 「ピッツバーグ・クリア」誌のコラム欄に次の報告文を
書いた:
 「日本の旅行中、東京の帝国ホテルで勘定の支払いをし
ている時、
 『いかにも口うるさそうな、典型的アメリカ白人女性』
が、さも当然であるかのようにデュボイスの前に割り込ん
だ。
 ホテルのフロント係は、女性の方を『振り向きもせずに』、
デュボイスへの対応を続けた。
 勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々
とお辞儀(じぎ)をし、
 それからやっとその厚かましい『アメリカ様』の方を向
いたのだった。
 このフロント係の毅然とした態度は、
 これまでの白人支配の世界とは違った、
 新しい世界の幕開けの予感をさせた」と。→1年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
 た。
 地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→1年
1940年7月、ドイツ占領下のポーランドから、
 リトアニアに逃がれて来た多くのユダヤ系難民などが、
 各国の領事館・大使館からビザの取得をしようとしてい
た。
 各国領事館・大使館はソ連が閉鎖を求めたため(リトア
ニアはソ連が占領していたため)、
 まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先への
通過ビザを求めて殺到した。
 日本は、旅費や滞在費の有する者などの発給条件があっ
たもののビザ発給をしないということではなかった。
  杉浦千畝(ちうね)氏が、ビザ発給を禁止する日本政
府の意思に反してユダヤの方々を救ったというのは正確で
はない。
 当時、日本政府は、ナチスドイツの人種差別政策に賛成
しない強い意志があった。
 当時の日本の外交は独自の政策を取っていた。
 確かに杉浦氏は、ビザ発給をしたが、日本政府の命令を
反してまでしたというのは間違い。
 日本政府は、ビザ発給に反対はしていなかった。
 キリスト教徒の杉浦氏は、キリスト教プロパガンダ
嘘宣伝)で作り上げられている。
 日本政府はユダヤの方々にビザ発給をよしとしていた。
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